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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第五章:常しえに安らかなれ
63/67

63.

 限界までに研ぎ澄まされた精神に、喧騒など届かない。

 戦闘に特化した種族と言われていながらも、自分たちが研いできた最大の武器は生身の身体能力に非ず。ほかならぬ「集中力」こそが、他人を出し抜ける強みである、と。

 少なくともリーデン・ユラス・クレインカティはそのように考えていた。

 ゆえに――同じくそれを極めた他者には、純粋な感嘆を抱いてしまう。

 視界の中を舞うように動き回る中肉中背の男は、防寒着の妨げなどまるで感じさせない軽やかな動きを見せる。

 同等以上の素早さのみならリーデンにだって出せる。

 男の身のこなしには、捉えがたいリズム感があった。そしてそれが己ではなく敵方の「呼吸」を逆手に取ったものだと、後方から観察している内に気付く。

 誰しも決定的な行動をする直前に、無意識に呼吸を変えてしまうものだ。微細な変化を拾える聴覚、それに従って迷わずに飛び出せる思い切りの良さ。

 フォルトへ・ブリュガンドは自身が戦闘種族の血筋ではないと言い張った。ならばこの対応力と剣さばきは、あくまで後天的に身に付けたものだということになる。

 狭い通路で待ち構える敵影は七つ。

 三日月刀が閃き――

 右に立っていた二人の前を通り過ぎた頃には、二人とも首から血飛沫を散らしながら倒れ。

 左側から切りつけてきた一人と刃交えるのかと思えば、その横をすり抜けて、アバラの間を貫いた。

 更に通路を突き進む道途、左右から飛び出て来た二人に前後を挟み撃ちにされそうになるも、一回転。綺麗な血の色の円を、水平に描いていた。

 ひゅう、とつい口笛を鳴らした。

 残る敵がフォルトへの背後を取ろうとしている。そんな彼らの顔面に、リーデンは当然のように鉄の輪を沈めた。

 通路はこれでひとまず安全だ。敵の断末魔やら呻き声やらを楽々と踏み越え、フォルトへの横に並ぶ。

「見直したよ。お姉さんが君を高く評価するのも頷ける。この調子だと、僕は別に要らなかったんじゃない?」

「いいえ、そんなことないですよ~」

 フォルトへは、照れ臭そうに笑って前髪を弄った。本来木炭の色であるはずの巻き毛に、固まりかけた血がくっついている。それは敵の人間の血であり、魔物の体液でもあった。

「それはそうと、こっちでいいんだね」

「はいー。通路の先から、あの女性にまとわりついてたのと同じ、ユリの花の香りがします」

「オッケー」

 駆け出した。

(今度こそ本人が居るといいんだけど……)

 状況は切迫している。魔物を信仰する集団の拠点まで辿り着くまでに、相当に時間がかかったのだった。

 そこからがまた厄介である。

 下手に大事にすれば敵がこちらの意図に気付いて、先にミスリアを殺すなり隠すなりしてしまうかもしれない。戦い方の性質上、派手に立ち回りそうなゲズゥとユシュハを外で待機させ、リーデンたち二人が潜り込む運びとなったのだった。

 攫われたミスリアの居場所を迅速に特定するには敵の頭を押さえるのが最短の道――そう考えて、現在はフォルトへの嗅覚を頼っている。と言っても既に一度空振っていた。ドライフラワーにされたユリ科の花が大量に蓄えられた、怪しげな区画に迷い込んだのである。

 ついでに言うと、拠点内で何か別の騒ぎが起きたばかりなのか、人々の注意は全体的に散漫としていて落ち着きが無かった。侵入者への対応が遅れている理由はきっとそこにあるのだろう。

(この先にあのクソ女が居てくれなきゃ、困る)

 突き当たりに僅かな光が射している。最も奥の部屋から漏れているようだ――

 急停止した。

 リーデンは三度跳んで後退する。

 部屋の出入口から飛び出た気配のひとつが肉薄した。得物は細身の剣だ。影により相手の顔は依然見えないままだが、構え方から推察する。

(きっと剣筋が実直なんだろーね)

 推測通り、まずは心臓狙いのわかりやすい突きが繰り出された。

 左腕で敵方の剣先を遮り、防寒着の袖を切らせる。切るよりも突く働きを追求した軽い剣が、分厚いコートに思い切り引っかかった。剣士の意識がそちらを向いた刹那、リーデンは右腕の仕込み刀を解放する。

 殴ると見せかけて、相手の下腹部を刺した。

 襲撃者を倒して晴れて手持無沙汰となったので、連れの方に気を配ることにする。そちらに向かった敵は見えない何かに足をさらわれ、もつれさせている。相手を転ばせて隙を誘ったのか。幼稚に思われがちな戦法だが、効果が絶大であるのは確かだ。

(鉄線かな)

 線に転ばされて絡め取られるまでが一秒。可笑しな姿勢で腕を挙げさせられたその男は、恨みの文言を吐く間もなく三日月刀に命を奪われる。

「なんたらじょうで僕らとコトを構えた時はそんなの使ってなかったよね」

 鉄線を掌の上のカラクリに巻き戻しているフォルトへに、小声で話しかけた。

「一般人がいましたから~。巻き添え食らわせたらいけないでしょう」

「ふうん」

 話はそれきりにした。気構えを改め、部屋の中に踏み入った。

 直径三十フィート以上の広い空間の中心に、長椅子が置かれている。両端には人の身長と同等の高さの燭台。

 長椅子に座す女が上半身の衣服をはだけさせて、傍の者に包帯を巻いてもらっている。足元に積み重なる布はびっしょりと血に濡れていた。

 女はこちらの姿を認めて、豪快に膝を叩いた。

「これは驚いた! きみたち、あれを生き延びたのかい!? おそるべき執念だ! 正直ぼくは、きみたちと聖女サマの相互依存を甘く見ていたよ!」

「相互依存じゃなくて、絆、ね」

 憎き女の言動を逐一訂正しても埒が明かないと思い、リーデンは母国語でボソッと呟いた。

「そんなきみたちに敬意を表して聖女サマを明け渡してもよかったんだけど。生憎と、かのじょはもうここにはいないんだ」

 ――此処に居ない!?

