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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第五章:常しえに安らかなれ
66/67

66.

 かつて、天下の大罪人と呼ばれた青年が居た。

 かつて、最年少で聖獣を蘇らせる旅に出た少女が居た。

 出会いはいつだって変化を呼び寄せる。

 大陸の民が辿りうる軌道が、変わった。これからの数百年の未来に渡り、人々がこの変化を活かせるかは、まだ誰にも視えない――


_______


 そんな二人が伝説の聖獣に連れられてヒューラカナンテ高原に生還してから、半年余り巡って、季節は夏になっていた。大陸の南半分が通常よりも涼しい気候を楽しめている一方、北半分は例年に無い熱波に襲われている。

(暑い……)

 聖人の正装、幾重にも重なる白装束が恨めしい。カイルサィート・デューセは、誰も見ていない隙に掌でパタパタと首元を煽いだ。

 此処はウフレ=ザンダの首都の一角にある裁判所だ。要人たち――シャスヴォル国、対犯罪組織ジュリノイ、そしてヴィールヴ=ハイス教団それぞれからの代表者――が会議室に篭ってから一週間が経った。

 結論が出るまでに、相当な時間がかかっている。これは判断材料が揃うまでの期間を含めての計算だ。冤罪の疑いがあるところを徹底的に調べ直し、晴らせる罪は片っ端から晴らすべきだと、ジュリノイと教団が取り決めたからである。

 そう思うと、半年はかなり急いだ方だと言えよう。

(目まぐるしい半年だったな)

 あれから尊き聖獣がどうなったのかと言うと――余力を残して、一月ほど教団を拠点として活動したのだった。ランダムに飛び回るより、『汝らの示す優先度の高い場所を祓う』と、教団に意見を求めてきたのである。

 何故そのような判断をされたのかと教皇猊下が訊ねると、単に現在の大陸を導く宗教団体にはそれをこなせるほどの組織力があるから、活用するだけだと、聖獣は答えた。その期待に応えるべく、教団は動かせる人材を残らず駆使して情報を集めた。おかげで忌み地はほとんど浄化され、多くの病院に奇跡を振りまくことができた。

 既に聖獣は聖泉の域に戻られている。おそらくはもう、ミスリアが探し当てた泉とは別の場所に眠りについているのだろう。次はいつ、人の世に舞い降りてくださるのだろうか――。

 不思議と、聖獣に最も近かったはずの二人の反応は薄かった。むしろゲズゥの方は、聖獣の話題を出してやると、あからさまに渋い顔をする。何があったのかは詳細まで聞き出せていないけれど、よほど面倒な目に遭ったようだ。

 その時、奥の仰々しい扉が軋んだ。

 一堂に会していた数十人が、緊張した面持ちで顔を見合わせる。が、断罪を待つ当の罪人はこれといって何も感じていないようで、さっきから何度も繰り出している欠伸を更にもうひとつ吐き出すだけである。

 かくいうカイルサィートとて心の準備はできていたつもりだが、胃の奥から拭い去れない不安感が昇ってくる。

「判決を言い渡す。これまで犯した罪から、聖獣復活に向けての働きを差し引いて――」

 シャスヴォル国の使いが声を張り上げた。彼の後ろでは、覆面の人物と正装をした教皇猊下も控えている。

「罪人ゲズゥ・スディル、『遮断独房』にて十五年の懲役を処する」

 法廷にどよめきが走った。

 確か「遮断独房」とは、この国ウフレ=ザンダとディーナジャーヤ帝国でしか使用されていない稀な刑法である。

 その独房は、それなりに歩き回れる程度に広く、厠も備えている。

 問題は名にある通りの「遮断」。音も光も届かない地下の独房にて、食事を与えられる頻度は一日に一度だけ。看守以外の人間と関わることは許されない。

「十五年だなどと、ご冗談を……」

 誰かが皮肉を込めて囁いた。

 外部からの刺激を得られないと、人間は容易く発狂するという。長年の独房生活で衰弱死するよりも早く、孤独に耐え切れなくて自害する囚人の方が圧倒的に多い。

(元々は焼身刑を科せられていたのを思えば、マシかもしれないけど)

