6 怪力女傑、少年皇子の真意を知る★
その日の夕方。わたしはハール皇子の護衛として、彼の散策に同行する事になった。
皇子の部屋に向かうと、彼はバルコニーにいた。よく見ると、自分の鷹に餌をやっている所だった。
「やあ、よく来たねマルフィサ。シャジャの食事が終わるまで、少し待っていてくれ。
迂闊に物音を立てないでくれよ。今さっき、ようやく機嫌が直った所なんだから」
中東世界では鷹狩が盛んだ。しかしそのほとんどがハヤブサで、鷹を飼っている者は珍しい。
ハール皇子が餌付けしている鷹シャジャについては、わたしもよく知っている。何しろ三年前、アグラマンと共に西方に赴いた時に捕らえた雛鳥だからだ。
わたしが部屋に入らずにいると――やがて食事の終わったシャジャは一声鳴いて、外へ飛び去っていった。
「……よく懐いていましたね」
「ふふ、『砂漠の民』の鷹匠にみっちり教わったからね。最初はすごく苦労したけど……今じゃ素晴らしいご主人様さ、シャジャは。
それにアグラマンが言っていた。鷹を上手く扱える男は、西方だと貴婦人の皆様方にモテると!」
「……あー、そういう下心が」
いかにも女好きの少年らしいオチがついたので、わたしは思わずため息が漏れた。
「いつも夜中に出歩いておられるのですか、殿下は」
「うん。まぁ趣味みたいなもんさ。実はさー、皇子といっても昼間は、あんまりやる事ないんだよね。会食とか礼拝ばっかりでさ。
日がな一日円城に籠もりっきりじゃ、暇すぎて逆にどうにかなっちゃうよ!」
驚くべきことに、新参者であるはずのわたし以外、近くに供回りはいない。
よほどわたしを信頼してくれたのか、それとも考えなしなのか……いずれにせよ、一国の皇位継承者にしては、不用心きわまりないとは思う。
「アグラマンから、ここ最近の事件の詳細は、聞かれましたか?」
「……うん、聞いているよ。ウチの家臣たちはほとんど信じていないけど……『魔物』とやらが出るんだろう?」
ハールはこちらの言いたい事など分かっている、とでも言いたげに微笑み――上目遣いでわたしの顔を覗き込んできた。
「わたしも昨夜、魔物を目撃しました。アレは――戦った経験のある熟練した戦士ならばともかく、そうでない者にとっては脅威です」
「ご忠告をありがとう。僕だって一応、従軍の経験くらいはあるんだぜ? それに魔物なら、見た事くらいはあるよ」
「!」
皇子から出た意外な言葉に、わたしは一瞬目を見開いた。
「今でこそ我が帝国は、平和そうに見えるかもしれない。でも去年までは東で、大きな反乱が続いていたんだ。
マルフィサ。キミも東陽人なら知っているだろう? 白仮面の反乱軍のことを」
アルバス帝国東方の少数民族・東陽人を中心とした反乱が起こったのが、今から八年前のことだ。その時わたしは東方にいたから、つぶさに見ている。もっとも、あの頃のわたしは戦士ですらなく、ただの無力な少女でしかなかったが。
率いていたのは白仮面と名乗る魔術師。白き仮面と衣を身に着け、自分こそが最後の預言者であると僭称した男。反乱は大規模になり、その後七年もの間猛威を振るったという。
「…………ええ。よく、存じています」できるだけ感情を表に出さずに答えたつもりだったが、やや語尾が震えていたかもしれない。
「反乱を鎮圧するため、僕は父上の命令で軍の司令官として派遣された。兄上やアグラマンと一緒にね。
追い詰められた彼らは、立て籠もる宮殿に火を放ったんだが……その時、兵士の一部が恐慌を起こした。見た事もない『魔物』に襲われた、と。
白仮面は信奉者から、奇跡を起こせると本気で信じられていた。魔物も奴が魔術を使って呼び出したんじゃないか、とその時は噂になった。
火に当てられ、幽精に憑かれただけだ、とほとんどの奴らは一笑に付したけど――僕は確かに、あの時見たんだ」
反乱軍は立て籠もった宮殿の焼失と共に瓦解し、首謀者の白仮面も焼け死んだとされている。
しかし――その時からなのだ。アルバス帝国の全域で、人ならざる魔物の目撃例が出始めたのは。
「兄上は政務でお忙しいのか、何故かまったく取り合ってはくれないが……もし魔物の正体が、反乱軍の残党だったりしたら、笑えない話だ。
だったら僕が動くしかないじゃないか。危険だろうが何だろうが、このままでは罪もない帝都の住人に犠牲が出る」
なるほど。大体の事情は飲み込めてきた。夜な夜な街中に繰り出しているのも、遊び呆けているように見せかけて――という事なのだろう。
「分かりました。そういう事でしたら――殿下の身辺、必ずやこのマルフィサがお護りいたします」
「あー。なんかさー、そーゆー他人行儀な喋り方やめてくんない?
