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ナカノさんはゴリラ

作者: 土月 十日

 暑い。

 クーラーは、もうすぐに出かけることになるのでもったいなくて使えない。


 もわあ、と不快でしかない空気が滞留している。

 扇風機でも買った方がいいのだろうけど、クーラーを使うと必要がないから踏ん切りがつかない。


 そもそも、時間指定を遅れてくる宅配便が悪いのだ。

 と、思うとインターホンが鳴った。時計を見れば指定時間ギリギリ。姑息な業者だ。文句も言わせてくれない。


 玄関を出て、受け取りのサインをする。

 大量の段ボールを運んできた宅配業者はどうやら新人のようで、恨めしそうな目で僕を睨む。


 これから毎週のことになるのだから、すぐに慣れるだろう。


 アパートの廊下にいつまでも段ボールを置いていては邪魔になる。

 しかし、その荷物をしまうのは僕の部屋ではない。


 その隣。

 ナカノさんの部屋だ。


 ナカノさんは荷物を受け取ることができないので、僕が代わりにやっている。

 それなりの給料が出るので、お互いにお得な関係だろう。


 合鍵を使ってナカノさんの部屋の扉を開く。


「あ、いつもありがとうございます」


 廊下の先、ワンルームに置かれた座卓でお茶を飲んでいたナカノさんが、こちらに気付いた。

 丁寧な態度に僕も、いえいえ、なんて言いながら段ボールを部屋の中にしまっていく。


「すみませんね、こんな恰好じゃ出られなくて」


 ナカノさんが照れたように言った。

 背こそ僕と同じくらいだが、体がとにかく太い。太い体に、黒い体毛がびっしり生えている。


「まあ、ゴリラが出てきたら通報されますからね」


 僕の言葉に、隣人のナカノさんはゴリラの顔を楽しそうに歪ませた。



  * *



「あー、涼しいぃ」


 ナカノさんの部屋はクーラーが効いている。

 最新型の静音設計品だ。


 テレビをつけて、座椅子にもたれる僕はすっかりくつろいでいる。

 いつの間にか置いてある麦茶が美味い。


 ナカノさんは黒いお尻を僕に向けて段ボールの中身を探っている。

 大量の果物に野菜。どれも水分が豊富なためにとても重かった。


「ちょっと小腹が空いてたんですよねえ」


 ナカノさんはセロリを数本取り出してむしゃむしゃ食べていく。

 味付けが無くても平気なのは流石ゴリラだ。


 それからリンゴをいくつか持ってきて座卓に置くと、僕の体面に座った。

 関節が柔軟ではないからか、おっさんくさい動きだ。


「ハジメくんもリンゴ食べます?」

「いらないです」

「そうですか」


 ナカノさんはリンゴをまるごと咀嚼する。僕がやれば口が血だらけになるだろう。


 テレビでは夏休みの特集が組まれていた。

 大学受験のために合宿を行っている高校生達の特集だ。


 睡眠時間を5時間、残りがほとんど勉強という円グラフを見てナカノさんが感心した。


「偉いですねえ、そんなに勉強して」

「よくやりますねえ」

「ハジメくんは、大学行ってるんでしたっけ」

「一応。中退しましたけどね」


 テレビの中では講師が一生懸命に生徒達に語り掛けている。

 時間の大事さがどうだとか、心持ちがどうだとかいう前にさっさと勉強を教えてやれよ。


「もったいないですねえ」


 ナカノさんはリンゴを食べながら、テレビを見ながら、呑気に言った。

 人間臭い行動に、よくゴリラだということを忘れそうになる。


「面白くなかったんですよね」


 僕の言葉に、ナカノさんは「ほう」と相槌。


「哲学部に行ったんです。昔から、そういうのが好きだったので。

 けど、大学でやるのは古典にしろ現代にしろ、すでにある哲学の理屈を教えられるだけ。

 すでにあるものを考えても仕方ないじゃないですか。僕は新しいものを考えたいのに」


 例えば、世界5分前説というものがある。

 世界は実は5分前に作られていたというものだ。あらゆる記憶や記録も同時に作られているので、誰も気づかない。


