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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第四章:満たされんとして追う
50/67

50.

やや残酷注意。

 季節の巡りを幾十と遡った夜。カルロンギィ渓谷がまだ濁りない平和に恵まれていた頃――民は伝統通りに大地と共に命を繋ぎ、自由に野を駆けて生きていた。

 山羊や穀物の世話も狩りも、その他の作業が全て終わって、住民が次々と灯りを消していく時刻のことだった。

「かかさま、あのおはなしして! せいちのおはなし!」

 里の一つの家の中では、母親は子が眠りにつくのを 見守っていた。

「またですか。本当に好きなのね」

「うん!」

「仕方ない子ですね」

 彼女は寝床の上で丸まった息子の頭を撫で、三枚重ねの毛布を丁寧に掛け直してあげた。

 少し隙間風の強い夜だった。窓にかけられた幕が少しだけ捲れあがるのを尻目に、彼女はせがまれたままに神話を語り始めた。子供には理解しがたい言葉が多く出てくるが、利発な息子には問題ない。


 ――かつてこの谷で、一匹の化け物が大暴れしました。

 それは強靭な後ろ足を持った翼の生えたトカゲ、つまり竜と呼ばれる姿をしていたのです。神話か魔の中にしか見られない不自然な形をしたその化け物は、毎晩のように谷に住む人々を襲い、食い荒らしました。

 ある日、谷に神に仕える神官さまが訪れました。あと少しの辛抱です、救い主が現れるまで共にお祈りしましょう、と言って彼は竜が現れる岩壁の前で膝を付きました。

 民は神々に祈りました。どうかどうか、化け物を撃ち落としてください、と。

 夜になると大雨になり、竜は壁の中から出てきました。その夜も民を飲み込もうと大きな口を開いたけれど、竜は誰も食べることができませんでした。

 もう一匹の大きな竜が現れたのです。

 黄金に輝く巨体を魔竜にぶつけて、二匹目の竜は人々を守りました。それが神々の使い、聖獣だったのです。

 雨は朝になっても止みませんでした。聖獣と魔竜は三日三晩、太陽の上がらない谷で、激しい戦いを続けました。

 人々は家の中からずっと、その戦いを見ていました。二匹の竜は力尽きる寸前までにぶつかり合いました。聖獣は清浄化の力で少しずつ竜を削りましたけど、魔竜はあまりにも大きく強く、もう聖獣の限界が近いのではないかと誰もが思いました。

 しかし聖獣は、空に向かって咆哮したのです。神々に助けを求めていたのでしょう。応えたのは風の女神、サルサラナさまでした。突風によって体勢を崩した魔竜、その首に噛み付く聖獣。

 ようやく致命傷を受けて、魔竜は銀色の粒子となって天に昇りました。

 谷の人々は救われたのです。

 それから、谷の人々はその伝説の岩壁に近付かなくなりました。遠い未来、教団がその場所を聖地と認定するまでは――。


「もっかい! もっかいききたい!」

「もういいでしょう。興奮しすぎて眠れませんよ。そんなに聖獣の話が好きですか?」

「ちがうよ、かかさま。せいじゅうじゃないよ、ばけもののおはなしがもっとききたいんだ」

「化け物の……? 聖獣に成敗された悪しき魔物が、なんだと言うのです」

 母は訝しげに訊ねる。

「みっかもたたかえるなんてすごいよ! きっと、すっごくつよかったんだよね。こわがられるって、いいなあ。かっこいいなぁ。ぼくも、ばけものになりたい」

 彼女は戦慄した。息子は化け物みたいになりたい、ではなく、化け物になりたい、と言ったのだ。

 化け物がどれほど非道で悪であったのか、人が食われるという事態の深刻さを彼女はそれから幾度となく言い聞かせたが、無邪気な少年は聞き入れなかった。

 彼の渇望がどれほど血生臭くて末恐ろしい未来を生み出すことになるのかを、ヤン・ナラッサナが実感するのは――まだずっと先のことである。


_______


 リーデンがヤン・ナヴィと死の舞踏を演じ、オルトファキテ王子がイェルバ・ジェルーゾの繰り出す灼熱と音波攻撃に対応し、ゲズゥが疾走していたのと時を同じくして――ミスリアは横たわったまま目を覚ました。おぼろげな視界の中に毛深い輪郭が浮かぶ。

 立派な螺旋を描く太い角をもって、四足歩行の動物が異形のモノと対峙している。

(……山羊さん……?)

