第六章 別れ
区切りが悪いのですが、長くなりそうなのでここでひとまず。
もう少し、この日のエピソードは続きます。
幹と沙雨は結局、閉会式をサボった。というより、小学校に戻ってきたらとっくに終わっていただけなのだが。
腕や足に擦り傷をこさえた幹が車椅子を押して戻ってくると、残っているのは修司と渡辺、それに用賀北小の先生だけだった。
携帯電話は持っていたが、いちいち確認はしていなかった。幹達が戻ってきたのは、集合時間から40分ほど遅れた時のこと。修司と渡辺はよもや誘拐かと焦っていた先生方をなだめすかし、こうして二人が帰ってくるのをまっていてくれたのだ。
これには幹も一応感謝しないわけにはいかない。だが、幹は内心辟易してもいた。
この二人が大阪のおばちゃんよろしく詮索してくるからだ。
「それじゃあお二人さん、若い男女が学校抜け出して何事もなかったって言いたいのかい? こちとらぁ教職22年だ、そんな安い嘘は通じねぇなぁ」
「そうですか、ボケが来たんならさっさと定年してください」
「ねえ幹、僕たち友達だよね? だったらつまんない秘密なんて作らない方がいいじゃないかい?」
「お前のほうが隠し事は多いだろうが」
下世話な二人の追求を適当にあしらいながら、幹は思わずため息をついた。
まったく、どうして俺だけこんな苦労をしているのか……。
そもそもこの女の子にかまった時点で失敗だったのかもしれない。ひょっとして自業自得か? と思うと頭痛が止まらない幹であった。
「おい沙雨、お前も黙ってないで何とか言ってやれ」
こんな時には舐めた口をきいてくれそうな少女はしかし、日傘を差して車椅子の上で大人しくしている。
幹達と顔を合わせようとせず、先ほどからそっぽを向いたままである。
これでは反抗的というよりもむしろ、借りてきた猫である。
「沙雨、黙ってないで減らず口の一つでも言ってやれ」
「う、うるさい」
「俺に言ってどうするんだよ……」
先ほどからこんな調子である。会話が成立しない点では最初と変わりないのだが、これはなにかベクトルが違うような気がする。
おしとやか、というには無理があるようだが。
語彙に自信がない幹は、すっきりしないものを感じながら頭を掻いた。
「なんにも言わないってことは、イエスととっていいんだな?」
何時間か前に重い話をしていたはずの化学教師はどこに行ってしまったのだろうか。幹はこれ以上この中年男と話をしたくなくなっていた。修司や三枝以上に、この男と話をしていると疲れるからだ。
「もうどうとでもとってくれて結構ですよ。それと俺はもう帰りますから、沙雨のことは先生に頼んでもいいですか?」
「あれ、打ち上げには来てくれないの?」
「わりい、疲れたから帰るわ」
修司からの誘いを断り、これでようやく家に帰ることができると思った。渡辺が約束通り口利きしてくれるかは信じるしかないが、幹から言わせればやるべきことはやったというところだ。
今日はいろんなヤツに愚痴を聞かされて、走って転けて怪我までした。もうさっさと家に帰って布団に入りたい、いやその前にシャワーを浴びるか、傷にしみるよなぁ……。
「おい、誰が頼まれたって言った」
渡辺はそう言って幹の襟首を掴む。回れ右して家路に向かっていた幹は、おふっと言って咳き込んだ。と言うより、首が締まった。
「オレはこれから夏期講習と補習の準備をせにゃならんのよ。だからこの嬢ちゃんはお前が責任もって家まで送り届けろ」
渡辺はそれっぽい言い訳をするが、不満たらたらな幹は簡単には引き下がらない。
「夏期講習ってまだ二週間先じゃないですか、それに化学は補講しないって話じゃなかったんですか!?」
「あー、それな、今になって気が変わった。やっぱしやるわ」
「はぁ?」
ちっちっちっと舌打ちしながら渡辺は幹の肩に腕を回す。暑いのにタバコ臭い中年にそんなことをされては、さしもの幹の顔も引きつっている。渡辺は顔をぐいっと近づけて、沙雨に聞こえないようひそひそ話を始めた。
