2 怪力女傑、風の魔神を従える・後編
ランプの中から現れた、青い肌の巨人。それを見てハール皇子は素っ頓狂な声を上げた。
「う、うわァ!? 何だァ……!? 幽精……!?」
『おれが幽精に見えるのか。見くびられたものだ――おれは貴様らひ弱な人間なぞ、足元にも及ばぬほどの……力ある魔神だぞ!』
魔神。幽精と同じく、この世の存在ではなく、普通の人間には見る事もできないが……幽精よりも遥かに強力な眷属である。
「まるでおとぎ話だな……! ランプの中の魔神だと……!?
で、でもおかしくないか? ランプから出してくれたお礼で、なんで僕が殺されなくちゃいけないんだ!?
フツーこういう時のお礼って、財宝をくれるとか願いを叶えるとか、そーゆーのが定番だろ!?」
『おれはランプの中に二百五十年も閉じ込められていた。いいか? 二百五十年だぞ!? いかな寿命の持たぬ魔神といえど、長きに渡る退屈な時間だ。
最初の百年、二百年のうちは、おれも貴様が言うように――救ってくれた人間に対する礼として、財宝を探し出しくれてやるとか、三つの願いを叶えてやるとか、色々考えていたさ。
だが誰一人としておれの存在に気づかず、おれを助け出してもくれぬ! 忍耐強い俺の心もすっかり変わってしまったのだ!
今のおれには、すぐに助け出してくれなかった人間どもに対する怒りしかない! ゆえに貴様を殺してやるのだッ!!』
「無茶苦茶だッ! 理不尽すぎる!?」
悲鳴を上げるハールに対し、魔神は手を伸ばそうとし――わたしの右手に手首を掴まれ、阻まれた。
『なッ……何だ貴様は?』
「わたしはマルフィサ。見ての通り戦士だ。いちおう、ハールの護衛役をやっているのでな。
わたしの目の前で彼を殺そうとするのは、さすがに見過ごす訳にはいかない」
魔神は丸太のように太い腕に力を込め、わたしの拘束を振り払おうとするが……叶わない。
魔神というだけあり、なかなかの腕力だが。今のわたしにはわずかに及ばないようだ。
『……いや、ちょっと待て! おかしくないかこの状況!?』
「いきなり出てきたクセに、何を言っているんだ? わたしの力が、お前の力より勝っている。それだけの話だろう?」
『いやいやいや、そういう事ではなくてな? まァ確かに、ただの人間の女が、腕力で魔神を上回っているというのは、冷静に考えれば只事ではないが……
それ以前の問題でな。貴様なぜ、おれの腕を掴める? というか、おれの姿がなぜ見える? 今おれを視認できるのは、ランプに直接触れたこの頭の軽そうな男だけのハズだぞ?』
「『頭の軽そうな男』って言い草、さりげなくヒドくないか!?」ハールが抗議したが、話がややこしくなりそうなので無視する。
「わたしだけではない。お前の姿はアンジェリカにも見えている。彼女は魔術の心得があるし、わたしには炎の魔神の力が宿っているからな。
今の力を見る限り、お前は風の魔神か? いくら姿が見えないとはいえ、こんな狭い場所で突風を巻き起こすんじゃない。
建物の中が滅茶苦茶になってしまうだろう。少しは空気を読んでくれ」
「そーよそーよ。風の魔神のクセに空気読めないとか、笑い話にもなんないわ」アンジェリカが言った。
「あたしの指輪に宿っている時の幽精がいなかったら、今頃ここら一帯大騒ぎになっちゃう所だったわよ」
『炎の魔神に時の幽精だと……!? お前らどんだけ、おれの同族を従えてるんだ!? つーかズルくね!?』
「彼我の戦力差が分かったのなら、これ以上偉そうな口を利くのと、力を奮うのをやめてもらいたい。聞き入れなければ腕を潰すぞ」
『ひ、ひィッ……!?』
一体どこの世界に、実体がないはずの魔神相手に、腕を握り潰すと脅す人間がいるというのか。
それでもわたしの言葉は効果があったのか、風の魔神の威勢は衰え、一気に縮こまってランプの中へ自ら戻っていってしまった。
「ハール。このランプだけは売り払う訳にはいかないんじゃないか? 次にこいつを呼び出した者が、どんな目に遭うか分かったものじゃない」
「うーむ。言われてみればそうだな……いい金になると思ったんだがなぁ」
結局、ハール皇子がペトラ遺跡から持ち出した他の財宝だけでも、船賃には十分事足りたので――わたし達はランプを除く品を処分し、港町アカバから出航し、海路でまずはスエズを目指す事になった。
***
「おい、風の魔神」
『ひッ……何でございましょう?』
船の中で、わたしはランプにこっそり話しかけた。すると中から上ずった、小さな声が響く。
「いちいち怯えなくてもいいんじゃないか? ちょっと聞きたい事があるだけだ。
さっきお前、ハールに『死に方を選ばせてやる』と言っていたな。それはわたしにも適用されるのか?」
『へ? いやしかし……姐御はおれよりも強いじゃあありませんか』
一体どこの世界に、魔神から姐御呼ばわりされる人間の女がいるというのか。まあ以前、喰屍獣のグレグから同じ事を言われてしまっているが。
「もし死に方を選ばせてくれるというなら、わたしにも希望があるんだ。
わたしが最高の力を発揮できる戦場で、伝説の将軍ハーリド殿のような、最強の戦士と一騎打ちをして、果ててみたい」
『…………』
風の魔神は押し黙った。そして、やり取りを聞きつけたのか、いつの間にかアンジェリカが血相を変えて、わたしに詰め寄ってきた。
「ちょっと、何考えてんのよフィーザ! 自分から命を捨てるみたいな願いを言うなんて――」
「何をそんなに慌てている? 大なり小なり、最強を目指す戦士はこう考えるものだぞ?
