9.絞首台でブランコを
目の前で男と女が寄り添って座っている。二人がもたれかかっているのは、大きな一本の木だ。二人の下には地面があるけど、俺の下には何もない。真っ白だ。二人の周りには風景があるけど、俺の周りには白い空間が広がっているだけだ。
俺にはもう背景はない。自分に関する記憶もなければ、この歳になるまで関わってきた人もここにはいない。俺は空っぽという名前の人間だ。いや、もう人間でもないのかもしれない。完全なこの世界の人間でなければ、もう向こうの世界の人間でもない。この世界と向こうの世界の真ん中で宙ぶらりんになっている。辛うじて一本の紐でこの世界と繋がっているだけだ。その紐は俺の首に繋がっている。俺の首を括っているのだ。
ぶら下がったまま、目の前の男女の幸せそうな様子を眺めている。その様子を見ていると何だか落ち着いてくる。これで良かったのだ、そう思えてくる。
俺なんて苦しめばいい。苦しむだけ苦しんで消えてしまえばいい。
二人の内の男の方と目が合った。俺と目が合うと男は目を細め首を横に振った。
次に女の方と目が合った。俺と目が合うと女は微笑を浮かべて同じように首を横に振った。
あぁ、これは夢だ。ご都合主義で溢れかえった、俺にとって都合がいいだけの夢。
俺は許されてはいけない。あの二人を殺したのは俺だ。二人が俺を許すわけがない。そんな妄想が許されてはいけない。
起きろ。
誰かが俺の服の袖を引いた。それが誰かは見なくても分かる。
「ハル。ねぇ、もう帰りましょう」
起きろ。
これ以上自分に優しくしてはいけない。
ふと新しい聖女の顔が頭に浮かんだ。あぁ、そうだ。人を目覚めへと導くのは別に優しさや愛だけじゃない。憎しみだって十分過ぎる要因だ。
目覚めろ。
「ハル? 起きたんですか?」
どうやらリアは俺に肩を貸したまま歩いているらしい。周りの風景は前に見たことがある。ここはメソウ街だ。
「あぁ。悪い、心配かけたな」
リアから離れて自分で歩こうとすると、ふらついて倒れそうになる。
「あっ!? ダメですよ。血を大分流しているんですから、無理に一人で歩こうとしないでください。今のハルは昔みたいに瞬時に怪我が回復するようなことはないんですから」
「そう、か。なぁ、リア。俺達は今どうなっているんだ?」
「ハルが気を失った後、私がフェイに事前に渡されていた転移水晶であの場を離脱しました。でも、フェイのことです。きっと自分用の転移水晶も持っていると思ったので、今こうしてハルを担いで出来るだけ遠くへ逃げているところです」
答えるリアもかなり辛そうだ。
「リア、俺はどのぐらい意識を失っていた?」
「ほんの五分ほどです」
「そうか。ならここらあたりで休憩にしよう」
「え? ダメですよ! 何を聞いていたんですか、フェイに追いつかれます」
「この速度なら、聖女が追いつく気ならとっくに追いつかれている。だから、向こうには追いつく気がないってことだ」
リアに降ろしてもらって、壁にもたれかかる。隣にリアももたれかかった。
さて、考えなくてはいけないだろう。聖女を排除する方法を。
“聖女”が聖女という役職に引き継がれる呪いである場合、聖女という役職をなくしてしまわないと聖女を倒すことはできない。その場合の解決方法は聖女の候補者を一族郎党皆殺しにするしかない。それは最悪のパターンだ。
だけど、俺はそうではないと思う。あれはきっと呪いなんかではない。だってあいつは言ったのだ「ゲームオーバー」と。俺にはその言語の意味が分からない。向こうの世界の知識を失い、こちらの世界の人間になった俺には分からない言葉。たぶんあれは向こうの世界の言葉だ。
「ゲームオーバーか」
「うん? それ、ハルのもとの世界の言葉ですよね」
「あぁ、そして聖女の言葉でもある」
とは言っても、聖女は人の記憶を覗く能力も持っているようだったし、リュウトと長いこと一緒にいたようだった。それで偶然知っただけかもしれない。だから、“聖女”が異世界人だという可能性は俺の妄想の域を出ないのかもしれない。
そうだ、やつの過剰な異世界人嫌いはどうやって説明する?
異世界人に何か酷い恨みでもあるのか。聖女という立場にあるにも関わらずか。例えば勇者が異世界人で恋仲に落ちたがこっぴどく振られたとかか。
ならば、「存在が曖昧なんて気持ち悪いわ。いるかいないか分からないのなら別にいなくてもいいじゃない」という言葉は何だ。あの言葉にはやけに感情が籠っていた。
私達の世界にくる異世界人は君のような奴らばかりだ。嫌なことからはすぐ逃げるし、ちょっと躓くとすぐに出来ないと泣き言をこぼす。どうせそうやって元の世界からも逃げてきたんだろう? というのは今やつになっているフェイの言葉だ。俺は何だかそれが“聖女”にも当てはまるような気がする。
自己嫌悪みたいなものじゃないだろうか。昔自分が言われてきた言葉とか。元の世界の奴に恨みがある。自分が迫害されてきたから今度は他人を迫害する。よくあることだ。愛を知らずに育つと人は歪むことがある。愛情不足は一種の病気だ。
仮に“聖女”が異世界人だとすると、あの他人に乗り移るような能力は何なのか。リュウトが言っていた“かみさまから貰ったちーと”ってやつだろうか。もしそうなら他人の記憶を読む能力は何なのか。
待てよ、そういえば俺は異世界への“召喚者”だって話だった。だけど、リュウトが殺した異世界人の中には自分のことを“転生者”だって言ってなかったか。
「なぁ、リア。この世界の異世界人は二種類いるのか?」
「えーっと、それは良い人と悪い人とかそういった意味ですか?」
不思議そうにリアがそう聞き返してくる。
「いや、例えば召喚者と転生者とか」
「あー、そういえばそんなこと言っている人もいたかもしれません」
だとしたら転生者の方は召喚者と違って一つ問題が生じるんじゃないか。そいつに転生される前の人格はどこへ行ってしまうのか。ひょっとして転生って憑依みたいなものじゃないのか。
異世界人はこの世界では曖昧だ。だから俺は何にでもなれるけど何にもなれない存在だと思っていた。リュウトはそれが俺が特別だと言っていたけど、別に特別なのが俺一人だとは限らない。
あいつは、“聖女”は誰にでもなれるけど誰にもなれない転生者ってところなんじゃないか。もしくは、かみさまからもらったちーとの内容が他者に憑依する類のものなのかもしれない。
「リア」
呼びかけてリアの正面を向こうと振り向いて立ち上がると、バランスを崩して彼女の顔の両横の壁に手をついてしまった。
「ふぇっ!? いっ、いきなり、こんなところでですか!?」
リアはびっくりしたのか何やらあたふたした後に目を瞑った。
「聖女の倒し方が分かったかもしれない!」
“聖女”が異世界人だというのなら、奴には一つ大きな弱点があることになる。異世界人にはだれにでもついてくる弱点である存在の否定だ。
ようやく俺達にも勝機が見えてきた。もしかしたら勝てるかもしれない。
この後、何故かリアには「バカ」と罵られた。