5 怪力女傑、盗賊詩人(サアーリーク)を頼る
スラム街の廃屋は、再び沈黙が訪れた。
長広舌をふるっていたトンボの姿をした「時の幽精」が、元の住処であるアンジェリカの指輪に引っ込んだのだ。
今しがたまで起こっていた事実だというのに、一旦消え失せてしまうと夢か幻のように感じてしまう、奇妙な時間だった。
わたしは気を取り直す事にした。
「ともあれ、当面の目的地は……西にある古都ダマスクス、という事でいいな?」
「ん。異議なし」
「さんせーい」
ハール皇子とアンジェリカは呑気そうに声を上げる。
「目下の問題は、移動手段がない事だ。帝都マディーンから脱出するために馬が要る。
まさかアンジェの『空飛ぶ絨毯』にずっと乗る訳にもいかないだろう」
「それは、そうね」
「馬ぐらい、僕がこっそり持ってきた宝石を換金すれば入手できるぞ」
ハールの言葉に、わたしは首を振った。
「資金の問題じゃなく、ツテが問題なんだ。北部ならスクル教徒どうしであれば、馬を手に入れるのは難しくないが……どこで誰が買ったのか、簡単に足がついてしまう。
帝都の衛兵たちに嗅ぎつけられないためには、ここ南部地区で馬を調達する必要がある」
「でもフィーザ。南部でちゃんとした馬なんか手に入るの? 聞いた話じゃ、その……馬を養える人なんて限られてるんでしょ。ここ」
アンジェリカが遠慮がちに言った。一応スラム街の子供たちに悪いと思ったらしく、「貧乏」という言葉を口にしかけて飲み込んでいた。カシムをはじめ、彼らは気にもしていないようだったが。
「そうだな。だが心配するな――実はひとつだけ、アテがある。
とりあえず待ち合わせ場所に向かおう」
わたしはそう言うと、ハールとアンジェリカを連れて廃屋を後にした。
***
日は高く、もうすぐ正午になる頃……わたし達三人は、南部地区の開けた市場に向かった。
北と違い、出店は貧相なもので、怪しげな細工物や、新鮮とは言い難い食べ物を並べた露天商がまばらに立ち並ぶ。客もお世辞にも多いとは言えない。
「フィーザ。ここじゃ馬なんか売ってなさそうだけど?」
「まあ、そう慌てるなアンジェ。馬を売ってくれるツテの問題だ、と言っただろう。……お、見つけた。きっと彼だな」
わたしは目的の人物を見つけた。数人の見物客が取り囲んでいる、筋骨隆々の大男。不釣り合いに小さな木琵琶を抱え、お世辞にも余り上手いとは言えない歌を披露している。
「♪砂漠のコブラの如く、俺は敵の喉笛を食いちぎり~ 酒を浴びるように返り血を浴びたぜ~」
「……何だコレ。歌詞も酷けりゃ歌声も酷いな」ハールは顔をしかめた。「近頃の盗賊詩人界隈じゃ、こんなのでも流行るのか?」
盗賊詩人。中東では下層民の娯楽を担う職業のひとつで、自分の非合法な略奪や犯罪などを、武勇伝の体にして歌う連中だ。
「大衆娯楽だからな。弾き語りの上手さよりも、いかに内容が過激で痛快かの方が重要だし、聴衆にウケる」
「ぐぬぬ……なんと嘆かわしい! まったく近頃の若いモンは!」
「きみも確か十九歳だったよな? ハール……」
しかしハールとは全く別の理由で、アンジェリカは無言のまま震えていた。
「? どーしたアンジー。音痴の歌声がそこまでショックだったの?」
「……ううん、そんなんじゃなくて! 歌ってるあの詩人……みんな気づいてないけど、どう見たって喰屍獣じゃない!」
彼女は十二歳前後と子供同然とはいえ、魔術に関しては玄人である。人間に変身できる喰屍獣の化けの皮を一発で見抜いていた。
「え? あれ喰屍獣なの? 見た目ムキムキマッチョのオッサンにしか見えないけど」呑気な声を上げるハール。
「……うむ。アンジェの言う通り、確かにあの男は喰屍獣だが……心配は要らん。あいつは味方だ」
「へ? なんでそんな事が断言できるのよ!?」
信じられないといった表情を浮かべるアンジェリカに、わたしはさも当然そうに答えた。
「なんでって……あいつは一週間ほど前、わたしを襲ってきて返り討ちに遭った男だからな」(註:第1章1~2話を参照)
***
盗賊詩人をしていた喰屍獣の路上公演が終わったのを見計らって、わたしは彼に声をかけた。
「……久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「! これはこれは、マルフィサの姐御じゃねえですか!」
喰屍獣の男はわたしの顔を見るなり、相好を崩して歓迎の態度を示した。
……うーむ。この男に対して、わたしは力づくでねじ伏せて言う事を聞かせた記憶しかないのだが。どうしてここまで友好的なのだろう?
