2 怪力女傑、断食祭(ラマダン)を体験する・後編
ハール皇子が言った通り、ダマスクスの街は静かだった。
整然たる大通りにも関わらず、出歩いている人間もほとんどいない。これなら帝都マディーンの下層民が住む、南部地区の方がまだ活気があると言えるだろう。
「うわ~……ほんっとに人通りが少ないわね。これも断食祭のせい?」
「うむ。さっきも言ったけど、ラマダンに入ったら一ヶ月間、日の出ている内は飲食厳禁なんだ。
食べ物はもちろん、水一滴だって飲んじゃいけないのさ」
「水もダメとか……厳しいのね。よくそんなのでみんな参加する気になるわね」
アンジェリカが驚いていると、通りの角から三人の子供が走ってきた。
「おら~、お前普段は食いしん坊なんだから、ラマダンの時くらい我慢しろ! ちょうどいいダイエットだろう!」
「う~、ツライよぉ。おいら、コレを我慢して夜になったら、徹夜してずっと食べ続けるんだ……」
「お前さー、始めてまだ三日目だろ!? ちょっとずつ続ける日を長くしてかないと、立派な大人になれねーぞっ!」
二人に挟まれ、からかわれている少年は、明らかに太っている。中東世界では珍しい体型だ。
三人はワイワイ騒ぎながら、通りの向こうへと走り去っていった。
「……へえ。子供でも参加したりするのね」
「いきなり一ヶ月の断食はキツイから、最初は一日とか、三日とか、一週間とかだね」とハール。「それで本来の期間を達成したら、晴れて大人として認められるのさ。まあ、通過儀礼みたいなもんさ」
先ほどの子供たちは例外みたいなもので、街を警護する兵もろくすっぽ見かけない。
こんな体たらくで大丈夫なのか……とも思うが、日中食事も水もダメとなると、よからぬ事を企む気も失せるのかもしれない。街は平穏そのものだった。
「……自分たちが逃亡犯だって事も、忘れてしまいそうだな。こう緊張感がないと」わたしはぼやいた。
「ねえ皇子さま。お腹すいたんだけど。あたしやフィーザはスクル教徒じゃないんだし、昼に食べたっていいでしょ?」
「まあそりゃ、旅行者や軍人向けに異教徒が開いているメシ屋もあるけどね。でもせっかくの断食祭なんだし、いっぺん皆と一緒に体験してみるのも悪くないんじゃないかな」
「なるほど、いいんじゃないか? わたしも未体験だし、面白いかもしれないぞ」
「……えぇ~……まあ、フィーザもやるってんなら、しょうがないけど……」
アンジェリカは不満そうだったが、結局折れて断食祭に付き合う事になった。
***
もうすぐ日が暮れる。人通りが多くなってきたが……行き交う人々は心なしか、皆機嫌が悪そうに見える。
ここからは見えないが、遠くから喧騒が聞こえてきた。口論の内容は実に他愛ないもので、どちらの肩がぶつかったとか何とか。
「……なんか急に、辺りで揉め事が増えてきたな」
「そりゃ日没になって、やっと食事にありつけるからね。この時間帯はみんな空腹で気が立ってるのさ」
「いちおう修行なのよね? ラマダンって。ぜんぜん自制できてないじゃない……」
昼間に会った門衛の言い分を、わたしもようやく納得がいった。夕暮れ時に治安が最も悪くなるのだから、彼らはその時のために備えていたという訳だ。
そして日没間近になると、人だかりのできている場所が目に入る。
「くんくん。……あ、なんか美味しそうな匂いがするわね」
アンジェリカがが鼻をひくつかせて、食べ物の匂いの先を向くと……やはり大勢人が集まっている。
「なんだ? 飲食店ともちょっと違うようだが……」
わたしが首を傾げていると、ハール皇子が得意げになって言った。
「これぞ断食祭名物、初食店さ。
この時間帯になると、複数の店が軒を連ねて、食べ物を無料で配るんだ。スクル教徒でなくとも振る舞われるから、遠慮せずに並ぶといい」
「へえー。タダでご飯を配ってくれるの!? 随分太っ腹じゃない!」
「日中の修行を労う意味合いもあるからね~。その日初めての食事だし、フルーツやジュースなど消化のいいものが出されるよ。
まあ、タダ飯目当てで集まってくる貧民も大勢いるんだが、もともと貧者に施しがモットーだからね、スクル教は」
そんな訳でわたし達も、半分アンジェリカに引きずられるようにして初食を楽しんだ。
もちろん戦士のわたしからすれば、腹に貯まるような量ではなかったが、大勢の人々と親しみながらする食事というのは、それだけで楽しくなるものだ。
「うん。確かに皇子の言った通りね。
もっと苦行みたいなイメージがあったけど……お祭りみたいで楽しいわ」
「だろう? ま、スクル教徒ならではのお祭りイベントみたいなものだし、異教徒でも参加できるからね。
このあとみんな、家でずっと食べたり友だちとだべったりして、夜通し過ごしたりするのが普通だ」
「……なるほど。そりゃ寝不足にもなるだろうな」
日が暮れると、食事が本格的に解禁され、人通りも賑やかになってくる。こうなると帝都マディーンの日常と変わらない。
人々が活気づいてきた矢先。少し暗がりに入った途端、ハールの下に一羽の鷹が舞い降りてきた。シャジャだ。
「ん? どうしたシャジャ。呼んでもいないのに珍しいな……」
「あれ? この子、手紙つけてるじゃない」
ハールは不思議そうに驚いていたが、アンジェリカが「彼女」の足首に巻き付いている絹紙に気づいた。
皇子が中身を確認すると……大きく目を見開き、信じられないといった表情を浮かべた。
「マジか……ジャハルが、この街に来てるだって?」
「ジャハル? ああ、旅の途中で何回か聞いた名前ね。確か、皇子さまの親友だっけ?」
アンジェリカはあまり気にしていない風だったが、わたしとしては腑に落ちなかった。
帝都マディーンを離れる際、鷹を通してハールとジャハルは手紙のやり取りをしていた。しかし鷹は元来気難しい生き物で、よほど親しい人間でもない限り気を許さない。なので伝書鳩のように便利に使い倒す事も、本来は不可能なのだ。
「マディーン出発前も、そして今も手紙のやり取りができるという事は、確かにジャハルはダマスクスに来ているのだろうな」わたしは言った。
「とはいえ、恐ろしく速いな。わたし達も相当急いで旅していたハズだが……このタイミングだと、ジャハルとやらはわたし達とほぼ同時期に出発しないと間に合わん。今まで道中で鉢合わせなかったのもおかしな話だ」
「そこら辺も含めて、問いただすためにジャハルに会わないとな。きっとアイツも火急の用件で必死に追ってきたんだろう」
そんな訳でわたし達は、手紙に書かれたジャハルが待っているという家に向かう事になった。