 世界が急回転を始めたかのような錯覚に陥った。

 その末に、視線はクソ女の足元で山積みになっている布に向かう。まさか、まさかアレは。女が胸に負っているらしい怪我からだけではなく、別の誰かの血をも吸ったと言うのか。

「きみが何を想像したのかは知らないけど、かのじょは逃げたよ。自分からもっと危ない方へ走るなんておばかさんだよね! 今頃は外の魔物に喰い散らかされてるかも。よくて、凍死しただろうね!」

 女は高笑いし始めた。「かわいそうだね。さぞや心細かっただろうね」

 だがもはや、相手になどしていられない。

「撤退するよ!」

 隣のフォルトへの背中を叩く。

「うえっ!? あ、はい」

 二人して脱兎の如く、部屋を辞した。

 即刻逃げる判断は、広い空間のほとんどを埋め尽くしていた異形を警戒してのことだった。長椅子の背後に佇んでいた影は、雪崩を引き起こした個体と同等以上の大きさである。そんな化け物とやり合わねばならない事態は回避したい。

 逃げながらもリーデンは、小さな聖女の身を案じてやまない。

 女が嘘を吐いたようには感じられない。またもや、空振ってしまった。

(ああやばい。外に出たって……やばすぎでしょ)

 走っているというのに、身震いした。

 捜索範囲が広すぎる。そもそも捜しても間に合うのか。

 このことをどうやって兄に伝えればいいのかわからず、リーデンはしばしの間、途方に暮れた。


_______


 ミスリアの行方を突き止めることに失敗したと、リーデンからの通達が届く数分前。

 ゲズゥ・スディル・クレインカティは、ふいに隠れ場所から立ち上がった。茂みの中に身を潜めて待機するようにと、再三言い含められていたのに、だ。

 勝手な真似をするな! と厳しく囁く、女の声を無視する。

 やたら明るい夜の風景を、念入りに見回した。

 薄赤色の空は無情にも、雪という名の困難を地上に落とし続けている。

 稜線沿いには魔物信仰を宿す石造りの砦がそびえ立つ。

 そこから出入りする人間の姿は未だに目撃していないが、今になって思い返すと、魔物だとしか説明のつかないような不細工な影が出て行くのは、数度見送っている。

 間隔が長かったために気が付かなかった。砦から出て来た異形は揃いも揃って、同じ方角に身を運んだのである。

 行き着いた先に何があるのか、確かめねばなるまい。

「おい! 何処へ行く気だ!」

 女の呼びかけに振り返りもせず、走り出す。

 険しい道のりだった。辟易するほどに、何度も足を滑らせて転んだ。

 雪山とは末恐ろしい地形である――進んでも進んでも限りが見えず、近付いているつもりでも遠ざかってしまう。いつになれば行きたいところへ辿り着けるのか。胃の奥がキリキリと痛んだ。

 ――ごめん兄さん! 聖女さんの居所が掴めなかった! 外に出たらしいって聞いたけど――

 ――ああ、わかってる。

 弟の呼びかけの必死さに反して不相応に沈着な応答をしてしまったのだろう。次は素っ頓狂な返事が返った。

 ――へ?

 ――心当たりがある。確かめに行く。

 そう告げてやると、リーデンはそれきり黙った。

 ゲズゥが平静さを多少取り戻せたのは、光明が見えてきたからにほかならない。

 一旦閃けばもうそれしか考えられなくなる。狂おしく長い数分をかけて、目先の雪原を目指す。

 そして、見つけた。

 何の変哲もないはずの山肌の中の異物。人間並みの大きさの毛玉が二十ほど、ひしめき合っている。

 よく見ると毛玉は連なっており、中心に一際大きな毛玉があった。それらの周りを、イタチに似た形状の個体が幾つかうろちょろしている。元来のイタチと違って三つ頭で、人間の幼児と同じ大きさだ。

 ゲズゥは大剣を構えてその場に接近した。

 魔物は地面を打つ――或いは穿つ――のに夢中で、こちらに気付かない。

 この機に乗じて、一振りで毛玉の群れを切り崩した。すると損傷した毛玉から次々と砂埃が発せられる。

 咄嗟にフードの中で顔を逸らしたが、虚を突かれただけにいくらか吸い込んでしまう。咳き込んだら隙が生じると直感して、ゲズゥは後退した。

 すっかり魔物の矛先がこちらに移っている。

 足や腕に跳びかかる三つ頭のイタチ数体を、蹴ったり殴ったりして払った。体勢を安定させてから剣を両手で右斜めに構え直す。

 助走をつけた。振り下ろす動きは右上から左下へ――ぼぞ、と鈍い音を立てて毛玉の残党は裂かれた。今度は吸わないように、息を止めたまま埃の雲を走り抜けた。

 走り抜けた先で待ち構えるイタチの魔物が三体。腰を低くして両手首を翻し、大剣を左から右へと横に薙ぐ。三体の内二体は腸をぶちまけて地に沈んだが、三体目は巧妙に剣の軌道を避けた。