下手に長生きをして肉体が衰え、年老いた状態で寝首を掻かれるよりも、ずっと良い死に方だし、悔いの残らない生き様だ」
「…………っ!」
魔法少女が泣きそうな顔になって震えているのを見て、少しまずい事を言ったかな、とはさすがに思った。
どうもわたしと彼女とでは、根本的な死生観が異なるようだ。アンジェリカは幼いからか、それともよほど恵まれた幼少期を過ごしたのか――「未来」という言葉を語るとき、それを明るく素晴らしいものであるかのように口にする事が多い。
しかしこの世界に住む大半の人間にとっては、「未来」とはそんな輝く宝石のような、希望に満ちたものではないのだ。
北方で知り合った、巨女神に仕える戦士がこう言っていた。
『オールでボートを漕ぐように、我らは後ろ向きに未来へ進む。
誰しも過去を振り返る事はできるが、誰も未来を予知する事などできない』
彼は非常に強い男だったが、決して己の力に慢心などしていなかった。むしろ用心深いほうだったろう。
明日どうなるかすら定かではない。戦争で家を焼かれたり、家族を殺されたりするかもしれない。よしんば生き残っても、今日を生きる糧のパンすら得られず、ひもじく飢えて苦しみながら死ぬ。そんな悲劇すら決して絵空事ではなく、明日にでも起こるかもしれない現実なのだ。
だからこそ、明日をも知れぬ戦士や傭兵稼業に身を置く者は、刹那的に日々を生きる。
明日どころか、今日にだって命を落とすかもしれない。それなら、金など遺しても意味がないという訳だ。
「あ、あたしは……フィーザに死んでほしくないだけ。軽はずみに命を投げ捨てるようなマネは、やめて欲しいのよ」
「わたしを命知らずみたいに言うな。命を懸ける意味のない所で、みだりに命を張ったりはしない」
「そうじゃなくてっ……! そうじゃなくてさぁ……!!」
……困ったな。アンジェリカの言わんとしている事も、理解できなくはないが。
戦士として大事な場面で、命を惜しむようになっては役目を果たす事ができない。そう説明しても、彼女はきっと納得はしてくれないだろう。
「アンジー。あまりマルフィサを困らせるんじゃない」
やり取りを見かねたのか、ハール皇子が割って入ってきた。
「彼女だって馬鹿じゃない。命を懸けて僕やきみを守ってくれる。でも死んだらそれっきりになってしまう。
僕もそれは望んじゃいない。必ず皆で生き延びる戦いを、マルフィサならやってくれる筈さ。そこは、信じてやってもいいんじゃないか?」
そう言って、ハールは泣きじゃくるアンジェリカにそっとハンカチを差し伸べる。
少女は無言で思いっきり鼻をかんだ。不安が消え去った訳ではなさそうだが、ある程度は落ち着いたのだろう。それ以上彼女は何も言わなかった。
「ありがとう、助かったよハール」
「これぐらいお安い御用さ。きみ達にはいつも世話になっているし、護ってもらっているからね」
肩の荷がひとつ下りた事で……わたしはある事を思いつく。
「そうだ、護衛と言えば……せっかくなんだし、この魔法のランプの主は、ハールという事にしようと思うのだが」
『えっ!?』
ランプの中から魔神が、いかにも嫌そうな声を上げたが……わたしは取り合わなかった。
「今後の戦いで、どんな魔術的な妨害があるか分からないしな。わたしやアンジェに頼らずとも、ハールにも魔術的な加護を担える頼れる存在が欲しいと思っていたんだ。
彼の護衛の任務、引き受けてくれないか?」
『なんでおれがそんな事を……』
「タダとは言わん。ハールが無事、帝都マディーンに帰還し、濡れ衣を晴らして聖帝となった暁には、お前を解放する事を約束しよう。それでどうだ?
もし断るというなら、このまま放置してそれこそ、船の上からランプを海底に沈めるという事もできるが」
『ゲゲッ、なんとえげつない…………』
風の魔神はしばらく押し黙っていたが、やがて決心し、答えた。
『……よくよく考えれば、そう悪くない話だな。このまま海に落とされてしまえば、次に出られるのは何百年先になるか分からぬ。
仕方があるまい。貴様の申し出を受けてやるとしよう』
かくして、船旅の間に新たな仲間が加わった。
***
数日後、港町が見えてきた。古代アイギュプト王国のあった地への玄関口たる、スエズだ。
ちなみにアンジェリカとの言い争いで互いに残ったしこりは、消え失せた訳ではなかったが……当の彼女自身、実はそれどころではなくなっていた。
「あ~……やっと陸地が見えてきた……! 助かった……」
彼女にとって初の船上生活は、ひっきりなしに揺れ動く甲板との戦い。案の定、船酔いに悩まされてしまっていたのだが……それもようやく終わる。
「おいおいアンジー。僕たちの目的地はアレクサンデラだぜ? ここはまだ通過点だ」
「そんな事分かってるわよ! ああ、素敵……愛しの揺れない地面……! もう吐いたりしなくて済む……!」
わたし自身、幼い頃に船に乗って慣れるまで、散々な目に遭った経験があるので――アンジェリカが安堵する気持ちも分からなくもない。
わたし達の旅はまだ終わらない。スエズで旅に必要な物資を買い求めた後は、すぐに出発しなければならない。スエズからカイロ、そして――かつて「世界の結び目」と称えられたほど栄えた、偉大なる覇王の名を冠せし一大都市、アレクサンデラを目指す。邪悪なる魔術師、白仮面に対抗する力を得るために。
(第5章 了)




