2 怪力女傑、時の幽精(ジン)の導きを得る★
アンジェリカの背中から顔を出した大きなトンボは、自らを時の幽精と名乗った。
幽精とは、人の目に見えざる存在。西方諸国では精霊や悪魔と同一視される事もあるという。
「幽精……だと? 風の幽精や炎の幽精は聞いた事があるが……時を司る幽精というのは、初耳だな」
『あったぼうよ! オイラをそんじょそこらのチャチな幽精どもと一緒にしてもらっちゃあ困る!
中東世界広しといえども、時間を操るなんて特別な幽精は、このオイラぐらいのもんだ』
トンボは得意げに胸を張った。いや……そっくり返っているだけかもしれないし、表情もよく読めないのだが。口調から察するに、とにかくドヤ顔をしているんだろうな、とだけ想像はつく。
「え~? お前、どう見てもただの虫じゃん。僕の聞いた事があるおとぎ話の幽精と、イメージ全然違うし!」とはハールの弁。
『かーッ。これだから魔術に疎い、無知蒙昧の輩ときたら! オイラの身体からにじみ出る、洗練された魔力の奔流わっかんないかな~?』
「わー。おっきなトンボ! 捕まえて飼いたい!」
「市場に持ってったら、すっごい高値で売れそう!」
これらはスラムの少年少女たちの感想……子供は正直である。
「おいトンボ。純真無垢でいたいけな子供たちの率直な意見でズバッと傷ついてるように見えるが?」
『そ、そんな事ないやい! つーかオイラはトンボじゃねー!?』
「そもそもお前が時間をどーにかできるっつー凄い幽精なら、なんでそんなしょっぼいトンボみたいな見た目してんだ?」
『オイラだって好きでこんな格好でいるわけじゃねーし! アンジェリカをこの時代に連れてくるのに、魔力めっちゃ消耗しちまったんだよッ!
それさえなければ、お前らにオイラ本来の優雅でカッチョよく美しい姿を、思う存分拝ませてやれたってのに……!』
「……まあ、そんな事はどうでもいい。話が脱線しているぞ」収拾がつきそうにないので、わたしが口を挟む事にした。
「さっきの話じゃ、今のわたし達にも打開策があるという事だったが……具体的に何をすればいいんだ?」
『そーだな。さっきアンジェリカが言ったように、敵方にいる最も厄介な存在は、魔術師の白仮面だ。
彼女のいた世界――あんたらにとっちゃ未来の世界だが――じゃ、あの仮面ヤローがハール皇子を殺し、アルバス帝国を……いや、中東世界そのものを地獄絵図に変えちまうんだ』
時の幽精の話を聞き、わたしは驚いてアンジェリカの顔を見た。
話が本当なら、この魔法少女は未来の世界からやってきたというのか。突拍子もない話だが……そう考えると、彼女のこれまでの立ち居振る舞いにも多少は合点がいく。魔術を人前で振るう事に頓着しなかったのも、中東の庶民なら誰でも知っているハズの公衆浴場について知らなかったのも……地獄のように荒廃した未来からきたというなら、仕方のない話だったのかもしれない。
ふと、わたしの胸の内に熱いものがこみ上げてきて……気がつけば、身体が自然に動いていた。
「……え、どうしたの。急にうるんだ瞳でこっちを見つめちゃって――あ」
周りからどよめきが生じる。いつの間にかわたしは、アンジェリカの小さな体を、抱きしめていた。
「ちょ……フィーザ! 急にどうしちゃったのよ!?」
「済まないアンジェ。最初に会った時、親についてどうこう言ってしまった。独りぼっち、だったんだな」
「ん。まあそりゃ帝都に来たばかりの頃は、心細かったけどさ……痛たたただだっ!? ちょ、フィーザ、力入れすぎ! 手加減じてっ……!?」
アンジェリカから絞め殺されるニワトリのようなうめき声が漏れたところで、わたしはようやく我に返った。
「……えっと、本当にごめんな。わたしは感極まるとつい、親しい人を抱き締めてしまうクセがあって――」
「その……馬鹿力で……そのクセは……凶悪すぎるわよっ……げっほ、げほ……ぜえぜえ」
これでも加減をしたつもりだったのだが、年端もいかない少女にとっては刺激が強すぎたらしい。
『えーっと……オイラ、話を続けてもいいのか?』
「あ、うむ。話の腰を折ってすまなかった。続けてくれ」
遠慮がちに口を挟んできた時の幽精は、トンボめいた複眼の前に、小さな光をぼっ、ぼっ、ぼっ……と、三つ浮かべた。
