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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第五章:常しえに安らかなれ
65/67

65.

 金色に光り出した湖を取り巻くのは、侘しい静けさであった。

 或いは頭の中の汚濁が濃すぎるあまりに、五感が使い物にならなくなっているだけかもしれないが。今にも潰れそうになっている自我を、とある単調な行為によって繋いでいる。

 ――数えている。

 歪んだ視界の中に降り積もる白を睨む。当然ながら、結晶を数えているわけではなかった。

 数が二百を超えたところで意識が僅かに晴れた。そうして、弟が横から何かを訴えかけているらしいことに気付く。雪がどんどん積もってきた、このままでは冷える、せめて食べるか水を飲むかしよう、などと言っている気がする。

 言わんとしていることはわかるが、自身は寒さを感じなくなっていた。最早、感覚というものが故障しているようである。元を辿ればそれは、生存本能すら壊れているようでもある。

「弟」

「……うん」

 遅れて返った返事は、訝しげだ。

「三百数えると何分になる」

「五分くらいだけど。何でそんなこと訊くの」

 答えずにゲズゥはその場に膝をついた。ぐらりと上体が傾ぐ。視界に映っているのが膝なのか地面なのか、境目が曖昧だった。息は荒く、吐き出す度に浮かぶ湯気が鬱陶しい。

 あといくつ数えれば――

 二百の位から続ける。七十七、七十八、七十九――と、いつしか声に出していた。

 横から心配そうなリーデンの声がするが、無視して三百まで数え続けた。達成すると、淡い光を発する湖に向き直る。

「五分、経った。あいつは目的を果たし、俺は、確かに約束を守った」

 直後に水面が揺れたのは偶然だったのか、それともこちらの宣言に対する呼応であったのか――真相は謎である。

 手を動かした。僻地にまでわざわざ苦労をかけて持ってきた、唯一の私物に向かって。

 ガチャリ、と音がした。柄に圧をかけて、鞘のカラクリから解放した音だ。

 足を一歩前へ踏み出した。

「兄さん、待って」

 呼び止める声に振り返ると、言葉を失くしたかのようにリーデンがぱくぱくと口を開閉していた。

「止めるな」

「や、止めるに決まってるでしょ。何考えてんの」

 掴みかかろうとする手を、ゲズゥはひらりとかわす。

「このタイミングで剣を抜くなんて、正気!?」

「…………」

「――な、わけないか……!」

 苛立ちに激しく髪を搔き乱す弟の目は、道を見失った迷子を彷彿とさせた。その心情を乱している原因が己にあることに、一種の後ろめたさを覚える。

 頭では全てを理解していた。聖獣は蘇らなければならない――そうでなければ、ミスリアの努力は水泡に帰す。

 聖獣の働きが無ければ、大陸は救われない。それも、わかっていた。

「お前はもう帰れ。これ以上、付き合う理由が無い」

「付き合うとかそういう次元の話じゃないからね!? 聖女さんがいなくなったからって、僕らが家族なのは変わらな――」

「帰れ。不毛だ」

「――!」

 リーデンが噛み付きそうなほど凶暴な表情をしているが、意に留めない。

 そう、不毛なのである。頭ではわかっていた。

 前後に反転する。瞬間、湖からとてつもなく眩い光が昇った。

 続けて、水音ひとつ立てずに、輝かしい巨躯が出現した。聖画に描かれていた像の面影が多少あるものの、実物はサンショウウオなどとはまるで似付かず、角ばった輪郭が恐怖か畏怖を掻き立てる。

 こちらを見下ろす頭部は、一点に向けて尖っていた。鼻は爬虫類のそれよりも遥かに鋭い。しかしよく観察してみると鼻や口と呼べるような開口部は見当たらないので、尖端を鼻と呼ぶべきかは不明だが。

 それにしても、その表面と面貌のなんと不気味なことか。

 ――こんなモノが生物であるはずがない――

 僅かの間でも足が竦んで身動きが取れなくなるという、滅多にない経験をさせられる。

 剥がれ落ちた鱗が水晶と化したのではなく最初からその身は水晶に覆われていたのか――と、木の枝に似た形の二組の翼を広げる獣を見上げつつ、思った。

 瞳と思しき玉は六つ。左右にそれぞれ三つ付いていて、角度によっては虹の六色に変動して見える。

 どこにも焦点を定めていなかった三組の双眸が、ぐっと正面を向いた。見透かされている不快感が全身を駆け巡る。

 それでも怖気付くことなく対峙した。ゲズゥは乾いた唇に唾をつけて、大剣を構え直した。

「返せ」

 宙に浮いた圧倒的な存在に、ただそれだけを要求する。

 異形のモノが、嘲笑うかのように首を素早く後ろに傾けた。ほどなくして頭の中に届いた「言葉」を通し、実際に嘲られていたのだと知る。

『穢れし愚か者が……ようやっと会えたかと思えば、いきなり笑わせるでない』

 一言ずつ受け取る度に。脳が揺さぶられ、心臓が打たれるような「声」だった。その場に踏ん張るので精一杯で、言葉の応酬に参加できない。

『我に刃を向けるか』

 巨躯がいくらか地に近付いた。奴が三組の翼を軽く羽ばたかせると、周囲に粉雪が舞い上がる。

 条件反射で両目を瞬かせた。その隙にかなりの接近を許してしまい、次に目を開けた時には、隔てる距離は腕の長さほども無かった。

『不毛と知りながらも神々の意思を邪魔立てするとは、面白い、実に面白い生き様よ』

 ゲズゥの身長と同等の大きさの頭が目の前にあった。魔物の類には感じたことのない、得体の知れなさを覚える。

 ――それにしても、愚か者だのようやっと会えただの、まるでこの異形はこちらのことを以前から認識していたとも受け取れるのは、どういうことだろうか。

『只人の身で我に挑むなんじは、愚か者であろう』

 ――タダビト?

