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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第四章:満たされんとして追う
51/67

51.

 人生それなりにうまく行っていたはずだった。

 ――どこで歯車が狂ったかなど、振り返ったところで何も生まれやしないのに。

 青年は町の一番人気の酒場の薄暗い隅の席で、浴びるように麦酒を飲んだ。卓上に出されていた分を一気に喉に流し込んだ後、ゴンと音を立てて前に倒れた。

(これで何度目だよ)

 組んだ腕の中に頭を埋めて、ぐだぐだと思い悩む。

 きっとすぐにまた仕事は見つかる。そしてきっとまたすぐに、お役御免になるのだろう。どうにも性に合う働き口が見つからないのである。

(ごめん、師匠……)

 うまく行かなくなったのは、人生の師を喪ってからだろうか。

 彼は既に路頭に迷うような歳ではなかったし、一人で十分にやっていけるだけの精神力も生活力もあった。家族を火事で失い、親の友人に引き取られてから数年。その男も魔物狩りの任務中に命を落としてからというもの、実際に青年は二年以上は一人で生きてきた。

 ところがどうだ。生活はできても――毎日が信じられないほどにつまらなかった。

 何をしてもいまひとつやる気が出ず、勤務先でヘマをやっては追い出される始末である。しかし職種の需要は永続的にあるため、貯金が底をつく前に新しい町に移動さえすれば一応次の仕事は見つかる。

 何度こうしたかはわからない。最初の内は数えていたものだが、段々と空しくなってきて止めた。

 明日からその繰り返しかと思うと、うんざりする。

「あの、すみません。相席よろしいでしょうか?」

 何故だかその時、可憐な声が頭上から降ってきた。普段ならともかく現在の精神状態では、全く喜べない状況だ。

 青年は首をもたげて半眼で応じる。そのちょっとした動作だけでも目が回った。酒が効いてきているのは間違いない。

「よろしくない。席なんていくらでもあるだろ。他を当たれよ、なんでわざわざここに」

 問題の人物はフード付きの外套を着込んでいるが、この薄暗い中でも、体格からして女なのはわかる。

「それがさっき大きな団体さんが入ってきたみたいで、他に席が無いんですよ」

 女はフードを脱いでみせた。

「あぁ?」

 若い女だ。十六、十七くらいだろう。少女は特別美しいわけではなかったが、佇まいと身なりからは清潔感が溢れている。胸より下に届く丁寧に梳かれた長い髪も、牛乳のように白い肌も、この騒然たる酒場では場違いなほどだ。

「あの」

 あろうことか少女は椅子を引いて青年の向かいの席に腰を落ち着けた。こちらを覗き込むように首を傾けている。

 波打つ髪は栗色だろうか。下ろしただけの髪型かと思ったら、耳より少し後ろに左右それぞれ三つ編みを一本編みこんでいる。その一本が、青年の肘をかすった。

「おい、そこに座るなっつってんだろ」

 彼は自暴自棄タイムを邪魔されて苛立っていた。ところが少女は青年の睨みを気にも留めずに喋った。

「差し出がましいことを言うようですが、お酒の飲みすぎでは? 顔色が悪いです。お水頼みましょうか」

「うっせえ、ほっとけ。見ず知らずのあんたに何がわかる」

 反射的に突き放した――

(しまった)

 虚を突かれた少女の表情が、次には傷付いたように眉尻を下げたのだ。青年は反省した。いくら虫の居所が悪くても、流石に言い過ぎではないか。

(心配……ていうか親切心、だったんだよな)

 元より彼は口が悪い。意識してそうしているわけではないのに、気が付けば当たりのキツイ言葉しか並べられないのだ。またやってしまった、と青年は己の情けなさに焦る。

「すみませんでした。ご要望の通り、放っておかせていただきますね」

 が、少女はけろりとして笑った。何事も無かったかのように、メニューが書かれてある木板に目線を移している。

(居座る気かよ)

 図々しい奴だ、と思いながらもまた食卓に突っ伏した。

(無視だ無視)