 けだものの顎がゲズゥの喉元を求めて開かれる。

 上体を捻って喉を死守した。結果、三つ頭のひとつがゲズゥの左肩に噛み付いた。防寒着の下にも実は革の鎧を着用しているため、痛みはほとんど感じない。

 膝を折った。左肩を接点に立てて、雪の固まった地面に体当たりした。

 魔物は苦痛にのたうち回る。絶叫の三重奏ががひどく耳障りだった。ついでに、肩が衝撃で麻痺してきている。

 それでもゲズゥは左肘でイタチの腹を連打する。叫び声が鎮まるのを見計らって片膝立ちになり、刃で息の根を止めた。無力化した魔物の破片はこのまま積雪が進めば脅威ではなくなるだろう。

 やっと一息つけたところで。魔物たちが取り囲んでいた箇所を見つけ出し、近くまで這う。

 何と、地面に穴が空いていた。

 その幅は目測二フィート(約61cm)。毛玉群が邪魔していなかったら、イタチの魔物ならこの穴を通れたかもしれない。

 だがそんな過ぎたことよりも、穴の内容物だ。人間エサがより多く居たあの砦からこんな何も無いところまで魔性を引き寄せられるものを、ゲズゥはひとつしか知らない。

「ミスリア」

 闇の底へと呼びかける。衣擦れの音すら聞き逃さないつもりで、耳を寄せた。

 静かだ。地上では風がうるさく吹き荒んでいるだけに、地中に頭を突っ込むと余計に静かに感じる。

 聴こえなかったのか、もう一度呼ぶべきか、それとも怯えて出て来ないのではないか、と色々悩んで、身を引きかけたその時。

 衣擦れというよりも、葉擦れの音がした。やがて紫色にも見える細い手がぬっと穴の縁を掴んだ。指先は赤みを帯びていて感覚が無さそうだ。

 痛々しい。一体、どれほどの時間をこうして屋外で過ごしていたのか。

 汚れの固まった栗色の髪に続いて、蒼白な顔が穴の中から上がってくるまで、ゲズゥはただ見守った。むやみに手を貸したら拒絶されるのではないかと思ったからだ。

「……こんなところに居たか」

 目が合った途端、深い安堵のため息を吐き出した。吐いた白い息が少女の頬にかかり、一瞬、まるでそこだけが熱を取り戻したように見えた。ミスリアは僅かに震えた。次いで大きな茶色の瞳を瞬かせて、じっとこちらを見上げる。

 その瞳が、あまりに虚ろに見えた――

 ――認識されていない?

 ゲズゥはよくわからない焦りを覚えて、両手を伸ばす。衝動だったが、多分肩を揺すろうとでも思ったのだろう。

 それを、腕にしがみつく力が阻止した。引きずり込まれそうなほどに強い力だ。驚き、反射で足腰から踏ん張る。

「落ち着け」

 おもてを改めて眺めやりながら、呼びかけた。ミスリアは堰を切ったみたいに大泣きしていた。途切れ途切れに何かを訴えかけているが、風の音が邪魔で聴こえない。

「おい、」

 朱のさした顔、嗚咽、寒そうに赤らんだ鼻。次第に、不快感にも似たざわめきがゲズゥの胸の内に生じる。

「ミスリア!」

 額を近付けて怒鳴った。ようやっと、泣き声が止まる。

「……あ」

「泣き止め。鼻水が凍る」

「はな、みず……」しがみついていた手が離れた。そのまま鼻の下に触れて感触を確かめると、ミスリアはきょとんとした顔になった。「すごい。本当に凍るんですね」

「お前が隠れていた、その穴は何だ」

「あ、えっと、偶然見つけて……動物の巣穴か何かみたいです。結構広いですよ」

「入れろ。吹雪をやり過ごす」

「わ、はい!」

 モグラの如く、少女は穴の中に引っ込む。

 ゲズゥはゆっくりと穴の中に身を下ろし、トンネル状の内側の壁を掴んだ。防寒着のコートを脱いで穴の蓋代わりにし、その上に剣を載せて簡易的な重石とする。

 戸締まりも終えたので土を掴んでいた手を放し、滑り落ちていく。ゲズゥは屈んだ体勢で着地した。

 落ちた先には枯れ葉と枝の感触。そこで、手を伸ばして天井の位置を確かめる。流石に立ち上がるのは無理だが、膝立ちになれる程度の高さはあった。

 火を点けるぞ、と闇に向かって言った。目がまだ慣れないため姿は見えないが、気配があった。

「どうぞ」

 了承の声が返るよりも前に手を動かしていた。壁沿いに小さな焚き火を作る。

 この場合は穴の中心に、ちょうど二人の間に割り込むように焚いた方が身体を温めるには効率的だったろうに、なんとなくゲズゥは中心から横にずらした位置を選んだ。

 炎から滲む熱に温まりながら、リーデンに状況を連絡する。

 ――聖女さん、見つかったの!?