『いかに戦闘種族やら呪いの眼の一族やらと呼ばれようとも、ヒトはヒトでしかない。我にそのつるぎは届かぬ。汝を捨て置き、飛行するのは容易い……が、それではあまりに味気ない』

 途端に異形のモノが喋るのを止めた。短い四本の足を大地につけ、翼を休める様子を見せている。

『聞こう。さえずるが良い』

 それからしばらくの間、奴は大人しくし続けた。もしも口があったなら欠伸でもするのではないかと疑うほど、のんびりとした空気が流れている。

 短く逡巡した。これは好機か――否、まだ切り付けるには早い。

「お前は……こうして蘇った。なら、糧となった聖人聖女は――用済み、のはずだ」

 かえせ、と声を低くして繰り返す。

 ――グオン。

 突然の轟音に、片手で耳を塞いだ。異形が反り返った勢いで突風が巻き起こったのだ。

『正解! 正解であるぞ、愚か者。意図せずとも、仕組みを言い当てた褒美に、教えるとしよう』

 明らかに笑っている。またしても、笑われている。

『我は一定量の聖気をもって、眠りから覚める。ひとたび覚めてしまえば、蓄えた聖気が底尽きるまでは活動していられる。つまり聖女を返せという汝の要求に、何ら問題がない』

「それって……一定量を越えて活動を始めた以上、内包してる聖気が一部ごっそり減っても役割を果たす上では問題ないってこと」

 背後から、これまでの展開を静観していたリーデンが問いかけた。

『いかにも』

「なら、」

 期待が膨らみかける――

『問題は無いが、術も無い』

 膨らみかけた期待が、儚く弾けた。

『我に取り込まれる命……その肉体と魂は、個の境界を紐解かれる。二度と、ヒトに戻りはしない』

 世界から音が消えた。

 間に合わなかった、と奴は言っているのか。

 違う。勿体ぶっているだけだ。

 ――できるのにやらないだけだ!

 気が付けば、鉄が水晶と衝突していた。

 両腕が肩まで痺れるほどの反動が後に続いた。よろめきそうになるのを、腹筋に力を入れて防ぐ。めげずに何度か剣を振るった。

 そうして肘から下が麻痺するまでに、そう時間はかからなかった。立ち位置は始終同じでも、雪の所為か、足がすっかり重くなっている。

 息が重苦しい――と意識した矢先。

 呼吸ができなくなった。

 突き飛ばされて、深い雪に沈んだ。起き上がろうとしたのも束の間、腹の上に硬いものが圧し掛かった。

「がはっ……!」

 喉が熱い。鉄の臭いが溢れ、鼻や口から滴った。

 何かしら内蔵が破損したのだと数拍後に察する。

 右のみに偏った視界の中で、無数の光が明滅した。腹を潰さんとする重圧は円柱の形をしていた――即ち、聖獣の足。足についている四本の指の内の一本が、ちょうどみぞおちを抉る位置にある。

 絶叫していたのだと思う。己の血液に溺れながら、喘ぎ声しか出せなくなるまでに、ずっと。

「兄さん!」

 駆け寄ろうとしたリーデンも、獣の太い尾によっていとも容易く薙ぎ払われた。

『無謀』

 そこに含まれていたのは残虐性と慈愛の両方だった。解せない、と感じた頃には、何故か激痛が治まっていた。喉や口周りを浸していた血も跡形もなく消えている。

 かと思えば、改めて踏みつけられた。今度は叫びのひとつを上げる間もなく治された。

 子供が玩具にするように、何度も持ち上げられては地に叩きつけられる。破壊される都度、間を置かずに治癒された。

 ――純粋な聖気の集大成に触れていると、こうなるのか。

 いかなる暴力に晒されてもすぐに温かい光に包まれて復元する。これが、ミスリアが使っていた「奇跡の力」の上位互換。

 なるほど、人間がこんなモノを思い通りにできようはずもない。オルトがあっさり諦めたのも賢明な判断だったと言えよう。

『納得したか? ヒトの剣では「聖獣」に干渉できぬ。できたところで、いくら鱗を削いでも、愛しき聖女は引き剥がせまいよ。わかったら聖泉の域から去れ。我はこれから大陸を浄化するゆえ、これ以上は汝の相手をしていられない』

 重圧が離れた。

 ゲズゥが上体を起こしたのと同時に、巨大な影が地面にかかる。

「待て!」

 焦燥に硬直した。我に返るなり、跳躍し、切りかかる。やはり無様に叩き落された。

 両手両膝を地につけたまま雪に噎せる。頭の中に、感心混じりの声が響いた。

『執念深さもヒトの可愛さよな』

「人外に、何が、わかる……! 返せ!」

 喚き散らす。無駄なあがきだとしても、止められなかった。従来の合理的な自分は何処かへ引っ込んでしまっている。

 耐えられない。この先の寿命がどれほど残っているのかは知れないが、これからもこんな掃き溜めのような世界で生きなければならないのかと想像すると――凄まじい破壊衝動に駆られる。

 割れるまで、壁にでも頭をぶつければ、打ち忘れられるだろうか。ミスリアと出会ったがために知ってしまった、穏やかな空間を。

 喪失の弊害に狂っていくのがわかる。誰でもいい。憎まなければ、保てない――!

