白仮面、怪力女傑の幻視を垣間見る
※白仮面視点です。
帝都マディーン。
ハールーン皇子が逃亡してから、中東最大の栄華を誇ったこの都も、様変わりしつつあった。
空気が重くなっている。我が君臨する以前から人々の心の中にくすぶっていた「澱」のようなものが、徐々に噴き出し、帝都すべてを覆い尽くそうとしている。
人々は怨嗟の念を我に向けるかもしれぬ。だがこれこそが、この都のあるべき姿。今までは上辺を取り繕い、薄汚い側面から目を背けていただけに過ぎない。
「いったい何を考えているのかしら? 聖帝――いえ、ムーサー」
我の下を訪れ、苛立ちを隠そうともしないのは、妖艶な雰囲気を纏った美女。パルサの上等な衣装を着こなした元皇妃ハイズラーンである。
「あなたのやっている事は不可解極まりないわ。
代替わりしたのだから、あなたが懇意にしている取り巻きを引き立てる――それは良しとしましょう。今は亡き我が夫もかつてやった事だから。
しかしいくら何でもやり過ぎよ。……あなた、わざとやっているでしょう?」
「……はて。何のことか分かりませぬな」
「このわたくしに、つまらない腹芸などしない事ね――白仮面。宮廷で過ごした歳月は、あなたよりわたくしの方がずっと長いのだから。
あちらこちらで不満の声がくすぶっていて、わたくしの耳にも嫌でも入ってくるのよ。このままでは権力争いどころじゃ済まない。帝国が大きく割れる内乱にも繋がりかねないわ。
もう一度だけ訊くわね。いったい、何を考えているの?」
……勘の鋭い女狐だ。我が――いや私が聖帝となってから早2ヶ月。
これまで起こった各方面でのいざこざを、単なる政治に不慣れな素人のしでかした失政だと、受け止めてはいないらしい。
(いっそ、そのように判断し――我を侮ってくれれば、いくらかでもやりやすいのだがな)
「他意などございませぬ、母上。
流石、アルバスは大帝国。父より受け継いだ聖帝の責務――予想をはるかに超える大任。不慣れな若輩者の不手際をお許しいただきたい。
とはいえ、帝都マディーンは大きくなりすぎた。今や人口は百万どころか、百五十万にも達する勢い……いささか人が増えすぎたように思います。
いかな帝都といえど、住人すべてを豊かにする事など叶いませぬ。ならば不穏分子を多少は、間引いておかねば。こたびの件は格好の選別となりましょう」
人を人とも思わぬ我の口ぶりに、冷徹な元皇妃も少しは青ざめたようである。
「……当主のヤフヤー殿をはじめ、バルマク家の主だった者たちがほとんど、帝都を離れていったそうね。
帝都の内政を一手に引き受けていた彼らを遠ざけたつけを、早くも支払わされているのではなくて? こたびの帝都の混乱ぶりは」
「お言葉ながら、母上。バルマクの者たちは要職を一手に担っていたがゆえ、専横と驕慢の振る舞いが目立っておりました。
いかに有能な一族といえど、彼らだけを引き立てるのは……長き目で見れば帝国の行く末に、必ずや深い影を落としましょう」
「ものは言いようね。……で? ハールは? あの子はまだ見つかっていないの?」
ここに来て初めて、彼女の腹の読めぬ冷徹な一面が陰りを見せ――声のトーンに、やや怯えの感情が入り混じる。
本物の長兄であるムーサーを殺す事には、躊躇いもなく同意したくせに。同じ息子だろうに、態度に随分と差があるものだ。
(……何だ、この苛立ちは? 我とてこの女とは何の血の繋がりもない、赤の他人であるはず)
知らず知らずの内に、己の心は「ムーサー」になりつつある、という事なのだろうか。
改めてハイズラーンの憂いを帯びた表情を見る。……今は、何も感じない。
いかな絶世の美女といえど、この女の色香ごときに我が心惑わされる事はない。ましてや親子の情念が芽生える事なども、あるはずがないのだ。
「……未だ行方はハッキリとしてはおりませぬな。一時、ダマスクスで目撃されたという情報はございましたが」
「バルマク家のヤフヤーは、ダマスクスに逃れ、かの地を根城に反旗を翻す機会を狙っているとか。いくらヤフヤーがやり手であっても、バルマクの一族だけでそんなまとまった行動を取れるとは思えないわ。きっと旗印とするに足る人物がいるはず」
「ふむ。ならばいずれ、ダマスクスには本格的に探りを入れる事になりましょうな」
結局さしたる進展もないまま、ハイズラーン元皇妃との会談は終わった。
彼女の後ろ姿を見送り――我は「仮面」の奥でほくそ笑んだ。
帝都マディーンで怨嗟や不満の声が渦巻いているのは、この白仮面にとってはかえって好都合だ。
何故なら人々の精神が不安定になればなるほど、その歪みやひずみは、負の魔術を扱う力として利用する事ができるのだから。
「――――む」
ふと、帝都に張り巡らされている「目」から、空飛ぶ魔力の塊を捉えたとの報せが飛び込んできた。
数十匹の屍病蠅に守られた「それ」は、まっすぐ我の寝室に向かって進んできており――「合言葉」を呟き、窓を開ける。これは、星魔女ムーシュが差し向けてきたものか。
我はすぐさま己の居室に向かい、屍病蠅が運び込んだ、大粒の琥珀のような「それ」を受け取った。
「おお、これは……この魔力は! 忘れもせぬ、三十五年前の……!
でかしたぞムーシュ。よくぞあの地に眠る、強大なる魔神の力、ここまで持ち帰った」
我は琥珀――いや、大地の魔神の魔力の塊に触れる。大地震を引き起こし、我が白仮面として生きるきっかけとなった、あの痛ましい事件の発端となったもの。
「貴様」は結果的に、我が人生における最愛の恩師を奪ったのだ。その償いはしてもらう。せいぜい我の目的のための礎となるがいい。
琥珀に宿った魔力を通じ――奇妙な光景が一瞬、我が網膜に焼きついた。
三十五年前の、忌まわしき記憶。我はあの時、死んだ。弱きハキムとしての自分は。
ところが今しがた見えた「光景」に、本来あるべきはずではないものが映ったのだ。
力強い風貌の、背の高い女。怪力女傑――名を確か、マルフィサといったか。
激昂した人々に虐げられ、重傷を負った我を庇い、彼らを追い散らす。ありえない光景だ。三十五年前のあの時あの場所に、あの女がいるハズがない。
(何なのだ、今のは……)
そしてようやく気づく。大地の魔神の力が、想定していたよりも若干減じている事に。
どうやらムーシュは、ペトラでの任務で妨害を受けたらしい。あの怪力女傑――どこまでも我の邪魔ばかりする。今だけでなく、過去にすら。
「……忌ま忌ましい、女め」
ハイズラーンにすら感じなかった強い苛立ちを覚え、我は思わず吐き捨てるように呟いた。
(幕間:了)




