62.
死とは恐ろしいものだ。
誰に教えられなくとも、人は成長の過程でその観念に辿り着く。
死とは境である。
その先に何があるのか、わかっているつもりで生きながらも、真の意味では経験するまで何もわからない。魔物の声を聴くことができても、それは同情であって共感ではない。
聖女になる課程で経た臨死体験と、果たして「本番」は似ているのだろうか。
望まぬ形であっても、覚悟をした形であっても、そこに恐怖は等しく待ち受ける。
(お姉さま……貴女はどうやって乗り越えたのですか。どうして、あんなに穏やかな想いを残せたのですか……)
何よりもどかしいのは――己の一切を代償として投げ出しても、大義が果たされないかもしれないという可能性だった。
引き継ぐ者への信頼。それがあったからこそ姉は心を強く保てたのではないかと、思うけれど。
ミスリアは思い浮かべてみる。たとえば教皇猊下、たとえば聖女レティカ、そしてカイル。自分が居なくなった後、彼らが居るこの世界なら、きっとなんとかなると漠然と思う。
最期の瞬間を怖れる必要はない。
けれどその時期は、今ではない。これだけは絶対に譲るわけにはいかなかった。
(諦めない……諦めちゃダメ……!)
全ては現実を直視しない為の思考であった。
薄着姿で椅子に固定され縛り付けられ、両手両足の自由を失ってしまっているという、現実を。
息を幾つか吸い込む度に、左の腰関節に刹那の痛みが走る。それも足が完全に動かせないわけではないようで、もしかしたらヒビが入っているのだろうか。痛みに耐える方法がわからず、その都度変な喘鳴を繰り返す。
暗い部屋の中は寒い。それなのに全身はびっしょりと汗に濡れている。
眠りから覚めたばかりだというのに、早くまた意識を手放したいのが正直なところだった。
『私は弱いですね』
『知ってる』
心が折れそうな時。思い出すのはいつも、青年にかけてもらった言葉。
この激動の一年を送る内に――嵐の中の大木のように――彼はミスリアにとっての揺るぎない支えとなっていた。
今はただ、無事で居て欲しいと祈るしかできないのが辛い。頭痛がするほどに、辛い。
ふいに、新鮮な空気がふわっと身を通り過ぎて行った。
「やあ。お目覚めかな」
「!」
頭の奥でカッと何かが燃え上がる。
噎せ返るようなユリの香りと共に現れた二十歳くらいの女性は、暗がりでもやはり美しかった。しかし美しさは全てへの免罪符ではない。彼女は悪辣だ。決して、許しはしない。
どう答えても毒素を吐いてしまいそうなので、ミスリアはひとまず黙ることにした。
「改めて初めまして、聖女ミスリア。ぼくはプリシェデス・ナフタ、このムラを仕切る者だよ」
肩から足首まで、もこもことした毛皮のワンピースを纏ったしなやかな肉体を捻って、彼女は腰に手を当てる。
「さて、あれから数時間経ってるよ。きみのお仲間はとっくに窒息してるね」
「……私の仲間を見くびらないでください。雪に溺れようと絶望に溺れようと、あの人たちなら絶対に起き上がってみせます」
黙ることにしたはずの矢先、思わず言い返していた。
「うん、そうだね。そうだといいね」
プリシェデスは嫌らしい笑い方をした――かと思えば、ポケットから何かを取り出して顔の前にかざした。見慣れた仕草である。そう、手鏡に映る自分の像を見つめているような。
手鏡は部屋の外から漏れる僅かな光を反射した。正面ではなく、裏面の黄銅からの反射だ。
ミスリアは目を瞠った。
「それ、は――……! 返して!」
「ぼくはこの手鏡、気に入ってしまったんだ。おくれよ」
「勝手言わないでください」
ふつふつと、嫌悪感が腹から喉を上り、首筋を這い上がる。寒さによる全身の激しい震えに、怒りの感情が追加された。
普段ミスリアは物欲に乏しいが、プリシェデスの細い指が撫でるそれはリーデンからの生誕祝いの贈り物だった。
世界にたったひとつしかないのだ。くれと言われて、はいどうぞと笑顔で明け渡せるようなものではない。
「気が強くて結構。でも状況を見たまえよ。きみに拒否権なんて、存在しない」
「――――は」
突然近付いて来た美貌を前に硬直する。美女は唇を湿らせ、ニタリと笑った。
――ガシャン!
縛り付けられている身でも、びくりと身じろぎした。
咄嗟に閉じた目を見開いて確かめると、恐れた通り、鏡が地面に叩きつけられた音だった。割れたガラスの破片の煌めきは、ミスリアをひどく落胆させた。
「そうそう、尿意を催したらその場でしていいよ。ぼくらは気にしないから」
脈絡なく投げつけられた一言。
「……貴女は人としての尊厳を、何だと思って」
ミスリアは声を低くして返した。威嚇、呆れ、蔑み――いずれにせよ、昏い感情を込めて。
対する女性は身を引いてさも楽しそうに大笑いした。あまりに首を後ろに傾るため、まるで天井に向けて笑っているようであった。
「さほど価値の無いもの、だよ」
「な、ぜ……そう思うのですか」
理由を問う。理解しようと試みる。無駄に終わるとわかっていても、それは押し寄せんとする恐慌の波を御する為に必要な努力だった。
「あのね、聖女サマ」
――これまでの人生で呼ばれた際のどの「聖女さま」よりも、嫌味が込められていたように聞こえた。
「人間の肉体に閉じ込められての一生というのは、魔物となってあらゆる面で解放される一生に至るまでの『序章』に過ぎないのさ。魔物こそが究極。ヒトのあるべき姿だよ」
ミスリアは絶句した。彼女の提示する主張の意味が飲み込めなかった。
翡翠色の瞳に、見入るだけである。
「人間として生きる限り、社会というものに縛られる。たとえばこのアルシュント大陸中、悪女ラニヴィアの作った教団や、旧き神々を掲げる対犯罪組織の監視から外れる場所なんてほぼない。それでなくとも、誰の強制が無くとも、ヒトはひとりでは生きられないものだからね……群れに紛れ、体裁を気にし、面子を守ろうとする。此処にいるぼくらとて例外ではないよ。多少はタガを外しているつもりだけれど」
「……悪女……?」
己が属する教団の創始者への言われようが引っかかり――短く訊き返すも、無視された。
「だからこそ魔物は素晴らしい。人類は魔性と生まれ変わっての第二の人生を目指し、容認すべきだ」
「シェデさん。貴女が魔物に対して甚だしい夢想を抱いていることはわかりました」
突飛過ぎる話を耳に入れる内に、ミスリアの心中には辺りの気温よりも冷ややかな平静さが生じていた。
ちちち。プリシェデスは頭を振りながら舌打ちした。
「誤解だよ。この夢想は実現可能な楽園……乗り遅れているのはむしろ、きみたちの方なのさ」彼女は上目遣いに笑ってこめかみを指で指した。「古臭い思想は捨てた方がいい」
「古臭いだなどと――」
反論の途中に入り口に人の気配が増えた。
「おっと、呼ばれているようだ。また後で話そうね、かわいい聖女サマ」
驚くべき速さでプリシェデスはいなくなっていた。
「――待って!」
叫びは空しく、戸の無い出入り口の闇に吸い込まれるだけだ。できることならばもっと強気に出て「待ちなさい」ぐらいは言いたかったのに。懇願になってしまった。
闇に、静寂に、取り残されるのが嫌で。
数分の間、柄にもなく喚いた。
しかしどんなに騒いでも人影は現れず。人の気配は遠ざかったまま戻らない。
(いや、やめて、こんな……こんなところは嫌……!)