 ――無事だ。とりあえず悪天候が過ぎるまでは地中に篭る。そっちも気を付けろ。

 ――大丈夫、かまど作ってるよ。はー、でもよかったー……後で合流しよう。聖女さんには、おやすみって言っといてね。

 会話はそこで終わった。その内容を、おやすみと言っていたぞとの報告も込みで、ミスリアに伝えた。

 当のミスリアは、わかりましたとだけ答え、自分の指を噛んだり手の甲をつねったりしていて挙動不審だ。その様子に、攫われていた間に精神に悪影響を及ぼすようなことをされたのかと想像する。

「どうした」

 思わず問うた。素早く顔を上げたミスリアは、しかしふるふると頭を振った。

「なんでもありません」

「…………」

 誤魔化そうとしているのかと思い、訝しげな顔で応じる。

「なんでも、ないんですけど……また会えるとは思ってなくて。夢、じゃないかと、確かめてるんです」

 ミスリアは早口にまくし立てた直後、目を逸らした。

 二度と会えないのではないかという疑念は、こちらも強く抱いていたものだが――。

 ゲズゥは焚き火に照らされた頬を見つめる。涙筋の他に、先ほどは気付けなかった、茶色く変色した痕があった。

 手袋を外し、一思いに互いの膝の間の距離を詰める。

 顔は依然逸らされたままだ。それを両手で包んで、半ば強引に上を向かせる。掌に触れる肌は冬の空気に乾燥させられていて、普段の張りをすっかり失っているように思えた。

 そんな中でもはっきりと――でこぼことした触感をもたらす痕を、右手の親指の腹で拭ってやった。乾き切った薄片はくへんが、抵抗なく剥がれ落ちる。

「この血は」

 訊くと、茶色の双眸が頼りなげに視線を絡めてきた。

「血……? あ、はい、きっと返り血です……。いただいたナイフで、女の人を、切って……」

「そうか」

「わ、私は。ひどい、ことを……いえ、あれでよかったのです……よね」

 何故言葉を濁すのかが理解できない。恐ろしい出来事を思い出しているのだろうか。

「尋常じゃない目に遭ったのはわかる。もっと早く来てやれなくて、悪かった」

「そんなっ! 謝らないで下さい! そちらも大変でしたのに、私こそ自分の身くらい自分で守れなくて、すみません」

「いや。お前が此処に居ることが、自分で自分の身を守れる証明だ。よくやった」

 そう否定してやると、ミスリアは唇を噛んで俯いた。やはり、ゲズゥには少女の心中がわからない。

「…………それにしてもひどい恰好だな」

 胸部分を派手に切り裂かれた肌着を一瞥して言った。しかも布がぺらりと開いた先から下着が露わになっていて、随分と寒そうである。

「ひっ! す、すみません、はしたない姿で。お目汚しを」

「……? 扇情的ではあるが」

「せんじょうてき……!?」

「はしたないと表現するのは不的確だ。自らそうしたんじゃないだろう」

「そ、そうですね」

 ともすれば劣情を催すこともあるだろうに、疲労もあってかそんな気分ではなかった。

 そもそも、現在ミスリアに抱く感情や、関係性の捉え方があまりに複雑で不明瞭だった。

 聖女ミスリア・ノイラートとはかけがえのない存在であり、身近な少女だが、人を大切にするというのがどういうことかまともに学んで来なかったゲズゥには、どうしてやればいいのかがわからない。

 ミスリアの願いを支え、寄り添うつもりだった。避けられるようになった昨今では、繋がっていた気がした糸が――何をすれば余計に絡まるのか、それとも完全に切れるのか、視えなくて逡巡しているところだ。もっと平たく言えば衝動と理性の間で揺れている。理性によって距離を置き、衝動によって詰めてしまうのである。

 ごちゃついた行動動機を整理し切れなくて、ますます疲れる。

 手を放して一歩身を引くと、ちょうどミスリアは身をよじって激しく震えた。

 今からその調子では、寒くて寝付くことなど到底不可能だろう。ゲズゥは自身が断熱用にコートの下に着ていた毛編みの上着を脱いで、華奢な肩にかけてやった。

 そうしてやる間も茶色の瞳は絶えずきょろきょろしていた。

「まだ寒いか」

「おかげさまでとても温かいです。ありがとうございます」

 と、少女は心底温かそうに微笑む。

 重ねていた服の層を一枚脱いだばかりだというのに、その笑顔が見れただけで、つられて内から温かくなった気がした。

 それからゲズゥは、自らが携帯していた少量の水と食糧を差し出す。ミスリアがそれらを残らず胃の中に流し込むのを、黙って見守った。

 頭上の吹雪はひたすらに音量を増すばかりだが、この空間では、控えめな咀嚼音と焚き火の跳ねる音だけがしばらく響いた。

 眠気が意識に紛れ込んできた頃。

 あの、と小さく切り出す声が聴こえた。いつの間にか下ろしてしまっていた瞼を、おもむろに開ける。

 焦点の合わない視界に、少女の輪郭がある。サイズの合わない上着の袖にいつの間にか腕を通したのか、余った布を膝上に揃えてちょこんと座っている。

 近い。驚いて目を瞬かせた。

 そして、違う理由で驚くこととなる。

「生きていてくれて、ありがとうございます」

 ――心臓が止まった気がした。

 これほどまでに真摯な感謝を、これほどまでに嬉しそうな顔で向けられたことが、未だかつてなかったからだ。

 母の亡霊から受け取った慈愛に匹敵する、深い情を感じた。透き通るような純粋な想いを。

 たとえ思い込みでもいいと。この後、また突き放されてもいいと。

 以後、掃き溜めにて人生を送らされることになっても、この瞬間に受けた感慨を二度と忘れることはないと――明日も太陽が上がるであろう事実への確信以上に、確信が持てた。

 ゲズゥ・スディル・クレインカティの人生に於いて、死んで欲しいと望む人間よりも、生きて欲しいと望んでくれる相手の方が遥かに貴重だった。貴重なものは大事にするのが、道理である。