 ぼんやりと熱を帯びた思考回路は、状況を飲み込めずにいた。目の前の生き物は、王子の話に出た動物なのだろうか。確か、険しい谷を往来するのに特化した山羊だ。渓谷の民にとっては生活を支える大切な資産。

 竜のような姿をした混じり物が、牙を剥き出しにする。獲物との間に入られて苛立っているようだ。

 山羊は怯まずに角を上下に揺らして威嚇した。ミスリアをのせた狭い岩の端にいながら、蹄が安定している。

 瞬いた間に、両者は絡みあった。

 その戦いに刮目するべく上体を起こそうとするも、腕に力が入らずに、パタリと倒れた。

「う……」

 次に瞬いた時、視界は別の映像と入れ替わっていた。

 この谷を舞台にして繰り広げられる獣たちの死闘――に違いないが、戦っている獣たちはどちらも翼を生やしている。それに、異様に大きい。比較対象は樹と岩しかなくとも、一目瞭然であった。

 そして、突風が吹き抜けた。それをきっかけに勝負の決定打が入り、聖獣は魔竜を制したのである。

(風……女神の救いの一手……)

 脳の片隅で何かが閃いた。

 突風が、打開策のヒントとなるのではないか。

 敵の巣窟を一掃するだけの聖気があればいいのに、とそもそもミスリアは考えていた。中で苦戦している人々を治癒し、巣くっている混じり物や魔物をせめて無力化できるだけの聖なる因子の流れがあれば。

 しかしここまでの広範囲に聖気を展開する力量も道具も、ミスリアには無い。

(ただ広げるんじゃなくて、風みたいに「吹き抜ける」イメージならどうだろう?)

 教科書に載るような聖気の使い方でなかった。それはきっと、秘術の域に迫るような方法になるだろう。

(触れた個々の物に、聖気が影響を及ぼすのはほんの少しの時間。完全に魔物を浄化したり、大怪我を治すだけの効果は無いかもしれないけど……)

 突破口にはなるかもしれない。

 ゴッ、と耳元で大きな音がして、ミスリアはヴィジョンから醒めた。

 岩が崩れている。獣たちが暴れた結果だ。山羊は次の足場を求めて跳び去ったが、当然、ミスリアにはそんなことはできない。

 掴める物を求めた。その間も、重力は無慈悲に引きずり落とすのを止めない。

 両手の爪が剥がれ指先からは鮮血が散ったが、それでもミスリアは掌に、手首に、腕に、肩に、持てる全ての力を込めた。

(早くなんとかしないと――!)

 岩壁そのものが聖地で、今だけなら自分でも特別な術が使えるのだと、ミスリアは感付いていた。

 谷に落ちたら、きっとこの機会は逃れてしまう。

 ――水晶を使えばよい。

 頭の中で声がした。というより、言語を成していたのかも怪しいようなただの振動だったのに、何故か意味が伝わった。

(でもあれは、貴重な器だわ。それに私のアミュレットと合わせても足りるかどうか)

 つい答えてしまった。ちょうどその時、ミスリアの左手が取っ掛かりを見つけて、ずり落ちるのをなんとか止められた。

 ――構わぬ、たかが鱗よ。ほれ。

 何が「ほれ」なのかはよくわからなかったが、なんとなくミスリアは顔を上げた。

 斜め上に走らせた目線の先で、何かが煌いた。こんな夜の闇で小石が煌くなど、奇妙なことである。

 目を凝らしてみると、硬貨のような平らな形をした物が野草と岩の間に挟まっていた。それは透き通っているようで、同時に淡い燐光を放っていた。

 聖女ミスリア・ノイラートにとっては馴染み深い黄金色の光。聖気の輝きだ。聖獣の身から剥がれて水晶化した鱗――!

