9 怪力女傑、屍病蠅(ナァス)の脅威に晒される
※今回はグロテスクな表現がございます。苦手な方はご注意ください。
不快な羽音と共に、わたしの眼球めがけて飛び込んできた「黒いモノ」。あと一瞬、目を閉じるのが遅ければ不快感どころでは済まなかっただろう。
しかしこちらの体勢を崩すには十分だった。対するズルールとて馬上からずり落ちかけていたが――その状況を利用し、わたしの顎に蹴りを入れてくる。わたしもたまらず馬上から振り落とされた。
「おお! これは……どうなるんだ!?」
「二人とも、ほぼ同時に馬から落ちた! これは……引き分けだ! 騎馬戦は互角だったという事だ!
これより決闘方法は、地上での白兵戦へと移行するッ!」
試合を見守っていた中東騎士たちの言う通り、馬上で決着がつかなければ、二人とも地に足をつけた戦いとなる。第二ラウンドという奴だ。
しかし……今の不気味な「黒いモノ」に気づいた様子はない。
「……どうしたアンジー。えらい深刻な顔をして」
「今の、誰も見えなかったの……? あのズルールとかいう大男の傷口から、おぞましい瘴気に包まれた『モノ』が飛び出して、フィーザを襲ったのよッ!」
「瘴気に包まれた『モノ』……? 私には見えなかったが……」
ふと仲間たち――ハール、アンジェリカ、ジャハル――の会話が耳に入ってきたが。
予想通りというか、異常に気づいたのは魔法少女のアンジェリカだけだった。
「ズルール! 今のは一体……何をした?」
立ち上がり、口の中の血を地面に吐き捨て――わたしは詰問した。
「ンン? 何、とは……何の事だ? 俺は無我夢中で蹴りを入れただけだぞ。
むしろマルフィサ殿こそ、いかがなされた? まるで亡霊でも見たような顔をしているが――」
ズルールも負傷はしているが、同じく立ち上がり、半月刀を構え戦う姿勢を見せる。
しかし奇怪な事に、奴の言葉――「魂の炎」からは、大きな揺らぎを感じなかった。この男どうやら、今しがた起こった怪異について本当に心当たりがないらしい。
(どういう事だ……? この男本人も気づいていない? 気のせい――だったのか?)
一瞬わたしは訝しんだが……顔にぶつかってきた「黒いモノ」の不快な感触は、まとわりつくように焼きついている。
幸い痛みがある訳ではないが――顔を拭ってみても、感触は取れない。手では触れられないにも関わらず、左目側だけ黒い霧がかかったかのように視界が悪い。
(くッ……地味だが、なかなかに厄介だな。やはり気のせいなどではない。
ひょっとするとこれも、ズルールではなく白仮面が密かに仕掛けた魔術の類なのか……)
「どうしたマルフィサ殿! 白兵戦だぞ。さっきまでの威勢はどうした?
かかってこないのか? ならば……こちらから行くぞッ!」
ズルールは半月刀で斬り込んできた。
ダマスクス鋼製の手甲で斬撃を受け流すも――腐っても歴戦の中東騎士なだけある。わたしの左目にトラブルが発生した事は瞬時に見抜いたらしい。あからさまに死角となった左側からの攻撃が増えており、わたしは捌ききれず、肉体に細かい裂傷が積み重なっていった。
「うぐッ…………!」
出血量は微々たるものだが、楽観視はできない。左目は相変わらず霧がかかったままだし、流血は体力の消耗を速める。
「どうしたんだ、マルフィサの奴。いくらズルールが手練れでも、あの程度の攻撃に押されるなんて……!」
ハールが歯噛みする。どうやら彼も、真相は見抜けずとも状況がおかしい事に気づきはじめたようだ。
「先ほどの馬上の立ち回り、目を瞠るものがあったが……拍子抜けだな。そなたの力はその程度のものか」
「! 言わせておけばッ!」
黒い霧は厄介だが、まだギリギリ距離感は掴める。わたしは両拳を構え、猛然とズルールに突進した。得物が素手な以上、馬上戦の時と同じだ。接近戦に持ち込まなければ勝ち目はない。
負傷をものともせず、我ながら無駄のない動きで間合いを詰め――わたしが拳を繰り出そうとした、その時だった。
ズルールの脇腹から、再び「黒いもの」が湧き出したのだ。今度はハッキリと、その姿形が見えた。
(これは……蠅か? さっきは小さすぎて分からなかったが……)
不快な羽音。群がる羽虫。実におぞましい光景だ。相手が死体ならばともかく、今面と向かって戦っているこの男は、生きた人間のハズなのに。
蠅の群れは、たちまちわたしの拳にまとわりついた。先ほどの左目と同様、黒い霧状の「何か」が振りまかれる。込めた力が急速に奪われていく。
それでもわたしは、ズルールの腹に拳を叩き込んだ。だが――
「それで全力かね、マルフィサ殿。先ほど我が顎を襲った力強さが感じられんぞ!」
やや失望感を漂わせた声で、ズルールはあっさりとわたしを振り払う。わたしが弱くなったのか、それとも奴の力が増したのか。少なくとも、あの蠅がただの虫ではない事は確かだ。
あんなおぞましいモノが突如肉体から出現すれば、普通なら大騒ぎになる。だがその場の誰も、この不気味な存在に気づいた様子はない――ただひとり、アンジェリカを除いては。
「なんて事……どうにもイヤな臭いがすると思ったら、屍病蠅……!
