腹田
その男の名は、腹田である。彼の少し珍しい苗字は、人々を困惑させていた。腹田の読み方は、「ハラダ」なのか、それとも「フクダ」なのか。この苗字の本当の読み方は、彼と5年付き合っている彼女ですら知らないことであった。彼本人にどっちの読み方が正しいのかを尋ねたとしても、彼は「俺はロマンチストだ。これ以上は教えられない。」としか答えなかった。彼がロマンチストであることは自他ともに認めることである。まあ自他ともにと言っても、実際彼の周囲の人々は、彼の何がロマンチストなのかと認めてはいなかった。しかし、読み方が分からないため、人々は彼を「お前」か、あるいは「ロマンチスト」と呼ばざるを無かった。
腹田はこの日バッティングセンターへ向かった。明日の試合のために練習をするためだ。しかし、腹田は練習が大嫌いだ。種が入っているみかんと同じくらい嫌いであった。ではなぜその日に限って練習をしようとしていたのかと言うと、明日の試合でヒットが一本も打てなければ、罰が下されるのである。その罰とは、「一か月間シャンプーとめんつゆを3:1で割ったもので髪を洗わなくてはいけない」という常人には理解しがたいものであった。彼のチームのチームメイトの中ではこういう罰を設定して試合に挑むことが流行っていた。明日は何が何でもヒットを打たないといけないため、休日返上でバッティングセンターへやって来た。しかし不運なことに、バッティングセンターは本日定休日であった。この店は毎週月曜日、火曜日、水曜日と、木曜日と、土曜日、日曜日、そして隔週で金曜日を定休日としていた。この日は月曜日であった。
腹田は自暴自棄となり、まだ午前10時あったが酒を飲みに、朝から営業している行きつけの飲み屋へ出向いた。しかしあいにく、本日定休日であった。この店は毎月第3週月曜日以外定休日であり、この日は第2週月曜日であった。
腹田は人生に疲れ切ってしまい、自殺をすることを決意した。方法は飛び降りである。街一番の高さを誇る高層ビルへと向かった。しかし残念ながら、その日は高層ビルが工事中のため出入り禁止であったため、入れなかった。
腹田はすぐさま蕎麦屋へ向かった。腹田は蕎麦アレルギーのため、蕎麦は食べられない。しかしそれを逆手に取り、蕎麦を食べて自殺する方法にシフトチェンジしていたのであった。その蕎麦屋は定休日ではなかった。どうせなら、と巷で美味しいと評判の老舗の蕎麦屋へ入った。
腹田はざる蕎麦を注文した。出された瞬間にすぐさま口へとかき込んだ。勿論、最初はつゆにつけずに食べるという蕎麦屋のマナーは守った。「どんな状況でも、ルールやマナーを破らないことがこの子のたった一つの良い所なのです。」と彼の母親は話す。次に、つゆにつけて蕎麦をすすった。するとどうだろう、蕎麦アレルギーのはずの彼、何故か何の異変もなく美味しく蕎麦を完食してしまった。その後も特に体に異変は出なかった。蕎麦アレルギーというのは、どうやらデマであったようだ。
その日を境に、彼は蕎麦が大好きになってしまった。あれだけ大好きだった野球も辞めて、すっかり自分で蕎麦を研究し作ることに時間を使うようになった。ヒットを打たず、蕎麦を打つようになったのだ。つゆも研究するようになり、その一環として、シャンプーとめんつゆを3:1で割り、それで一か月間頭を洗った。
ちなみに、彼のロマンチストな部分をようやく発見することができた。それは彼のあの人々を悩ます少し変わった苗字にある。彼の苗字の本当の読み方は、「ハラダ」でも「フクダ」でもなく、また「ハラタ」でも「フクタ」でもなかった。腹田の本当の読み方は、「バラダ」であった。苗字に「薔薇」が入っているからロマンチスト。ただそれだけのことである。非常にしょうもない。イライラしてきた。本当に背が立つ程しょうもない。あっ、立つのは〝背〟ではなくて、〝腹〟だ。