 振り上げた右腕が宙に止まった。自身のそれとよく似た骨格の手が、前腕を掴んでいる。振りほどこうとすると、更に強く掴まれた。

「……ねえ、人間が可愛いと思うなら、譲歩してくれないかな」

『譲歩しようにも、どうしようもない』

「んーん、嘘だね。君はまだ、何かを隠している」

 横合いから口を出したリーデンをじっくり眺めやってから、聖獣が緩慢に頷いた。

『賭けでもするか、愚か者ども』

 かけ、と兄弟で異口同音に訊き返す。

『結果を左右する術が無くとも、聖女が元に戻れる可能性は皆無ではない。そういうことだ』

 それを聞いて、身体から力が抜けるのを感じた。大剣と共に、腕を下ろした。

「さっきと言ってることが噛み合わないけど。この期に及んで、期待を持たせておいて裏切ったりしないよね」

『持たせるも裏切るも何も、賭けは賭けだ。我は結末に関与できない』

「ふうん。条件は?」

 刹那、六つの瞳が煌めいた。

 翼を広げて、聖獣がゲズゥの眼前に再度降り立つ。

『大陸を一周し終えるまでに、汝と聖女が再び出逢えるか否か。もしも巡り逢えたなら、汝の勝ちだ。聖女は生身で還る。逢えなかったなら……穢れし愚か者、我が守護者となれ』

「はぁ? なんで兄さんが聖獣に仕えなきゃなんないの。君も、穢れてるとか散々言っといて傍に置きたいなんて、頭おかしいんじゃないの」

『穢れているからこそ面白かろう。死せる日まで我を憎み続けていられるかどうか、試してみるが良い』

 などと奴は言うが、試すまでもないとゲズゥには内心断言できた。

「……逢えなかった場合、ミスリアはどうなる」

『そうさな。肉体どころか魂ですら二度と汝の前に形を成すことはなかろうよ』

 聖獣が首を捻って伸びをした。『疾く、決めよ』

「わかった」

 剣を収めた。聖獣の提案はほとんど理解の範疇を越えていたが、この際詳細を知らなくてもいいだろう。可能性があるなら飛びつく、今はそれだけでよかった。

 隣でリーデンが深くため息を吐くのが聞こえた。

『乗れ』

 異形が巨体を翻し、背を向けてくる。尾から上がるにはかなり傾斜が厳しいが、水晶の突起を使って、なんとか登り切った。

 登ってみて初めてこの鬣も無い背中の広さを思い知らされる。横にゲズゥが十人ほど並んで乗れるとするなら、前後に何十人と詰められそうだ。

 戦慄した。次いで、胃の中身がヒュッと持ち上がった。倒れ込む寸前、波打つ肢体に慌ててしがみつく。

 息を呑み込んだ一瞬の間に景色が一変した。白い地面があっという間に遠ざかってゆく。

「いってらっしゃいー!」

 地上に残ったリーデンが叫んだのがかろうじて聴き取れるも、その姿はとっくに見失っている。

 ――人類を救いうる神々の御使いが、こんな性悪だったとはね。気を付けて。

 ――所詮、神話など当てにならない。

 落ち着いて交わせた会話はそれだけで、その後は、恐ろしく加速した聖獣に振り落されないように必死だった。

 しばらくして、目を瞑った。雪か空か、はたまた聖獣が発する光で目がやられてしまったのかは定かではないが、視界のあまりの白さに頭痛がした。

 妙だ。寒風が容赦なく身体を叩く一方で、腹に密着している水晶のことごとくからは、謎の温かさが伝わってくる。こんな異様な存在に血が通っているとでも言うのか――

 段々と思考力が低下していくのを感じた。頭痛の先に眠気があり、その先には浮遊感。

 頭の奥深いところが薄っすらと熱を帯びて、何かが融けるようだった。

 ゲズゥの人生経験の中では、この感覚は麻薬の類を服用した時に近い。しかし、あくまで似て非なるものだ。

 何時、意識を手放したのか。そうでなければ何時、夢現の区別が付かなくなったのかは――わからない。


_______


 おそろしいか、と背の高い男が問うた。なにが、と自分は訊き返した。

 三十代半ばぐらいの男は高身長に加えて体格も良く、顔が厳つい。首が痛くなるまでにその男を真っ直ぐと見上げた。別段この男は、恐ろしくなかった。

「俺が今何をしたか見えていたか。ゲズゥ」

 男は地に横たわる人影を差して、更に問いかける。

「……けんをぶつけたら、こわれた」

 どこか要領を得ない話し方だが、自分はありのままに答えた、つもりだった。

「流石にちゃんと見えていたか。だがこれは『壊れた』んじゃない」

 湾曲した大剣を地に突き刺して、男は膝を折った。男の肩に羽を休めていたらしい赤茶色の鷹が、バサバサとうるさく飛び立つ。

 散った羽根の一枚を目で追った。その過程で覚める。

 ――過去の残影だ。

 父親の容姿など長らく思い出していないが、この左右非対称の目を見つめるだけで、記憶が呼び覚まされる。

 死というものを理解したのも、この一件がきっかけだったはずだ。父はそれからゲズゥにもわかるように丁寧に生き物の死を説き、最後には人手を呼んで死体を片付けさせた。

「供養する。柳のところまで運べ」

 あの大きな柳が村にとっての墓場だと教えられたのも、この時だったかもしれない。確か、死体が埋められるまでの流れも見せられた。そのプロセスよりも、柳にまとわりつく空気に気圧された記憶がある。

「此処に生きる我らの一族は……同胞だけでなく敵の血肉をも養分にして、存在し続けている」

 弔いが終わった時に父が呟いた言葉の意味を当時は理解できなかったが――今なら、わかる気がした。

「お前はこれから何度も間違いながら、大人になるだろう。よかれと思ってやることが望む結果をもたらすとは限らない。どんなに願い、奪っても、愛する者を守れないかもしれない。だがいつだって心折れている暇は無いぞ。立ち止まっている間にも、状況は悪化するものだ」

