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第五章 風とともに


何かにきっかけがあったとすれば、

それは大概本人の努力だったりします。

 幹は喧嘩慣れしている。なぜならよく喧嘩を売られるから。

 小学校の子から意識して周囲に敵を作って来た結果、1対多の状況で戦うことが多かった。結果として、喧嘩に勝つための技術や悪知恵も人一倍である。

 高校に入学間もない頃は同級生から、やがて一年で一番強いと噂が立つと、今度は上級生から喧嘩を売られるようになった。

 好きほどものの上手慣れとは、よく言ったものだ。

 喧嘩が強いからといって、幹は嬉しくも何ともなかった。

 幹が一番喧嘩をした相手といえば、やはり双子の大樹だ。

 幼い頃からいじめっ子から守ってあげていたというのに、大樹は幹相手にだけは強情であった。

 例えばバニラ味とチョコレート味のアイスがあったとときのこと。甘党の大樹はチョコレートが好きで、幹がバニラを食べてチョコを大樹のために残していたのだが、大樹はなぜか怒りだした。その理由は幹が何の断りも無くアイスを食べたから、そして大樹がバニラの気分だったから。

 さすがにこれは理不尽だが、当時の二人の関係の縮図でもあった。

 大樹はことあるごとに幹をたより、幹はその都度世話を焼くか突き放すか。

 いまとは逆に、幹が大樹の保護者のように振る舞っていた。

 また、こんなこともあった。

 当時小学生だった幹は、大樹の机の上に不思議なものがあるのを見つけた。

 円筒形のそれは、蓋を外してみると中に赤い棒が入っていた。筒の底を回してみると、それにあわせて中の棒も回りだす。

 口紅を知らなかったのは、母を幼くして失った幹にとって仕方の無いことだった。

 そして、大樹がそれをどれだけ大切にしていたのかも。

 幹が大樹に喧嘩で負けたのは、後にも先にもその一件だけだった。

 その後、幹は何度も大樹に謝ったのだが、大樹は頑として許そうとしなかった。

 幹が何でもするから許してくれと訴えると、だったら口紅を元に戻せと言う始末である。

 そうして幹は、途方に暮れるしか無いのだった。


「いちいち分かりやすいんだよなあ」 

 懐かしい記憶を辿りながら、幹はしみじみと呟いた。

 場所は用賀北小学校の前を通る、舗装の行き届いた県道である。

 車の通りは少なくないが、歩道がしっかりと設けられていて、更に幸運なことに人の通りがまばらだった。

 なぜ幸運なのかといったら、それはこれからよろしくないことをする予定だからである。

「何が分かりやすいのよ?」

 幹の側にいた少女は、彼の独り言に過敏に反応した。自分のことを言っていることくらい、まあ彼女だってすぐに気づくということだ。

「うーん、なんだろうねぇ?」

 例えば、無茶苦茶な所とかがいちいち大樹に似ているとか。

 もっとも彼女に言った所で、分かるはずも無いのだが。曖昧に言葉を濁して沙雨の追求を煙に巻く幹であった。

 そんな扱いをすれば当然沙雨は不機嫌になる訳だが、幹はそんなのおかまいなしに準備運動をしている。

 夏服のカッターシャツは既に脱いであり、大手スポーツメーカーのロゴがあしらわれた白ティーと制服のズボンだけという出で立ちである。車椅子に座っている沙雨を脇に、伸脚やアキレス腱のストレッチに余念がない。

「なんであなたが走る準備をしているのよ? わたしの代わりに走るとかだったら、いますぐ消えてほしい所なんだけど」

「いや、さすがにそれは無い」

 さすがにそれは考えていない幹である。足の動かない沙雨を走らせてやると賭けに出て、それはさすがに無い。

 一方で車椅子の少女は、これから自分がどんな目に遭うのか想像しながら、内心ビビっているのを幹に悟られまいと必死だった。

「だったらわたしの車椅子を押して走るとか?」

「それもどうかと思うけどな」

 どうかと思うんだがなぁ‥‥…。

 幹はついつい沙雨から顔をそらしてしまう。それから学校の壁に足をかけて、ゆっくりと腱を伸ばしていく。

 タバコのおかげで持久力はイマイチだが、幹は瞬発力には自信があった。春先に計った50メートル走では、クラスで三番目に速い6秒31だった。もちろんそんなことで運動部からの勧誘があったわけもない。不良はどこまでいっても不良なのだった。

「例えば、沙雨がいじめられているとする」

「あり得ない」

「そこを俺が助けたりしたら、やっぱり感謝くらいしてくれるのか?」

「絶対あり得ない」

「なるほど」

 なるほどやはりというか、この娘は大樹によく似ている。無茶で我がままで強情な所とか。幹とはまた違ったひねくれ方をしているところも。

 だから、あの賭けもほとんど予想できていた。

 だからといってどうにかなるとは思っていなかったのだが。

 自分を走れるようにしてみろと少女は言った。

 少女は走りたいのだ。

「走りたいんだったら走ればいい」

 だから幹は思ったことを言った。それが正しいとか関係なく、幹にはそれしかなかったから。

 沙雨は一瞬驚き、目を細めて幹をひしと睨みつけた。今までに無かった、質量を感じさせる眼力だった。

 なぜ彼女のためにこんなことをしているのか、正直いまでもよく分からない。ほっとけないとか、大樹に似ているからとか。後付けならいくらでもできそうなのに、心から思う答えはまた違う場所にある。