 十五年間暗闇の中で我慢すれば、出所した暁には晴れて普通の生活を送れる。しかしそうなると我慢を強いられるのは本人だけではない。

「待ってください」

 また新たなどよめきが上がる。こんな時に誰が異を唱えたのかなど、確認するまでもなかった。

「何でしょうか、聖女ミスリア。発言を許します」

 穏やかに答えたのは教皇猊下だ。

 客席から、白ずくめの少女が立ち上がる。部屋中の注目を一身に集めたまま、通路の階段を下りて行った。法廷の中心、つまりは罪人のすぐ隣まで歩くと、丁寧に一礼した。

「ありがとうございます。猊下、頂点ケデクさま、並びにシャスヴォル国の大使さま。この者の刑について、私から提案がございます」

「申せ」

 と、覆面の人物が取り合った。

 まだスカートの両端を持ち上げて顔を下げていた体勢から、ミスリアはスッと両手を握り合わせて背筋を伸ばした。隣のゲズゥが、無表情で彼女を見下ろしている。

「ゲズゥ・スディルの刑罰を、私にも負担させてください」

 その日一番のどよめきが沸き起こった。皆が一斉に意見を唱え、私語があちこちで発生している。

 カイルサィートは特に驚いていなかった。友人の決断は、前もって相談を受けたので聞いている。それよりも当事者であるはずなのに何も聞かされていない青年の様子が気になった。そのゲズゥはと言えば、一度目を瞠ってから、物言いたげに目を細めている。