 ――などと考えはしても、思い通りに言葉に変換することができず。

「…………」

 声の出し方を忘れたまま、行き場の無い感情を喉奥で疼かせる。

 衝動のままに、小さな身体を掻き抱いた。

 言葉にできない言葉が、こうしていれば欠片でも伝わるのではないかと、もしかしたら思ったのかもしれない。

 想いを同じくしていること、お前こそ生きていてくれてありがとう、との想いを。

 こちらの腕の中にすっぽり収まったミスリアが、甘えるように擦り寄ってくる。細い腕がしっかりと抱擁を返した。

 少しくすぐったいぐらいだが、手放すほどではなく、むしろ心地良い感触だった。つむじの冷たく濡れた髪に、微かに顎の先を掠る。

 得難い宝物は簡単に手放せるものではない――

 ――ふと、違和感を覚えて、抱き締める力を緩めた。

 少女の座り方がややバランスが悪く、片側により多くの体重をかけているように見える。腰か脚を痛めたのか、とじっと見つめながら思考した。視線の先を辿ったミスリアが、気まずそうに目を伏せる。

「俺が突き飛ばしたせいか」

「えっと……」

「結果的に、攫わせたようなものだな」

 あの時はミスリアを雪崩の進行方向から逃れさせることに夢中で、敵の女の動向にまで気を配る余裕が無かった。

「うっ、そ、それはそうですけど……でもそうしていなかったら、私は窒息したかもしれませんし! あの時は、あれが最善だったんですよ。気に病まないでください」

 懸命に抗議しつつミスリアは首を反り返らせて振り仰ぐ。

 至近距離で目が合った。

 再会したばかりの時と違って茶色の瞳は澄んでいる。その瞳いっぱいに映る己の輪郭は、薄明りの中でもハッキリと見て取れた。

 不可思議な感銘を覚える。

 鏡の向こうの己の姿に別段何も感じないが、清廉な眼差しの中に浮かぶ己の姿を認めると、奇妙な快感が皮膚を痺れさせた。

 少女の心が映し出す自分は――これまでの自分と異なった、別の未来の可能性を予感させるものだった。

 きっとゲズゥにとってのミスリア・ノイラートとは、出会った当初からそういう存在であったのだろう。

 ――この生涯で。

 与えられたものの一体如何ほどを、返してやれるのか――と、漠然と想いを馳せる。

 そこで突然、ミスリアが「ひいいい」と叫んで後退った。

「ち、近っ……! すみません! あの、私、臭いですよね」

 何故か縮こまって謝り出している。

 今日は何やら否定ばかりしている、とゲズゥは思った。

「いや……比較対象が、この汚臭に満たされた穴の空気じゃなかったとしても、お前はいつもいい匂い――」

「いつも!? そんなにいつも匂いますか……? じゃなくて、か、嗅いでるんですか」

 言葉半ばに遮られる。

「そうだな」

 肯定した。と言っても意識して嗅いでいるわけではなく、気が付いたら嗅覚が香りを拾っているだけであるが。

「野花みたいなさっぱりした匂いだ」

「ひいいいい」

 くぐもった奇声が返った。

「…………」

 少女が頭を抱えてダンゴムシのように丸まっているさまが面白く、しばらく放って置こうとも考えた。が、気になるものが目に入ったため、ゲズゥはミスリアの左手首を掴んで翻した。

 血の痕だ。こちらの血痕は、顔に張り付いていた薄片と違って、色味が茶よりも赤に近い。よく見ると、掌に幾つかの細かい切り傷がある。そっと親指の先で触れてみると、確かに濡れていた。