 これは誰も否定できない説だ。世界は何億年前からあった、という証拠を持ち出しても、「その証拠も5分前にできたのだ」と言えるから。


 これは斬新な考えだけれど、すでに誰かが思い付いた以上無価値だ。

 哲学者というのは、常に新しい何かを考えなければいけないのではないのか。


 そういう閉塞感にかられて僕は大学をやめた。

 バイトで生活をして、何の縁か、こうしてナカノさんの隣人になっている。


「私はそうは思いませんねえ」


 ナカノさんがしみじみと言った。


「どうしてです?」

「私、実は数学が好きなんですけどね」


 ナカノさんが見ている先、テレビの画面では数学講師が一生懸命積分について教えていた。


「例えば、解の公式があるじゃないですか」

「ああ。なんでしたっけ。あの、AとかBとかの」

「Ax^2+Bx+C=0の時、x=-B±√(B^2-4AC)/2Aという公式です」

「なんでゴリラがそんなことを知ってるんですか」


 ナカノさんは照れ臭そうに頭をかいた。


「ネットで中高生の意見を見ていると、まるで呪文のように聞こえるらしいですけどね。

 丸暗記しなければいけないというのも苦痛なようですし」

「そういえば大変だったような気がするなあ」

「でもこれ、解の公式を知らなくても、分配法則さえ知っていれば導けるんですよ」


 紙とペンを取り出して、ゴリラのナカノさんは器用に式を連ねていく。


 多少複雑ではあったかが、確かに基礎的な知識で解の公式を導いていた。

 中学生でもできるものだろう。


「さてハジメくん、このことから言えることはふたつあります」

「その心は」

「解の公式を使わずに解こうとすると、この面倒な手順を毎回辿らなければいけないということ。

 また、このように、知っている知識から新しい公式を作ることができる、ということです」

「確かに」


 ナカノさんはテレビの講師のように溌剌とした喋り方だった。


「一般化すると、知識とは道具です。解の公式のように、何かをする際に楽をできます。

 知識をたくさん蓄えている人は、人生を楽に生きることができるでしょうね。

 反対に、公式を導き出すような力を、思考と言います。これは知識ほど便利ではありませんが、知識の役に立たない分野、あるいは持っていない分野でもどこでも効果を発揮することができます。

 これはね、どちらも大事なことですよ」


 知識と思考についての話のようだ。

 ナカノさんはそういう観念的な話をしたがる。


「古来では、賢いということは知識を多く持っているということでした。

 だから老人が尊ばれる。古い者ほど、多くのことを経験から学んでいますからね。

 これを年の功と言います」

「古来では?」

「現代では事情が変わっていますね。

 まず単純に知識を簡単に手に入れることができます。年の功よりインターネット。

 身近な老人に尋ねずとも、詳しい人にメールした方が早いですからね」


 そういうナカノさんの部屋には立派なパソコンがある。

 株取引でずいぶんと儲けているらしい。


「次に、社会の発展速度が速すぎることですね。

 20年前の最先端知識が、今ではもう時代遅れになるほどの速さです。

 これは考えるべき問題に困るようになるまでは加速し続けるでしょう」


「考えるべき問題って?」

「例えば、数学の懸賞金付きの問題が全て解かれてしまったら? 一通信速度が光の速さに達してしまったら。あらゆる計算が一瞬で済むようになってしまったら。あらゆる問題が解決してしまったら。

 現代はまだ幸せな時代ですよ。考えるべき問題が山ほどある。それは進歩する余地があるということです。

 もし全ての問題が解決してしまったら、これはもうSFの世界ですけどね。人はおそらく緩やかな絶滅を選ぶでしょう」

「どうしてです。何も絶滅しなくても」

「クリアしてしまったゲームを、あなたは続けますか。アイテムもイベントもコンプリートして、低レベルクリアも最速クリアもやりつくして、そんなゲームはいずれ飽きてやめるんじゃないですか。