「なあ、幹よ」
「はあ、何ですか?」
「これはチャンスだと思わねぇか?」
「何のですか?」
馬鹿馬鹿しいのでしらを切る幹に、渡辺もわざとらしく大きなため息をついてみせる。
「幹くん。男がいて女がいるんだ、それ以上は何も言うことはないだろ?」
目を輝かせながら言いよる渡辺は、本当にうっとうしかった。
だから幹の言葉もついつい強いものになってしまった。
「下世話ですよ、俺はアレをそういう対象として見ていません」
すると、渡辺は目をぱちくりとして、
「……マジか」
「マジです」
「まあ関係ねぇがな」
「は?」
幹が聞き返すよりも早く、渡辺は大声で簡潔な指示を出した。
「オレはさっさと帰って仕事を片付ける。修司は女の子を待たせるな、遅れたらぶっ殺してやる。それから幹、姫サマのエスコートは丁重に。以上、解散!」
そう言ってさっさと駅に向かう渡辺。昼休みのことを除いたら、帰り際になってようやく教師らしい仕事をしたのではないだろうか。
それを見送った形になる幹達三人だが、今度は修司が真面目な顔をして幹と沙雨に、
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
と言い、シュパッと手を上げ敬礼して帰ってしまう。
そうして幹と沙雨の二人が用賀北小学校の校門に残された。
それにしても気まずいなぁと幹は思った。
だから、沙雨の方から話しかけてくれた時は、正直ホッとしていた。情けない話だが。
「もう、いいから」
「は?」
何がいいんだ?
「お母さんに電話して、迎えにきてもらうから。あなたはもう帰っていいわよ」
ああ、そういうことか。なるほど。
「あー、だったらおふくろさんが来るまでここに居るわ」
「そう、じゃあ、それでいい……」
さっさと帰りたいとは思うが、女の子を一人で置いてけぼりってのはあまりよろしくない。小学校の先生方も渡辺達と一緒にさっさと捌けたみたいだし、他についてる大人がいないのならもうしばらくは拘束されていても仕方ない(エロくない意味で)。
けどそれはまた気まずくなるわけで、言ってみてから5秒後には少し後悔してしまった。
「それにしても暑いな……」
沈黙に耐えきれずに口にしてみたが、実際にものすごく暑くなってきた。
遠くからは蝉の鳴き声が聞こえてくる。アスファルトは太陽光線を浴びて熱を帯び、車道には陽炎が浮き立っている。七月のアタマにしては規格外に暑い。
このまま気温が上がっていけば、12月には60度を超えるかもしれない。誰が言ったのかは忘れたが、今ではひどく共感できる。確かに、地球温暖化は全力で防ぐだけの価値があるかもしれない。寒すぎるのも嫌いではあるが。
「暑いわねぇ……」
沙雨も幹の言葉にうなずいた。日傘を車椅子の背に掛けて(多分ペットボトルなんかを置いておくためのものだ、水分補給を怠ると車椅子の人はエコノミークラス症候群になることがあると新聞で読んだことがある)日陰を作り、扇子でパタパタと顔を煽いでいる。ちゃっかりスポーツドリンクを貰っていたらしく、そいつで小さな顔や細い腕を冷やしたり、時々口にしたりしている。日傘を除いたら、甲子園の地方大会の応援にきた女の子といった感じである。
「ふぅ……」
沙雨はしなを作るようにして小首をかしげ、体を少し伸ばした。もっとも動かすのは上半身だけで、下肢はそれに合わせて申し訳程度に揺れるようなものだが。
それから車椅子の上で体を揺するようにして座り直し、腿の上に置いていたペットボトルのふたを開け、少しだけ口につけた。女の子は人前でドリンクをガブ飲みしないものなのだろうか、身近の女を思い浮かべてみてもさして参考にはならない。女の子にしておくにはもったいないヤツばかりだ。
暑い、それはよく分かる。何せ幹には日傘も扇子もキンキンに冷えたスポーツドリンクも無いわけだから、体感温度は5度くらい違うはずだ。いや、車椅子に座っている分楽そうだから、あと2度は違うはずだ。