「……わかった」

 子供の枠に収まった己の身体と口を通して返事をした。最後の言葉だけは、現在のゲズゥに向けられているものに思える――

 ぐにゃりと、思い出を囲う色が褪せていった。


 気が付けばそこはまた聖獣の背中の上だった。

 意識が現実に再び繋がれて最初に考えたのは、大陸を一周するのにいかほどの時間が必要だろうか、だった。聖地の中に「聖獣がこの野原で休んだ」と言い伝えられている場所もあるくらいだから、ずっと飛びっぱなしではないのだろうと思いたい。

 ゲズゥは四つん這いの姿勢で周囲を見渡した。薄闇の遠景に建物が見える。目を細めて凝視すると、ごく最近に見たばかりの形の砦であることを知る。

 魔物を信仰する集団が拠点としている場所。ミスリアを攫った、腐った連中の巣窟だ。

 突如、聖獣の身から光の粒が溢れ出した。

 細雪を彷彿とさせる光景である。金色の光が一斉に地に降り注ぐさまを、ゲズゥは呆気に取られて眺め下ろした。

 それらが降りしきる先には複数の人影がある。遠くてよく見えない、と思うが早く、聖獣は急降下していった。

「――――っ」

 勢い余って舌を噛みそうだ。何故自分はこんな目に遭っているのか。疑問が宙に浮いたまま、聖獣は今度は急停止した。そうして地上から一定の距離を保って、羽ばたいている。

「おい、冗談じゃない。上空にとんでもないのがいる」

 最も近くに立っている、体格の良い女から怪訝そうな声が発せられた。女は以前会った時に比べて腕が片方減っている。

「何ですか、こんな時にー」

 傍で女の傷の処置をしていた男が、常よりも切羽詰まった形相で顔を上げた。極度の近視である男の為に、女が事細かに描写してやった。

「羽ばたきが聴こえるだろう? 四本足の何かが宙に浮いて……光を振りまいている。この様子では、魔物とは言い難いな。むしろ、そこかしこの魔物が、光に触れてからは銀色に輝いて消滅している」

 地上から見上げているのでは聖獣の身体に遮られているものまでは視認できないのだろう。女の説明には、ゲズゥに関する情報が含まれていなかった。

「え、ええ!? 先輩、それってもしやあの聖獣じゃないですか!? すごい! 聖女ミスリアがやったんですね!」

「そうなのだろうな。聖獣など伝承の産物かと思っていたが、本当に顕現するとはな」

「……じゃあ、この腕ももしかして……」

 期待を抱いたように、男が空を振り仰ぐ。

「いや。いかに聖気をもってしても、魔物に噛み砕かれたものまでは再生しないのだろう。まあ、おかげで傷口は完全に塞がれた。十分だ、もういい」

 残った左腕で双頭のモーニングスターを拾い上げ、女が立ち上がりかける。

「よくないです!」

 しかし女のコートの裾を、部下の男がしっかり掴んで放さない。

「フォルトへ、声を荒げるな。そんなに大声を出さなくても聞こえている」

「聞こえてても聞いてないからですよ! 魔物が飛び掛ってきた時、自分を庇ったりしなければ――」

「既知の事実をいちいち言わせるな。お前が腕を失うのと私が失うのでは重みが違う。私は隻腕でも生活できるが、お前には不便だろう。庇うのは当然だ」

「それでもですよ!」

 駄々をこねる子供のように、男が地団太を踏んだ。女はそれを無視して、辺りを見回している。

「生き延びた敵まで回復しているな」言葉の内容とは裏腹に、女は随分と呑気そうだ。一方、それを聞いた男の方は武器を構えた。「ああ、警戒する必要は無いと思うぞ」

「……どうしてです?」

「もうすぐ集団の統率が崩れるからだ」

 女の視線は、少し離れた位置に居る一体の魔物の元に流れた。銀の素粒子と化して浄化されてゆく個体が大部分を占める中、珍しく、まだそれは存在し続けていた。

 聖獣の半分もの大きさに満たないが、それでもあの魔物は雪崩を引き起こし、人間の倍はある図体である。

「コヨネさま!」

 起き上がるなり、砦の連中が五・六人、異変に気付いてその魔物の元へ駆け寄った。中には指導者たる若い女の姿もあった。ミスリア曰く、指導者はあの魔物の元となった人間の子孫らしい。

 コヨネと呼ばれた毛深い異形は暴れに暴れた。摂理に抗わんとするように長い足と三股の尾を激しく振り回し、地を穿っては近くに来た人間を手当たり次第に殴り飛ばした。数人が取り押さえようとするが、無駄だった。

「どうしてこんな……! いやだ、いやだよ」

 ほんの数日前にミスリア一行を翻弄した得体の知れない女が、もはや見る影もない。情けなく泣き叫びながら、女は生傷が増えるのも厭わずに魔物に飛びついた。

 当のコヨネさまとやらは、どうやら聖気の効果から逃れられないようだった。暴れ疲れたのかそれとも浄化されるという末路に安らぎを見つけたのか、段々と動きが鈍くなっている。