 顔を上げ、「この傷はどうした」と訊こうとして、止めた。

 ミスリアがあまりにも悲しそうな顔をしていたからである。唇は震え、両目には涙の膜が張っていた。

「ごめん、なさい」

「何が」

「……せっかく、いただいたのに」ミスリアは膝の下から小石のようなものをかき集め、両の掌で差し出した。「砕かれてしまって、こんな欠片しか残りませんでした……」

 黒い石の破片を改めて見下ろす。

 何気なく手を伸ばし、一際大きな欠片を人差し指と親指に挟んだ。冷たい感触が、乾燥した指先を刺激する。

 すぐに何の欠片であるのかを理解できた。しかしそれがわかったところで、この悲しみようは理解できない。

「気にするな。雪山から下りたらまた買ってやる」

 華奢な肩がびくりと跳ね上がった。ミスリアは俯いたままわななき、大粒の涙をぽろぽろと零した。差し出していた手を下ろしたかと思えば、膝の上で拳を握っている。

「その……また、の機会は、もう……」

 か細い声がつっかえながら切り出す。

 どうして彼女はここで涙腺を決壊させるのか。ゲズゥは少なからず戸惑っていた。

 次の一瞬で、心臓が圧迫されたような感覚に陥る。

 断罪を待つよりも重い心持ちで、次の言葉を待った。

「来ないんです」

 全身が「拒絶」したのを感じた。聴こえなかったのではない、受け入れ難いのだ。

 ――自分は果たして、どんな顔をしているだろうか。

 頭の中の冷めた部分が、客観的な視点を求めた。求めたところで、主観と感情が作るがんじがらめの網から抜け出せず、そこに至ることはできない。

 今ならば都合良く共通語を忘れられそうだった。そうだ、伝わらなければ意味が無い。認識さえしなければ、現実にならないはずだ。

「すみません」

 言い方だけを変えて繰り返される詫び言。囁きは耳の穴の中を空しく跳ね返り、脳に届かんとした。

 無視した。彼女が語ろうとしているのが不確定な未来である限り、拒絶し続けていられる。だからこそ、頑なに受け入れようとしなかった。

 数秒経っても口を噤んだままのゲズゥを、ミスリアが不安げに見上げる。

「隠していて、すみません。気付いたのはしばらく前だったんですけど」

 ぼそぼそと紡がれる独白。

「もっと早く言えたらと、思っていました。いいえ、これは貴方からすれば言い訳にしか聴こえないでしょう」

 一語ずつ吐かれる度に、傍らの炎が揺らぐ。四肢に緊張が走った。

「私は」

 やめろ、それ以上は言うな――喉まで出かかった一言を、しかしゲズゥは腹の底に押し戻すこととなる。

 腹部が衝撃に襲われた。

 勢いよく抱き着かれたのである。不意を突かれたために身体は呆気なく傾ぎ、後ろに倒れ込んだ。

 圧し掛かってきた重みは、激しく震えていた。

「私は、山を下りることが、できません。聖獣を蘇らせる為には――」

 ゲズゥの胸板に顔を埋めたまま、ミスリアは秘め続けてきた事実の一切を吐いた。

「…………」

 聞き終わった後――横になっていてよかった、と真っ先に思った。嘔気すら伴いそうなほどの眩暈がしたからだ。呼吸が不自然に速くなり、胃の中に暗い感情が生じた。

 ――ああ、そうか。だからあの時――

 回想した。苛立って終わっただけのあの場面に新たな解釈が加わる。

 長いこと傍に居たのに、心中を察してやれず、その場の激情に任せて髪を引っ張ったりもしたな――と、静かに省みる。

 ゲズゥがそんな不毛な物思いに耽る間、腹の上に乗った小さな身体は尚も震えていた。両手で抱き抱えてやるといくらか落ち着いたが、逆に泣き声が大きくなった。

「強要されたからではなく、他に選択肢が無いからではなく……貴方が自らの意思で、護りたいと思えるような……それだけの価値がある人間でありたいと、ずっと願っていました」

「……前にも言っていたな」

 いつだったか、確かミスリアが好色家の男に攫われて、アリゲーターなどの煩わしい罠を乗り越えてまで助けてやった時に、交わした言葉だ。

「守る価値があると、思いますか?」

 胸につけている革の鎧に、ぐっと爪が立ったのが見えた。

「ある」

「――っ、ありがとうございます。光栄、です……」

「本心だ。お前に話した、『時間』への要求も」

 いつからそう思うようになったのかは、思い出そうとするだけ無駄である。これまでの人生に多くの恩を、多くの潤いを与えてくれたこの聖女は、命ある限りこれからも守るべき存在だと、疑いようが無かった。これからも、彼女が心安らかに過ごせる安全な場所を作ってやりたいと思っている。

 だと言うのに、ゲズゥの中には新たな葛藤があった。

 人を大切にしようとする上で、時として双方の願いが衝突することもあると、唯一の肉親である弟との長年の付き合い方から学んでいる。相手の意思を尊重するか押し切るかの問答。

 ――約束、した。使命を遂行する手伝いをすると。

 しかしもはや、矛盾する願いを抱いてしまっていた。

「あの時、本当はすごく、すごくうれしかったんです! 目的を成し遂げて、旅も終わって当初の取引が無効になっても、それでも一緒に居たい、と。そんな風に望んでもらえて私は幸せでした」

「…………」

 数週間遅れで言い渡される返事を、黙って聞き届けた。

「私もこの世界にそれ以上の何かを望みません。二人、役目を終えた後は次にどんな苦難が待っていようと、変わらず共に歩みたい。それだけです」

 目を閉じても眩暈は治まらなかった。諦めて、再び瞼を開く。

「ミスリア――」

 望んでいた言葉だったはずなのに、素直に喜べない。

 切なげな喘ぎが、服を濡らしていくとめどない涙が、結論を物語っている。

 聞きたくなかった。かと言って、黙らせるだけの気力が沸かない。

「だからこそっ! 報いられないことが! 哀しくて、悔しくて! 申し訳なかったんです!」

「わかった。わかったから、ゆっくり、息をしろ」

 片手で背中をさすってやり、残る片手で思いっきり抱き締める。加減を誤ったのか、嗚咽が一瞬で呻き声に変わった。すぐに力を緩めた。

 嗚咽の間隔が長くなり、やがてはすすり泣きになる。

「せめて距離を置いて、あわよくば、き、嫌われてしまえば……別れも楽になるかなって、考えて」

「…………なるほど」

 今更その程度のことで嫌えるものでもない、とは口に出さず。

「でも、辛かったんです。後腐れなく別れる為なら……その方が誰も傷付かなくなるって、頭ではわかっているつもりでも、寂しかったんです。ごめんなさい……何をやっても、半端で……ごめんなさい」