「そんなこと……貴女の一存で決められない! ましてや世界を救った大聖女さまを牢に入れるなど前代未聞だ!」

「私が世界を救ったと言うのなら、彼も同じです」

「聖女と罪人で比べるな! 自分が何を言っているのかわかって――」

「お待ちなさい」

 怒鳴る大使を、猊下がそっと肩に手を置いて制した。反対側の肩にも、覆面の人物の手が置かれた。

「罪人の刑罰を親類などが共に受けるのは、例の無い事態ではない。保釈金の代わりに家族の者を勾留させる場合もある」

「そ、それは短期懲役の話だろう! 遮断独房で十五年だぞ!?」

 覆面の人物は、ふむ、と何かを吟味するように何度か頷いてみせた。

「そうだな、二人で分担するなら半分ずつでひとり七年半になるが、小さき聖女の持つ徳を考えると、ひとり五年――いや三年か。当然、独房は別々だ」

「ご考慮下さってありがとうございます、頂点さま」

「ではそのように計らいましょう。記録係、お願いします」

 猊下の一言から、要人たちは書類を更新する為に大仰な扉の向こうにまた消えて行った。大使は未だに不服そうにしていたが、きっと他の二人が説得して下さることだろう。

 カイルサィートは折を見て席をより前の列の方へと移動した。眼前で、ミスリアたちが会話している。

「もしかして今、ものすっごくうんざりした顔しませんでした?」

「……気のせいだ」

「そうですよね。あ、お礼なら要りませんよ。だって私たちは迷惑かけたりかけられたり、半永久的に助けたり助けられたりする仲ですよね」

 にこやかに宣言する少女。ハッ、と青年は微かに笑ったようだった。

「ああ、礼は言わない。十五年が三年になったのは、『よくやった』」

 褒められたミスリアは満面に微笑みを浮かべる。それからしばらくして、俯いた。

「三年なんてあっという間ですよね」

 自分に言い聞かせるような声色だった。

「出逢うまでの二十年に比べると、随分と長そうに感じるが」

「い、いくらなんでもそれは大袈裟ですよ……」

「事実だ」

 ――ジャラリ。

 瞬きの間に、ミスリアが移動していた。手足を鎖で繋がれている青年に、人目も憚らずに抱きついたのである。

 観衆はひそひそ話を繰り出したが、大っぴらに口を出す者は居なかった。そこには、第三者がおいそれと侵せないような空気が流れていたからだ。

 二人は互いに何かを耳打ちしてから、離れた。

「生きていて、くださいね」

「そっちこそ。石みたいな味の飯が出ても、残らず食うことだ」

「任せてください。石でも砂でも、最後の一粒まで食べます!」

 それには、傍観していたカイルサィートが思わず噴き出した。二組の双眸が驚いてこちらを向く。

「ああごめん、邪魔するつもりじゃなかったんだ。でもミスリア、砂は食べなくてもいいんじゃないかな」

「砂は栄養に……なりませんか?」

 これから長い年月を独房で過ごさねばならないというのに、彼女は実に楽しそうに手を合わせてくすくすと笑っている。つられて、カイルサィートも自然と笑んだ。

「君たちは変わったね。なんていうか、明るくなった感じがする。楽しそうで何よりだよ」

「ありがとうございます。カイルも、また会える日まで絶対に元気でいてくださいね」

 少女が両手を前にして歩み寄ってくる。なのでとりあえず伸びてきた両手を取って引き寄せ、意味もなく笑い合う。

 その間、脳裏では少し前の会話を思い返していた。


 ――カイル、私は聖女であることが誇りです。でも大義を果たせた今、新しい目標に向かって歩みたい。これからの私が望む人生、は――

 

 気が付けば小さな手をぎゅっと握り返していた。

「うん。君たちは、君たちの好きなように生きればいいんだよ。これまで一杯、頑張ってくれたんだから。後のことは僕たちに任せて……魔物信仰の残党対策も、ね」

「はい、頼りにしてます」

 でも無理だけはしないでくださいね、とミスリアは小声で付け加えた。「秘術って寿命を消費して使うものだとか」

「え、そうなの? それは初耳だよ」

「全知全能空間から持ち帰ってきた、ほんのちょっとだけの知識です。実は術式も幾つか憶えてるんです」――そこまで言って、ミスリアはキッと眉根を寄せた――「でも教えません。カイルも、たとえ今後出世しても、長生きしてくれないと嫌ですからね。秘術は使っちゃダメです」

「ありがとう。善処するよ」

 ぎぃいいい、と扉が大きく軋んだのを合図に、ミスリアがトコトコとゲズゥの傍に駆け戻った。

「君も、またね。三年間頑張って」

 無言で佇む青年にも、カイルサィートは挨拶を投げかけた。

「……そうだな。こう何度も再会できたなら、おそらくまた会えるだろう」

 と、彼はつれないながらもちゃんと返事をくれた。

 やがて組織の成員が近付き、二人の身柄をそれぞれ確保した。

 彼らが自身の決断により引き離されてゆくさまには、言いようのない哀愁があった。


_______


 首都の外れの刑務所にある「遮断独房」は、去年から三人の囚人によって使用されている。中年の男が一人、若い男が一人、そしてなんと若い女が一人居る。

 三人の内、中年の男はもうそろそろ駄目だろうと看守は踏んでいる。近頃は食事を持って行く度に必死に会話をしてくるのだ。看守は気の向く程度にしか受け答えをしないし、あの男とは何を話しても面白くないので、無視している。このまま行けば囚人は発狂するしかないだろう。

 残る二人は妙に平静を保っていて、気味が悪いくらいである。

 二人がこの牢獄に居ることは極秘事項だ。なんでも男の方は一時期世間を騒がせた「天下の大罪人」で、女はその懲役を共に負担しているとのことだ。女は以前は世界を救った聖女だと言うらしいが、看守には世界が救われたという実感がそもそも無かった。町中の人間が聖獣の姿を見上げて感動していた間、彼はただ黙々と仕事をしていただけである。

 以前はどんな立場であったにしろ、囚人は囚人だ。看守は、囚人の生死を握る者としての薄暗い優越感に浸るのが好きだった。

 だがこの二人はどうもおかしい。

 男の方は朝から晩まで、腕立て伏せやら逆立ちやらしている。かと思えば、反復横跳びや側転などをして汗を流していることもある。一日一回の貧相な食事でどうやってあの体力を保っているのか、謎でしかなかった。逆に運動をしていない時は、死んだようにじっと静かにしている。