 頭が急激に冴え渡った。

 左手の力が尽きる前に、アレを手にしなければならない。

(届いて!)

 何度か小さく空振りした。

(爪先だけでも触れればいいから!)

 左肩の関節が軋んだ、ような気がした。背後からは混じり物の嘶きが聴こえる。

 決して振り返ってはならない。心が挫けてしまうから――

 震える右手の中指の爪が、ツッ、と小さな音を立てて水晶に当たった。あまり深く挟まっては居なかったのか、たったそれだけの衝撃で外れた。

 鱗はひらりとミスリアの頬に落ちた。驚くほどに温かい。

 ふいに、左腕から全ての力が抜けた。

 今度こそ落ちる。

 両手は天に向かって空しく伸びる。衣服の裾がはためく音がひたすらに恐ろしい。崖上から静かな眼差しで見下ろす山羊と、目が合った。

 月が遠ざかる。

 瞬く間の絶望に包まれた――が、頬にくっついた微かな温もりが消えていないことを知って、ミスリアは直ちに行動に移した。

 懐の中のアミュレット、水晶、そして新たに手に入れたもう一個の水晶。それらの器に呼びかける。

「女神サルサラナ、そして聖獣よ、どうか力を貸して下さい……!」

 刹那、そこに眩い光が生まれた。四方八方どこを向いても、光には果てが無かった。混じり物の気配も、すっかり消えている。

(すごい……こんなの初めて!)

 だがこれで満足してはだめだ。ミスリアは聖気を凝縮するイメージを描きながら、なんとか視界を取り戻した。落下が進む間にも身をよじって洞窟へと繋がる窓を探す。

(あった!)

 両手で光の柱を抱き、渦巻かせた。

 そうやって、言うなればあの穴に聖気の竜巻を落とした。音はしなかった。

(これでいい……これできっと……)

 聖なる力が風となって浄化の恵みをばら撒くはずだ。それが何もかもをうまく行かせる一手となれなくても、自分はもうやれるだけのことをやった。

 後はもう落ちることしかミスリアには残されていなかった。

 無事で済むかは正直全くわからない。けれども一つの大仕事をやり遂げた達成感の所為か、恐怖という感情は留守になっていた。

 そんな心持ちで、美しい月をうっとりと見上げる。

 ――ドン!

 激しい衝撃に見舞われた。

 ところが、想像していたほどの痛みがしない。それに意識も奪われていない。

(あ。これ、知ってる)

 流石にこういうことが何度かあったとなっては、敷き物の正体にもすぐに気付けるものである。ミスリアはくるりと裏返り、恩人を間近で見下ろす形となった。

「また、助けられましたね。大丈夫ですか?」

「……あの高さから落ちた物を受け止めて骨折一つで済んだのなら、上出来だな」

「う、すみません。すぐ治します」

「軽くてよかった」

 護衛の青年――ゲズゥ・スディルは、心拍数などは上がっていたものの、相変わらずの何事にも動じなさそうな表情で、小さく息を吐いた。


_______


(あー、きっつ。敗因は体力差かな。ていうかいっそ手足の数)

 強気な思考が保てなくなるほど、リーデンはボロボロにやられていた。

 悔しいが勝敗を決するのは本当に手足――ほぼ触手――の数となりそうだ。

 リーデンは奇襲や暗殺の技術を磨いてきたのであって、正面から強大な的を打ち負かすには向いていない。瞬発力を受け継いではいるが、純粋な力よりも制御と正確さが売りだ。

 つまりヤン・ナヴィのような相手では大振りな攻撃は諦めて、細かい攻撃を重ねて少しずつ削る作戦を用いることとなる。

 残念ながらそれが果たせるよりも先に、自身が力尽きてしまいそうだが。

 里の連中と合わせても、なかなかうまく行かない。ナヴィの本体の動きはそれほど速くなくても、触手や両腕が防御と攻撃を兼ねているのだ。完全に数の勝利である。

 ゲズゥであれば、大剣で一刀両断できただろうか。或いは、百足の腕に阻まれて失敗に終わっただろうか。考えたところで、無意味だ。その助けは期待できない。何故なら兄は今別件で立て込んでいるのだから。

