6 怪力女傑、決闘を申し込む
「俺としても、大捕り物や裏切り者をいぶり出すなどして、事を荒立てたくはないのだよ。
ここダマスクスは西方の異教徒どもの領土・アナドゥル半島にも近い。街が混乱すれば奴らにつけ入る隙を与えてしまう」
「…………」
わたしが衝撃を受け絶句している様子を見て、脈ありだと思い込んだのか――ズルールは一気にまくし立ててきた。
「よく考えてくれたまえ、マルフィサ殿。
現状ダマスクスの兵士がそなたの敵に回らぬのは、俺が根回しをしているからなのだぞ。
ハール皇子も、抵抗せずに降伏を申し出てくれれば――同じスクル教徒であり、現聖帝の弟君なのだ。礼節を以て遇そう。
彼の命を助ける事は、彼らの母君であるハイズラーン元皇妃の願いでもあるのだから」
確かに、この上ない申し出なのかもしれない。
傍から見ればわたし達の逃避行など、何の展望もない亡命にしか映らないだろう。
ダマスクス、ペトラ、アレクサンデラ……わたし達の当面の目的地だが、これも実体なき幽精の言葉であり、信ずるに足る根拠はない。
それらの都市や遺跡にたどり着いたところで、ハール皇子の嫌疑が晴れ、白仮面を倒す方法や手段が見つかる保証など……どこにもないではないか?
しかし……傾きかけたわたしの心を支えたのは、皮肉にも実体なき魔神の力だった。
ズルールの言葉――このわたしに懸想している、というくだりは紛れもない真実だ(忌ま忌ましい事だが)。
だが彼が続けて「ハール皇子の助命」を言い放った時、どういう訳か「魂の炎」が揺らいだ。完全に嘘でもないようだが……わたしを丸め込むための方便か、彼の独断で不確かな約束をでっち上げている恐れもある。
「大変ありがたい申し出だが……率直に言おう。あなたの言葉を完全に信じる事はできない」
「……それはまた、なぜ?」
「単なるわたしの勘だ。だがわたしの勘はよく当たるんだ。
それに、いきなり会った男の妻になれ、などと……言われた女は普通、困惑するぞ。
しかもお前とわたしの間には――思ったよりも深い因縁があるのだが、それには気づいているか?」
個人的な事情ではあるが、この男はかつてのわたしの家族の仇なのだ。
だが万が一、他人の空似という可能性もあるかもしれない。ここはハッキリさせておく必要がある。
「…………深い因縁、だと?」
言われた事の意味が把握できていないのだろう。ズルールの言葉のトーンに、やや苛立ちめいたものが混じった。
「ズルール殿。あなたは八年前、どこで何をしていた?」
「八年前……」ズルールは首を傾げ、しばらく考えあぐねてから答えた。
「お恥ずかしい限りだが、その頃の俺は中東騎士でもなければ、アルバス帝国に仕える兵士ですらなかった。
傭兵稼業――とでも言えば良いのかな? 金で雇われるだけの戦士が、いかなる所業を働くか……マルフィサ殿であればお分かりになるかと思うが」
戦士だ騎士だなどとうそぶいていても、その実態は戦闘だけではない。悲惨な略奪や、時には強姦に手を染める事だってある――そう言いたいのだろう。
「では代わりにわたしが答えてやろう。
八年前、わたしは戦士ですらなく、ホラザン人の豪族の娘だった。
領地で反乱を起こされ、その時駆り出された盗賊騎士どもに、兄を除いて一族を皆殺しにされた……その生き残りが、このわたしだ」
「! もしや……あの時の小娘が……!?」
ズルールは細い目を大きく見開き、わたしの顔をまじまじと見た。
八年前の非力な小娘が、生きて目の前に現れるなどと、夢にも思っていなかったのだろう。
「信じられん。奴隷商に売り飛ばされ、とっくに野垂れ死んでいたと思っていたが……」
「生憎だったな。お陰でこうして、戦士として生きていく事になった。生き別れの兄とも、三年前西方で再会する事ができた。
……これで分かったか? お前はわたしの仇として憎まれる事はあっても、決して結婚など申し込める立場にない、という事を」
戦士として生きる事に、今となっては後悔もためらいも無い。
復讐心がまったくないか、と言われれば嘘になるが……少なくとも、家族の仇とねんごろになる気など毛頭ない事だけは確かだ。
ところが……ズルールは全身を震わせたのち、突如けたたましく笑い出した。
「くはッ! くはっはっはっは! なんという事だ! 俺が憧れた強く美しき女傑は、我が卑劣な所業から産み落とされた存在だったとはな!」
彼の言葉、態度、それに何より……「魂の炎」の色が、どろりと黒ずんだのが見えた。何か良からぬ幽精の類が、乗り移ったかのような暗い光が瞳に宿る。
そして――気のせいだろうか? 何か不快な「臭い」が、かすかにわたしの鼻をくすぐった。
「……ますます気に入ったぞ、マルフィサ殿。そなたをより一層、我がものにしたくなった」
「…………何をどう勘違いすれば、そんな結論に至るんだ?」
「そなたが俺を恨む気持ち、よく分かる。出来得るならば、今すぐその手で俺を八つ裂きにしたかろう?