 それにしても、独り言のひとつも漏らさないのは人としておかしい。相手が居ない時、人は会話への意欲を独り言を呟くことによって満たすものだ。この男は他者と会話する欲求が無いのか。それとも看守の知らぬ内に満たしているのか。

 そして女の方。女と言ってもまだ十代半ばのほんの少女で、牢獄に閉じ込めるのは惜しい可憐さである。看守も、劣情を催したことは何度かあった。だが囚人相手に欲を抱くのは浅ましいと考え、いつも一線を越えずにいる。万が一行為に及んでそれが露見しようものなら、ジュリノク=ゾーラを主神とする集団に苛烈な処罰を下されることだろう。

 このような可憐な少女があのような不気味な男の為に自ら囚われの身となるのか。世の中とはよくわからない。

 若い男の方と違い、少女は一日のほとんどを喋って過ごしていた。喋っていなければ、歌っている。

 ある時看守は少女に訊いてみた。その歌は何だ、と。

 聖歌です、と答えた少女は、聖歌集の何ページに載っている歌なのかまでを教えてくれた。

「どういう歌だ」

「春に咲く花々への感謝の歌です。今年も咲いてくれてありがとう、って」

「いい歌だな」

「いつか機会があれば、ご覧になってみてください」

「おら、字が読めねえんだ」

「そうですか、残念ですね。もう少し明るかったなら……ここで文字を教えてあげられたんですけど」

 看守はそれには答えなかった。

 本当は、前々から字を学びたいと思っていた。だが関わりすぎたって、情を抱いたって、どうせ遮断独房の囚人は長くもたない――そう自分に言い聞かせて、その場を去った。


 それから一年経っても二年経っても、三年目になって既に他の独房では何度か囚人が入れ替わっていても、二人は相変わらずだった。相変わらず、身も心も健康そうである。

 他の囚人が二言目には何々が欲しいと訴えかけてくるのに、二人は何も要求して来なかった。本が欲しいとも、絵具が欲しいとも言わない。何かを欲しがられたところで与えることはできないが、来る日も来る日も飽きずに似たようなことをして暇を潰せる二人は、相当な精神力を持っているのかもしれない。

 ある時、看守は気になって男に問いかけた。

「おめえ、ずっと喋ってねえんじゃ、言葉忘れるぞ」

 男はかなり長い間沈黙したままだったが、ついに看守が立ち去ろうとした時に、静かに答えた。

「……問題ない。こう見えて、弟と話している」

「はあ」

 死んだ弟の霊とでも話している妄想かね――と、少し哀れに思った。男はきっとやんわりと気が触れ始めているだけだろう、と看守は自分の中で勝手に結論付けた。


 またある時、少女に問いかけた。

「男の方がどうしてるか、気にならねえんか」

「なりますよ、勿論。でも貴方に訊ねたところで、答えてはくれないでしょう」

「当たりめえだ。独房は、孤独も罰なんだ」

「では、あまり私に話しかけない方が良いですね」

「女は寂しいと死んじまうからなあ」

 看守は、ついつい少女に話しかけてしまう自分に言い訳をした。

「寂しくなったら、大切な人たちに次にまた会える時を想い描きます。それに、同じ建物の中で息をしていると想像するだけで、とても幸せな気分になれるんです」

 囚人の少女は穏やかに笑って、また何かを喋り出した。よく聞けば喋っているというよりは唱えているのか、それは祈りの言葉のようだった。

 死者と語らう――と本人は主張している――以外には、覚めている時間はほとんど祈祷に費やしている。

 まだ若いのに。一体どういう人生を送ってたら、こんな風になるのか。聖女とは皆こういうものなのか。

 看守は、これ以上彼らを気にしても仕方がないと悟り、考えるのを諦めた。

 そうして二人の若い囚人が独房で暮らし始めてから、三年が経った――。


_______


 久しぶりに拝む太陽は、ひどく眩しかった。季節感など一切無い地下牢で過ごしてきただけに、夏の気温には凄まじいものを感じる。

 ぐらりと眩暈がして、ミスリア・ノイラートは道端にあった木箱の上に座り込んだ。

「大丈夫?」

「暑いですね」

 迎えに来てくれた友人に向かって弱々しく笑う。傍に居るのは彼だけだ。

 出所の日程と手続きは秘密裏に処理したものだから、外部から聞きつけた人間は誰もいない。三年も経てば世間も「世界を救った聖女」の行方に興味を失うのだろう。その代わりに、大聖女も地に還っただとか天に昇華しただとか聖獣が恋しくなって極北の地まで後を追いに行っただとか、おかしな噂だけが飛び交っているのだとカイルは教えてくれた。

