9 怪力女傑、魔神の力を借り受ける
「どォだい、身体が冷たいだろォ? アタシの使った毒は速効性の神経毒だ! 体に入って五分もすれば、全身が麻痺して身動きが取れなくなる!」
「ならばそうなる前に……貴様を倒すだけだッ!」
わたしはすかさず喰屍獣の鼻っ柱に、己の拳を叩きつける。
ところが……命中したハズなのに、全く手ごたえが感じられない。
「くくヒヒ……! お前の怪力ぶりは聞いている……我が一族の恥部とはいえ、そこそこ手練れのグレグを圧倒したそうだな?
マトモに肉弾戦を挑んだのでは、アタシでも勝ち目は恐らくないだろう……マトモに挑んだのなら、な」
「!?」
奇怪な光景だった。喰屍獣の顔面が不自然な形に埋没しており、粘土細工のように崩れていたのだ。にも関わらず、奴の顔からは一滴の血も流れていない。
さっきの手ごたえの無さの正体が分かった。奴は皮膚を泥のように変え、ダメージを全て受け流して事無きを得ていた――崩れた顔面はすぐに元通りになる。
「単純な拳や武器の一撃など、今のアタシには通じないねェ~。これも白仮面さまより授かった魔術のひとつ。
アタシは喰屍獣の変身能力を進化させ、物理攻撃を完全に無力化できるのさァ!」
叫ぶや否や、喰屍獣の娘は両腕を不気味に引き伸ばし、鞭のようにしならせて襲ってきた。先ほどわたしに毒針の奇襲を仕掛けたのもこの能力か。
変則的な動きではあるが、受け切れないほどの腕力ではない。しかし……再び反撃を試みるものの、やはり大して効いているようには見えなかった。
得意の打撃が通じないとなると、なかなかに厄介な敵だ。恐らく剣による斬撃も、効果はあるまい。
「くっくっく……焦っているね? でも別に焦る必要はないさ。アンジェリカとやらが心配なんだろうが、もう手遅れだ。
あの小娘を毒針で刺したのはもう三十分も前の話……これだけ時間が経てば、全身どころか脳にも毒が達して死に至る。助かる訳がないんだよッ!」
得意げに哄笑し、勝利を確信した笑みを浮かべる喰屍獣。
「お前を殺した後は、大罪人のハール皇子だ。白仮面さまに逆らう愚か者を、全員始末してやろう!」
防戦一方に回っている間にも、わたしの身体を猛毒が駆け巡り、体温を奪っていく。指先が痺れ始めた。
このままではまずい。かといって、敵を攻撃する手段も――
「…………?」
ふとわたしは、全身が冷えていく中、唯一熱を感じる部分に気づいた。懐には……例の紅玉があり、強い熱を発している。魔神の心臓だ。
(そう言えば……アンジェが言っていたな。魔神自体は善良でも邪悪でもない。使役する人間の心によって決まる、と。
もしや……わたしが強く願えば、今この状況でも力を貸してくれるのか……?)
わたしは敵の激しい攻撃をしのぎつつも、隙を見て懐のルビーを取り出し、右拳で強く握り締めた。
(炎の魔神よ。どうか……友人を助けるため、今目の前の難敵に打ち勝つための……力を、授けて欲しい)
どくん。
わたしの心の声に呼応するかのように、紅玉に宿る熱が上がる。毒で冷え切った四肢に、暖かい活力が行き渡り――
「ふんッ!」
鈍くなっていたわたしの全身に、激しい闘志が宿った。変幻自在の喰屍獣の腕を、がっしりと受け止める。
「まだそんな力が残っていたのかい! だがムダなあがきだ。いくら掴んだところで軟体化すれば――」
「おあッ!!」
雄叫びと共に――わたしの両の拳に、文字通りの炎が吹き上がる。そして掴んだ奴の腕が、瞬く間に燃え上がった!
「なッ…………!? ぎィやああアアアああッッ!? 何だァこの炎は……!?」
予想外の大火傷を負い、喰屍獣は耳障りな絶叫を上げ、慌てて伸ばした腕を引っ込めてのたうち回った。
相手の腕に引火するほどの凄まじい炎。にも関わらず、わたしの腕は熱こそ感じるが、火傷どころか焦げつく気配すら見せない。これが……炎の魔神の力なのか。
毒で冷たく鈍くなっていた身体も、今や気だるさすら感じない。わたしは喰屍獣に飛びかかり、連撃を放った。
奴の全身が泥細工のように変形し、ひしゃげる。打撃そのものはダメージにはならないにせよ、衝撃は十分に伝わっている。何より拳の炎が燃え移り、ハイエナめいた剛毛に次々と火が点いた。
「ぎィィ……! 熱いッ!?」
「勝負あったな。これ以上やれば、本当に焼け死ぬぞ?」
わたしは構えを解かず、暗に降伏を促した。だが……喰屍獣は悶え苦しみつつも、こちらに悲壮な敵意の視線を向けてくる。
「フン……ここに来て随分と甘っちょろい事だねェ……アタシはアンタの仲間を殺したんだよ?
もう後戻りなんてできないんだよッ!」
奴はそう言って、懐からガラス細工の瓶を取り出した。蓋を開けると、嗅いだ覚えのある――嫌な酒の臭いがした。
「それは……酔魔の酒か。やめておけ。わたしは以前酔魔と戦い、勝っている。
そんなものを飲んだところで、お前に勝ち目などない。無駄死にするだけだ……それに、お前が人を殺めているなら、二度と元に戻れないぞ」
「勝ち負けの問題じゃあないさ。今更おめおめと逃げ帰るなんてできない。アタシの忠誠を疑われたら……終わりなんだッ!」
わたしの制止も聞かず、喰屍獣は酔魔の酒を飲み干した。
途端に奴の身体は倍近くに膨れ上がり、体毛は黒ずみ、異形の翼が生え始める。パルサ人の恐れる「悪魔」が、毒針をわたしに突き刺そうと、無数の触手を繰り出してくる!
ところが――その触手はわたしには届かなかった。
不意に立ち込める、心地よい香り。安らぐような、毒気が抜けるような……わたしはこの感覚を知っていた。
酔魔になりかけていた喰屍獣からも、黒い霧状になって忌まわしき力が抜けていくのが見える。
「なッ……馬鹿な。なぜお前がここにいる……殺したハズなのにィ!
あの毒にやられて生きているハズがないッ……!」
喰屍獣が振り返った先には、アンジェリカが立っていた。
脇腹に応急処置を施し、青ざめた顔のままだったが……「解毒」の香と踊りを仕込んでいてくれたらしい。わたしの毒も、酔魔の酒も浄化されつつあった。
『確かに厄介な毒だった。三十分も放置すれば、人間ひとり簡単に殺せるぐらいのな』
甲高い声が聞こえたかと思うと、アンジェリカの指輪から透明なトンボが姿を現す。
『この時の幽精さまが、身体の時間を止めて毒の進行を遅らせてなかったら、マジでヤバかったぜ』
驚いている隙を逃さず、わたしは喰屍獣の首を捕らえ、力任せに締め上げた。
ただの締め技はもちろん通じないが、魔神の力を借り、奴の口や鼻を炎で塞いでいる。しばらく抵抗していたが……やがて窒息し、そのままぐったりと動かなくなった。