正直な話、恐れおののかれても仕方がないぐらいに思っていたのだが……案外、被虐性愛者だったりするのかもしれない。
「実はちょっと困った事態が起きていてな。馬を二頭ほど、都合をつけてくれると嬉しいのだが。もちろん十分な代金は支払う」
「水臭ぇですぜ姐御! あっしは一週間前、姐御の圧倒的なパワーに心酔したんでさ! 姐御の役に立つためなら、喜んでこの身を捧げますぜ!」
「はー。驚いたわ……フィーザって人外にモテるのね」
「同じマッチョどうし、何か通じるモノがあるのかもしれないな」
戸惑うわたしを他所に、後ろで好き勝手な事をヒソヒソ声で話すアンジェリカとハール。どうでもいいが丸聞こえである。
ともあれ、正規ルートではない手段で馬を調達する場合、どうしてもやや非合法な手に頼らねばならない。この喰屍獣は盗賊団を率いていた事もあり、帝都の下層民たちにも顔が利くのだ。
「わざわざあっしに声をかけてくるって事ァ、訳アリなんでしょうね」
「うむ。わたし達三人なんだが、素性を隠して急ぎ帝都を離れなければならなくなってしまってな」
「そういう事なら任せてくだせえ! 馬だけじゃねえ。あっしの部族の名誉にかけて、お三方を脱出させてご覧にいれやしょう!」
思った以上に好反応というか、力強い承諾を得た。案外頼りになる男じゃないか、ちょっと見直したな。
「ちょっとフィーザ。この人ホントに信用できるの? 気まぐれな喰屍獣なんでしょ?」アンジェリカが小声で不安を耳打ちしてきた。
「確かに喰屍獣は、よくそう言われるな。だが……大丈夫だろう」
「何を根拠にそんな――」
「わたしの勘だ。こう見えてもよく当たるんだぞ?」
臆面もなく言ってみせると、アンジェリカは呆れたように押し黙ってしまった。
……別にハッタリではない。信用できる相手か否か、見分ける事にわたしはもともと長けていた。百発百中か、と聞かれれば流石にそうではないが……結構的中するし、そのお陰で今日まで生き残れている。
(それに……何故だろう? あの晩、魔神を倒してから……人の心の『色』のようなものが、うっすら見えるようになってきた気がする。
その色が告げている。この男は信用に値する、と)
いっぽう、喰屍獣の男は自分を信じてくれた事に気を良くしてくれたようだ。
「脱出のためには、皆さんにはあっしらの指示に従ってもらいやすぜ。正確に言えば、変装して欲しいって話なんですが」
「変装? まあそれぐらいなら……」
もともと偽装のひとつやふたつ、するつもりだった。だから二つ返事で請け負った……のだが。
この後わたしは、いささか後悔する羽目に陥るのだった。