つまり今この時点では、俺とそなたは不倶戴天の敵同士という事になる訳だ」
「うむ、まあ……そこまでは思っていなかったが。似たようなものかもしれんな」
「なればこそ! 俺はそなたを屈服させたい。そしてスクルの教えに基づき、我が妻たちと同等の惜しみなき愛情を注いでやりたくなった。
俺のモットーでな。『敵であれば悪魔を討つが如く容赦せぬが、家族とあらば神を敬うように厚遇すべし』と、決めているのだ。
そなたが俺を憎むのではなく、愛するようになれば――我が罪、真に神に赦された事になろう」
ズルールは暗い笑みを浮かべたまま、わたしを睨めつけてきた。
「マルフィサ殿。改めて要求しよう。我が伴侶となるべし。さもなくば、俺はあらゆる手を尽くす事も辞さない。
このダマスクスでハール皇子殿下に与しようとする裏切り者を、一人残らず吊るし上げ、見せしめとしてやる」
「……そんな真似をすれば街が混乱し、外敵につけ入る隙を与えるのではなかったか?」
「やむを得ぬ。今、俺がもっとも欲しいと思っているのは、金でも武勲でも栄達でもない。そなただ、マルフィサ殿」
夢見るような、理性の「たが」が外れたような――常軌を逸した眼光を宿し、ズルールは露骨にわたしを脅迫してきた。
八年経った今も、やはりこの男……邪悪だ。スクル教徒となろうとも、わたし一人に執着する余り、その狂気を持て余している。己が今何を言っているのか、本当に理解しているのだろうか?
余りに身勝手な理論を展開するズルール。わたしは心の中で、煮えたぎるような憎悪の炎が沸き上がるのが分かった。
(…………だが)
わたしは目を閉じ、大きく深呼吸をした。
長年、戦士として生き抜いてきた経験が告げている。一時の感情に、己の全てを委ねてはならない、と。
「……ほお、これはこれは」
狂喜の笑みを浮かべていたズルールだったが、わたしの心の炎が鎮まったのを感じ取ったのだろう。眼光から鋭さが抜け、感心したような顔になった。
「ズルール殿。あなたがわたしをどうしても妻としたい、というのであれば――こちらも条件がある」
「ふむ。何かな?」
「わたしは常々、我が良人となる男には、わたし以上の『強さ』を求めている。
ゆえにズルール殿。このマルフィサとの一対一の決闘を受けられたし。あなたが勝てば、その求婚を受け入れよう。
だがもし、わたしが勝てば――わたしのみならず、わたしの友人たちにも一切手出しをしない、と誓って欲しい」
まだるっこしい駆け引きは苦手だ。
わたしは女である以前に、やはり戦士だ。我が将来に関わる重大事ともなれば、戦士として納得のいく方法で決着をつけたい。そう思った。
「おお! 願ってもない申し出だ! もちろん承知しよう!」ズルールは満面の笑みを浮かべた。
「俺はそなたを女としてだけでなく、騎士として、戦士としての腕前にも惚れ込んでいるのだ。直に戦うのが、そなたの強さを知るのに最も手っ取り早い。
して、決闘の日時はいかに?」
「そうだな――明後日ではどうだ? ちょうど断食祭も最終日となる、区切りとなる頃合いの日だ。
場所はダマスクス兵士街の修練場。お互い馬と得物を用意し、戦いの技を競い合う……それでいいか?」
「もちろんだ! 楽しみにしておるよ、マルフィサ殿!」
浮かれている。いい歳をした禿頭の大男が、無邪気な子供のようにはしゃいでいる様は、いささか毒気を抜かれたが。
「もう勝った気でいるようだが――あまりわたしを見くびらない事だな。浮かれていようが容赦はしない」
「ふははは! 心配無用ぞ。このズルール、仕事に決して手を抜く事はない。中東騎士の端くれとして、決闘も無論、な」
不敵な笑みを浮かべ、ズルールは立ち上がった。これで多少、時間を稼ぐ事ができるだろう。この男が約束を守ればの話だが。