「まだだ、まだぼくらはあなたの求めていた答えに至れていない! いかないで、コヨネさま!」

「そうっす、消えちゃダメっすよ!」

 未練がましい叫びが方々ほうぼうから上がる。

 やがて魔物の動きが完全に止まった。その時点では、魔物の体積が五分の一ほど削られていた。

 魔性のモノの咆哮が夜空を裂いた。

 応えのつもりなのか、聖獣の腹から衝撃波が発せられた。その波にさらわれる寸前、コヨネは頭をもたげて凶悪な歯を見せたが――

 ――破裂した。

 思わず膝立ちになった。一瞬の眩しさに耐えかねてゲズゥは目の前に手をかざす。

 ――優位性は確立された。

 敗者の群れが、膝をついて呻き出す。彼らの周りでは、大事だったモノの残滓が天に向かって昇華している。

「偶像を奪われた信仰集団など恐れるに足らず。聖女の為に時間を稼いだのが、実を結んだようだな」

 対犯罪組織の女が連中の動きを遠巻きに見張っている。激情する者も、徐々に現れていた。

 この瞬間を見計らったかのように、烏の鳴き声が響いた。組織の頂点が飼う大烏が、悠然と空を横切ってくる。おそらくは応援要請への返答を持っているのだろう。

 そこで聖獣が動き出したため、二人が手紙の返事を開けるのを見届けることはできなかった。

 大空を馳せる。

 物凄い風圧を伴い、息継ぎをする間も与えられない速さである。

 なんとなしに振り返ると、銀色の軌跡がついて来ていた。聖獣が通った後の地上から、次々と魔物が浄化されているからだろう。

 振り撒かれる金、浮かび上がる銀。

 否応なく存在を終えさせられる者共の迎える末路は、悪夢のように美しかった。

 心の蓋がこじ開けられ、感傷を呼び起こされる。確かに、哀れだと思う自分も居た。まだ旅を始めたばかりの頃――あるべき状態へ生き物を導いていくのが聖気なら、そのあるべき状態は誰が決めるのか、とミスリアを問い詰めたことを思い返した。

 自分は聖なるものと相反する側の生き物なのだと思い出させられる。

「砦の周辺を念入りに旋回したのは、際立って穢れていたからか」

 囁く程度の声量で問うたが、どうせ聴こえているのはわかっていた。

『否。あの者らが可愛いからだ。特にコヨネ・ナフタという女、あれの魂は、確実に送ってやりたかった』

「…………」

 リーデンが言っていた「性悪」という感想が、脳裏に蘇った。

『死後の旅路で、悔しがってくれるのではないかと思ってな。志半ばに倒れ、その遺志を継いだ子孫の作った組織も、この通り壊滅に追いやられた。年端も行かない聖女の働きでな』

 ますます、この答えからは楽しそうな印象を受けた。だが次にはそれが、慈悲のようなものに変わる。

『アレらは、存在が危ういものだ。いかに自我が混濁していようとも、根本的には自覚していたさ。いつでも消滅しうるのだとな』

 存在が危ういから消してやるのが慈悲なのか、とゲズゥは無意識に眉をしかめた。

『消滅するとわかっていて、それを甘受するのが正しいとも限らない』

 聖獣の答えが妙に遠く感じる。意識の境界がぶれているのだと悟った時には、ゲズゥはまた思い出の層に向かって転落していた。


 古い記憶だった。こんなこともあったのかと、すっかり忘れていたほどに昔の話だ。

 ゴミを漁って生きていた頃は栄養失調が普通で、当然ながら身体の免疫力は著しく低かった。おそらくは慢性的に体調が悪かったのだろうが、自身では気付けずにいたのである。そして雨が厳しかった冬の日、ついに弟が高熱を出したのだった。

 丸一日経っても回復の兆しは表れず。このまま死ぬかもしれない、唯一残った家族を失うかもしれない――恐怖にじわじわと蝕まれながら、延々と貧乏ゆすりをしていた。

 ――治れと念じて睨むだけで、治ったならいいのに。

 悶々とする。自分自身が熱を出したことは数えるほどしかなく、適切な対応など当時のゲズゥにわかるわけがなかった。とりあえず、喉が渇いたと言われれば飲み物を見繕い、汗が気持ち悪いと言われれば拭ってやった。

 後は「身体が弱っていると心も弱るからせめて相手の手を握って勇気付けてやりなさい」と母が言っていた気がしたからと、そうしていた。辛いのはわかっている、心配する人がすぐ傍にいるよ、と伝えるのが大事だと母は主張した。

 けれどもそれでは足りなかった。自分よりも小さくてか弱い幼児の手を握る間、己にできることなど何も無いと思い知ったのだった。ならば自然と次の手は決まっていた。

 心臓が引っ掻かれているような痛みを抑え込んで、その場を去った。夜通し咳の所為でうまく眠れずにいた弟の傍を、自ら離れたのである。

 深夜の住宅街を駆け巡り、順に戸を叩いた。話を聞いてくれる相手が見つかるまで、何度も何度も「たすけて」の一言を口にした。そうしてやがては老夫婦を伴ってリーデンの元に戻ることが叶った。