孤独が怖いだけならばその方がどんなに良かったか。
――ォオオオオオ。
空気が唸る音に紛れて、声のような何かが耳に届くのである。
ウラメシイ。カゾクヲカエセ。
アノ女、喰イ破ッテシマイタイ。
イタイ。カエリタイ。イタイ。サムイ。
(お願いやめて、聞きたくない!)
実体を持つことを余儀なくされた亡霊の恨み節。幻聴などでは決してない。同じ建物の中で、魔物が暴れているのだ。彼らは生きた人間の耳に届くような言語を発せないが、聖女には、それらが断片的に伝わってしまうのである。
(人間は数時間も一人にされると発狂するそうだけど。真の意味で独りだった方が良かった……!)
発狂するだろうか。できるだろうか。目を閉じることはできても、両手は椅子の手摺りに縛られていて耳を覆うことはできない。
彼らの有り様は、明白な予感をもたらす。自分がこれからどうなるかへの悪い予感。
よからぬ想像の力を吸って肥大化する、不安の渦。
どこからか響く水音が、血の滴ではないかとわけもなく疑ってしまう。
それにしても魔物の悲鳴は真実このような感情をのせて響いているのか。自分が悪い方へ解釈しているだけとも言えよう。
シニタクナイ。
シネ。
シネしね死ね死ね死ねシネ死ねええええええええええ!
――…いで、こっちに、おいで。あなたも、いっしょに――――
カエリタイ……。
――死ねない! みんないっしょだよ! 永遠に! あはははははははははははは!
「やめてええええええ!」
絶叫していた。束の間、己の声が頭の中で反響する不協和音を凌駕する。そのことに安堵し、喉が枯れるまでに叫ぶ。噎せる。
何処にも届きようが無いとわかっていながらも、「助けて」と繰り返し泣き喚いた。
――ああ、なんと世界は残酷であろうか。
死ぬこともできずに生き続けるのは、恐ろしい。滅ぶこともできずに現世をさ迷うこともまた、恐ろしい。
まだ見ぬ恐ろしい未来を待つ時間は尚のこと――。
この場所が悪いのだろうか、状況が悪いのだろうか。どの方向に思考回路を向けようにしろ、恐怖が付きまとう。
寒い。
身体中の筋肉が、痙攣してこのまま使い物にならなくなりそうなほどに、過剰に震えている。
「かえりたい……」
帰る場所は失われた、と告げた声が脳裏に蘇る。
憎い。なんとなしに現れて、何もかもを奪った女が。
そうだ、抜け出さねば。抜け出して、あの女をくびり殺さねば。仲間たちの仇を討たずして、何の為に生き延びたといえよう。
抗う。無駄だった。
縄が肌に食い込み、激痛をもたらすだけだ。
(ダメ。これはダメ)
何処かに残る理性が訴えかける。
負の感情が瘴気と混じって、自分は生きたまま魔性に転じるかもしれない。
(此処が聖地ならよかったのに。そうしたら、私は意識を手放せた。聖獣という大いなる存在に満たされて、ちっぽけな私は何も考えなくて良いのに)
そこまで思い至って、ようやく胸元の重みに意識が行った。
所持品は大方剥がれている。どういうわけか、教団より賜ったアミュレットは残っている。
感謝する。
聖気を放つと魔物がおびき寄せられるため、今は使えないけれど。
祈りの言葉を捧げるだけの正気が残っていることに、深く深く感謝する。これが一体いつまで保てるものなのかはわからない、が。
ミスリアは誰も見ていない闇の中で笑みを浮かべる。
_______
リーデン・ユラス・クレインカティは、流されて埋もれて轟音が止むまでの間、一秒たりとも気を失わなかった。
視界と同様に思考も真っ白である。
ずっと呆気に取られていた。雪崩の勢いが引いてきた今になってから、ゾッとする。
(……兄さんは生きてるみたいね)
気絶していながらも生きている。優先事項を確認した後、リーデンは今一度思考を整理する。
が、息苦しくてかなわない。
(空気が要る)
口の周りの雪を押し退けて空気のやり取りができるスペースを作る。革の手袋のおかげで指の感覚は活きていた。
空気の保ち方はユシュハたちからの講座で得た知識だ。雪崩が完全に止まると、雪はみっしりと沈んで、埋もれた者は身動きすら取れなくなるらしい。自分を取り囲む雪を圧し、肺や腹を広げる分だけの隙間を、最低限の動きでなんとか作る。
他には何を教えられたか。幸いと、息がしづらくなくなったおかげで頭は冴えてきた。
こういう時は、冷静さが肝なのはわかっている。体を落ち着け、呼吸をゆっくりにした方が体力も空気も温存できる。
(埋もれそうだと思ったら沈まないように泳げ。或いは腕を上げろ、だっけ)
これは既にやりそびれた。腕を上げる主な理由は「方向感覚を保つ」為だという。もう一つの理由は、救護してくれる者の目に付く為だ。
(上下感覚か)
生き埋めというのは、窮屈さに、得体の知れない不気味さがある。
前もってこうなる可能性があるとさんざん頭に叩き込んでいなければ、間違いなく取り乱していただろう。
大声を出そうかと考え、止める。そんな体力を消耗する前に、自分の居る深度を確かめたい。
両目をパチパチと瞬かせ、髪や手足を見つめる。長い時間こうしていれば、充血具合でどっちが「下」かわかるようになるだろうか。
だがもっと簡単な方法を教えられていた。眼前に、小さく唾を吐きつける。それが垂れる方向を確認し、どっちが「上」かを見定めた。
いつの間にか轟音は静まっている。地上があるらしき方向からは、くぐもった風音がするだけだった。
風音が耳に届くというのは、自分がそんなに深く埋もれていないことを示唆しているのではないか。
賭けに出るか。しかし、選べる行動はひとつだけだ。叫ぼうにも上ろうにも、ひとしきりそれを頑張った後は、おそらく二度目は――
(ええい、やってやるよ、自力で這い上がってやろうじゃないの)
まごついても事態は進展しないどころか、悪化するだけだ。
絶賛気絶中の兄はともかく、他の二人が助けに来てくれるとも限らないのだ。イマリナは馬の傍についているだろうから、期待していない。
(せっかくだから僕の手で兄さん助け出してみるか)
それに、ミスリアがどうなったのかがはっきり言って全くわからない。生きていると信じるしかない。助けが必要そうならそちら方面でも活躍して、二人揃って恩に着せてやろう。
雪の中は、水の中を泳ぐのとは大分勝手が違う。ひたすらに動きづらい。息は浅くしていればかろうじてできるが、それでも苦しい。
分厚いコートが重い。南方出身のリーデンには防寒用品のほとんどが煩わしかった。これらを装備していなかったらきっと何もできなかっただろう、というのはわかるが。
(関節曲げにくいなあ)
手袋の指先の革が磨り減りそうなくらいに掘る。
(体勢的に「上」に向けて掘れてよかった)
もしも両腕が身体にぴっしり揃ったポーズで埋まっていたら、どうなっていたか知れない。
息苦しくなる度に、死にたくないという想いが強まる。
まず自分が助からなければ一貫の終わりだ。
後は無我夢中になってもがいた。その時間が一体どれほど続いたのかは不明だが、最中に窒息しなかったということは、数分程度で済んだのだろう。
ひゅう、と左手の指に寒風が絡まった瞬間。
泣き出しそうなほど安心した。
(出られた!)