「しかも、まさか毒矢を飛ばしてくるとはね。そうなると君が里の毒に耐性があるのは、超越者になれたからじゃなくて、訓練の賜物だったりするのかな」

 せめてもの抵抗と思って、ぼやいた。

 そう、ナヴィは持ち前の肉体だけでなく武器を使用して来たのだ。手数が多すぎて捌き切れず、リーデンは下腹部に三本食らってしまった。

 完全に動けなくなるまでのカウントダウンは既に始まっているどころか、終わりが近い。

『元々使っていた武器だしな。知れた敵への当然の対策を取ったまでだ。流石に、余所者への対策は立てようがなかったが』

「気にすることないんじゃない? 君は十分うまくやってるよ」

 確かに、彼がまだ人であった頃に毒の吹き矢の扱いに長けていたと言うのは頷ける話だ。むしろそれを予測しなかった己の方が間抜けであろう。

『ふん。敵に賞賛を送るとは、余裕だな。やはり嫌な奴だ。もっと血反吐を吐くといい』

「誤解ダヨー。余裕なんてナイヨー、今にも死にそうなんだって」

 と訴えてみたものの、まるで説得力がなかったようだ。

 ヤン・ナヴィは触手をしならせた。それに鞭打たれて、一瞬意識が飛びかけた。意識だけでなく、身体も飛んだ。

 いつの間にか地に落ちていて、しかも瓦礫に埋もれかけていた。

 まだチカチカと星が散っている視界の端でイマリナが泣いている。駆け寄ってくるように見えた――

「来るな!」

 一喝して制した。イマリナはびくっとその場に硬直した。

 運命を共にする必要はない。彼女だけでも、生き延びればいいと思った。

(そもそもなんで、僕はこんなところでこんなことをしてるんだっけ)

 大型猫の頭部が近い。吐息の熱が、涎が、かなり不快である。

(ああ、そうか。苦しんでる人を助けないと、あの子の気が済まないからだ)

 喉を噛み切られる――ふとそう直感した。

 リーデン・ユラス・クレインカティは忍び寄る死の気配には構わずに、ひとりごちる。

「ねえ聖女さん。コイツと対峙したら君は、かわいそうだと思って救いたがるのかな。それとも心を鬼にして、何が何でも倒すべきだと声高に叫ぶかな。今死んだら、君の葛藤を見れなくなるのが一番の心残りだ」

 ここで目を閉じるのも一つの選択だろう。そうしなかったのには深い理由は無かった。ただなんとなく瞼を開いたまま、焦点がぼやける。

 一種の現実逃避と言えよう。

 唐突に、ぶわっと暖かい気配が通り抜けた。

  それを受けて真っ先に連想したのは、聖気の祝福。

(でも、え? 風――だった?)

 今のが聖気だとするなら馴染みの無い形式だが、痛みの和らいだ怪我や解かれつつある麻痺状態などが真相を雄弁に物語る。

 更には、耳のすぐ傍でバシャッと水音がした。反射的に両目の焦点を眼前の化け物に合わせた。

 ――腕が、なくなっている。

 見れば、百足も蛇も地面にごっそり落ちたようだった。銀色の素粒子を放ちながら、ぴくぴくと最期の痙攣をしている。魔物がそうなってしまうように、聖気に触れて浄化されたのか。

 再びヤン・ナヴィへと視線を戻すと、何が起きたのかまるで理解できない表情をしている。数瞬遅れて吠えた。奴の腹の大型猫の、断末魔であった。

 リーデンは状況を正確に把握する為に目を凝らした。

(否応なしにも魔物である部分は浄化されて、残ったヒトの部分が……まさか、融解している!?)

