5.望んだ明日が来なくても
「陽生」
ここはどこだ?
見覚えのない場所だ。頭上で光っているあれは蛍光灯か。待てよ、ケイコウトウって何だっけ?
「陽生ってば」
肩を叩かれて、ハルキという人物が自分のことを指していたのだと気づく。知らない名だ。だけど、俺の名前に少し似ている。ハルベルトとハルキ、最初の二文字が同じだ。
「あの、人違いじゃないですか?」
そう返すと声をかけてきた少女が顔を歪める。
「ナニそれ、新手のギャグ? だったら全然面白くないよ?」
「別にそういうつもりじゃないんだけど」
「あっそ。まぁ、いいけどね。あんた前の問題当たっとるよ。とっとと前に出て書いてきな」
前?
改めて前を見ると男が笑って立っていた。俺の周りには同じ恰好をした子どもばかりが席に座っている。
「おーい、桜葉、あと答えていないのはお前だけだぞ。それとも宿題やってないのか?」
周りの子ども達が笑っている。
何だこれ。気持ち悪い。俺のいる場所はここじゃない気がする。そう思っていたら目の前の風景が揺れて、崩れて始めた。
新しく現れたのは二つの門。片方には見慣れた世界とリアの姿が映っている。もう片方にはさっきまでの風景と知らない中年の男女の姿。全く知らない人達のはずなのに何故か懐かしい気がした。どことなく自分に似ているからか。
俺はリアのいる門の方に歩いて行き、その門をくぐった。何故か胸が痛んだ。
「ハル、ハル、ハル!」
頭上からリアの声がする。どうやら俺は寝ていたらしい。
霞んでいた視界がはっきりしてくると目の前にはリアのもはや芸術と呼んで差し支えない程綺麗な顔があった。
ということはだ。先ほどから俺の後頭部が感じているこの柔らかい感触はもしかして、いや、もしかしなくてもリアの膝なのではないか。
「あのー、リアさん。これはひょっとして世間で噂の膝枕というやつでしょうか?」
「え? そ、そうですね。いつ世間で噂になったのかは知りませんけど」
指摘されたリアは俺から目線を逸らした。頬に少し赤みがさしている。
「そうか、俺は死んだのか」
「えぇっ!? 死んでませんよ!」
「バカな、ここは天国じゃなかったのか」
「恥ずかしいこと言わないでください!」
そこまで言ったとき、首筋に冷たいものが垂れて、俺は自分が泣いていることに気がついた。
「あれ? 俺なんで泣いているんだ。そんなにリアの膝枕が嬉しかったのかな」
「泣くほどですかっ!? 流石に引きますよっ!」
そんなに元気なら大丈夫ですね。とリアは起き上がり、残念ながら俺は膝の上から落とされてしまった。
仕方なく立ち上がって周りを見渡す。バカ話をしたら少し気が楽になった。今は現状をどう打破するかを考えるべきだ。どうやら部屋の中のようだが、見覚えがない。俺が意識を失う前にリアが転移水晶を使っていたからリアは知っている場所なのだろうが。
「リア、ここはどこだ?」
「まったく、急に真面目にならないでくださいよ。着くなり気を失うし、泣きながら眠ってるしで、本当に心配したんですから」
「悪かったよ。それでここは?」
「メソウ街だよ。悪いわるーい魔法使い達の街さ」
質問に答えたのはリアではなく、金髪を肩のところでバッサリと切った少年だった。自分で切ったのか髪の長さはバラバラである。彼は俺の背後の壁にもたれかかっていた。一体いつからいたのだろう。
「誰だ、お前?」
「今頃警戒しても遅いよ。警戒するのならもっと早くに僕の存在に気付くべきだった」
そう言って挑戦的な視線を向けてくる少年に、リアが頭を下げた。
「フェイ、ありがとうございます」
「なに、構わないさ。僕もそろそろ今の代の聖女にはうんざりしていたところだからね。それに君が一度は袂を違えた僕らに助けを求めてきたんだ。君にそこまでさせたそこの彼には僕も興味がある」
状況が分からない。この二人は何を言っているんだ。
混乱しているところに、フェイと呼ばれた少年が歩いてきた。彼の金の瞳が俺の瞳を捕らえる。何故か底知れない恐怖を感じた。
たぶんだけど、こいつは聖女と同じタイプの人間だ。
「何だ、ただの異世界人か。リヴィア・クロウラ―、君ともあろう人がつまらない男を掴まされたものだね。僕には君の選択が分からないな」
「きっとフェイには一生分かりませんよ。あなたには人の心がなさすぎる」
そう言うリアの表情はどこか暗い。
「まぁ、いいさ。僕は次期聖女だ。人の心なんか必要ないさ」