そこでようやっと、始終自分の中で渦巻いていた恐怖を自覚した。四つん這いで近くの木まで這い寄り、幹に背中を預ける。
初めて味わうような疲労感に呑まれつつある。
「な、なんだ……思ったより全然大したことないじゃん、雪崩なんて」
独り言で強がりを呟く。辺りはもはや夜の闇に包まれていて、魔物が飛び出しそうな雰囲気をかもし出していた。強がらなければ立ち上がる力すら沸いて来ない。
「そうか、大したこと無いなら何よりだ。体力余ってそうだな、貴様も手伝え」
少し離れた場所から――さく、さく、と続く規則的な音の合間に、無感動な声が降ってきた。
「…………僕は君や君の部下の安否にこれっぽっちも興味は無いけど?」
「気が合うな。私も、貴様らが野垂れ死んだところで痛くもかゆくも無い。むしろ天下の大罪人がこれで世から消えるなら願ったりだ」
しばらくの間があった。女はおそらく雪を掘っているのだろう、あの規則的な音だけが響く。
リーデンはため息を吐いて我が身を起こした。
女の考えは既知の通り、変わっていなかった。そしてそれを再確認したところで、リーデンの中の優先順位も変動しない。
「わかってるよ。共通の保護対象の話でしょ。聖女さんを救うなら、人手が要る」
「そういうことだ。貴様、携帯式のシャベルを持っていただろう」
「僕としては先に兄さんを発掘したいなぁ」
率直にそう返したら、女は手を止めた。
「呼び方で疑問に思っていたが、貴様は奴と義理か縁があるのか」
「母親違いの実弟だよ。色合いが違うからすぐには気付かないだろうけど、目元とか輪郭とか、よく見れば似てるでしょ」
「罪人の顔を注視しても気分が悪いが……よもや、大罪人の弟ということは貴様も罪を……いや、その話は今は余計だな」
「余計だね」
女はくるりと前後反転した。
「いいから手伝え。この場合、ひとりずつ掘り起こす方が効率が良い。作業を交互にやれば体力消耗を抑えられる」
「了解。自分が経験の無いことで、とやかく言いすぎてゴメン。指示に従うよ」
早速女の位置まで丘を上り、隣に並んだ。携帯式のシャベルをコートの内ポケットから取り出し、開く。
「……素直だな」
「合理的と言ってー」
無駄話はそれきりとなった。最低限の意思疎通に留めて、作業に専念する。
フォルトへが腰に結んでいたあの異様に長い縄が雪の上でうねり、存在を主張している。縄を辿れるだけ辿って、そこを中心に掘るのである。ユシュハは既に大量の雪をどかしていた。
そんな彼女を休ませる為に、交替する。ざく、とシャベルの先で雪に切り込んだ。
(これはひどい)
すぐに腰やら肩やらが軋み出した。
リーデンは自身は腕力も体力もある方だと自負していたが、先ほど生き埋め状態から這い上がったばかりで、慣れない作業を延々と繰り返していては、きつい。夜風の冷たさが鼻先に染みる。
(団体行動って大変だな。自分が助かっても、全員の無事が確定するまでは気が休まらない)
腕が上がらなくなるまでやって、また交替。あっという間に二度目の自分の番が回ってきて、またもやザクザクと雪を掘り上げてはどける。
ぐ、と雪を掘り起こそうとして何かに当たったのはそれから数分後。
すぐさま横からシャベルを奪われた。必死さの滲み出る勢いで、女は忽ち部下を掘り起こしてみせた。
リーデンもしゃがみ込み、引っ張り出すのを手伝う。
「せん、ぱい。来てくれたん、ですね~」
苦しげな息と弱々しい声。それでも意識ははっきりとしているようだった。上司の腕にもたれかかるようにして、男はふらふらと立ち上がる。
「お前は自力で脱出できないからな」
ぶっきらぼうな言葉遣いは相変わらずだが、女の表情は、安堵のためか少し和らいでいた。まるで母親が子供にするような手付きで外傷の有無を確かめ、問題ないと判断すると、女は無表情に戻ってシャベルを回収する。
「先輩の居た辺り、だいじょうぶ、でしたか」
「私は胸騒ぎがして――お前たちを追い始めて、ソリから少し離れていた。雪崩が始まって間もなく近くの樹に引っ付いた。運が良かった。縄を目印にして、お前が流れる場所をしっかり見ていた」
わ~い、となんとも気の抜けた返事があった。
女はリーデンの方を向き直る。
「次に行くぞ。だが目処はどうやって付ければ……」
固有名称が出ずとも、誰の話かは伝わった。
「任せて。何でかは言えないけど、兄さんの居場所ならわかるよ」
長い縄を付けていなくても、所有物が雪の中に見当たらなくとも、リーデンにはもっと確実な方法がある。
「どういう奇術だ」
女は訝しげに眉根を寄せた。
「うんだから、教えないー」
「……まあいい、位置を指定してくれ。プローブを使う」女は腰に提げていた折り畳める棒を取り出す。「フォルトへ、お前はソリに戻って休んでいろ……と言いたいが、一人では戻れないだろうな」
「すみません~」
「謝るな。力が回復してきたら掘るのを手伝えばいい」
女は部下の手を引っ掴んで歩き出した。いい年した男女が手を取り合って雪の中をちょこちょこと慎重に歩くさまを眺めるのは、こんな状況で無ければ面白い――ではなく、微笑ましいが。
ついてきて、と言ってリーデンは歩き出す。フォルトへが埋もれていた位置より丘を下り、更に自分が埋もれていた位置から左斜めに下りる。
「この辺」
と、指を差す。
「わかった。当たるまで刺すぞ。そっちは、もし道具があるなら灯りを頼む」
宣言した直後にはもうユシュハは手を動かしていた。プローブを組み立てて、早速雪の中に刺している。長い棒が雪に飲み込まれ、真下に何も無いとわかると、次の場所に刺す。
スタート地点から外へ向けて、渦巻き模様を作って進行している。こうすれば、一度確かめた箇所を二度確かめずに済む。流石は然るべき訓練を受けた者、やることに躊躇も無駄も無い。