「それ、一口くれよ」
「え?」
しらばっくれるかこのアマめが。
「ポカリ飲ませてくれよ」
暑くてダルくて死にそうなんだよ、とは言わない。余計暑苦しくなるのがオチだから。
「ポカリ飲ませろ」
大事なので2度言ってみた。2度目は強めに。
沙雨はポカリと幹を見比べ、それから若干間をあけてから
「イヤ」と断った。そりゃあもうにべもなく。 がっくりと肩を落とし、思わずため息までもらしてしまう。卑しいとは分かっているが、よく冷えたアクエリアスは本当に美味そうなのだ。「せめて一口」
「……キモ」
「は? なんつった?」
「……ううん、何でもない」
今度は沙雨の方がため息をついた。
まったく、そこまでアクエリアスが惜しいのか。それとも、回しのみが嫌なのか。そんなもの、幹の中学では気にした方が負けだというくらいの勢いがあったものなのに……。
はぁ……、と、今度は二人でため息をついた。うだるような暑い昼下がりで、二人は待ちぼうけだった。
そのまま五分ほど経った頃、ようやく沙雨の迎えがやって来た。
沙雨の母親は至って普通の女性で、女手一つに子供を養っているとは思わせない人だった。顔立ちは沙雨と似ても似つかない、それでいて親子といわれたらそんな気がするから不思議だ。苦労を感じないのか、それとも隠すのが上手なのか、その表情はなかなか若かった。
化粧は濃い気もしたが、この年だとそれが普通なのかもしれない。十代でこれだと確実にアウトだが、この年だと薄化粧はキツいから、ここで妥協しましたといった感じ。
年上の女性にヘコヘコと頭を下げると、幹は手持ち無沙汰になった。沙雨の母親が慣れた手つきで娘を助手席にのせると、車椅子をたたんで後部座席に詰め込む。結構な重労働といったら失礼かもしれないが、それを感じさせない慣れた手つきだった。手伝おうと申し出たが、やんわりと断られてしまった。この柔らかい物腰も、幹の周囲の人間には無いものだった。
「それじゃあこれで失礼しますね。今日は娘のこと、ありがとうございました」
「いえ、そんな……」
本当に何も出来なかった幹からすれば、頭を下げられても嫌がらせでしかない。軽く自己嫌悪しそうである。
この手の女性は慣れない。沙雨よりも、下手すれば苦手かもしれない。
とはいっても、どうせこれっきりの関係になると思うが。
「そんじゃあ沙雨、じゃあな」
「うん、ばいばい」
別れのときは存外にあっけなく、沙雨の母はためらい無くアクセルを入れた。
排気ガスを吐き出したSX4セダンは、図体に似合わず軽快に走り出す。
車体が見えなくなるまで見送ると、それからもう少しだけそこに立ち尽くし、それから幹は家路についた。
その日の帰りはぼんやりとしていたんだろうか、思いがけない災難にあった。電車の中で(素行が悪い)先輩の足を踏んでしまった。そしてお決まりのトム&ジェリーごっこ。気力も体力もスカスカだったが、何とか逃げ仰せた。本当に厄日だ。さっさと家に帰ろう。余計な寄り道になった。
思った以上に秀太はやってくれた。沙雨ちゃんの担当になってくれたらとは思っていたが、まさか本当になってしまうとは。やっぱり秀太は良いやつだ。面白くて良いやつだ。三枝さんが気にするわけだ。きっと今日のことは、幹にも沙雨ちゃんにも大きなことになるだろうな。
なんでガキにあんなことを喋ってしまったんだろうか。年を取ったのか、感傷的になったのか、それとも弱くなったのか……。自己嫌悪だ。今日は酒を飲もう。酔うまで飲んで、酔ってからも飲んで、気を失うまで飲もう。悪い気は酒で洗い流そう。そうしよう。
疲れた。本当に今日は疲れた。疲れたと感じるなんて、何年ぶりだろう。分からないなぁ。もう何年も家に閉じこもっていて、急に外に連れ出されたみたいな感じ。冷房が効いた車の窓を、少しだけ下ろしてみる。強い風が、前髪をさらっていく。私は前髪を撫でた。目を閉じた。シートに身を沈め、疲れに身を任せた。悪くないかもしれない。少しだけ、そう思った。