「これでも三年前よりはずっと涼しいんだよ」

 カイルはそう言ってハンカチで顔の汗を拭った。おいで、と彼はミスリアの手を取り、建物の影の方へと誘導してくれた。

「目、慣れそう?」

「まだしばらくは眩しいかと。光だけじゃなくて、音も……世界ってこんなに色んな音がしてたものなのかと、再発見してます」

 通り過ぎる馬車の音、露店で値切り合う人々の声。頭上を通り過ぎる鳥の鳴き声、子供たちが走り回る足音、洗濯物を干しながら歌う女性の声も、全てが頭の中で大きく響いている。

 地下牢では自分と看守のが作る音以外には、鼠の鳴き声くらいしか聴いていなかった。

 それに匂いだ。漂う重厚な匂いが何なのかは特定できないけれど、空腹感を刺激するものには間違いない。ぐうっとお腹が悲痛な音を出す。

「引き留めてごめん、すぐに終わるから。その後に一杯美味しいもの食べてね」

 友人は爽やかに笑った。三年ぶりともなると、懐かしいとさえ感じる笑顔だ。そして、また見れて嬉しい。

「い、いいえ。お忙しいのに、私の為にわざわざ来て下さってありがとうございます」

「これをどうしても手渡したくて」

 懐の中から、カイルがネックレスのようなものを取り出した。

「それは……」

 続く言葉を紡げなかった。

 しゃりん、とカイルの掌から大きな影が流れる。チェーンから転がり落ちるようにして垂れた形は、聖獣信仰を象徴するもの。銀細工に、二つの水晶を取り付けたもの。

 元々二つ持っていた銀細工のペンダントは、小さい方は旅の道中でいつの間にか紛失してしまい、そして水晶の施された大きい方は聖獣に取り込まれた時に、失われた。その後教団に帰還して、新たに賜った――水晶も、新しくいただいた『鱗』を使って。

「君はもう教団に属する聖女ではなくなったけど、本質は今でも聖女だよ。役職を返上しても聖気が全く扱えなくなるわけでもない。君にはこれが必要だって、教団と掛け合ってきた」

 ありがとう、とカイルを見上げて唇でなぞった。受け取ったアミュレットの重みと僅かな温かさが、心の中で忘れていた感情を引き出した。胸元に、大切に握り締める。

「……やっぱり、私には必要ですね。牢の中には魔物の前兆が数多く視えました。視えても浄化できなくて……」

 体内の聖気を一度根こそぎ失ったミスリアは、以前と違ってアミュレット無しでは聖気を扱うことができなくなっていた。刑務所の残留思念とは語り合うことしかできず、彼らを送ることはできなかったのがずっと悔しかったのだ。

「自由の身になれて、おめでとう、ミスリア」

「はい」

 アミュレットを首にかけて、ゆっくり立ち上がる。ふらつきそうになると、カイルがそっと肘を支えてくれた。

「僕からの用事はこれだけだよ」――彼はポケットウォッチを取り出して時刻を確認する――「ちょっとこの後も予定が入っててね。晩御飯なら、一緒できそう」

「はい! 楽しみにしてます」

 カイルは目を細めて笑った。

 そして何故かわざとらしく、何かを気にするようにちらちらと肩から振り返る。

「待ち人は角の方に居るよ。早く行ってあげて」

「――!」

 パッと心の中に広がった悦びに、頬は緩み、声は出なかった。対するカイルは微笑ましそうなものを見る顔になった。

「じゃあ、また後で」

 手を振り合って、別れる。既にミスリアは小走りになっていた。

 とはいえ独房生活が長すぎた。走る為の筋肉は衰え、何度も情けなく転びそうになる。逸る気持ちをなんとか抑え、建物脇の樽などを支えにして、少しずつ確実に歩を進める。

(どうしてこの角に?)