 もちろん、ただの想像ですけどね。SFの話です」


 どうにかして新しい遊び方を探すのではないか、と思ったけれど黙っていた。

 すでに仮定の上に仮定を浮かべた話だし、本題とずれている。


「とにかく、現代では知識を多く持つということは、昔ほど役に立ちません。

 情報化社会そのものが、古来の老人の役割をしてくれているわけです。

 そこでもう一つの方、思考が大事になるわけです」

「それはなんとなく分かります。IQとかでしょう?」

「近くも惜しいですね。ひとつ例え話をしましょう」


 ナカノさんは芋虫のような太い指を立てた。


「迷路を想像してください。入口がひとつ、出口がひとつ。

 その迷路の抜け道を導くことが、現実の問題です。

 ここで知識とは答えそのものです。簡単な迷路なら、抜け道そのものが知識。

 大きな迷路でも、部分的な正解が知識です。

 では、思考とは?」

「そうだなあ、実際に迷路を歩いて、抜け道を探す作業?」

「その通りです。正解を導くまで、色々な分かれ道を虱潰す。そういった作業が思考です。

 ハジメくんの言っていたIQ、知能指数とは、その人の足の筋肉やバネのことです」

「足の速さではないんだ」

「足の速さは身体能力の他にもうひとつ、走り方という要素があります。

 正しいフォーム、息遣い、走るペース。そういったものも大事です。

 これは、考え方、思考法などを置き換えたものです。

 例えば対偶証明を覚えていますか? 義務教育らしいですけども」

「ああ、うん、覚えてますよ」


『AならばC』、という命題を証明したい時にその対偶、『Cでないなら、Aでない』、ということを証明すればいい。という論理だ。

『CならばA』や『AでないならCでない』を証明しても、AであるがCでない可能性が生じる。

 対偶である『Cでないなら、Aでない』だけが元の命題と同じものであるわけだ。


 初めて聞いたときは、よくこんなことを思い付いたな、と感心したものだ。


「あれも思考のフォームの一つです。背理法や帰納法もですね。

 これらは分類するなら知識ですが、他の知識とは少し性質が違う。

 答えを導く地図ではなくて、思考を補助する形ですからね」

「言ってることは分かりますけど、何だか話がズレてきていません?」

「ここまでが前置きですよ」


 ナカノさんが微笑む。

 ゴリラの微笑みは、失礼ながら煽ってきているようにしか見えなくて少しイラッと来た。


「そうした思考のフォームというのは、言語化がとても難しい。

 何とか法、と名前のつくようなものは簡単ですけどね。実際には、もっと複雑に、もっとアバウトに人間は考えています。

 哲学の勉強というのは、そのフォームを真似るためにあるのだと思いますよ」

「ええっと、考え方を、真似しろってことですか」

「こうして何百年も伝えられる哲学を起こした先人達です。当然、人類の歴史でもトップクラスに頭がいいのでしょう。

 彼らの主張する内容ももちろん大事ですが、中身自体ならきっと現代の方が優れています。何故なら学門というのは積み重ねていく分野だからです。昨日より今日、今日よりは明日の方が優れている、いなければいけない分野です。

 それよりは、彼らがどのように考えたか。当時の常識や知識を使って、どのようにその考えを導いたのか。その方法にこそ、古典哲学の価値があるのではないでしょうか。

 いえ、哲学だけではないですね。これは全ての学門について言えることだと思います」


 何故、ゴリラにそこまで言われなければならないのだろうか。


「そうは言っても、今更かな」

「どうしてです?」


 ゴリラは、ナカノさんは首を傾げた。

 猿人類の共通の仕草なのか、人間の仕草を真似たのかは気になるところだ。


「もう僕は大学をやめて、頭を使わないフリーター生活です。学門なんて今更ですよ」

「そんなことはありません」


 ナカノさんは雄々しい声で言った。

 なんと頼もしい声と姿だろう。


「知識も、思考も、学ぼうと思えば何からでも学べます。

 自然から、あるいは人から、何からでもです。

 大事なのは学ぼうとする意志。それはつまり、人間であろうとする想いです」


 ナカノさんの台詞を、言葉を頭の中で咀嚼する。

 とても綺麗な綺麗事で、しかし反論はできなかった。


「ナカノさんは、自然と人のどちらなんです?」

「ゴリラですよ」


 二人で笑った。


「あ、そろそろバイト行かないと」

「ええ、頑張ってきてください」


 隣人以外ありふれた僕だけど、なるほど、今日は少しいい言葉をもらった。

 大事なのは学ぼうとする意志。


 それはつまり、一生懸命今日を生きることなのだと思った。


「暑い」


 ドアを開ければ真夏の夕方。

 しかし、その暑さは不思議と不快ではなかった。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 「ナカノさんは、自然と人のどちらなんです?」 「ゴリラですよ」  二人で笑った。 この部分がとても好きです。 私もゴリラの隣人が欲しい。 あぁ、いけない、すっかりハマってしまった。 お…
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