 他人の動向よりも気にすべきは明日からの自らの生計だ。青年は貯金の残高を脳内で計算し、何日までなら食い繋げられるか思索した。移動中は野宿すれば更に節約できる。

「今日の一押しはバッファロー肉のポットローストと鹿肉のシチューね。どんな味がするのかしら」

 少女がブツブツと呟いているのが耳に入る。両方ともこの地域では定番メニューだが、どうやら彼女は食べたことが無いらしい。

「どっちも気になるけど、 合わなかったらどうしよう……」

 聴こえてくる独り言が気になって、青年は自分の物思いに専念できなくなった。

 性分だろうか、口を出さずにはいられない。青年は顔を僅かに上げて問う。

「あんた鹿もバッファローも食べたことないのか」

「残念ながらありません。貴方ならどちらにしますか?」

 少女は嬉々として言葉を返した。独り言に始まったものが会話に発展したのが嬉しいようだ。相席を押し切ったことといい、彼女はもしかしたら一人で食事するのが寂しいのかもしれない。青年にとっては久しく忘れていた感情だ。

「クセが強いのは平気か」

「たぶん問題ありません。でも食べ辛いのは苦手ですね」

「ここの鹿肉シチューはスジ多めだ。そういうのが嫌ならポットローストだな。とろける食感で旨いぜ」

「そうなんですか! 助言ありがとうございます。ではバッファローのポットローストにします」

 後半の言葉は給仕係の人に向けて言い放たれた。ちなみにやり取りからして、飲み物はジュースの類にしたらしい。

「お酒あまり飲めないんですよ、私」

 給仕係が去った後、少女が勝手に補足した。

「酒場に来ておいてそりゃあ変だな。ここの麦酒は格別だってんのに」

「道に迷っている内に小腹が空いてきたので……食事が出るならどこでも良かったと言いましょうか」

「道……?」

 街で一番人気のこの酒場も地域名産の肉も知らない、どこか浮いた雰囲気の少女に――青年は訊ねた。

「あんた旅のモンか。どこ行こうとしてたんだ」

 青年は観念して頬杖ついた。我関せずを貫くには、どうもこの少女は危なっかしい感じがする。酔いが醒めないまま、先程よりもちゃんと話を聞く姿勢に入った。

 少女はよくぞ聞いて下さいました、と言いそうなほど大きな茶色の双眸を輝かせた。

「魔物狩り師連合拠点です」

「あー……」

 その返答は驚くようなことではなかった。この町の魔物狩り師連合は会員の数も質もかなり優れていて、わざわざ遠くから退治の依頼を持ってくる人間は日々、後を絶たない。

 しかし解せない点があった。

「連合はこっから北西、大通りを一マイル半進んだ先の丘の上だろ。全然方向違うぜ」

 そう指摘してやったら、少女は首を傾げた。次いで懐から地図のような紙切れを取り出して、食卓に広げた。

 青年は少し身を乗り出し、それを逆さのまま読み解く。思い出したように視界が揺らぐが、瞬けば治った。

「えーと。矢印がスタートでバツ印が目的地か。東門から入って、この十字の交差点で右曲がって、小道を二つ経て大通りだろ。道の名前も書いてあるし、わかりやすい地図じゃねーか。どうやって間違えたんだ」

「こうさてん……道の名前?」

 また小首が傾げられる。十字型の交差点なんて、道が二つだけ交わっているという極めて単純な構造だ。

(なんだこの反応)