その間リーデンは手頃な枝を見つけて火を点けていた。
――前触れもなく、背筋がぞわりとした。つられて両手が震え、危うく松明を取り落としそうになる。
ムカデが背中を這っているような具合だ。次いで、架空のムカデが通った箇所だけが焼けたように熱い。その感覚は一瞬で肌から消え去ったが、代わりに胸焼けみたいな後味が心臓に取り付いた。
「……お姉さん。気を付けてね」
作業を見守りながら、リーデンは短い警告を発する。
「なんだ。魔物か、猛獣か」
「えっとねー、さっきまで気を失ってたんだけど、たった今起きたみたい。そんで、この山ごと融かせそうな勢いでブチ切れてる。出会って十数年、こんなに怒ってる兄さんは初めてだ」
「…………」
女は腰を折り曲げたままこちらを振り返り、妙な顔をした後、結局何も言わず作業に戻った。
「ちょっと怖いんで、急ごうね」
そうは言ったものの、ユシュハの変わらぬ冷静さは救いだった。決して手順を間違えたりしないだろうという安心感がある。癪だが――自分ではこの場を仕切るのは無理だったし、パニックでまともな判断ができなかったはずだ。
差し込まれたプローブが何かに当たるまでに、あまり時間はかからなかった。呪いの眼から得られた位置情報は、誤差はあれど当てになる。
「三フィート(1メートル未満)前後か。雪も固まって重くなってきたし、骨が折れそうだ」プローブに記された目盛りを確かめて、女は嘆息した。「銀髪、横に並んで同時に雪をどかすぞ」
「同時?」
「ああ、このように」
プローブを刺した場所から数歩丘を下り、フォルトへの持つ松明の明かりの元、女は立つべき位置を示した。
下流から、実際に埋まっている深度の倍近くの深さの雪を動かすとのことだった。
「腰への負担を減らす為に、膝立ちで始める。こうして長方体のブロック型に切ってから横にどかすと楽だ」
「わかった」
――俄かにそれは始まる。
女が言った通り、フォルトへを掘り出した時よりも遥かに作業が大変だった。雪を横に放る度、顔に吹きかかる冷たい粉が煩わしい。
それでなくとも空から次々と新たな雪が降りかかっているのだ。こんな地に住まう遊牧民の気が知れない。
「おい、手袋を脱ぐな、指が壊死するぞ」
堀りながらもこちらの様子を視野の端から窺っていたのか、注意された。
「……そうは言うけどねぇ。動かし辛くて」
「我慢しろ」
一蹴された。リーデンは舌打ちの後、言われるがままに従う。
そんな時だった。背後から明かりを照らし続けていたフォルトへが「あの~」と声を出した。
「九時の方向から魔物の臭いがしますー。小物みたいですけど……自分が雪かき誰かと代わるんで、退治お願いしてもいいですか~?」
「私が代わろう。松明、借りるぞ」
ふっと暗くなり、隣に立つ者が豪腕の女から中肉中背の男になった。
ニット帽を雪の海に失くしてきたのか、男はフードを被っただけの姿となって、寒そうにガチガチと歯を鳴らしている。
(寒がりなのに極北までついてくるなんて、仕事熱心だなぁ)
ざく、ざく、と雪をかく。既に立ち上がって作業できるほどに穴が広がっている。
(鼻水ずっと流してるのに、僕らよりも嗅覚いいのってほんと面白いよね)
雑念は抑えようとしても溢れ出るのを止めない。
(聖女さんは、無傷だといいな。一分過ぎるほどに、不安が増すばかりだ)
そしてその想いはやはりゲズゥにも共通している。鉛が気管に引っかかっているかのような苦しさが、自分から生まれたものではなく、同調から感じられる。
――ゴッ。
衝撃に伴い、思考回路が切断された。
前方から雪が噴き出したのである。勢いで後ろに飛ばされたフォルトへが、わっと声を挙げた。
リーデンは、白から湧き出た黒いモノに向かって話しかける。
「……お帰り、って言うべきなのかな。さっき気を失ってたみたいだけど、怪我してない?」
「軽い脳震盪」
答えた声は、とんでもなく不機嫌そうだった。
「そう。出血は?」
「無い」
「それだけ元気があるなら、大丈夫そうですね~」
吹き飛ばされた体勢から復活したフォルトへが、へらへらと声をかける。
対するゲズゥは立ち上がるなりこちらを見ようともせず、大剣を背負い直すと、踵を返して歩き出した。
「ちょっと、何処行くの」
引き止めようとして、手が空振った。
「待って兄さん」
明らかに、丘の上を目指している。雪崩によって格段に歩きにくくなっている坂道を、意地でも上ろうとしているのだ。察した。兄が歩を進める方向は、聖女ミスリアが連れ去られたと思しき方向である。
とりあえずついて行った。
「兄さん。おーい」
何度呼びかけても返事が無い。風が強まり、聴こえにくいということもあるだろう。
(多分、メインの理由はそれじゃないだろうけど)
やがて前方の兄はしゃがみ、懐から出した道具で火を点けた。
探しているのだ。
(見つかるかな。あのプリなんたらという女は聖女さんともども雪崩が通らない場所に陣取ってたけど……)
あれからもう何十分も経っている。加えて、雪は尚も積もり続けているため、ついさっきつけた足跡ですらあっという間に消え失せる有り様だ。
だが、心配は杞憂に終わる。奇跡的に痕跡が見つかった。ミスリア本人のものではなく魔物の足跡だが――地面の奥深いところに響くほどの質量を持っていた巨体だ――それだけに、跡は深い。
しかもこれまた運が良いことに、木の根元近くにあった。空から降り注ぐ雪は木の枝葉にまず引っ掛かり、地面の積もり具合はまちまちである。少なくとも五歩の跡があり、そこから進んだ方向も推測できる。
(足跡を急いで辿れば敵の拠点を割り出せるかもしれない!)