 ――痛ましい。

 それは同情を超えて、共感だった。自分の元の心情など隅に押しやられ、とにかく胸が痛い。

「謝らなくていい。お前を、責める気は無い」

 泣き止んで欲しい一心でそう言った。実際にはゲズゥの中で並々ならぬ怒りが育っていたが、今それを前面に押し出すのは得策ではない。

 こちらの胸の上で突っ伏したままの少女は、いやいやをするように頭を振った。涙で濡れた衣服が擦れて、なんとも言えない感触が続く。

 その重圧がふと消えた。ミスリアが顔を上げたからである。

 ひどい顔だ。額に髪が張り付き、眼球には赤い筋が浮かび上がり、頬は涙に濡れて、そして唇はいつの間にか噛んでいたのか血が滲み出ていた。

「終わりがもっと苦しくてもいいから、私は!」

 瞬時に心臓を鷲掴みにされたと錯覚した。そんな眼差しと泣き顔だった。

「最期の瞬間まで一緒に居たい……!」

「――――」

 息を呑むしかなかった。

 いよいよ我が身が真っ二つに裂かれたのかと思った。

 辛い。

 などの一言で表せないほどに、痛い。肌を直に通して伝わる嘆きが、脳を揺さぶった。

 激しい葛藤が巡っていく。自我というモノが分裂しそうだ。

 唐突に思い出す、喪失感。村が燃やされ家族をほとんど喪ったと理解した時の、あの虚無感が鮮明に蘇った。

 あれがまた来る。この小さな重みを手放したら間違いなくあれをまた味わうことになる。

 考えるより先に、やはり抱き締める腕に力が篭もった。

 引き返そう、と提案できたなら。たとえ今までに培ってきた経験を、乗り越えてきた苦難を、全否定するような「逃げ」になるとしても。

 ミスリアの憂いを取り除いてやりたい。自らもまた、悲しい未来を避けたかった、が。

 取引、約束、大願――決して蔑ろにできない、それらはどうなる。

 どうするのが正解か。頭が、爆発しそうだ。

 潤んだ茶色の双眸から新しく涙が零れる。思わず人差し指で、拭ってやった。

「ああ、それでいい」

 自嘲気味な笑いを堪え、珍しく、ゲズゥは意図して表情を殺す。

「最後の瞬間まで、一緒に居よう」

「……ありがとうございます」

 やっと少しだけ笑ってから、ミスリアの体から力が抜けていく。

 ゲズゥの視線は壁際の炎へと移った。揺れる色合いを眺めていると、ざわついた気持ちが癒されるからだ。それでも思考は煩く巡り続けている。

 何故、こんな想いをしなければならないのだろう。

 ゲズゥの腹の底に渦巻く毒念は、憎悪と連なっていた。

 ――「お前は」責めない、と確かに言った。その言葉を違えるつもりは無い。

 ならば喰らう相手を見つけるまでのことだ。

 毒蛇は、標的を求めんとして首をもたげる――。


_______


 痛苦に悶えて目が覚めた。

 重苦しい息を、何度も何度も闇の中に吐き出す。

 ああ、これは、自身の味わった苦しみではない。他者のそれに共鳴してしまったものだと遅れて気が付き、胸を撫で下ろす。

(ひどい夢を見たような……)

 内容を憶えていないのが幸いだ。それでも後味の悪さはしっかりとミスリアのあらゆる神経に残っている。

 吐き出す息は目に映らないけれど、まるで瘴気でも吐いているかのような気分の悪さだった。

 いつしか目尻から冷たい感触が流れ出す。

(泣き疲れて眠ったのに、泣きながら覚めるなんて)

 何かがおかしい。

(おかしいのは、私)

 内側から崩れていくような、膿んでいるような。これまでに普通に歩いて来れた方が奇跡だったのかもしれない。

 目を閉じるのが怖い。再び眠ったら、どんな悪夢に迎えられるのか知れない。

 前方をぼんやりと見つめてみる。横たわっているのは巣穴の中の地面で、地上から聴こえてくる風音は吹雪のもので――と、現状についてひとつずつ思い出しながら。

 そうしている内に、ゆらり、と闇の中にありえないものが青白く浮かんだ。

 悲鳴は上げなかった。上げようにも、喉が渇ききっていて痛いのである。

 ゆっくりと溶解されつつある二つの顔は、複製されたようにそっくりだ。その背後には、一度目にすれば二度と忘れることのできないような面妖なシルエット。

(幻だわ)

 膨れ上がる恐怖に、そう言い聞かせる。

(だってこの人たちは)

 カルロンギィ渓谷にて浄化された「混じり物」の代表格だ。彼らがこんなところに居るはずが無い。何せ、ミスリアの手で三人を――

 葬った、のだから。

 全身が金縛りになり、手足が凍ったように冷える。恐怖と罪悪感に圧されて血の気が引いたのだろう。

 来ないで。こっちに来ないで、と切に祈る。

「何を見ている」

 ふいに真っ暗になった。幻影が去ったと言うよりも、視界が障害物で遮断されたために消えたようだ。

 両目を丸ごと覆った温もりからは力強い生命力を感じる。全てを受け入れて包む込めそうな、ざらついた無骨な手。その掌を濡らしていく涙は、掠るだけで熱を帯びた。

「……過去の、罪を」

 神妙に答えた。

 魔物と混じっていながらも、魔物ではなかった。自分が掲げてきた「人間」の定義に最近自信が持てなくなっているが、何度思い直しても、やはり彼らは人間だったという結論から離れられない。

 紛れもなく生きていたのである。そして彼らの生を無理矢理終わらせたのは、ミスリアの判断だ。過ちではなかったと、今でも信じたい――いや、信じている。にも関わらず、罪の意識は常について回った。

「そうか」

 踏み込むわけでもなく、ゲズゥはそれきり沈黙した。

 彼の掌をミスリアはそっと両手で取り、視界からどける。醜悪な幻影がすかさず舞い戻るも、今度はしっかりと見据えた。

「殺した人の顔って、どうやって忘れてますか」

 とんでもないことを訊いてしまったと自覚したのは、質問を呟き終えてからだった。

「特に何もしてないが」

「そ、そうですか。変なこと訊いてすみません」

 もしかしたら聞き流してくれるかもと思っていたところを、意外にも答えが返ってきたので、複雑な気分になった。

(忘れられるのね。流石は鋼鉄の心臓の持ち主)