キミが僕の事をどう考えてるかなんて、大体分かるんだからさ。もっとこう……本音で話そうよ。
スクル教徒じゃない女性と話すのも久しぶりなんだから」
ハール皇子はいけしゃあしゃあと、皮肉げな笑みで促してくる。よくよく見れば、今の彼の格好はとても皇族とは思えない、庶民のような粗末な服装だ。
少々気は引けるが、本人が望むのであれば……わたしもいつもの、砕けた喋り方に戻す事にした。
「その服で良いのか? 生意気そうな見た目も手伝って、下町の子供に見えるぞ」
「あっはっは、言うねえマルフィサ! うん、狙い通りだからいいよ。何しろこれから僕らが向かうのは、貧民の多い南部地区だからね」
帝都マディーンの居住区は、支配者たる聖帝の住まう「円城」を中心に、大まかに三種類に区別される。
城の東西に位置する、東岸地区と西岸地区。職業軍人や政治の中枢を担う官僚たちの居住区。比較的整然とした街並みだ。
城の中央南に位置する、お膝元の中央地区。職人や商人が主に居住している。やや雑然となるが、羽振りのいい者たちも大勢いる。
そして、城から遠く離れ、最も面積の広い南部地区。ここは農民をはじめとした、雑多な下層民が主な住人たちだ。
「あと、僕の事も『ハール』でいいよ。この国じゃさほど珍しくもない名前だし。それに……城の連中も、僕の事を後継者だなんて本気で思ってる奴、ほとんどいないしね」
笑ってはいるが、物腰はどことなく寂しげだ。ハール皇子が言うには、現聖帝マフスール――ハールの父親だ――に万一の事があったとしても、次に位を継ぐのは、彼の兄ムーサーだという。
「兄上は去年、子供が産まれたんだ。父上は兄の次に、僕を後釜に据えるって言ってるけど……僕にそのつもりはないよ。
順当に兄上が帝位を継いでくれたら、その後は兄上の子が継ぐべきさ。兄上だってそう願ってる。
そうでなきゃ、僕がこんな奔放に出歩くなんて事、許されるハズがないもんね」
彼の言葉に偽りはないだろう。皇位の継承にさほど執着はないようだし、兄がやる気十分なら兄に任せればいい。無邪気にそう考えているのだ。
しかし……この手の話は往々にして、本人の意思とは無関係に勝手な対立を生みがちだ。まだ若いハールは、その事にどこまで気づいているだろうか?
何にせよ、わたしは与えられた仕事をこなすだけだ。友たるアグラマンとの約束もある。
「さーって、向こうに着いたら……パーッと一杯飲もうじゃないか。マルフィサ!」
「!……皇子、いやハール。それを堂々と言うのか……」
流石のわたしも鼻白んだ。先刻彼が宮殿で見せた真剣な表情は、確かに本心だった。だからこの軽いノリもきっと、周囲を油断させるための演技なのだろう……というか、そう思いたい。
わたしはスクル教徒ではないが、彼らの戒律や禁忌についての知識は当然ある。
その代表的なモノが「禁酒」だ。スクル教徒はその教えに帰依したからには、生涯酒を口にしてはならないと定められている。
「いやー、いっつもお供の人には黙認してもらってるけどさ。あっちも敬虔なスクル教徒なワケじゃん?
見て見ぬフリをしてもらうのも後ろめたかったんだよねー。そこへ行くとマルフィサ! アンタ相手だったら堂々と言える!
いや~解放感! 今日、アンタが来てくれてよかったよ!」
「……申し訳ないがハール。わたしにも酒を飲めと言うなら、きっぱりとお断りする」
「…………へ? なんで? マルフィサはスクル教の信者じゃないんでしょ?」
「宗派がどうとか、それ以前の問題だ。わたしは皇子の護衛であり、任務中に酒など飲む訳にはいかない」
「うっわ、真面目! そこらのスクル教徒よりずっと意識高いじゃん!?」
お道化てみせたハール皇子だったが、わたしの眼差しを見て、本気だと理解したのだろう。若干たじろいで押し黙った。