 よくわからないが、チャンスだ。

 反転してその場を逃れた。急いで奴との距離を稼ぐ間にも、触手が暴走し始めた。

 リーデンは背を向けて走っていたが、破壊の「音」から違和感を見つけることができた。それは、先ほどに比べてかなり控え目に聴こえてくるのだ。

(浄化されかけてる所為でさっきみたいな破壊力が無いんだ!)

 これなら、もっと強引に攻められる。

 瞬時に踵を返した。心の中の弱気な流れは、既に逆転している。

「聖女さん。君は希望を運ぶひとだね」

 耳飾のチャクラムを外し――人差し指と中指の間に一枚、中指と薬指の間にも一枚挟んで、投げた。

 奴の首を切断するのが狙いだったが、戦輪は右の頬と眼窩に食い込んだ。この際、ダメージを与えられれば何でも良しとしよう。

 喚き声と触手の暴走が激化した。

「攻め込め! 実体が保てなくなってる今が好機だ! もうすぐで倒せる!」

 満身創痍の観衆を鼓舞する言葉を投げかけた後、リーデンは何処かに落とした剣を探しに行った。

 入れ違いに、励まされた里人たちが怒涛のように走り過ぎる。

(さっきまで怯えて身動き取れなくなっていたのに、勝利が近いとわかった途端に元気だね。ま、聖気の効果もあるか)

 それでいい。まだ体力の残っている者がなんとかやってくれるだろう。自分は十分に働いた、そう結論付けて、のんびりとした足取りになる。

 横合いからそっと剣を差し出す者がいた。

「ありがとマリちゃん」

 潤んだ目で見つめてくる彼女に、なるべく安心させるような声をかけた。このタイミングで抱き付いて来るのではないかと僅かに疑ったが、イマリナは分別のある大人だった。唇を噛んでぐっと堪えてくれた。

 後でめいっぱい褒めてやろう――剣の柄を握りながら、そう思った。

「解放主! やりましたね!」

「ちょっとー、『やった』とか、安易に言わないでくれる? そういうコトを口走った時に限って隙を突かれるんだよ」

 リーデンは再び騒ぎの中心へ向かった。ヤン・ナヴィは未だに抵抗の意思を全身で表現していたが、攻撃の速度や威力は減る一方だった。融解が進んで、体勢が維持できなくなっている。

(んー、判断を待つべきかな。僕の手柄じゃないし、因縁深い相手が他にいるし)

 ついに地に崩れたヤン・ナヴィの前に、力強く歩み出た。と言っても、まだ十五歩分は離れている。

 その位置からビュッと剣の先を突き付ける――

「とりあえず取り囲んで警戒して! できれば拘束したいけど、接近しすぎるのは禁物だよ」

 周りに指示を出すのも忘れない。

「はい!」

「さぁて、君をこれからどう料理しようか。じっくり考えるとするよ」

『……』

 チャクラムが刺さったままの眼窩から、ドロドロとした液体が溢れ出た。

 すっかり体積が小さくなった男は恨めしそうに唇を震わせる。その口からは、水音がするだけで言葉が出て来ない。

 聖なる奇跡は「混じり物」にとって究極の毒であったのだ。魔物の部分が粒子に還されれば、残された人間の部分は不完全になってしまう。融合の果てに残った人間の部分が少なければ少ないほど、きっと形は崩れやすい。

 左眼が訴える鈍痛を無視しながらも、リーデンはその事実に対して複雑な想いを抱いた。

(僕らの眼が融解しないのは、何代か過ぎて本質が変わったからなのかな)