 その夜からしばらく屋根の下で暖かい食事と柔らかい寝床にありつけたが。最終的には自分の幸せを投げ出して、弟の幸せを願った。

 願いは成就しなかった。

 ――お前はこれから何度も間違いながら大人になる――

 父が予言した通りになった。愛する者を守るのは果てしなく難しい、今ならそれが痛いほどよくわかる。

 先祖が、世界が、自分にどんな運命を用意していたのかはわからない。抗って、疲れて、抗って、疲れた。生きることに疲れ果てた頃に、純真な少女と道が交わった――


『神々は材料を与えただけ、料理するのは汝ら人間どもの役目だ。条件が満たされれば我は世界の清浄化の為に飛行する』

 意識の外側から聖獣が語りかけてくる。

『満たされなければ眠り続けるだけだ。どのような世であるかは、その瞬間その瞬間、多くの者の選択の果てにある』

「……何が言いたい」

『神々の最大の贈り物は、成長する余地ではないか。不確定な未来こそが、民への祝福であろう』

「ふざけるな」

 沸々と怒りがこみ上げる。成長する余地が魔物と隣り合う日常だと言うのなら、それを覆そうとして奔走したミスリアが滑稽ではないか。

『教団の先人……我に聖気を供給した者ら、そして汝の愛しき聖女が勝ち取った未来を真摯に愛せぬか、愚か者』

 ――そんなもの、ミスリアが居なくならない未来に比べたら然程の価値も――

『偽らずとも良い。己の欲を投げ出してでも、聖女の意思を尊重したのだろう。そこに、汝の想いは無かったのか?』

「…………」

 想いだなどと。改めて考えてみたが頭の中は真っ白だった。

 ふと、漂う空気に新たな風が吹いた。

 記憶の層がドロリと融けては、再構築される。


「今日は楽しかったですね」

 ――ああ、別れてまだそう時間が経たないはずなのに、思い出の色がひどく懐かしい。これは、何時の記憶だろうか。はっきりとは思い出せない。

 ゲズゥは声を弾ませる少女の方を振り向いた。

 自分にとっては楽しくもなんともない日だった気がするだけに、彼女がどうして日差しと同じくらいに明るい表情をしているのかがわからなかった。

「決まった予定が無いからと朝はいつもよりちょっと遅くまで寝て、朝ごはんのパンと一緒に紅茶をいただいて……午前中は溜まっていた繕い物をやっと全部直せました。お昼の後は街中を散歩して、午後のお茶もして、図書館で少し読書していって。夕ご飯はこの通り、美味しいポットパイを食べることができました」

 ミスリアは終えたばかりの食事の跡を満足そうに指差した。こうして並べ立てられると充実した日に聞こえなくもないが。

 食後の茶を口に運びながら、とりあえず相槌を打っておいた。

「いくらこれが大事な目的を果たす為の旅だとしても、私はこんな日がもっとあっていいと思うんです」

 そうだな、とまた些か気の入らない返事をする。

「偉い人とバッタリ会うことも無ければ、浄化や魔物退治の依頼もありません。これで明日までトラブルに遭わなければ完璧ですね」

「言った傍から攫われるなよ」

「別にこれまでだって好きで攫われたわけじゃないです!」

 と、少女は両の拳を食卓に叩きつける。

「……当然」

 適当に言っただけのことに意外に面白い反応を貰えて、ゲズゥはどこか楽しくなった。

「私は被害者です! ちゃんとゲズゥが守って下さらないと……って、責めたいわけじゃなくて」

「事実だ。責めればいい」

「いいえ……何があっても、毎回、助けに来てくれましたから」

 ふふ、と何故かミスリアはそこで朗らかに笑った。

「迷惑ばかりかけてますね。でももう少しだけ、お付き合いいただけると嬉しいです」

「ああ」

 迷惑はお互い様だと思ったが、言わなかった。

 数分間、静かに茶を啜った。忙しそうに走り回る給仕の姿が視界の端に入る。店にとって最も客の多い時間帯だからか食べ終わった皿がなかなか片付けられないし、支払いもできない――が、急いでいないので、それらは別に気にならない。のんびりと茶を飲み、カップが空になるとまたポットから補充し、食事からの後味をゆっくりと流していった。

「平和ですね」

 んんん、とミスリアは椅子に座ったまま伸びをした。「そういつも劇的な出来事ばかりじゃたまりません。きっとこんな瞬間の為に、頑張ってるんです」

 ――夕焼けの赤みを帯びた少女の横顔はいつもと違って見えた。

 初見では見逃していたが、こうして記憶を再現していると、やや伏せられた眼差しの奥に秘められた情熱に気付いてしまう。

「こんな日がずっと続けばいいのに」

「そうだな」

 はっきりと肯定すると、ミスリアはきょとんとしてから、はにかんだ笑顔を見せた。

 ありふれた日常の中の大して特別でも何でもない日。平穏を望む心を同じくしていると、なんとなく感じられた瞬間だった。


 泣いている、と自覚した時には本来の時間に戻っていた。

 天と地の境界に夜明けの気配が迫っている。おそらく一生の間にそう何度と目にかかれないような眺めだが、感動していられるような心境ではない。

 遥か下の地上に、わらわらと人が集まっているのが見えた。何人かが異変に気付いて、近所の者を起こしに回ったらしい。

 地上の人々は聖獣の後を追うように走り、追いつけないとわかるとその場に跪き、降り注ぐ金色の光に向かって両手を伸ばした。

「なんて神々しいお姿だ!」

「信じられない、尊き聖獣をこの目で見られるなんて……!」

「神々の恵みだ!」

「救済だ! この光景を永遠に記憶に刻んで……いや、絵に起こさないと!」

 悦び、涙する人間が続出する。抱き合う者も居た。

 地上の反応をよそに、聖獣は全く翼を休めない。村の上を通り過ぎると今度は丘の上を飛んだ。山や谷を越え、河を飛び越える。ひたすらに民家の上に聖気を振りまき、瘴気の濃い地を祓って行く。此処がアルシュント大陸のどの辺りに該当するのかは知れない。あれから何時間、或いは何日経ったのかも知れない。

 涙は拭わなかった。

 ミスリアが勝ち取った未来が、伸び伸びとこの下に広がっている。

 価値が無いなんて、本気で思っているわけがない。

 彼女もまた欲を持っていた。それを手放してでも大義に身を投じようと選んだのは、心の広さゆえだ。自身と愛する者たちの平穏な一瞬の為に、ミスリアは頑張った。そこに留まらず、顔も名前も知らないその他大勢の人々の平穏の為にも、頑張りたかったのだろう。

 ――感化されていた。

 ミスリアの目標を応援しようと思っている内に、目標そのものにも感情移入していたらしい。

 かつて姉を真似て聖女になったミスリアは、自分だけの信念を定めようともがいていた。そしてあの日、ポットパイの残りカスを前にして明かした胸の内は、濁りない彼女自身の本心――聖女ミスリア・ノイラート自身の言葉だった。

 ならばゲズゥ・スディル・クレインカティは、何を選ぶのか。半端な覚悟で人智を越えた存在に挑んだのは、何故か。

『可愛いな。ヒトの優柔不断は、何時の時代も可愛い』

 聖獣が笑っているのがわかる。もはや不快感を覚える気力すら沸かなかった。

『そろそろ、形を成せるようだ。吐き出してやろう』

「吐き出す」

 すかさず復唱した。

 項垂れていた頭を素早く上げた。

 この巨大な異形は今何と言ったか。

 ――吐き出す、だと?