『コイツは、アンジェリカと同じく偉大な魔女であった、彼女の母親から託された”導きの光”だ。
マルフィサ、ハール、そしてアンジェリカ……お前たち三人にとって、これから為すべき事を成し遂げるために、最も関わりの深い”未来の光景”を見せてくれる――』
神秘的な光だ。光量があるにも関わらず、眩しさを感じない。近づいて覗き込んでみると……都市の風景が映る。
わたしの前には狭い岩山の狭間から見える、古代の遺跡が。ハールの前には石造りの堅牢な都が。そしてアンジェリカの前には、巨大な灯台を持つ大海原を擁した沿岸都市が……それぞれ見えた。
「今見えたのは……もしかして……ダマスクスか?」とハール。
「海が綺麗ですごくいい眺めだけど……どこなのかピンと来ないわ」とアンジェリカ。
「……心配は要らない。アンジェの前に映った都市については、わたしも昔行った事がある」
「ほ、本当フィーザ!? 一体どこなの? 教えてくれない?」
戦士として流浪していた身としては、いずれも過去に立ち寄った事のある場所ばかりだ。
わたしはハール皇子の用意した大判の絹紙に大雑把な地図を描いた。恐らくアンジェリカは、三つの幻影いずれも知らないだろうから、簡単に説明する事にする。
「今わたし達のいる帝都マディーンがここだとすると……ルートとしてはこうなる。
ハールが見たのは、マディーンから最も近い『古都』ダマスクスだ。ここはハールも知っているだろう?」
「ん、そりゃもちろん。かつてスクル教を擁した『最初の帝国』が建てられたときの首都だもんな。
それにダマスクスだったら、西方と戦をする時、補給を受けるために何度も立ち寄った事があるしね」
「結構。そしてわたしが見た遺跡は、ダマスクスから南へ400キロ下った所にある、かつて『崖都』と呼ばれたペトラ遺跡だな。
最後に、最も遠いと推測されるのはアンジェリカが見たという景色だが……海岸の地形からして、恐らく地中海に面した巨大港湾都市、アレクサンデラだろう」
そう言ってわたしは、地図に書き込んだ四つの都市や遺跡――マディーン、ダマスクス、ペトラ、そしてアレクサンデラ――を線で結ぶ。
出来上がった道標地図を見て、ハールやアンジェリカだけでなく、スラムの子供たちも感嘆の声を上げていた。
「すっげえ……世界ってこんなに広いのかよ……!」
「あたし物心ついてからずっと、マディーンのスラムから出た事ないけど……いつかこんな、素敵なところに行ってみたいなぁ!」
子供たちが楽しそうに騒ぐのを後目に、時の幽精は感心したようにわたしを見ていた。
『…………へ~え。姉ちゃん、意外とやるじゃんか。映った場所の説明を事細かにするのだるいな~って思ってたトコだったけどさ。
あんたのお陰でその手間も省けた。これでオイラの口から語る必要もなくなったな! ヒヒヒ』
「……そいつはどうも。とはいえ、この場所に行って具体的に何をすればいいんだ?」
『そいつを教えるのは、残念ながらオイラの役目じゃねえ。未来の出来事なんて、ハッキリ分からねえから面白いんだよ。
だがあんたらの目的――白仮面に対抗する武器を手に入れるのに、必ず役に立つ場所のハズだぜ』
気を持たせるだけ持たせて、肝心な所ははぐらかされた。わたしの不本意そうな顔を見て、幽精は愉快そうにゆらめく。
『マルフィサと言ったな? アンタもハールやアンジェリカと同様――白仮面に因縁があるハズだ。
炎の魔神に打ち勝ったとき、アンタ見たんだよな? 奴の素顔を。奴の事を……知っていたよな?』
「…………」
確かにこの幽精の言う通りだ。わたしは八年前、白仮面が反乱を起こしたせいで故郷を追われた。そして泥をすするような思いをしながら、流浪の女戦士に身をやつす事になったのだ。
「確かに知らないワケじゃない。だが今更ヤツ個人に復讐心があるわけじゃないぞ? 言っちゃあ何だが、わたしの境遇についてはすでに終わった事だ。
しかしながら――ヤツが今なお生きていて、中東に再び災厄をもたらそうとしているのなら……話は別だな」
結局どこまで行っても、ハール達に協力するしか――わたしに選択の余地はないという事だ。
別に悪い気はしない。二人と共に名だたる都市を旅するだけでも、楽しそうじゃないか? これから先の事を考えれば、わたしも密かに心が躍るのを感じた。