 すぐに疑問は解決された。

 井戸から汲んだ水を、頭から豪快に被っている青年の姿がそこにはあった。

 本物だ、と直感するまでに大して時間は要らなかった。

 速まる心臓の音が耳の中で響いている。その場に縫い付けられて、動けない。

 地面に流れ落ちた水が一筋、するするとミスリアの足元まで伸びる。

 青年が顔を上げた。次いで、目が合った。

 深い黒をたたえた右目と、白地に金色の斑点が散らばる左眼。

 何も無い闇の中でも、忘れられずに焦がれた――幾度となくミスリアの胸の内を掻き乱した眼差しがすぐそこにあった。

 青年が目にも止まらぬ速さで動いた。

「ストーップ、兄さん! 濡れたままじゃ可哀想でしょ! 拭いて! ほら!」

 間に大きな布がバッサリと入る。

 派手に光沢を放つ服を纏った人物の後ろ姿を認めて、ミスリアは嬉々としてその名を呼んだ。

「リーデンさん!」

「や、久しぶり」

 くるりと振り返った青年は、記憶の中の像を楽々と飛び超えるほどの美貌だった。三年の間に色気に磨きがかかって、同時に男性としての凛々しさも濃くなっている。何より、サラサラの銀髪の襟足が大分減っていたり、短くなっているのが印象的だ。

「髪切ったんですね。すごく似合ってます」

「そうでしょー? 君は髪、伸びたねぇ」

「早く切ってしまいたいです」

「その長さも似合ってるよ」

 リーデンは何気なく、栗色の髪を幾筋か手に取って撫でた。気恥ずかしいけれど、そういえば彼はこういう人だった、と思うと嬉しくなった。

「そうそう、外に出たら、最初に何がしたいとかある」

「お風呂……お風呂に、ハイリタイ……です」

 うじゃうじゃと伸びてしまった髪なんて、汗や泥が固まっていて変な臭いまで発している。唐突にそれを思い出し、リーデンからサッと距離を取った。つい井戸の方へと目が行った。そのまま飛び込みたいくらいに、お風呂が恋しかった。

「あははは、他には?」

「温かくて柔らかいご飯をお腹一杯食べて、広い野原で散歩して、それから――」

 指折り数えている最中に、地面から足が離れた。

「きゃっ!?」

 強烈な抱擁に捕えられている。うなじ辺りに、吐息を感じた。

「汚いってさっきから言ってるのに――! 放してください! ゲズゥ!」

「お前は抱き着くつもりじゃなかったのか」

「そ、そうでしたけども! 改めて考えてみると汚いんです!」

 彼はこちらの抗議など聴こえていないように、抱き締める力をまるで緩めない。苦しい。けど、気持ちいい。

 心臓が口から飛び出しそうだ。

 極め付けには、いつか法廷でしてくれたように耳に口を寄せて「あいしてる」と低い声が伝えた。

 あの時は、三年も会えないという悲しい気持ちに後押しされて「わたしもです」と言えたのだが。こうしていると、気恥ずかしさが爆発する。ついでに、すぐ近くでニヤニヤ笑っている絶世の美青年の視線も気になる。