 口が無いのにどうやって――との余計な思考は隅に追いやって。

「…………飛行に付き合わせたのは」

 唸るように低い声で問い詰める。

『長時間、我に触れていれば、強制的に穢れが払拭される。汝とその血筋の業はこれのみで浄化できるものではないが、少なくとも、いくらか運命は緩和されたであろう』

 絶句した。

 呆れた、のかもしれない。

「何の為にわざわざこんな真似をする」

 まさか。まさか、最初から。「吐き出そう」と思えば、出せるものだったのか。

『はて。問えば何でも教えて貰えるとでも思うたか。己で考えてみよ、愚か者』

 反論する間も与えられず。

 ――振り落とされた。

 これは死ぬ。万が一死なずに済んでも、相当痛いはずだ。

 聖獣は一体何がしたいのか、皆目見当が付かない。

 そんなことを思いつつ、落下の最中、肌寒さに震えた。さっきまでは緑の残る暖かそうな地域に居たのに、また移動していたのか。聖獣と共に在ると時間の感覚が歪んでしまうようだ。

 さてどうやって着地すれば少しでも痛くなくなるか、そろそろ対策を立てねばなるまい――と、身を捻って反転した。耳朶を打つ轟音が、近付く地面が、恐怖心を煽る。

 ふいに、視界に大きな動きがあった。

 真下に現れた水晶の並びに驚き、瞬く間に巨大な背の上に座り込んでいた。

『どうだ、我の守護者を務める気になったか』

 などとほざく化け物に対して――

「ふざけるな」

 ――とゲズゥは吐き捨てた。

 わざと恐ろしい目に遭わせてから助け、好感を得る作戦であるならばとんだ茶番である。

 聖獣は悪びれもせずに答えた。

『どの道、これから贖罪に忙しそうだな。致し方ない、何時いつか汝らの子孫を貸せ。それで手を打とう』

「寝言は寝てからにしろ」

『おお、冷たい。我はこんなにも汝らによくしてやったのに。敬わぬか』

「…………」

 もう何も言うまい、とゲズゥは胡坐をかいて瞑想し始めた。一体此処で何をしているのか――再度振り返りそうになる己を律する。

 ――また、逢える。

 希望の形を想うだけで、心は逸り、そして凪いでいった。

 やがて聖泉の域に戻った。先ほどの扱いとは打って変わって聖獣は今度は丁寧に地に降ろしてくれた。聖獣の背の温もりに慣れてしまった後だと、雪の積もった地面はやたらと冷たく感じられる。

 それなりの時間が経っているのだろう、そこにリーデンの姿は無かった。

『個と個の軸が収束した。望んだ結果は、もたらされる』

 ざわりと冷たいものが背筋を這いあがった。これまでに気安く話しかけてきた時とはてんで違う、底知れない畏怖を植え付ける「声」だ。身構え、声の主に向き直る。

 巨大な異形の輪郭が膨張した。間近で見上げると、背景の紫色の空と相まって、奇怪な有り様だった。

 聖獣の顔部分を覆う水晶の群に割れ目が現れた。亀裂はたちまち大きくなり、ついには空洞と化した。空洞の中は六色に煌めいていて奥を覗くことができない。眩しさに、ゲズゥは目を眇める。

 空洞が広がっていく――

 後退った。この穴に捕まってはいけない、本能がそう警告している。

 ――あんなものの中に、望む答えがあるのか?

 霊的な現象に関して決して詳しいとは言えない自分にも、あの「口」の異質さには瞬時に気付けた。

『汝の勝ちだ。何故、賭けであったかは自ずと知れよう』

 空洞から光の帯が無数に躍り出す。避けようにもそれらの追跡はあまりに速く、あっという間に抱き込まれた。

 形容のしようがない感覚だった。神経という神経が焼かれたかと思えば、微睡みに抱かれ、感情も思考も響かない海に連れ去られた。

 意識を失ってはいない、と思う。しかし目が覚めているとも決して言えないような状態だった。

 ゆらり、ゆらり。限りない海に漂う。


_______


 五感と再び自我が繋がった時、相も変わらず時間の経過がよくわからなかった。

 夜空を見上げているが、記憶の中で最後に見た夜空とは大分違う。月の満ち欠けによれば数週間は経っていそうだ。

 ひどい目に遭ったものだ。よもや、神などの有無に何ら執着せずに生きてきたゲズゥが、神々の遺物とこんな風に過ごすことになろうとは。

 寒々しい空に向かって短いため息を漏らした。白い息が空気に溶け込んでなくなるのを見届けると、その向こうに、摩訶不思議な現象を見つける。

 光がうねっている。幾重もの薄緑の線が伸び、波打って、広がる。時折、色も変化した。

 今更何を見たところで驚くものかと、目を瞬かせる。

「きれいですよね」

 鈴が転がるような澄んだ音が、冬の静寂に波紋を投じた。

 ここしばらくの間にしてきた経験を思えば幻聴だと一蹴したくなるのも仕方がない。思わず片手で、耳を叩いた。

 そして、新たな発見をする。自分が雪の床に寝転がっているのは察していたが、どうにも、頭と首の後ろだけ寒くないのである。むしろ温かくて心地良い。その感触は、押し固められた雪とは比べるべくもなく柔らかい。