あの大男、あんなおぞましい悪魔に取り憑かれていたなんてッ……!」
「屍病蠅……? 知っているのか、アンジー」
「古代パルサ人が崇めていた宗教に伝わる、蠅の姿で死体に憑き、伝染病を振りまくっていう女悪魔の事よ。
さっきからずっと感じていた禍々しい気配の正体は、アイツの中にいたモノだった……!」
屍病蠅。わたしも初めて知った名だが、何とも気味の悪い悪魔だ。奴らの振りまいた「黒い霧」は、病気を運ぶ瘴気のようなものだろうか。
今は力が抜ける程度で済んでいるが……長時間晒されれば、本当に病気にでもなってしまうかもしれない。
しかしそれ以上に気がかりなのは、そんな不吉なものを宿しているというのに、当のズルール本人がその事に気づいていないという点だ。
「ズルールよ。今わたしの左目と右手に取りついている『モノ』――本当に見えていないのか?」
「ん~~~~? いったい何の話を……ンン?」
ズルールは言われて、ようやく奇妙な現実に気づいたらしい。
先ほどわたしに深く傷つけられた脇腹から――まったく血が流れていない事に。
「何だ……? これだけの深手を負ったというのに、痛みすら感じない……? それにどうして出血していない……?
…………ひッ! な、何だァこれはッ!?」
ぞわぞわと脇腹の傷口で蠢いているもの――無数の蠅の存在を、ズルールはようやく認識したようだ。
自分の身体に汚らしい蠅の群れが集っているなど……わたしですら、考えただけでゾッとする。ズルールも例外ではなかったらしく、慌てて傷口の屍病蠅を払い除けようとした。
だが黒い蠅どもは逃げるどころか、ズルールの顔に向かってまとわりついてきた。
「うわああああッ!?」
「! ズルール……!!」
おぞましすぎる光景だが、周囲の人間には(アンジェリカを除いて)屍病蠅の姿が見えていない。
傍目にはズルールが突如錯乱し、己の顔をかきむしっているようにしか映っていないだろう。
しかしそれも……しばらくすると治まった。不意に彼は、顔をかきむしるのを止め……だらんと両腕を力なく垂れた。腕が先刻よりも、奇妙に間延びしているように見えるのは……気のせいだろうか。
「ぐ……グググ……くくく……なるほど、そういう事か……
これも……我が力、という訳か。少々驚いたが、悪くはないなァ」
「ズルール。その蠅は明らかに災いを招く病魔だぞ。魔術の素人であるわたしでも、委ねてはならない不吉なものだと分かる」
わたしは身構え、警告を発したが……中東騎士は意に介さず、むしろ狂喜の笑みを浮かべていた。
「いいやァ、そんな事はない! むしろ逆だッ! この蠅ども……そなたの力を奪い、この俺に注ぎ込んでくれている……!
素晴らしい。恋焦がれて止まぬそなたを、こうも身近に感じられるとは……! はァははははははァ!!」
屍病蠅の力を理解したズルールは、より手強い難敵と化したのだった。




