10 怪力女傑、過去の崖都へ到達する・後編
魔術師アブドゥル・アルハザードによって連れて来られた、在りし日の都ペトラ。
三十五年前の大地震が起こる前だろうか。ナヴァトの人々はつつがなく暮らしているように見えた。
「……老人と子供の姿がほとんど見えないね」
ふと、ハール皇子がぽつりと呟く。かつては統治者として活躍していた彼らしい、核心を突いた一言だ。
一見栄えているように見えるペトラ。力強い石造りの建物が立ち並んでいるが、そのほとんどは歳月が経っており、目新しいものは見当たらない。
余裕のある集落ならば、身体的に弱い老人を養う余裕があるはずだし、新しく子供を産み育てる環境も整っているものだ。つまりは――どれだけ必死に覆い隠しても、ペトラの街からは衰退の兆候が見て取れてしまうのだ。
「目抜き通りの商品もまばらね。帝都マディーンとは比べ物にならないわ」とアンジェリカ。
「すでにこの頃のペトラは、交易ルートの中心から外れてしまっている。その影響が出ているんだろう」
わたしは平静を装いつつ答えたが……一番の問題は、アブドゥルは何故、過去のペトラに直接わたし達を連れてくる事にしたのか、意図が掴めない事だ。
アブドゥルは過去、白仮面と関わりがあった事は間違いないだろう。しかしそれを知らせるだけなら、時の幽精がやったように、過去の幻視を見せればそれで事足りるはずだ。
恐らくそれ以上の理由があるのだろう。しかしもし、過去に囚われてしまったまま戻れなかったら……困ってしまうな。ハール皇子の濡れ衣を晴らし、帝都マディーンを白仮面から奪還するという目的が果たせなくなってしまう。
そこでわたしは、体内に宿る炎の魔神の力を借りる事にした。現地の人々の「魂の炎」を見る事にしたのだ。
すると興味深い事が分かった。
「これは――」
驚くべき光景だった。少なくない数のナヴァト人の姿があちこちに見えるというのに、彼らからはまったく炎が見えなかったのである。
「ハール、アンジェ。やはりここは、過去の幻視の延長上の世界のようだ」
「え? でもさっき、アンジーに男がぶつかってきただろう? 幻覚なのに実体があるなんて」
「いいえ……フィーザの言う通りだわ。確かに体温も息遣いも現実に感じられた。でも――何かが違うのよ。
アブドゥルおじーちゃんはあたし達を時間旅行させたんじゃない。あくまでここは、過去のペトラを模しただけの疑似的な世界って事」
なるほど、そう考えればわたし達が一瞬でこの世界に入り込んだ事も説明がつく。本当に過去に飛ぶには、それこそアンジェリカのように膨大な準備と魔力が必要になるハズだろうから。
少しだけ安堵したのも束の間。わたしの前を特徴的な二人の人物が横切った。
「!」
一人は黒衣の老人。見間違えるはずもない、アブドゥルその人だ。あれが三十五年前の姿だというなら、わたし達が見てきた老人は、この当時のものを模したのだと分かる。
そしてもう一人は……みすぼらしい恰好をした、線の細い若者だった。
「うわっ……」
若者が近くを横切った途端、アンジェリカが思わず顔をしかめ、鼻を押さえる。隣にいたハールも若干顔がひきつっている。
その若者は、薄汚れているとはいえ白い布を纏い、できるだけ身体が露出しないように気にかけていたようだったが……臭いまでは隠しきれない。つんと来る刺激臭は、いささか強烈だった。育ちの良いハールやアンジェリカにとっては、きっと耐え難い悪臭に感じられたのだろう。
「何、今の人……何日お風呂に入ってないのよ!?」
「いやアンジェ。今のはそういう次元の話じゃない。むしろ彼は気を遣っている方だろう。
それでもあれだけの臭いが染みついてしまっている。職業柄、仕方のない事だ」
一瞬だが通り過ぎる時に見えた、彼の指先。生身の人間のものとは思えぬほど黒ずみ、爪の中にまで入り込んでしまっている。だが腐っている訳でもなければ病気な訳でもない。ああいう手を持った者たちを、わたしは知っている。染物職人だ。彼らは王侯貴族が着る、贅の限りを尽くした華美な衣服を染め上げるため、様々な化学物質を直接手で扱うと聞く。中には糞尿に近い刺激臭を持つものもある。それらを日常的に用いていれば、手足に色は染み込んでいき、色も臭いもいくら洗ったところで落ちなくなってしまうのである。
「……行こう、二人とも。あの老人はアブドゥル殿だし……もう一人の男は恐らく、若かりし頃の白仮面だ」
わたしの言葉を聞くと、ハールもアンジェリカも我に返り、こくりと頷いてわたしに倣った。
彼らの後を尾ければ、確実に分かるだろう。三十五年前のペトラ大地震の真相と、一介の染物職人に過ぎなかった白仮面が、いかにして力ある邪悪な魔術師となり、帝国に反旗を翻したのかが。