 分かるはずも無いから、とりあえず今それは脇に置いておくことにした。

「走りたいなら、走れば良いんだ」

 更に強く、もう一度言ってやった。

 沙雨は静かに怒っていた。久々に感じた本物の憎悪に気圧されないよう、幹は続ける。

「足が動かないんだったら足以外を使えば良い。格好悪いけどな」

「あなたって、想像以上に最低ね」

「今さっき真逆のことを言われた」

 あのときはキレて殴り掛かったが、今度はいやに淡々としている。手首を回し、足首を回しながら幹は語りかける。

「走るってのはどういうことだと思うか?」

 やや観念的な問いに、沙雨はどう答えるだろうか。

「足を速く動かすことでしょう」

 その答えは、なかなか素っ気なかった。

「じゃあ、早歩きと走ることの違いは?」

 自分でもよく分からない問いを発する幹。沙雨はこれを時間稼ぎと思っているかもしれない。幹なら絶対そう思っているところだ。

 それでも車椅子の少女は答えてくれた。かなり機嫌が悪そうだが。

「走った方が疲れるでしょう」

 実にシンプルな答えだ。まるで幹を小馬鹿にしているかのように。

 小馬鹿にしているのには違い無いのだが。

「そう、走った後ってのはとにかく疲れるんだ」

 そう言いながら幹は何度目かの屈伸をする。深く息を吸いながら、全身の筋肉に酸素を行き渡らせるべく。

「息は上がって、心臓は激しく脈打って、体が熱を持っている。けどまあ、それはオマケみたいなもんだな」

 今度は首を回しながら、最後の仕上げに入る。入念な準備運動はもうお仕舞いだ。

「走るってのは、何だろうな」

 最後は問いにすらなっていない幹の言葉である。沙雨は可哀想なものを見るように言った。

「さあ、知らないわよ」


「違う、忘れているだけだ」


 車椅子のハンドルを握り、初速から全開で走り出す。

「きゃっ」

「黙れ、舌噛むぞ!」

 実は言ってみたかったお約束の台詞を口にしてみた幹。平らなアスファルトは車椅子を持ってしても加速の妨げにはならない。力強く足を踏み出す。

 前方から来たオバさんが驚きながら道をあける。幹には謝る余裕も無い。

 通行人は他にいない、いても止まれるはずが無い。

 風になびく沙雨の髪が、幹の胸に触れそうで触れない。ただその香りだけを幹に届ける。幹にはそれを楽しむ余裕は無い。

「しっかり掴まれ、そんで前を見ろ!」

 前を見て走れ、小学校のときには何度廊下で注意されたか。

 幹の言葉に、沙雨はしっかりと前を見据えた。風の中に音は消え、霞んだ色が流れては消え行く。車窓から覗くそれとは違った光景は、肌で感じる質量を秘めていた。

 強く、つよく、沙雨は肘掛けを握りしめた。その手に、知らずに力がこもる。

 初夏の陽気は、走る風の前には無力であった。

「「!」」

 幹と沙雨の目の前で、信号が青から赤に変わろうとしている。今まさに、青いランプが点滅を繰り返している。

 止まるか 否か

 どうするーー幹は一瞬考えた。

 それは一瞬のこと。

「もっと速く!」

 それは本当に一瞬の逡巡だった。幹は横断歩道へと突っ込んだ。

 交通事故ーーその単語が頭をよぎる。修司に聞いたあの話も。

「もっと、もっと速く!」

 信号は赤になっていた。車がまさにそこを通ろうとしていた。幹はもう、何も考えていなかった。

「ーーーーーー!!!!!」

 クラクションは聞こえたが、運転手の怒号はついぞ聞こえなかった。

 もっと、もっと速くーー沙雨は、なりふり構わず叫んでいる。

 心臓が苦しい、足が痛い、頭痛がする……。

 もう何メートル走ったことか、幹は後ろを見ることも無く足を動かした。

 沙雨が何事か叫んでいるが、不思議なことに、すぐ側の少女の声は耳に届かなかった。

 そして、段差に躓いた。


 からからと、車椅子の車輪が回っている。車輪が回っているということは、まだ使えるということだろうか。幹は急に帰りの心配をし始めた。一体どれだけ走ったのだろうか。

 二人は公園の生け垣の上に寝そべって、7月の陽気を受け止めていた。

 公園で遊んでいた子供達が遠巻きに見ているが、それは無視することにする。

「走れたか?」 

 体中あちこちが痛む幹は、隣の少女に問うた。

「さあ?」

 奇跡的に無傷だった少女は、素っ気なく言い返した。

 もっとも、すっかり上気した顔ではあるが。それを悟られないようにこころなしか顔を背けている。

 未だに心臓の鼓動は収まらない。顔と体が妙に熱っぽい。だが、目頭からはもっと熱を感じる。

 恥ずかしくて悔しくて、そして嬉しくて、沙雨は幹を見れなかった。

「風が気持ちよかっただろう?」

「……うん」

「そっか、なら良かった」

 一服しようとして、沙雨を見て、やはり止めた。そして、ゆっくりと走りの残滓を噛み締めた。

 流れる雲さえ無い空は、吸い込まれそうなほど近くに感じられる。

 幹はタバコを取り出すのを止め、両手を広げて光を受けた。今はこれで我慢だ。

 そのままどれくらい経っただろうか。沙雨が、ぽつりと言った。

「1本くらいなら、吸っても良いわよ」

 本当に微かな声で、呟いた。

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