乗り込んで囚われの少女を救出する流れまで想像して、リーデンは顔を上げた。
ギョッとした。黒い影は走り出していた。いつ視界から消えてもおかしくない距離にまで離れてしまっている。
「ちょっと兄さん!? 単独行動、断固反対!」
追い縋るも、足が重い。埋もれた際にスノーシューズを多少破損してしまったようだ。
――兄さん! 待ってって! 無茶でしょ! 一人で何ができると思って――
喉が痛くなってきたので、呼びかける方法を切り替えた。脳内通信は、この距離なら余裕で届いているはずなのだが。
イライラする。
どう足掻いても距離が縮まらないのだと悟ったリーデンは、何故か手の中にあった物を振り被り――力の限り投げた。
「聞けッ! クソ兄貴」
携帯式シャベルが、見事な回転を繰り出しながらも突進していく。突風がちょうど耳朶を打った所為で、鉄が頭蓋骨と衝突した瞬間の音を聴き取れなかった点だけが悔やまれる。
(あ、やば、さっき脳震盪起こしたって言ってたね。頭に怪我増やしちゃった……でもまあいっか)
引き止める方が重要だった。この程度で動けなくなるようなら、敵地に乗り込むなど到底不可能だろう。
「やっと止まってくれたね」
ゲズゥが後頭部を押さえて屈んでいた間に、追い付いた。
「……用件は何だ、クソ弟。時間が惜しい」
振り返った左右非対称の双眸は無感情だ。そこに、生理現象による涙が溜まっているさまは、いい気味だと思った。
「逸る気持ちはわかるよ。僕だって聖女さんが心配だし、一刻も早く会いたい。早く無事な姿を確認して、笑いかけてもらいたい。でもそこに至るまでの段取りを間違えたら……彼女は助からないし、全員死ぬだけだから」
或いは死ぬよりも酷い結末を迎える可能性もあるが、考えないでおく。
「ちゃんと作戦立てよう。あの二人も、本来は敵だけど今は味方側なんだし、活用しないとね」
「…………」
表情が翳ったのは一瞬。けれどもそれはリーデンの胸中に小波を立てるには十分だった。
「ほら、立って立って」
誤魔化すようにやたらと声を出し、兄の肩を叩いたりした。
一瞬は過ぎ去り、いつもの無表情が戻る。
(あんな傷付いた……ううん、泣きそうな顔するなんて)
窒息死に対する恐怖とはまた違った種の寒気が、リーデンを震わせた。
「我々を活用とは随分な言い草だな」
女の声に振り返る。
「あれ、お姉さん」
女は掌に乗る大きさの物を投げ渡してきた。条件反射で、左手で受け取る。荷物に積んであった非常食の乾パンだ。次に水筒が飛んでくる。
「これで力を付けろ。ああそうだ、口のきけない女は何事もなく馬たちと居るぞ」
「マリちゃん? 見てきたの」
「魔物退治のついでに寄った」――女は表情を険しくして前方を振り仰いだ――「この丘の向こうは山岳地帯、傾斜が厳しくて道も狭い。ソリは置いていくしかない」
「だね」
「正直、生きて帰れる確率は、百中、一桁と無いかもしれん。だが行かないと言う選択肢はそもそもありえない」
ありえないね、とリーデンは兄をチラリと一瞥しながら同意した。そっぽを向いていて表情が見えないが、心中は大体察せる。
「あんな新鮮な恐怖を味わわせてくれたんだ、きっちりとお礼はしないとね」
無意識に舌なめずりする。女は、一度首肯して同意を見せた。
「フォルトへ、笛を持っているな」
「はいここにー」
上司の呼びかけで、部下が懐から銀色の笛を取り出した。頂点の大烏を呼ぶ為の代物らしい。烏の足に文を括り付けて、組織に帰すのだと言う。
待っている間、リーデンは乾パンと水を兄と分けつつ腹に収める。
――ピィイイイイイ――
高音が夜空を切る。
辺りは吹雪の気配が強まっていた――。
_______
ふと、気が付く。
誰かの声で目が覚めたのかもしれない。
――して……ちを、……少し――
水を伝って会話を聞いているような、曖昧な音だ。
五感が遠い。
麻痺していると言えばいいのか。肌を赤く擦り減らしている冷風は感じられないし、怪我をして痛んでいるはずの部位がどこだったかも思い出せない。
視界がぼやけていながらも動いているので、移動している、というのはなんとなくわかった。
自分の足で歩いているのではない。身体が動かせないのだから、そんなはずはない。
両腕を左右から掴まれて雑に引きずられている。
前方を歩くは、曲線なだらかな肢体――女性の後ろ姿だ。オンブレと呼ばれているのだったか、長い髪の色は根元が赤黒い色に始まり、毛先にかけてだんだんと色が明るくなる。
女性はおもむろに立ち止まって、振り返った。
――きみにぜひ、見てもらいたいものがあるんだ。
彼女の言葉に、はいともいいえとも答えず、ただ首を傾げる。
――もっと近くにおいで。
声に引き寄せられるかのように、近づいてゆく。実際には、引きずられている。
地面を擦る服の裾が汚れて破け、膝頭からは血が出ている。それでいながら、痛みは感じない。
女性の隣に並べ立てられ、手すりのような何かにもたれかけさせられる。そこはバルコニーのような場所だった。 四角い広場を観察する目的で作られているのか、広場を取り囲む四つの壁にそれぞれついている。
広場には、向かって右に巨大な檻がひとつ。左に、何か揉め合っている様子の男性が二人。
――檻の中に大きな魔物が居るだろう?