 けれども、やはり心地良いのである。地に下ろされた頃には怒気はすっかり消え失せていた。

 また目が合った。今度は、迷わずに笑いかける。

「生きてくれてありがとうございます。逢いたかった、です」

 すると、「知ってる」との笑顔が返った。

 頬をなぞる大きな手は、記憶の中よりも冷たい。黒い髪も伸びていて、肌の色素もこころなしか薄くなっている。

 互いに痩せ細ってしまったものだ。でも、また巡り逢えた。それだけで、涙が溢れるほどに嬉しかった。

「貴方は変わりませんね」

「お前は少し大人びたな」

 しばし、体温を確かめ合うような口付けを交わした。

 拍手の音で、我に返る。それをしていた当人、絶世の美青年は、妖しげな微笑みを浮かべていた。

「とりあえずそうだねー、思い付く限りのやりたいことをやり尽くしたら、結婚でもしたら」

「けっ……!?」

 何てことを言い出すのか、とミスリアは仰天した。

「だってさー、もう聖女さんって呼べないんだし。だから今度は姉さんって呼ばせてよ」

「なるほど」

 と、あろうことかゲズゥは納得したような顔をしている。

「からかわないでください!」

「僕はいつだって大真面目だよー?」

 いけない、肩で息をしていたら、またふらりと眩暈がしてきた。倒れようにもガッシリと腰を抱える腕があるので、その点は平気だった。

 はあ、とミスリアは呆れてため息を吐く。次に、深呼吸した。

(――結婚、か。それって、ずっと一緒にいようって家族と神々の前で誓うってこと……)

 落ち着いてちゃんと想像してみると、そこに抵抗感は全くなかった。

 同年代の友達が己の結婚式や花嫁姿について夢を語っていた頃、ミスリアはただ聖女としての使命のみを想って生きていた。

 けれど、今は。隔てるものが何も無い。

 身分や立場も、運命も、迫り来る命の危険も。独房の壁だって、取り除かれている。真実、自分たちは好きなように生きられるようになった。

 カイルに言った通り、自分の望みは――

 それを語るべき相手を見上げる。

 じっと見返してくる左右非対称の瞳は静かだった。密かに、勇気をもらった。

「私は前に、離れるのが怖いからと、貴方を突き放そうとしました。でももうそんなことは考えません。死に別れる時は明日かもしれないし、もっと遠い未来かもしれない。それでも最後の瞬間まで一緒に居てくれませんか」

 ゲズゥは二度、瞬いてから答えた。

「引き受けた」

 ふわりとまたその腕に包まれる。先ほどよりも優しくて、温かい抱擁に。

「当然だ。お前の帰る場所は、俺の傍にしかない」

「はい。これからもよろしくお願いします、ゲズゥ・スディル氏」

 ミスリアは抱き締め返す腕に力を込めた。

 いつまでもそうしていたかった。

 ふと目を閉じると。

 幸せになってね、と言ってくれた姉の声が脳裏を過ぎった。


 ――お姉さま。どこかで見ていますか。貴女の代わりに私たちが、やりましたよ。そして今は貴女が望んだ通り、私は、幸せです――


_______


 かつて、青年と少女は旅に出た。

 世界を救った旅だった。

 やがてその旅も終息すると――罪人と聖女であった青年と少女は只人となって、人知れず彼らの物語の続きを紡ぐのであった。






終わりです。五年かかりました。


普段の私を知っている方ならば、ストックではなくほとんどリアルタイムで書いて(ブログに)投稿していることがおわかりのことかと思います。この一週間はなんていうか、すごかったw


概ね想像してた通りの結末になり、伏線漏れとかに関しては今は考えないことにしてます(おい


最後ちゃんと盛り上がった…かしら……。


ちゃんとしたあとがきはまた今度にします。本当は年内完結にしたかったのに1時間ほど遅れてます。私のタイムゾーンではまだ2016年だもんね! と言い訳…しても駄目か(笑


とりあえず、走り抜けましたよ。プロットとかもまともに組まずいい加減で行き当たりばったりだったこの話が、ちゃんと完結したというだけで今は感慨深いです。内容の面白さはさることながら、こうして完結作品を増やし、読み手さまから「甲はやる時はやれる奴なんだな」という信頼関係を築いていくことを第一の目標にしたいと思います。


なんだかんだで数年は私の代表作という立ち位置に残りそうな、聖女ミスリア巡礼紀行。いや、案外あっという間に「藻」に喰われるかもしれない…w?


最後にどうなったか書かれなかったゲストキャラたちに関しては、番外編を書きたい子もいれば、箇条書きで「こうなったんだよ」とまとめたい子もいます。ちょっとどうしようか検討します。



では、ご挨拶をば。


90万字もの間、付き合って下さってありがとうございます! 何か心に残るものがあったなら幸いです! できれば他の作品や次回作でまたお会いしましょう!

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