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1-2 きぼう

 希望と言えば、国際宇宙ステーションISSの日本実験棟「きぼう」の事だ。俺は子供の頃から宇宙飛行士になりたかった。


 親が飲食店をやっていたので、俺もなんとはなしに調理師専門学校へいき調理師免許は取った。だから今もこうして店で、かろうじて主面をしていられるのだが。


 だが、幼い頃から紡いできた宇宙への憧れは、心の片隅で熾火のようにくすぶり続けて、決して消える事はなかった。それは主に天体観測が趣味だった親父に叩き込まれた夜空への憧れだった。


 幼心に芽生えた宇宙への純粋な憧れ。大人になってからでも、その情熱をどうしても抑えきれなかったのだ。これが若さだと人は笑うんだろうな。


 専門学校を卒業して、せっかく就職できたホテルも辞めて、飲食店でバイトをしながら宇宙飛行士への道を目指したのだが、残念ながら試験を通る事はできなかった。


 書類審査は通ったのだが、その後がいけなかった。真剣に宇宙を目指す人たちの、あまりにも自分からかけ離れた能力の高さに打ちのめされた。


 狭き門。最初からわかってはいたのだけれど、まったくその通りだった。必須のロシア語も勉強したのになあ。それこそロシア人の女の子が口説けるくらいまで。


 生憎な事に言葉が通じるだけでは口説かれてくれないわけなのだが。ロシア語だけなら、あそこでも一番だったかもしれない。


 ロシア語の通訳兼教師として臨時雇いの仕事で残るかと聞かれたが、俺は躊躇いなく首を振った。そして、最後に訓練施設の前で呆然と佇みながら、こう言い残したのだ。


「ダスビダーニャ。ダスビダーニャ、コスモノーツ。さようなら、我が青春の全てをかけた宇宙飛行士の夢よ」


 そして、逃げるように東京の隅っこで飲食店のバイトを始めたが、料理修行を投げ出して半端な真似をした俺は、やっぱりどこへ行っても半端者だった。


 特に目的を失い、気持ちが切れてしまっていたのがよくないのだろう。いつしか、その生活にさえ完璧に情熱を失い実家に戻った俺を、親父である神田川晴源は黙って迎えてくれた。


 親っていうのはありがたいもんだ。思わず涙が出たが、親父の修行は厳しかった。歯を食いしばって頑張って親父の施す修行についていき、絶対にこのラーメン屋を継いでやるんだって思った矢先に、親父の奴は逝っちまった。


 前から心臓があまり良くなくて血圧も高かったんだ。ある日調理場で倒れて、そのままあっさりとあの世に逝っちまった。


 そこから独学で頑張ってみたのだが、俺の味では常連客を繋ぎとめるのは無理だった。最初は心配して贔屓にしてくれていた人達も、櫛の歯が抜けるように、一人また一人とだんだんといなくなっていった。


 お袋もめっきり老け込んじまって。そんな中、麻季菜だけが「きぼう」として、我が家に救いをもたらしてくれた。


 あいつは近所に住んでいたから、しょっちゅう遊びに来てくれていて、お袋からしたら本当の子供みたいなもんだった。親父がいなくなってからも、あいつのお蔭でお袋がどれだけ救われてきたか。


 だから俺も頑張った。頑張った……のだが、現実はあの厳しい宇宙飛行士選抜試験よりさえ遥かに厳しかったのだ。


 そして今、まるで時限信管を括り付けられたC4コンポジットの塊が時をチクタクと刻んでいくような、この厳しいお店の現状があるのだ。


 やがて夜になって、歯を食いしばって、かき集めてきた、たしない材料で修行していた俺に、お袋が優しく声をかけてくれた。


「雷太。もういいから。このままじゃ、お前もお嫁さんなんかも貰えない。お母さんは、お父さんの遺してくれた遺族年金や何やらでなんとかやれるから。もう、このお店は片付けて、お前は自分の人生をお行き。宇宙飛行士の夢はもう諦めてしまったのかい?」


 身内の優しさは、時に罵詈雑言よりさえ心を抉る。俺は、俺は、嗚咽を堪え切れなくなって、調理台に手をついたまま、泣いた。


 子供の頃のように、でも今は少し大人らしく、声を押し殺して男泣きに泣いた。そして、何かが落ちる音がそれにデュエットした。


 家から作って持ってきてくれただろう、おかずのタッパーを取り落とした麻季菜。俺は、もう何も何も。ただ声を出さずに、震えているだけだった。


 終わったのだ、すべてが。この親父が残してくれた店も、生まれた時からの大事な思い出も、あの家族の笑い声の数々も。


 今、本当に終わった。限界まで引っ張られ張り詰めていた何かが、突然に予告も無しに引き千切れるかのように。


 あいつもまた声もなく、両手で顔を押さえて泣きながらパタパタとスリッパの音だけを残して走っていった。


 俺は、ただ震えながら、ただただ体を支えているだけで精一杯だった。本当の妹のようなあいつを、一生懸命に無給で仕事を手伝ってくれていたあいつを、泣いているあの子を追いかけてやる事すらできなかった。男として兄として、なんと情けない事か。


 それからは蹲るように、毎日部屋の隅っこで膝を抱えた。これからどうしたらいいのかもわからない。だが、やがて立ち退きは容赦なく迫るだろう。


 歯を食いしばっても駄目なものは駄目だった。溢れる涙さえもう枯れ果てた。虚ろな瞳が見るものは絶望。かつて、俺が夢見た「きぼう」とは正反対のものだった。


 あれから麻季菜は家に来ない。俺があいつにどうしてやったらいいのか、自分がどうすればいいのかも、あいつにもわからないのだろう。


「ごめんよ、本当にごめんよ、麻季菜。俺は、お兄ちゃん失格だぜ」


 そういえば、俺にもお兄ちゃんっていう人がいたんだった。俺も麻季菜も、彼の事が大好きだったけれど、十九歳の時に親父と喧嘩して家を飛び出していっちまった。


 兄貴の泣きそうな顔で振り向いた、あの顔が今でも忘れられない。俺も麻季菜も、今では彼について話さないのが暗黙のルールになっていた。


 そして、ふと思い出したのだ。その不肖の兄から親父の死後に何故か手紙が届いていたのだ。


「ふざけるなよ、何を今さら。親父の葬式にも来なかったくせによ」


 俺はすべての恨み言を兄貴に向けていた。ぶつけていた。そうしないと心が張り裂けてしまいそうだったからだ。


 兄貴が悪かったわけじゃない事くらい知り尽くすくらいわかっていた。でもそうしないと心を収められなかったのだ。


 そして何故か今。この絶望の淵の中で、その手紙が俺の心を引き付けたのだった。俺はのろのろと立ち上がり、何故か捨てられずにラーメンに関する書物で埋め尽くされていた本棚の隅にねじ込んでいた、その手紙を今ようやく手にとった。


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