こくん、と頷いた。
――あのお方こそがぼくの先祖、コヨネ・ナフタさまだよ。ラニヴィア・ハイス=マギンの元を去った後に、魔物の研究を先駆けた人だ。
ラニヴィアさま、と半ばオウム返しをする。
――ラニヴィアは、信仰の統一なんてつまらないことをした女だよ。あれから崇める対象の自由が失われて、洗脳が始まった。ご先祖さまはそんな未来が来るより先に、魔物の可能性を見出したのさ。
かのうせいですか、と上の空で答える。
――そうさ。教団は教えを摂理だと説いているけれど、それはあくまで表裏一体の現象の片面だけだ。人の素行を望むように捻じ曲げる為に、そう教えているんだ。ご先祖さまだけが別の真理を追い求めた。
女は不敵に笑った。
どうして私にこんな話を、とゆっくりと訴えかける。
――どうしてかって? きみへの憎しみと、愛しさゆえだよ。さあさあ、注目するんだ。
彼女が示す先を見下ろす。
途端に、現世のあらゆる苦痛を凝縮したような凄まじい悲鳴が広場から上昇し、四方の壁にこだましてバルコニーまで届いた。
僅かに世界に彩りが宿った気がした。
見える。片方の男性が、もう片方を組み伏せて殴りに殴っている。血反吐を吐いている方は、諦めずに殴り返している。
「そこだ! やれ! 殺せ!」
周りの人々がわっと歓声を上げる。心底楽しそうに観戦している様子だ。
「悪趣味ですね」
ミスリアは、淡々と指摘した。
「あはは、きみがそう思うのは、まだこの行為の真価が見えていないからだ。ぼくらは探究者だよ。かれらは自ら望んであの場に立ったんだ。生き延びた方が、コヨネさまに喰われる権利を得る……この上なく名誉なことだよ」
「はあ、そうですか」
未だ水を通して聞いているように、自分の声もくぐもって聴こえる。
繰り広げられる死闘をぼんやりと眺めながら、ミスリアは手すりの上で手を組んで顎をのせる。
「きみは知っているだろう。この世界では、生者は死者に囲まれて生きている。きみたちの教団の介入さえなければ、魔物は不滅だ。地上では常に生きた人間よりも死んだ人間の方が数多く蔓延っている、そうだね?」
「貴女は、大陸中を旅して魔物の数でも数えたのですか」
「そんなことをしなくてもわかるよ。人間としての寿命は平均で何年だい? 四十、五十年かな。では魔物は?」
「…………」
気怠さのあまり、ミスリアは口を動かそうとも思わなかった。
眼下の広場では決着が着いたのか、一人の男が膝立ちの姿勢から勝利の拳を突き上げている。
「人間の肉体に囚われたつまらない人生じゃない、魔物とは――解き放たれた『永遠の命』の形なんだ! 質量や体積の限界なんて無い! 時間の流れに沿って存在が褪せることも無い! 喰らい合うほどにソレは膨れ上がり、普遍さを体現する!」
プリシェデス・ナフタが急に声を荒げた。
「こんなに素晴らしいことって無いだろう!?」
その勢いで手すりの上に上った。絶妙なバランスを保って、彼女も拳を突き上げる。
他のバルコニーの者がプリシェデスの姿に気付いて、更に色めき立った。
「善行に励んで天上の『神々へと続く道』に辿り着くのが真にヒトの生き甲斐であり使命であるなら、何故魔物は存在する? 何故神々は魔物が発生しない理を創らなかった!?」
――問いの答えがわからない。
聖女ミスリア・ノイラートはただ静聴、傍観する。
「魔物が人類の進化の終着点だからさ!」
――狂っている、その感想が湧き出て来なかった。そもそも彼女は本当に狂っているのだろうか。これもひとつの摂理の解釈なのだろうか。
違うと言いたいのに、思考回路が強引に方向転換させられる。納得――或いは共感、しそうになっている。
「……魔物を、つくる……サエドラでも似たことがあったような……」
ぽつりとミスリアは呟いた。
「ああ、ウフレ=ザンダの町だね。あれらも、コヨネさまの教えに触れたのさ。記録には、弟子の者が流浪の旅の最中に寄ったとあったかな。ふ、あんな辺境の蛮族だけで答えに至れるわけないじゃないか」
はあ、そうですか、とまた空返事をする。
姉の死を――そしてエザレイの不幸を引き起こした事件の話だと言うのに、心は動かなかった。
ミスリアは己に起こった異変を、まだ自覚できずにいる。
「きみも参加してみるかい」
血だらけの広場を改めて見渡す。
「……勝者は食べられるそうですけど、敗者はどうなるんですか」
「息絶えて魔性に変じるもよし、変じないなら別の魔物に喰わせてもよし」
「むごいですね」
「そうかな」
「死してなお苦しむのでしょう」
ミスリア自身は死を生からの解放とは考えていないが、生以上に辛いのはいかがなものか、と思う。
プリシェデスは気持ち良さそうに大笑いして、手すりから降りた。
「それは違うよ、聖女サマ。生きていてもこの世は苦しみしか与えてはくれない。どうせ生きていても死んでいても苦しむんだ、穢れを受け入れて最期には魔に転じることが、終わらぬ苦しみへの解答ではないだろうか」
――そうじゃない、神々はそんな願いを込めて魔物が発生する仕組みを創ったのではないはずだ、と反論する力も無く。
頭の中で不協和音を作っている、魔物たちの声を想う。
自身の成れの果てを喜んでいる者の声は、こんな風に響くだろうか。こんな風に、生者を誘い招くだろうか。一緒になって欲しい、喰う相手が欲しい、と渇望するだろうか。
五感に混じる雑音を想う。
彼らは本当は現状から脱したくて暴れているのではないか。
生者を引きずり込んで、他者を巻き込んで、仲間を増やして、少しでも自分を正当化したいだけではないか。これでいいと満足しているなら、もっと楽しそうに人間を喰らいそうなものだ。
摂理から外れ、歪んでしまった存在は、在るだけで苦しいのだとミスリアは想像する。毎朝陽の光を浴びて霧散し夜にまた再構築される過程は、世界そのものから拒絶されているようで、きっと辛くて虚しい。
では何故存在しなければならないのか。結局そこがわからないのなら、この集団の在り様を否定することはできない。
「ごらんよ、これがこの世の奇跡。生物が、完全なる霊的存在となって具現化されるとき――」
最後まで聞かずに、ミスリアは息を呑んだ。
何度か瞬きをすると、視界がみるみるはっきりしていった。五感を妨害していた雑音が急に止まったのである。
――キセキ。
その単語をきっかけに、記憶が呼び覚まされる。
『ああ。そうだったな……お前は、奇跡を起こす女だった』
微かな笑顔が脳裏を過ぎる。
肺がぐっと縮まって息を吐き出す。次の呼吸がうまく繋げられずに喘いだ。この空間に充満している悪臭に、眩暈がした。
まるでどこか遠くに飛んでいた自分の意識が、身体に呼び戻されたような感覚だ。
心は耐え難い状況の重圧に潰れたのではなく、逃げていただけだった。
己の弱さを反省する。感じることさえ放棄した時間を、深く恥じた。
(私は覚悟を決めたのに。どんなに強烈な人生観を見せ付けられても、信念を貫くだけ。私の役目は変わらない……!)