 嫌な予感がした。そもそもこの酒場の位置は、地図に記された道から南に外れている。

「……方向音痴?」

 というよりは地図が読めないだけかもしれない。

「いいえ、故郷では迷ったことは無いはずなんですけど」

「あんたの故郷ってどこだ」

 おそるおそる訊いた。

「ファイヌィ列島です」

「つまり、ドのつく田舎から来たんだな」

 青年は口元をひくつかせる。

 田舎娘の面倒など見たくない。なんとか道順だけわからせて、関わるのを止めよう。

「いいか、町ってのは村と違って複雑だし、似たような建物がぎっしり並んでる」

「はい。初めて見た時は本当に開いた口が塞がりませんでした」

「だから路は景色じゃなくて名前で識別する方が確実なんだ」

「そう――なのですか?」

 青年が力説する中、少女はどんどん不思議そうな表情をしている。

「今までどうやって旅してきたんだ」

「町に着くまでは案内の方が居ました」

「案内役……」

 これで合点がいった。そして、もう雇わないのか、と問う。この田舎娘は単独で旅をさせてはいけない気がする。

「連合にさえ辿り着ければ、そちらに頼もうと思っていまして」

「あー、なるほど。しっかし遅ぇ時間に行くんだな。とっくに日も落ちてるから、みんな任務で出回ってると思うぜ」

「もう少し早く行くつもりだったんです。道に迷っている間に二時間が過ぎてました」

「――どんだけ迷ってんだよ! 人に訊けよ!? この町そんなに広くねーぞ!」

「訊きましたよ。それでも何故か着けなくて」

 少女がのんびり笑う傍ら、ポットローストが給仕係によって運ばれてきた。芳醇な香りがもわっと鼻先に伸び、青年は一瞬吐き気を催した。

 少女はいただきますと言って早速バッファロー肉の塊に切り込んでいる。

「ん~、美味しいですね。これまで食べたことがなかったのが悔やまれます」

 一口目の後に感想が挙がる。

「そいつぁよかったな。別に俺に報告しなくていいから」

 青年は口と鼻を手で覆い、仰け反りながらその様を眺めた。

(にしてもコイツ、肝が据わってんのか頭がおめでたいのか。二時間さまようって相当だぞ)

 焦りもせずにただのほほんと飯を食いに来ている辺り、後者だろうか。単に、連合への依頼内容が火急のものじゃないのかもしれない。

「……こっから連合拠点までの行き方を教える。気合いで覚えろ」

「本当ですか! 助かります」

 咀嚼していた分をごっくんと飲み込んでから、少女は明るく返事をした。

「食べながら聞け」

「はい。ありがとうございます、親切な方。このお礼は必ず――」

「いやいや、礼はいらんって。あんたはちゃんと着くことだけ考えてろ」

 これ以上関わってたまるか――と早々にその流れをぶった切る。少女は不服そうに口の端を下げたが、結局頷いた。

 そうして青年は懇切丁寧に、なるべく噛み砕いて、行くべき道順を伝えた。


_______


 さて――座っていた間は平気だったものの、いざ歩こうとすると急激に気分が悪くなる夜もある。それが酒を飲みすぎた直後とあらば尚更だ。

 酒場を立ち去ってしばらく歩いた頃、青年は路地裏に入って排水溝の前に立った。溝の向こうの建物に片手を付き、もう片方の手で解かれつつある髪を押さえ、胃の中身を排水路に逃がす。

(サイアクだ)

 喉からは空気が圧縮される音が漏れる。口や鼻の中には酸味が粘り付き、目からは熱い涙が溢れた。

 だがこの行為は最終的には気分を良くしてくれるものだと、彼は経験から知っていた。

(あーもー、何もかも最悪だ)

 呼吸の合間に人生に対する憂いがどっと蘇るが、とりあえず雑念を捨てて吐くのに集中した。ここで手を抜けば、二日酔いで明日は移動どころではなくなる。

 やがて胃が空となり、青年は咳き込んだ。

「――はやく金目のものを出せやい」

 ぼんやりとしていた頭と聴覚が、その時はっきりと一つの不穏な台詞を拾った。

 時と場所を思えば、真夜中の路地裏である。他人を襲う輩の一人や二人など別段珍しくもなんともない。彼自身、排水溝目当てでなければ一人で訪れたりしない区域だ。

 聴かなかったことにして、青年は人の気配のする方から背を向けた。だが次の一歩を踏み出すには至らなかった。

「貴方がたはお金に困っているのですか?」

 カツアゲされていながらそんな緊迫感を全く感じさせない、どこかで聴いたような若い女の声がした。それはつい先刻、酒場で別れたはずのあの少女の澄んだ声であった。

 思わず足踏みした。

 人間とはどうしようもない生き物である。見ず知らずの他人が襲われていようが全力で無視できても、それが顔見知りとなった途端、放って置けなくなるのだから。

 青年は思いきり舌打ちした。ここで見捨てたら、寝覚めが悪くなる。

(くっそ、なんでまだこの辺に居るんだ! 田舎娘が)