 過去を背負って生きるには、散った命を絶対に忘れてはいけない、とミスリアは思っている。

(でも時には忘れることも学ばないと、きっと私は私を保てなくなる)

 それが現実だった。聖獣に辿り着く前に寝不足や心労で倒れてしまっては本末転倒――それなのに心に沈殿する負の感情は積もるばかりで一向に減らない――

「……初めて人が殺される場を目撃したのは、五歳の時だった」

 すぐ後ろで寝そべっている青年が、やがてそう切り出した。

「ご、さい」

 驚いてオウム返しにする。

「村を訪れた異邦人が、族長だった父との面談の最中に激昂して剣を抜いた。事の顛末は正確にはわからないが、父は顔色ひとつ変えずにそいつを斬り捨てた。例の湾曲した大剣で」

 ゲズゥは母親と共にその場に居合わせたのだという。

「俺はあの時から、他人の死というものに何も感じなくなったのかもしれない」

「そんなことが……。そういえば、命を奪うことは相克だと言っていましたね」

「ある男の影響だ。老夫婦の元にリーデンを残して去ったしばらく後に、俺は別の物好きに拾われた。数年はその男の元で生活した」

「恩師の方ですか」

 まだ幼かったはずのゲズゥにも親代わりとなってくれた人が居たのだと知って、安心したのも束の間。次の発言で、抱いた印象がひっくり返される。

「拾われたと表現するのは違うな。賊の一味で、人攫いと人身売買にも手を染めていた連中だ。俺を調教し利用したかっただけだろう。調教できなければ、売り払うつもりで」

「え」

 悲惨な内容を淡々と話すので、つい耳を疑った。寝返りを打って表情を窺うも、暗くて何も見えない――焚き火は寝る前に消したのだった。

「その人は、今はどうしてますか」

「とっくに死んだ。一味の他の者と意見が食い違って、あっさり殺された」

「……」

「今になって思えば、あの中では、奴だけが理詰めで『悪事』を正当化したがっていたな」

 ゲズゥは記憶の中にあるその人の言葉を語った。


 ――世界は広そうに見えて実は狭いものだ。自分が生きるだけの「場所」は、別の誰かの空間を減らすことでしか得られない。餓死するならともかく、命を全く奪わずに生きるなど不可能だ。誰も殺さずに、自分が生きる空間を守り続けられたなら、幸せな一生かもしれないな。だがアルシュント大陸はそう容易くない。

 ――物理的空間の話じゃないぞ、運命やら宇宙やら、そういった得体の知れない次元の話だ。自分が生きる為に誰かを殺したなら、そこは運命の分岐点。自分が生き延びて相手が死んだという結果の裏に――相手が生き延びて自分が死んだかもしれない可能性が潜んでいた。

 ――全力で生きろ。そして何の為に生きたいかを自問し続けろ。生きがいを持ち、その価値を愛し抜けるなら、どんなことがあっても人は前に進める――


「俺には奴が何を言いたかったのかは半分も理解できないが、とりあえずそのように言っていたことは、記憶している」

 何の感慨も無さそうにゲズゥがそう締めくくる。

「ちょっとだけ参考になりました」

 ミスリアは素直にお礼を伝えた。

 ――生きがいならある。その価値を愛し抜く覚悟もできている。

(生き甲斐だけじゃなくて、死に甲斐も私は持っている。これって結構幸せなのかも)

 ただ、ゲズゥを置いていくことだけが気がかりだった。「天下の大罪人」にはまだ贖罪が残っている。旅が終わっても、別の苛酷な日々が続くのかもしれない。

(気にしすぎよね。この人の精神の強さを、私はよく知っている)

 きっとミスリアが居なくなった後も、彼は上手く生きて行くだろう。リーデンやイマリナも、末永く元気にやってくれるはずだ。

「いつも話を聞いて下さって、ありがとうございます」

 無意識に手を伸ばしていた。闇の中から指先が柔らかな温もりを探り当てる。触れても、それは逃げなかった。

 なんとなく輪郭をなぞってみると、割れた皮膚が微かに湿っているのを感じ取り――

 吐息が指にかかった。

 急な熱に吃驚する。ついでに、唇を触ってしまったのかと二度吃驚する。

(へんな感じ)

 前にもこんな気分になったことはあった。

 戸惑い。その場から逃げたくなる落ち着かなさ――それらを上回る、甘やかな幸福感が胸をくすぐる。

 右手を引き、余韻を大切に握り締めるように左手で包み込む。

「貴方の傍で眠って……目を覚ますのは、安心しますね……」

 安心したら眠くなってきた。這い寄る睡魔に引きずられて、意識が沈んでいく。

「そういうものか」

「はい……ずっとこうしていられたら……よかったのに」

 瞼がゆっくりと下りた。

「そうだな。お前の居る場所はいつも穏やかだ。この『空間』は…………俺が守る」

 答えた声は、信じられないほどに優しかった。

 ミスリアは一度「ふふ」と嬉しさを表してから、おやすみなさい、の挨拶をもごもごと返した。

 意識が完全に眠りに沈む前に、ああ、と額にかかる短い返事を聴いた。


______


 この夜、少女は秘め事を明かしたことと、それを受け入れて貰えたことによる解放感や感謝で胸を一杯にしていた。

 その時を境に――今度は打ち明けた相手が、秘め事を抱き始めたとは気付かずに。

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