5 怪力女傑、女学者に共感する
※作者註:今回、マルフィサが地の文で語っている結婚観は、あくまでこの作品の時代背景における一般常識です。現代の価値観とは異なります。
風の魔神。ハールが遺跡からくすねてきたランプに閉じ込められていた、霊的存在。
港町アカバを出港する際、この魔神とひと悶着あったのだが……紆余曲折あり、今はハールの護衛役となっている。
黒眼鏡を通して、ヒュパティアには魔神の姿が見えているらしい。面食らって口をぱくぱくさせている。アンジェリカの時の幽精は、ちょっと大きいトンボくらいのサイズでむしろ可愛らしいと言えるものだったが……実際今わたしの隣に立っているのは、わたしの倍の背丈はあろうかという筋骨隆々、青黒い肌の大男。しかも下半身は煙状と化しているし、明らかにこの世のものではない。
そして残念な事に、わたし達を囲んでいる勘違いストーカー青年・トートとその取り巻きは、魔神の存在に気づいてさえもいなかった。
『マルフィサの姐御が出るまでもないでしょう。ここはこのおれにお任せあれ』
「……あまりやり過ぎるなよ? 大怪我でもさせたら結局大事になる」
『ご心配なく。こういう時に我が風の力、案外融通が利くものですからね』
そう言うと風の魔神は、全身から突風を巻き起こす。少々強い風だが、確かに威力は抑えられているし、建物が倒壊したりするほどではない。
「ぎゃああッ」「目がぁぁぁ」
だがそれでも十分だった。風に巻き上げられた地面の砂が、見事に周囲のごろつきたちの目の中に飛び込んでしまったのだ。
しかもわたしやアンジェリカ、ハール、ヒュパティアには何ら影響はない。にも関わらずトートの取り巻き達はもはや戦闘不能であった。
そして風の魔神、先ほどまでの大男の風貌から姿が変わっている。筋肉質である事は変わりないが、ほぼわたしと同じぐらいの背の、引き締まった好青年のような見た目になっていた。どうやら扱う風の力を抑制するとこうなるらしい。アンジェリカなど「あら」とか思わず声を漏らしている。
『あれっ……これから手加減して戦うつもりだったんですがね』
「いや、ありがとう風の魔神。もう十分すぎるほど立派な働きをしてくれた」
取り巻きが軒並み戦意喪失した状態でも、トートは余裕の表情だけは崩す事はなかったが……その顔はやや引きつり、冷や汗を一筋かいているのを、わたしは見逃さなかった。
「……さて、どうする? これ以上やるというなら、わたしが相手をせざるを得ないが」
「…………ふっ。どうやら今日は、神の巡り合わせがよろしくないようだ。出直すとしましょう」
そう言ってトートはすんなりと引き下がった。この期に及んで見苦しく取り乱さない所だけは、少し好感が持てるが。
「ですがヒュパティアさん! 僕はあきらめませんよ!
あなたのやっている事は身勝手なワガママに過ぎない! 僕とあなたの結婚は、家どうしが決めたもの! いずれ必ず、あなたを許嫁として迎え入れてみせる!」
最後の捨て台詞で、その場の誰もが硬直する。
ストーカーまがいの勘違い青年といった風だった男は、爆弾発言を残して取り巻き達と共に去っていった。
やがて辺りに訪れる、気まずい静寂。
「…………へ? ちょっと、ヒュパティア……さん? さっきの人、あなたの事を許嫁って……」
状況を飲み込めなかったのだろう、アンジェリカは恐る恐るヒュパティアに事情を尋ねたが。
「……残念ながら事実です。確かに我が家と彼の家とで、わたしの婚姻について取り決められてしまっています」
「え。じゃあ結婚する事が決まっているにも関わらず、十三回もずーっと断り続けてたって話なの!?
さっきあなた、あのトートって人とは学芸員として入会した時に初めて知り合った……みたいな事言ってたじゃない!」
「学園に彼が来るまで、面識自体が無かったのは事実ですよ。ちょっと極端な方ですよね」
女学者の取っている行動は、にわかには理解しがたいものだ。
そもそも結婚というものは、人同士ではなく家同士の繋がりの為に行うもの。個人的な感情で断り続けるなど、世間的には非常識と取られても仕方がない。
「……ワタシにとっての一番は、家庭を持つ事よりも学問を続ける事です」ヒュパティアはきっぱりと答えた。
「決して少なくない資金援助と、自由に学問をさせて下さった我が両親には心から感謝しています。
しかしだからこそ、ワタシは世に存在するさまざまな知識や謎の虜となり――学問を志す前途ある若者相手に教鞭を取る事に、無上の喜びを感じるようになりました。
今の充実した生活の妨げになるような事など、到底受け入れる事はできません。それがたとえ、親同士が決めた結婚であっても!」
……なかなかどうして、このヒュパティアなる女学者。筋金入りだ。
ハールやアンジェリカは彼女の発言に面食らっていたが、わたしはかえって親近感を覚えた。
わたし自身、一般的な女性として生きる事より、戦士となる道を選んだ身。だがそれは少数派の異端なのだと思い込んでいたフシがある。女性が自立して生活していく手段に乏しいのが世間の常識であり、大多数の女性が男性の経済的な庇護を受けなければ生存すら危ぶまれるのでは、仕方のない話だ。
しかしそんな世界においても、ヒュパティアのように生きようとする者もいる。進む方向性は違えど、彼女の生き様を他人事とは思えなかった。
「なるほど。そういう事情があるなら仕方がないな」
「ちょ、フィーザ!? 本気で言ってるの?」
「確固たる自分の意志があるなら、それを尊重するべきだ。そこに男も女もない」
「……お分かりいただけましたか。ありがとうございます」
思わぬところで意気投合したわたしとヒュパティアだったが……アンジェリカは未だ信じられないような表情を浮かべていた。