「おい、待て。お前、今何て言った?」
さっきのフェイの言葉には聞き流せないところがあった。
「ふふん、驚いたかい? 僕はフェイ・アルスターク、次期聖女候補筆頭さ」
「お前、女だったのか?」
素直な驚きを口にすると、フェイの額に青筋が浮かんだ。
「リヴィア。こいつ、今ここで殺してしまってもいいかい?」
現状を整理しよう。
俺とリアは聖女に狙われているわけだが、今目の前にいるフェイは自らが早く聖女になるために今代の聖女を殺したい。そのために俺達に協力してくれるらしい。転移水晶をリアに渡したのもこのフェイという人物だ。
何故リアとフェイが知り合いなのかは分からない。リアが話したがらないから、今は聞くつもりもない。
それよりも重要なのは、戦力差だ。フェイは戦力としては数えないで欲しいらしい。そうなるとこちら側の戦力はリアと俺だけだ。フェイの話だと今代の聖女はかなり強いらしい。
何より向こうにはリュウトがいる。あいつの強さは他でもない俺が良く分かっている。対して俺はもう擬似化ができない。すっかりこの世界の人間として定着してしまったらしい。ただ、定着した状態が擬似化ヴァンパイアの状態だったので多少は戦力にもなるだろう。だけど、それでも決してリュウトには勝てないだろう。
「どうするかな」
「そんなの簡単じゃないか。リュウト君とかいう人をこちらに引き込めばいいのさ」
フェイは馬鹿にしたように簡単に言う。
俺だってそれは考えた。リアが承認すればリュウトはこちら側についてくれるのではないかということぐらい。だけど、そのためにはリュウトに異世界人としての全てを捨てて貰わないといけない。あいつがそんなことをしてくれるだろうか。俺達のことを存在を預けられるほど信じてくれるだろうか。
「バカだなぁ、リアだけが承認するんじゃなくて、僕も承認すればいいじゃないか。そうすれば今の聖女の否定ぐらい耐えられるさ」
確かにそれはそうだ。だけど、どちらにしてもリュウトはフェイとリアに存在を預けることになる。フェイはまるで大したことのないように言うが、他人に自分の存在を預けるというのは怖いのだ。だってそうだろう? 人は自分の存在が周囲から浮いているだけで恐怖感を感じるんだ。他人の気まぐれで消されるかもしれないなんてとんでもない。
俺はもうこの世界の人間でもあるが、純粋なこの世界の人間と違って、今でもリアの承認がいる。だからその怖さは多少なりとも分かるつもりだ。
「説得は誰がするんだ?」
「決まっているだろう? 君がするんだよ」
予想はできていたことだ。むしろ、俺しかいないと思っていた。
だけど自信はない。リュウトという異世界人を、俺なんかより遥かに修羅場をくぐってきたであろうあの男を、果たして俺は説得できるのだろうか?
答えは否である。
そんな無謀な賭けには出れない。それなら、リアと二人でひっそりと生活する方がずっといい。
「ハル……」
俺に何か声をかけようとしたリアをフェイが腕で止める。
「もしそれが出来なければ、これから長い間君とリアは逃げ回りながら生き続けることになる。それでいいのか?」
「でも……」
「でもじゃないだろう。私達の世界に来る異世界人は君のような奴らばかりだ。嫌なことからはすぐ逃げるし、ちょっと躓くとすぐに出来ないと泣き言をこぼす。どうせそうやって元の世界からも逃げてきたんだろう? 卑怯者」
俺には元の世界の記憶がもう存在しない。だから本当のことなど分からない。もしかしたらフェイの言う通りだったのかもしれない。
だけど、何でさっき会ったばっかりの奴にこんなこと言われないといけないんだ。
俺のことなんか何にも知らないくせに。
「フェイ、あんまりハルに無理を言わないでください」
「無理? 今無理って言ったかい、リヴィア? だとすると君も彼を信じていないんだ」
「なっ、別にそういうわけじゃ……」
リアが困った顔をしている。彼女にそんな顔をさせる自分が情けない。
この娘は今までもこんな顔ばかりして生きてきたんだろうか。ずっと迫害されて生きてきたのだ。そしてこれからも。だけど、もし今代の聖女を消してしまえば、このフェイとかいういけ好かない女が聖女になったなら、少しはリアの待遇もよくなるのだろうか。
だとしたら、俺にはそれを行う義務があるのかもしれない。
「分かった。やろう。今代の聖女を排除してやる」