極光ノーザンライツって呼ばれてるらしいです。極北の地でしか見られないそうですよ」

 幻聴はこちらの戸惑いなどよそに、静かに語り続ける。

「そうか。俺は、てっきりあれも魔物の末路かと」

「……自然現象って聞いてます」

 上から柔らかい笑い声が降ってきた。

 幻にしては受け答えがはっきりとし過ぎている。

 顔が見たい。

 首を後ろに折り曲げんとするも、その試みを制する手があった。

 頬骨に触れる指の感触は間違いなく生身――生きた人間の皮膚だ。雷に打たれたかのような衝撃が、全身を駆け巡った。息のし方が思い出せない。

「…………ミスリア」

 他にどうすればいいかわからず、名を呼んだ。

「はい」

 返ってきたのは、絞り出されたような、苦しげな返事。逆光の所為か顔が翳っていて見えない。

「おかえり……と言うべきだろうな」

「――っ、はい。ただいま、かえりました」

 熱い涙が数滴、顔に降りかかった。左手で拭ってみる。次には手を伸ばした。掌にすっぽりと収まる、少女の柔らかく弾力のある頬の質感は、幻でなければ夢でもない。

 そういえば別れ際では逆の状況だったのを唐突に思い出し、可笑しくなる。

「何で笑ってるんですか?」

 少女が心底不思議そうに訊ねてくる。

「……いや」

 今の心境を表す言葉を、ゲズゥは持っていない。何から訊けばいいのか、何から話せばいいのかも、わからなかった。

「大変だったな」

 だから、労わる言葉を選んだ。

「ありがとうございます。でもゲズゥほどじゃないと思いますよ」

 苦笑が返る。

 ミスリアはそれからゆっくりと話をした。肉体と魂を聖獣に取り込まれた先にあった陶酔感や、自分が元々霊的なものに同調しやすかったこと、聖地を巡ったことにより聖獣との繋がりが不動的な濃さになっていたことなど。

 最初は肉体を残したまま、聖気だけを抜き取られるらしい。そうして魂が融合して、終いには肉体も分解されていく。あまりに時間が経てば戻れなくなる。今のミスリアは、肉体と魂を取り戻せたものの蓄積した聖気を根こそぎ失った、ただの一般人だという。

「聖獣とひとつになると、全知全能になれるんです。物凄い高揚感で……でも私は人間に戻りましたから、真理を手放してしまいました」

「ならどうやってお前は戻って来れた」

 ミスリアはすぐには答えなかった。緩く握った拳を差し出している。そしてくるりとその手を翻し、大事そうに持っていたものを提示した。

「お返しします」

 ギョロリと睨み返す白い眼球。目が合うとそれはバッと跳んで、あるべき場所に収まった。

「……危うく存在を忘れるところだった」

 左の眼窩の前にそっと手をかざす。異物感は、あまりない。

「ご、ご自分の眼なのに。視界を共有してたのでは」

「さあ。言われてみれば、前触れもなく古い記憶の再現を強いられてはいたな」

 あの不可解な行程は、全知全能の存在の中に在ったからなのか。

「というより、いつの間に私にくっつけたんですか?」

「服を返却された時」

 そう答えた途端、そういえば前よりも肌寒い気がして、重ねていた衣類が一段減っていることに気付く。

「すみません。また拝借してます」

 ミスリアはバツが悪そうに舌を小さく出す。上着を借りる為には防寒コートと併せて脱がせる必要があっただろうに。過程を思い出して気恥ずかしくなったのか、早口で話題を変えた。

「えっと、それも、『正解』だったみたいです。元々は魔に通じるものでも、今では根本でゲズゥと深く結び付いているから、聖獣に取り込まれても浄化されずに済んで……ふわふわと漂ってる中、どれくらいかかったのかはわかりませんけど……見つけたんです」

 左の眉骨辺りに、少女の指先の温もりが掠った。

「きれいな眼だなって思ったら――私は、私という『個』を思い出せました」

 涙がまたぱたぱたと落ちてきた。頬を度々打つ優しい圧力が、愛おしいと思った。

「あの化け物は……結果を左右する術が無いと言っていたのも、嘘か……」

「尊き聖獣は、意地が悪いですよね。あのお方にはそういう概念は無いみたいですけど。あそこで貴方が踏ん張らなければ、何も教えず、私を内包したまま飛び立ってましたよ」

 そしてミスリア・ノイラートはこの世から自然と消滅していたことだろう――

「なら俺のしたことは無駄じゃなかった、か」

 ミスリアがふるふると頭を振っているのが、微かな空気の流れから伝わる。

「無駄じゃないです。全然、無駄じゃ、なかったですよ」

 腹の底で渦巻いていた毒の残りが、融けていくのを感じる。

「――逢いたかった」

 はい、と小さな返事があった。鼻を啜る音が続く。

「はい。私も、逢いたかった、です」

 少女の頬に触れたままの掌が、涙の洪水に巻き込まれた。そこにもやはり、愛おしさを覚える。

「聖獣とこの広い大陸を回った。けど結局何処よりも俺は、お前の傍でないと、まともに息ができないらしい」

「私も、貴方の傍でないと、私ではないみたいです」

「この先も離れることがあっても。何処に消えようと、俺はまた、お前を捜し出す」

 ミスリアが強く頷くのを感じた。

「お待ちしてます」

 花のような香りと共に温かな髪が顔にかかり――

 ――額に、そして左の瞼に、柔らかな口付けが落ちた。

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