 相変わらず謎だらけだ――。

 滑り込まんとする雑念を振り払って、リーデンは周りの里人に声をかけた。

「君たち、死傷者の確認を済ませたの」

「重傷者が八名、軽傷者十五名です。死者はおりません」

 整った共通語で、若い男が答えた。

「へぇ。死者ゼロとは意外だね」

 運の働きか聖女の働きか、おそらく両方か。

「解放主、これよりどういたします?」

「どうもしなくても、待てばいいよ。目的を果たしたら、女狐さんは此処に来ると思う」

 空いた手で、リーデンは乱れた髪をバサッと払った。

「め、めぎつねと言いますと、まさかナラッサナさまでしょうか」

「うんそう。ナラッサナさまね」

 と言ったものの、数分後に現れたのは数人のカルロンギィの民だった。ヤン・ナラッサナと共に、攫われた女たちを捜しに行った部隊からだ。リーデンはそこに女狐の姿を見つけられなかった代わりに、異物の気配を察知した。

(羊の群れに狼が混じってる)

 そう感じた矢先に中肉中背の男が群れから進み出た。周りと同じくマントで全身を包んでいるが、なにやら目に付く点が幾つかある。片腕から何か大きな物を引っ提げて地面に引きずっていることと、鋭い藍色の眼光だ。

(例の王子か。兄さんに友達が居たことも吃驚だけど、こんなアブない人だったってのにも吃驚だよ)

 注目すべきは腕である。男の素振りからしてそれなりに大きな荷物と見受けられる。その割には、引きずる音は不似合いに軽そうだった。

 王子はヤン・ナヴィの傍まで出ると、前腕の籠手ガントレットに巻き付けていた長い髪をするりと解いた。雑な運び方に比べると滑稽なくらいに優しく丁寧な手付きで、荷物を解放する。

 地に落とされた塊は動いている。よく見れば、あちこちけかけている上半身のみの少年が、首しか残らなかった兄弟の亡骸を抱き締めてすすり泣いていた。

(ちょっとかわいそうだな)

 思えばあれだけ完全な変身ができたのだから、彼らの人間の部分はかなり少なかったのだろう。それこそ脳だけだったのかもしれない。聖気にやられてしまえば、生命が保てる可能性は限りなく低いはずだ。

 見た目通りの年齢ならば一応成人している。彼らは自分の選択に自分で責任を持つべき段階にあって、これは情けをかけるような場面ではない。

 だが――肉親の骸を抱いた少年を見下ろしながら、過去と全く重ねていないと言えば嘘になる。

 リーデンは目頭が熱くなる前に、視線をヤン・ナヴィに戻した。

『ジェルーチが死んだか』

 水音の合間に発されたヤン・ナヴィの声は無機質だった。

「ごめ……ヤン。ごめん、ダメだった……せっかく……強く、してくれたのに……ルゾがよわいから、ダメだった」

『ジェルーゾ、お前一人のせいじゃない。謝るな』

 何故か少年を憐れむような気まずい沈黙が続く。人とはその場の雰囲気に流されやすい生き物である。同情したくなるようなやり取りの後では、恨み辛みをぶちまける者は誰も居なかった。ジェルーゾに至っては、双子を失った悔しさの矛先を己に向けているようだ。

 一方で、周りに構わずに空気をぶち壊す無遠慮な奴も居た。

「世にあるまじき生の形を無に帰す力……。牢に居た身重の女たちは痛みも出血も伴わない不可解な流産を経て、次々と正気を取り戻した。殺す以外に救う術が無いのかと思っていたぞ」

 脈絡もなく、王子が感心の言葉を漏らしたのである。

「いつだって救える術を追求し提供してくれるのが、我らが聖女さまだよ」

「どうやらそのようだ」

 リーデンは適当に言葉を繋げただけだったが、納得したように王子が顎をさすった。

『誰だきさま』

「私が何者であるかなど、今はさして重要ではない」

 ナヴィの誰何を王子はあっさり受け流した。

「あるまじき生の形か。その理論通りなら、研究室ってトコもさっぱり浄化されてそうだね」

 兄が見たというおぞましい生命体――と呼んでいいのかは不明だ――が無に帰したのなら、一安心である。

「そうだな。ヤン・ナラッサナが手を回して、生存した女たちを帰路につかせている。後は首謀者と側近を始末すれば、事件は終息する」

 背後を気にするように、王子は肩から振り返った。

(この谷に来てまだ一日も経ってないはずなのに、物凄く長い時間が過ぎた気がするよ)