広場では、劇的にとどめを刺そうとして雄叫びを上げる勝者、今にも命の灯火が消えそうな敗者の姿がある。急がねば手遅れになると、すぐに理解した。
ミスリアは息を力いっぱい吸い込んで、口を開いた。
『尊き聖獣と天上におわします神々よ。聖なる光をお貸しくだされ、天地を清め地上人をお導きくだされ――』
短い人生の内に数えきれないほどに奏上してきた祈言の出だし。
紡ぐ。聖なる因子の流れを促す、祈りを。
「何してやがる!?」
プリシェデスの近くに控えていた男性が叫ぶも、意に留めず。
ミスリアは右の掌をかざし、聖気の流れを広場に向ける。
突如、体当たりされる。
思わず目を瞑ったけれど、何かにのしかかられたのは明らかだった。ユリの香りに包まれ、肋骨を圧迫する硬いものがプリシェデスの膝だと知る。幸い、祈言を一通り言い終えた後だ。
「余計なことをしないでおくれよ、聖女サマ」
「……余計、でしょうか。貴女には貴女の主張があるように――私にも私なりの主張がありま、す……」
「死にたがっている者を無理矢理生かしているようにしか見えないけれどね。かれらが何度でも死に挑めば、その都度引き戻すつもりかい。きみこそ、むごいね」
どう言い返せばいいのかわからなかった。
その隙に、バタバタと足音が石畳を打つ。あっという間に大勢の人に取り囲まれた。
「教主! あいつら傷が全部完治した上に、戦意までごっそり失くしちゃってますぜ! やっぱりペンダント没収すべきだって言ったでしょ。あの光に当たって、もしもコヨネさまに万一のことがあったら……」
「じゃあおまえたちがおやりよ。悪女ラニヴィアの教団の象徴なんて、ぼくはさわれないよ」
「勘弁してください教主……あんたが嫌がったのと同じ、おれたちだってあんなもん触りたくねーです」
「ふむ、そうだね。どうやらぼくらではきみをこれ以上脱がせることはできないようだ。よかったね」
――蹴られた。ミスリアが呻き声を漏らす間も無く、追い打ちの攻撃が肺から空気をさらう。
「なんて、言うと思ったかい」
ビリリと破ける布の音。背中が石畳から浮き上がるほどの衝撃が素肌に弾けた。
「教主様。その娘は聖女だったのですね」
人だかりから何者かが進み出た。視界が滲んでよく見えないけれど、齢五十は超えていそうな男性だ。
「そうだよ。ああ、そういえばお前は元聖人だったね。気になるかい」
プリシェデスが何気なく零した情報に、ミスリアは愕然とした。今、なんと言ったか。
「よろしければ、その娘のアミュレットは私が外しましょうか。穢れを蓄積してから私はもう聖気を扱えませんが、貴女がたと違い、聖気の器に全く触れられないわけではありませんので」
「なるほど、頼んだよ。二度とあの光が出せないように、いっそ壊しておくれよ」
「お任せください」
男性は屈み込んで、ミスリアの胸元に手を伸ばす。
「ま、さか。貴方は、北の地で消息を絶った……せい、じん……? どうしてこんな裏切りを! 何故……魔物を信仰する集団に与するのですか!?」
伸びていた手が宙に浮いたままぴたりと止まる。
「聖女よ。何か誤解されているようですが、私はヴィールヴ=ハイス教団に敵対しているつもりはありません。教団には大変お世話になりましたし、み教えは正しい。ただし、正しさから逸れた世界も興味深かった。ただそれだけのことです。私はコヨネ・ナフタが生きている間に完成できなかった『瘴気を貯める器』を創る理論に興味を持ったのですよ」
男性の和やかな笑顔を見上げて、ミスリアは歯噛みした。
「ただそれだけの探究心の所為で……犠牲になった人たちは、どうなるんですか!」
この建物に棲む魔物の叫びを聴いていたから、知っている。虐殺された遊牧民、拷問にかけられ衰弱死した組織ジュリノイの成員、攫われてしまった罪無き旅人――命を軽んじられた者たちの無念を。
「可哀相でしたね、彼らは。抗うか逃げるかするだけの強さが無ければ、我々の仲間になる強かさも無かったばかりに」
「ぐっ」
歯軋りする。
同胞であるはずの男性の面貌が、ひどく醜いものに変わった気がして、目を逸らさずにいられなかった。
(……あれ)
逸らした先に違和感を見つけた。破けた肌着の隙間から白くて長いものが覗いている。厚みのある乳白色に時折交じる茶色の模様は、動物の角を磨いたような――
思い出す。
護身用に持っていろと言われたのに、どこに収めればいいのか決められず、こっそり下着の中に挟んだソレを。
――バシ! と左横から伸びる元聖人の手を振り払い、残る右手を肌着の中に突っ込んだ。目当てのものを指先で探り当てる。掴む。そして、鞘からするりと抜き放つ。
なんと、例の暗い部屋から引きずり出されて以来、ミスリアの両手は拘束されていなかった。侮られていたのだろうが、それがかえって好都合である。
「……す、より……る」
周囲に好奇の色が広がる。話題のペンダントを握り締めるわけでもなく、少女が己の胸元をまさぐるさまは、一体何をしているように見えるのだろうか。とはいえ、羞恥心など知ったことではない。
「往生際が悪いね、また無意味な祈りをブツブツと呟いているのかい」
こちらを覗き込むように上体を傾けるプリシェデス。
自ら近付いてくれた好機。彼女の胸辺りめがけて、ミスリアは手の中のものを水平に薙ぐ。
(刺すよりも、切る!)