 怒りと呆れで一気に酔いが醒めた。

 だが、どうするべきかを未だに決めかねる。

「ではお渡しします」

「それで手持ち全部かい? お嬢ちゃん惜しみないねぇ、いいねえ」

「私はまた稼げばいいので大丈夫です。どうぞ」

「そーかい、じゃあいっそのことおいらたちのもとで稼いでもらおうじゃねえかい」

「それはできません、すみません。私にはこれから向かうべき場所が――」

 その先を待たずに青年は駆け出した。

 少女を取り囲む大きな人影が三つ、目に入る。その内の一つが猿ぐつわのような布を両手に持ち、腕を上げている――

 他の二つの人影が、駆け寄る青年に気付いて振り向く――

 それらを無視し、彼は少女に一番近い者に足払いをかけた。

 不意打ちが決まり、男は派手に転倒する。

「なんだてめえ!」

 面白味の無い文句と、重そうな拳。それらが右隣から飛び出した直後、青年はカウンターパンチを相手の頬骨に決めた。

 残る一人は、攻撃態勢に移る動作を見せている。

 構えの軸が左脚であろうことを見抜き、青年は敵のスタンスが完成するより先に膝の内側を蹴り崩した。

(よっしゃ、チャンス)

 少女の腕を引っ掴んで、逃げに入る。

 一分としない内に路地裏から逃げ出せた。運の良いことに少女は一度も転ばなかった。

 だがその時点で二人とも息が上がっている。

「いたっ――」

 少女から漏れた小さな声で青年はハッとなった。

「悪い。一刻を争う事態だったから」

 手を放しつつ、条件反射で謝る。

(って、何で言い訳みたいになってんだ。そりゃー勝手に引っ張ったのは悪かったけど、助けたんだからいーだろ)

 自分はこんなに下手に出る奴だったか、と首を捻る。

「よく、わかりませんけど……貴方は足が速いのですね」

 何故だか予想だにしていなかった感想が返った。

「……第一声それか。言っとくけど、俺は体調万全だったならもっと逃げ足速いぜ」

「あれ以上に速くなるんですか? すごいですね」

「他人事みたいに感心してんじゃねーよ。ま、あんな三人、万全だったら逃げずに余裕で片付けられる自信だってある」

 変な矜持が発動し、青年はべらべらと強気に語った。

(いやほんとに何言ってんだ俺は)

 未だに抜け切らない酒の悪影響だろうか。青年は我に返り、自らの発言に気色悪さすら覚えた。

「片付ける? とは?」

「……まさか。危ないとこだったって自覚すら無いのか。あんたの脳内お花畑はさぞや立派なんだろうな」

「花畑? 冬に花はあまり咲きませんよ」

 真剣に考え込んでいるような顔をして少女が返答する。

 ――ここに表れているのは果たして、人を拍子抜けさせる才能か――髪をかき乱しながら、青年はため息をついた。

「よし。あんたに皮肉が一切通じないんだってのはよーくわかった」

 脱力して青年は道端に座り込んだ。

「それはそうと、どうして逃げたんですか?」

「……逆に訊くが、どうしてあれで『お金に困ってる人を助ける』って考えに至るのか教えてくれ」

「困っている人に手を差し伸べるのは当然のことかと」

 相変わらず田舎娘の思考はあさっての方向に向かっている。呆れからか、青年は大げさに手を振り回した。

「じゃあ何か? あんたは相手が困ってさえいればなんでもあげるのか? 家族でも知り合いでもない奴を、助ける義理は無いってんのに」

「ダメですか?」

 少女が膝上に腕を組んで、正面にしゃがみ込む。首から胸辺りの肌が近付いてくるが、残念ながら布面積の多い服によって肝心なところは隠れている。服の下にネックレスでもつけているのか、銀色のチェーンだけが目に入った。

