16 怪力女傑、皆と星空を眺める
「アンジー! マルフィサ! 大丈夫か!? 怪我はないか?」
戦いが終わると、安堵の溜め息をついたハール皇子が気遣わしげに尋ねてきた。
緊張の糸が解けたのか、今頃になって体の震えが止まらなくなっているようだ。
「わたしは問題ない。この程度の負傷、いつもの事さ。アンジェはどうだ?」
「ちょっと喉を締め上げられただけ。大した事ないわ。でも……
あのムーシュとかいう星魔女にはしてやられたわね。今から追いかけても、屍病蠅によって運ばれた大地の魔神の力は取り返せないと思う」
アンジェリカの持つ空飛ぶ絨毯を用い、全速力で追跡すればあるいは、とも思ったが。
それでは目的地は帝都マディーンだ。これまでの旅路のまったく逆方向に行かざるを得なくなってしまう。
「アレクサンデラに向かうがいい。そなたらの当初の予定通り、な」
突如、老人の声が響いた。黒衣の魔術師アブドゥル・アルハザード。しかし……その姿は先刻よりも薄れ、おぼろげにしか視認できなくなっている。
「おじーちゃん!?」
「この地の魔神の力を持っていかれたからのう。ワシの幻視を保つ力も失われつつある、という事じゃ」
「そんなッ……!」
「すまない、アブドゥル殿……わたしの力と、考えが及ばなかった」わたしは詫びた。
「気に病まんでいいぞ、勇ましいお嬢ちゃん。
お主らがここに乗り込んでおらなんだら、今頃すべての魔神の力が、星魔女によって白仮面に捧げられていた事じゃろう。
結果的に奴らの戦力を削ぎ、奴の得るはずだった魔力の一部を阻止できたと考えれば、上々な結果と言えるのではないかね?」
アブドゥル老人は微笑んでみせた。そして……その消えかかった身体を起こし、わたしの持つダマスクス鋼の左手甲にそっと触れた。
「せめてもの労いじゃ。かろうじて残った魔力で、そなたに報酬をくれてやろう」
「! しかしそんな事をすれば、あなたは完全に――消えるのでは?」
「このまま黙っておっても、いずれはそうなるんじゃ。ならば、最後に何がしか、役立つ手助けをしたい。
それがわしの……この世界に白仮面という怪物を解き放ってしまった事に対する、償いにもなろう」
そして手甲に魔力の輝きが宿り、包まれたかと思うと――アブドゥル・アルハザードの姿は、すでになかった。
希代にして伝説の魔術師。彼の痕跡は生前の肉体や精神のみならず、その残照すらもこの世から消滅する事になった。
「アブドゥル……おじーちゃん……」
アンジェリカはポツリと呟き、茫然としながら一滴、涙をこぼしていた。
身寄りのない彼女にとって、彼の存在は本物の祖父のように慕える存在だったのかもしれない。
彼が最期に遺していった、手甲に宿した魔力。
わたしに魔術の素養はないが、それでもどのような効果か、すぐに分かった。
今まで炎の魔神の力を、炎を出さず熱だけを生み出す場合、どうしてもわたしの肉体に多大な負荷がかかり、火傷に近い損傷を負う事が多々あった。
しかしその負荷を、今は魔力を宿したダマスクス鋼が引き受けてくれる。一神教の人々にとって忌まわしき炎の力を、人目を気にする事なく十全に扱えるのだ。今のわたしにはこの上ない加護と言えるだろう。
「ありがとう――アブドゥル殿」
***
ペトラ遺跡を後にし、わたしとアンジェリカ、そしてハール皇子は旅を続ける事になった。
最終的な目的地は、地中海に面する巨大港湾都市アレクサンデラ。そこに向かうためには南下し、港町アカバを経由してスエズ、そして古代アイギュプト王国の首都であったカイロを目指さなければならない。
南下する途中、ロクに集落もなかったため野宿する事になった訳だが……
「……そして西方異教の騎士はこう答えたのだ。
『女性が望む、最高の宝とは何か。それは富でも名誉でもない。自分の意志を持ち続ける事だ』と。
この答えを聞いた彼女は、騎士のたどり着いた見識にいたく感銘を受け……彼の妻となる決心をしたそうだ」
「……へえ。西方の世界にもなかなかの逸話があるもんだね。てっきり男尊女卑の世界観に染まりきってるもんだと思ってたけど」
「確かに女というだけで見下す輩は大勢いたが、それだけでもない、という事さ」
わたしの語りに、ハール皇子も感心したように頷いている。
眠りにつく前に気を紛らわすつもりだったが……その日の砂漠の夜は、思いのほか冷えた。
「ねえフィーザ、いつものやつやって。このままじゃ凍えそう」
アンジェリカが猫なで声でわたしにすり寄ってくる。またか……とわたしは呆れた。
「あのなアンジェ。わたしを暖房器具か何かと勘違いしてないか?」
「いいじゃない。寒い時は人肌で温め合うものよ。それにフィーザは特別あったかいし」
それはそうだろう。わたしの中には炎の魔神が宿っているのだから。
そしてその力は、アブドゥル老人が宿してくれたダマスクス鋼の魔力によってより扱いやすくなっている。以前と違い、密着しても火傷を負う心配がなくなったのだ。
「マルフィサ。僕の方も頼む。さすがに今日はちょっと、冷え込みすぎだと思うんだよね」いけしゃあしゃあと言ってくるハール。
「いや、アンジェはともかく……きみまでくっつきすぎじゃないか!?」
「仕方ないだろう。大事なご主人様が凍え死んでしまってもいいのか? 心配するな、ちょっと手を握ってくれれば、それでいい」
「…………む」
砂漠の旅は過酷だ。昼は容赦なく陽光が照りつけ、凄まじい気温に達する反面――夜は突き放すように冷え込んでいき、防寒具なしでの野宿は死に直結する。
それを克服しやすくなっただけでも、わたしの忌むべき炎の力は皆の生存に役立っている。喜ぶべき事なのかもしれない。
二人を抱え、暖めている間――わたしは夜空を見ていた。
晴れ渡り、無数の星がよく見える。
「怪力女傑」などと呼ばれつつも、一介の戦士として旅していた頃、わたしは孤独だった。
だが今は、こうやって気の置けない誰かと寄り添い、美しい星を眺めて過ごしている――そんな夜も、悪くはない。
わたしはそう思いながら、自然と微笑みを浮かべている事に気づいた。
(第四章 了)