狙い通りに何かを切り裂いた。嫌な手応えが指を伝う。
と、同時に温かい鮮血が散った。
刹那、息をしそびれる。こちらに向かって飛んでくる血の滴が目前に迫り、反射的に目を閉じた。唐突な温もりが瞼にかかる。
短い悲鳴が反響する。
ミスリアは下ろしていた瞼を上げた。己を圧迫していた重みが離れた隙に――横に転がって自由の身になり、手すりで背中を支えながら立ち上がった。
ゲズゥに貰った黒曜石のナイフを逆手に構えて、揺らぐ視界の焦点を敵の頭目に当てた。手足はガクガクと無様に震えている。構わずに、プリシェデス・ナフタを見据えた。
「私は未熟だから、貴女がたを説き伏せるだけの理論を組み立てられません。けれど、勝てないとわかっていても、諦められないんです。独りになろうと帰る場所がなくなろうと――立ち止まらない!」
息も切れ切れに叫んだ。
「私はまだ、こんなところでは、死ねない!」
「…………」
相対する美女は、裂かれた胸を押さえて、ゆらりと顔を上げる。指の間からとめどなく溢れる朱色に、ミスリアは内心たじろいだ。
「教主!」
「てめえ、なんてことを!」
周りの声はほとんど耳に入らなかった。
翡翠色の眼差しに、心臓を縛されたような気がした。その虹彩に映っていたのが歓喜なのか激怒なのか、ミスリアには判然としない。
「ふ、ふふ……ふははは! 見事だよ、聖女サマ。でもきみの意地だけではどうにもならない場面があると、思い知った方がいい」
「きゃ!」
死角から伸びて来た鉄剣により、ナイフが弾かれた。それは石畳に落とされ、見知らぬ誰かに踏まれて、更に振り下ろされた剣によって砕かれる。
壊された手鏡の有り様が記憶の片隅に蘇った――が。
「意地だけではありません」
落胆の気持ちを押し退け、すかさず次の手に移る。
祈りの言葉を短縮して聖気を展開した。地面に垂直になるような、細い光の柱を組み立てる。
「無駄なあがきは止めなさい」
元聖人の男性が距離を詰めようとしてきた。
「無駄かどうかはすぐにわかります」
ミスリアがそう返して、ほどなく。
――地鳴りが始まった。
惑乱に踊らされる人の輪が、謎の影によって一層崩される。
ひとまず地面に伏せた。その間、叫び声が頭上を飛び交う。
「なっ!? なんでこんなところに!」
「ぎゃあああああ」
「拠点中の魔物が急に暴れ出してる!? 鎖を引き千切って……せ、制御できねえ!」
「このままじゃコヨネさまが檻を壊しちまう――」
ここぞとばかりにミスリアはガバッと顔を上げて、動き出した。
「聖女、まさか! 魔物を自ら引き寄せたと言うのですか! そんな所業、理論上は可能でも実際にやるとは……貴女も十分に正しさから逸れていますよ!」
聖人が喚くのも顧みず、ミスリアは這って人々の間を縫っていた。動きを止めると、魔物に狙い撃ちされてしまうからだ。
(なんとでも言って。反省は後でするから)
そこかしこの傷が痛い。打撲した腰が特に、めちゃくちゃに痛い。でも、確かに動かせる。
少なくとも人だかりから逃げおおせた。壁伝いに立ち上がり、一度呼吸を休ませて――
――走る。
片足を引きずりながらも、走る。地面が激しく揺れる度に転んだりしながら、掴みかかってくる人の手から逃れながら、ひたすらに走る。
混乱の最中をどうやってうまく切り抜いていったのかははっきりとはわからない。気が付けば出口を見つけられて、気が付けば氷点下の世界を横切っていた。
亡者の気配が追ってくる。人間の追っ手がまだ迫らないだけ、幸運と言えよう。
(急がないと……急がないと……)
急いで、どこか隠れられる場所を見つけないと。
広大な景色に恐れをなした。
置かれている状況の厳しさを再度理解して、ミスリアは戦慄した。全身が凍って動けなくなるまでに何分、或いは何秒もつだろうか。
聖気を使えば、多少の暖を取れる。一方、それではいかに隠れようとも魔性の物に見つけられてしまう。
(お導き下さい)
夜空を見上げて大いなる存在に乞う。
目頭に涙が滲む。空はいつの間にか明るくなっていた。かといって夜明けが近いわけでもなく、降りしきる雪の結晶が月明かりを反射しているのである。
背後から獣の咆哮が響く。それはあまりにも細く、人間的な音の歪みであった。
――魔物に追いつかれる!
震える手足を引きずって進む。見えない何かに突き動かされて、二時の方向に雪の中を這う。
怖いもの見たさか、振り返った。
毛むくじゃらの異形が視界の大半を占めて尚大きくなる。
後退る。声にならない悲鳴が、ミスリアの強張った喉を震わせた。
思わず地面に爪を立てようとするも、大地はぐにゃりと窪んで、こちらの指を支えてはくれなかった。
――ズッ。
床が抜けた直後、滑り落ちる。
やがて乾いた枝の感触に包まれた。どこからともなく糞尿の臭いがする。
(……動物の巣穴?)
となると、元の住人はどうなったのだろう。
暗闇の中に生き物の気配はしない。とりあえずはこの場所を見つけられたことに感謝する。
(当分ここで凌げそう)
当分、が果たしていつまでなのか。
体積の大きすぎる魔物が入り口をこじ開けようとしているのは、音や衝撃から明らかだった。小石が穴の中に落ちてくるだけで、びくびくと身構えてしまう。
(大丈夫。いざとなったら、魔物の一匹や二匹くらい私ひとりで浄化できる)
一匹二匹で済まない場合、或いはプリシェデスら人間に見つかった場合は、また別の話だ。
考えない。不安にさせるものは全て忘れねばならない。何よりも、心を奮い立たせる方が重要である。
(地中って結構温かいのね……)
入り口をもっと念入りに閉じることができれば更に温かそうだ。そんなことを思いながら、ミスリアは横になって蹲る。
逃げていた間に一度も開かなかった左手の拳を、ゆっくりとほぐしていく。
砕かれた黒曜石がそこにあった。
どさくさに紛れて回収できたのは、ほんの少しの欠片だけだ。それぞれに穴を開けて紐に通しても、ブレスレットにすらなれないような量である。
「ふ……ひっ、う」
抑え込んでいた悲しみが、溢れ出す。
大切なものが壊れた。鏡もナイフも、大切にできなかった。守れなかった。
でも、守ってくれた。
無機物たる道具が身を守ってくれたというのは、この場合自分自身がそれを振るったからなのだが――ミスリアにはまるで、道具を与えてくれた当人に守られたかのように感じられた。
静かに泣きじゃくる。これまでの顛末を振り返る時間ができてしまうと、ひとつの強い想いが改めてじわじわと身体中を侵食した。
「うえっ、くっ」
きつく目を瞑った。心の奥に残るその姿に、声に、言葉に、縋る。
助けてくれなくていい。笑いかけてくれなくていい。
口を利いてくれなくてもいいから、傍に居たい。居て欲しい。
近くで息をしてくれるだけで、いいから。
(会いたい――――)
皮膚が切れるのも厭わずに。
石ころになってしまった黒曜石の刃を、両手の内に握り締める。