「ダメだ。いいか、そういう過度に慈善的な考えが人を怠慢に追い込むんだ」

「たいまん……?」

 本気でわからなそうにしている少女に、青年はずいと顔を近付け、暑苦しくまくし立てた。

「そいつはあんたの為に何をしてくれる? 靴を磨くとか荷物を持つとかなんでもいい。何か雑用をやってやるから一食恵んでくれって言ったんならいい。こっちから一回くらいは催促してもいい。でも、自分から言い出せない奴は、いずれにせよクズになるんだ」

少女は真剣な表情を動かさぬまま、聞き入っている。酒臭い息がかかっているだろうに、嫌な顔ひとつしていない。

「ましてや悪事に走る奴だ。それは、何もしてやらないけど何かくれって言う奴よりもっとずっと悪質だ。あんた今、売り飛ばされそうになってたんだぞ。危機感なさすぎだろ」

「――すごい! 目から鱗が剥がれ落ちた気がします。貴方は社会についてよく考えているんですね。私の思慮が足りませんでした。深く反省します」

「そこまで素直だと逆に気持ち悪いな……って、危機感については何も思うとこ無いんかよ」

 文句を垂らしながらも青年は諦めていた。何せ少女はもう話を聞いていない。両手を合わせ、その視線はどことなく宙を彷徨っていた。

 ここまで噛み合わない会話をしたことがかつてあっただろうか。青年はまたしてもため息をついて、のろのろと立ち上がった。

「大体なんでここに居たんだよ。まさかまた迷ったんじゃねーだろな」

「ええと、それは非常に申し上げにくいのですが」

 所在なさげに俯きながら少女も立ち上がる。

「…………迷ったんだな。まあ逃げている内にさっきよりは近づけたとは思うぜ。ほら、こっからでも見えるだろ。まだちょっと遠いが、あの丘の上のでっかい建物だ」

 青年は目当てのものを指差した。

 この町の魔物狩り師連合拠点は夜になると物見の塔の灯りを一晩中点ける。水路を渡る船にとっての灯台とは少し違うが、助けを必要とする人々が速やかにそこまで辿り付けるように。

 ゆえに、初見でも見間違いはありえないほどにわかりやすい。

「あれがそうなんですね」

 感心したように少女は言う。おう、と青年は答えた。

「わかりました、重ね重ねありがとうございます。親切な方。お礼はするなとのことでしたよね」

 ぺこりと頭を下げて少女はその場を去ろうとする。夜も更けてきたことだし、急ぎたいのだろう。

 が、青年はその細い肩をガッシリと掴んで引き止めた。

「待て待て。なにまた路地裏通ろうとしてんだ」

「だってこの方向でしょう?」

「だからって一直線に進めばいいってモンじゃねえ。治安考えて道を選べよ。つくづく、よくファイヌィ列島からこんな遠くまで来れたな」

 大抵の町というものには夜は絶対通ってはいけない路があって、特に丸腰の若い女が一人となると、どこを通ろうと危険は倍増する。目の前のこの少女がこの現実を理解できていないのは最早疑う余地も無かった。

「私、列島出身ではありますけど、此度の出発地点は別ですよ。ヒューラカナンテから南下してきたんです」

「ヒューラカナンテ、ってどこだ」

「非法人地域で無国籍地帯らしいです。ご存じありませんか」

 言われてみれば聞いたことがあるような地名だ。青年は懸命に記憶を探り、何も思い当たることなく終わった。

「あ! すみません。気が付きませんでした」

 少女がいきなり声を挙げる。大きな瞳が、青年の右手を注視していた。

「は?」

「怪我をされたんですね」

「ああ、さっき殴った時に擦り剥いたっぽいな」

 鮮血のついた指関節のことを言っているらしかった。いちいち手当てするほどの怪我でもない。

 それに普段は青年は非番の日も欠かさず革の籠手を嵌めていたのだが、職を失った途端に、半ばヤケになって手持ちの防具をほとんど売り飛ばしたのだった。

(我ながらマヌケだよな。武器まで売らなかったのが幸いか)

