5 怪力女傑、妖術師と戦う・前編
ペトラ遺跡へ続く道。両端は切り立った崖で覆われており、道幅は狭くなっていた。
これ以上先を馬で進むのは難しそうだ。わたしとハールの馬を目立たない場所に繋げ、わたし達はさらに奥へと進んだ。
「……昼間だってのに、崖のせいで暗いわね」アンジェリカがぼやく。
「ふふ、凄い所だろう? この細道が、切り立った崖が、天然の要害と化していたのさ。
攻めにくい地形のお陰で、数を頼みの軍勢では決して、ペトラを落とす事はできなかったと言われている」
当事者でもないくせに、妙に得意げなハール皇子だった。
「何よりしたたかだったのは、古代ナヴァト人たちだったのだろう?
いにしえの大帝国が恭順を迫ったとき、ナヴァトの王は敢えて表向きは敵対せず――帝国軍に交易ルートの道案内役を買って出て、結局彼らを煙に巻いた。
大帝国がペトラを完全に傘下に置けなかったのは、彼らがこの地の情勢を的確に知り尽くしていたからだ、なんて話もあるくらいだぞ」
長く暗い細道を抜けると――大きく開けた場所に出た。
昼過ぎの陽光が差し込んできて、急に明るくなる。しかし何より度肝を抜いたのは、眼前に現れた、美しくも巨大な岩石の宮殿であった。
「…………ッ!」
「さしものマルフィサも驚いたようだね」
「……そういうきみだって驚いているだろう、ハール?」
「まあ、ね。このペトラの宝物殿。旅人や吟遊詩人の歌から、威容は伝え聞いていたものだが……聞くと見るとじゃ大違いだ」
古代ナヴァト人たちが岩肌をくり抜き、丹念に加工したのだろう。琥珀色の支柱や装飾を施された遺跡は、今なお形を保ち、訪れた者を圧倒する。
わたしは決して芸術や建築には明るい方ではないが……二度の大地震に晒されたとは思えないほど、完成された建築美。きっと後世に至るまで、多くの人々の羨望を集める事だろう。
しかし――時間が許せば、観光気分にも浸れたであろう遺跡。生憎だが、今はそうは行かなかった。
アンジェリカがこれまでにないほど警戒を強めており、口の中で小さく詠唱を始めている。わたしも周囲に漂う空気から、微かに不穏な瘴気を感じ取った。やはりすでに――このペトラの地は、汚らわしき輩に浸食されつつあるようだ。
「フィーザ、皇子。止まって。これ以上、中へ進んではいけない」
「! どういう事だ、アンジー……」
怪訝な声を上げつつも、アンジェリカの鋭い言葉から危機を察したのだろう。ハール皇子は足を止め、護身用の半月刀を抜いた。
続けてわたしも足を止める。一見して平坦な砂地だが……確かに、何かがおかしい。
『……あらあら、アンタたち、タダの間抜けじゃあないよねェ。
やはり白仮面の言う通り、一筋縄ではいかない連中みたい』
突如、甲高い奇妙な声が辺りに轟いた。男のような、それでいて女のような……? しかし、姿は見えない。
とはいえ、自分から白仮面の名を出してくれた事は助かる。つまり声の主は、明確にわたし達の敵だという事だ。
「あの盗賊団たちを雇い、わたし達にけしかけた張本人はお前か?」
『ンッンッン、いかにもその通りよォ! アンタたちがそうね? マルフィサ、アンジェリカ、そしてハールーン皇子サマ。
アタシの可愛い屍病蠅たちを散々なぶり殺しにしてくれたそうじゃない? その落とし前はつけてもらうわァ!』
新たな敵――まずは居所を探さなければならない訳だが。
意外だったのは、アンジェリカがいつになく怒り出した事だった。
「ちょっとアンタ! そんな野太い声でアグラマン様みたいな喋り方しないでよっ!?」
「…………え?」
彼女が激昂した理由が、わたしやハールにとっては予想外のものだったので……二人で顔を見合わせ、思わずアンジェリカを振り返る。
「……なるほど、言われてみれば。何か聞き覚えがあるとは思ったが……アグラマンの口調に似ているな」
「フィーザ、これは似て非なるものよ。よーく聞けば違いが分かるハズ。あんな奴、どれだけ口調を真似たところで、アグラマン様の足元にも及ばないわっ!」
「うん? そうなのか……わたしには同じような感じに聞こえるんだが」
「かーっ! フィーザってば音感ないんじゃない? 月とスッポン! 天と地の差があるわよ!」
口調の違いはいまいちピンと来ないが……わたしが驚いたのはアンジェリカがさりげなく、アグラマンに「様」付けしている事だった。直に会ったのはダマスクスが最初だった筈だが……彼女の意外な嗜好が垣間見えたかもしれない。
『さっきから何をほざいているのか分からないけれど、どうやらアタシの猿真似をしている輩がいるって事ね?
ならばアタシの強さと、美しさを! たっぷり思い知らせてあげるわァ! 覚悟なさいなッ!!』
先刻より幾分、声のトーンが上がった所を見ると……アンジェリカに自尊心を傷つけられたのが気に障ったようだ。
宝物殿の柱の影から姿を現したのは――中東でも滅多にお目にかかれない、極彩色の衣装を纏った長身の男であった。
赤、青、緑……それ以外の色も所々に垣間見え、一日に見られる陽光全てを集めたかのように輝いている。
一体いかなる技法を用いれば、あのような複雑な染色を衣服に施せるのか? 疑問は尽きないが……試してみたいとは全く思えない。
「その奇抜な恰好が……お前が言うところの『美しさ』というやつか?」
想像以上にけばけばしい外観の男(いや、女か?)の登場に、わたしは思わず呆れ気味に尋ねてみた。
「ホホホホ、見くびらないでちょうだい。この程度、まだまだアタシの目指す美の頂点には及ばないわ。言うなればこれは仮の姿――美しき白鳥に生まれ変わる前の、醜いアヒルの子といった所かしらねェ!」
「え……じゃあ将来、アレよりもっと酷くなるのか?」さしものハールも鼻白んで言った。
「うっわぁ……あたしが着るんじゃないから別にいいけどさ……うっわぁ……」アンジェリカも相当引いている。
「アンタたち! アタシの事を馬鹿にしてるでしょ! これだから芸術の審美眼を持たない凡愚どもは……ン?」
派手な妖術師はいささか立腹したようだが……突如、怪訝そうに首を傾げ始めた。彼の視線は、アンジェリカに向かって注がれている。
「な……何よ。人の顔ジロジロ見ちゃって」
いきなり押し黙ってじっと見つめられれば、誰だって不審に思うだろう。しかし次の瞬間、妖術師の放った言葉は――わたしの予想だにしないものだった。
「……アンタ、まだガキだけど……どうしてそちら側についているのよ?
アンタは本来、アタシと同じ――『こちら側の存在』のハズでしょう?」