 職を失ったその日でいきなり金に困りはしない。務めも無いのに凝った装備をつけて街中を闊歩するのが、滑稽に思えて悔しかっただけだ。

(どうせ自意識過剰だよ)

 一旦卑屈な気分になれば、浸るようにどんどん沈んでいく。人生うまく行かないのはこの性格の所為かもしれない。

「ありがとうございます」

「……?」

 少女を改めて見下ろした。

 その時、右手が不可解な温もりに包まれた。

 少女の両手に指先が包まれてはいるが、それとは別の、芯まで染み入るような温かさだ。

「いっ」

 つい奇声が漏れた。皮が擦り剥けて赤かったはずの箇所が、見る見る塞がっていく。

(なんだぁ!?)

 気味の悪い光景だ。青年は震えを抑えるのに必死だった。

「はい、治りました」

「治りましたじゃねえ……もうちょっとこう、心の準備をさせろ」

 自分の皮膚じゃないみたいだと思っても、左手で撫でてみれば確かに感覚はあった。間違いなくこれは自分の皮膚だ。今のはどういう現象だ――

「そういえば、とてもきれいな髪だなってさっきから思ってました。スターアニスの種の色みたい」

 突発的な容姿褒めが始まる。欠片も嬉しくない。

 落ち着いて物思いもできやしないな、と青年はやはり諦めた。

「せめてシナモン色と言ってくれよ」

「アニス、嫌ですか?」

「薬っぽくて苦手な味だ」

「じゃあシナモン色ってことにしますね。ああでも、アニスを練り込んだパンが食べたくなっちゃいました」

「あんたは何を言ってるんだ。さっきたらふく食ったじゃねーか、肉を」

 反論してみたら、少女はぷっくりと頬を膨らました。

「美味しいパンの話ですよ。お腹が空いているという話ではありません」

「どうでもいいわ! それより、あんたが今何をやったかの話をしようか」

 最後を低い声で告げると、少女は「あ」と唇を驚きの形に動かした。スカートの両端を指先で持ち上げ、腰を折り曲げる礼をする。

「失礼、申し遅れました。私はヴィールヴ=ハイス教団に属する聖女、カタリア・ノイラートと申します。今のは我々が『聖気』と呼ぶ清浄化の力です。よろしかったら、貴方の名前も教えてくださいな」

 聖女カタリア・ノイラートは、服の下に収めていたらしいペンダントを取り出してみせた。教団の象徴をあしらった、二つの紫水晶が印象的な銀細工――なかなか偽造できる代物ではない。治癒能力といい、本物だ。

「聖女……」

 はああああ、と彼は露骨に長いため息をついた。

 自分は厄介な何かに巻き込まれようとしているのではないかと、頭の中に警告が鳴り響く。

(ヒューラカナンテ。思い出した、それって教団の本拠地だったな)

 旅の聖女となると、連合への用事も単なる魔物退治の域を超えたものかもしれない。

 事情は変わりつつあった。その辺の田舎娘ならともかく、人類の宝とも言われる聖人・聖女の一人を目の前にして、手助けをしないわけには行かない。

(連合に送り届けてからトンズラしよう。うん、そうしよう)

 今度こそ縁を切るのだ。でないと胃が不安だ。

「あんた一人じゃ心もとないから、連合拠点まで案内してやるよ」

「本当ですか!?」

 喜びすぎだ、とは口に出さずに、気を取り直して青年は咳払いをした。

「門前まで送るだけだぞ。いいな」

「十分助かります。よろしくお願いします!」

「よろしくしなくていい。俺の名は――――……」

 そして求められたがままに、青年は名乗った。どうせ憶えられることも無いだろうとの軽い気持ちで。


 ――しかしこれは、青年のその後の人生において、激動をもたらす出会いとなる。

これにて四章終了です。ここまでお疲れ様でした。


幕間みたいなエピソードで終わってますが、次章は勿論主人公サイドに戻ります。もう大分北に来ましたね(不穏)。作中ではまた時間とんで夏か秋になってそうです。


では、次は最終章にてお会いしましょう。読んで下さってありがとうございます!

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