 やっと一件落着か、とリーデンは内心気を緩めた。それから王子の向いた方向に視線を合わせた。

「おいでなすったね」

 全身の肌という肌をよく隠した女が群れから毅然と前へ進み出た。

 いかに外見的特徴がほとんど隠れていようと、眼差しの深みは彼女が人の上に立つ者であることを明かしている。

 ヤン・ナラッサナの緋色の瞳は、洞窟の中を一通り眺めまわした後、真っ直ぐにナヴィを見据えた。

「やっと会いましたね」

 静かにかけられた声には、感情を抑制したような響きがあった。

『おれは別に会わずともよかった』

 ヤン・ナヴィはあさっての方向を向いていて、母親を避けているようにも見えた。

「使うか?」

「お借りします。ありがとうございます、お客人。これはわたくしが果たすべき責任ですから」

 王子が差し出した剣を、ナラッサナは繊細そうな手で受け取る。

「終わりにしましょう」

 断罪を言い渡す一声が、空間にこだました。

 その余韻がまだ反響し終わらない内に、人の群れの奥から小さな物音がしたのを、リーデンは確かに聴いた。


_______


「駆け付けてくれてありがとうございます」

 聖気の流れを閉じた後、小さき聖女はいつも通りに礼を言った。それを受けたゲズゥは、思わず両目を細めた。

「もっと急ぐべきだった」

 爪が割れ、乾いた血の痕が目立つ細い指を、そっと手に取る。少女は痛がる素振りを見せた。

「だ、大丈夫ですよ、このくらい。処置しなくても治る怪我です。他のみなさんの方がよっぽど大変な目に遭ってますよ」

 ミスリアは無理に笑ったようだったが、ぐしゃぐしゃに乱れた栗色の髪が、表情をほとんど覆ってしまっている。

 手を伸ばした。顔が見えないのは勿体ないからと、髪をどけて耳にかけてやる。

「あの?」

 茶色の双眸に疑問符が浮かんだ。

「これでいい」

 満足気に答えると、ミスリアは大きく目を見開いた。

「……貴方は、笑うようになりましたね」

 次いで心底嬉しそうに言う。

 ――なるほど、自分が笑顔を作ったから彼女は驚き、喜んだのか。以前なら他人の表情に心動かされるなど理解しがたい現象に思えたものだが、今はそれほどでもなかった。

「お前が面白いから」

「わ、私、そんなに可笑しいことばかりしてますか?」

 少女は慌てふためいて、恥ずかしそうに身を硬くする。

「そうだな」

 一挙一動が、見ていておかしい。だがそれ以上に的確に形容できる言葉をゲズゥは知っていた。

 ――かわいい。

 そう教えてやろうと口を開いた途端、弟の左眼から映像が共有された。

 化け物を取り囲む人々の輪だ。ゲズゥはその意味について考え込んだ。

 立ち上がり、いつしか眠そうに目を擦っているミスリアに手を差し伸べた。

「もう少し起きていられそうか」

「え……何かありましたか?」

「リーデンらが大将を鎮圧できたらしい。お前は、見届けるべきだ」

 しばしの間があった。聖女ミスリアは、ゆっくりと何度か瞬いた。

「わかりました。頑張って起きています」

 ミスリアが立ち上がった途端、華奢な肩から粉のようなものがひらりと空に舞った。「それは?」とゲズゥは目配りで問う。

「水晶が崩れたんです。内包されていた聖気を一度に使い切ってしまうと、こうなるみたいですね。数百年分の風化もありますし、仕方が無いのでしょう」

 そう答えた声は、言っていることとは裏腹にいつもより落ち込んでいた。

「ルフナマーリの沼で見つけた水晶も同じく塵になってしまったみたいです」

「また見つけるしかないな」

「はい……」

 そこで二人は話を切り上げる。

 ミスリアを抱えて走り出す寸前、なんとなくゲズゥは空を見上げた。月の輝きを背負って佇む山羊が何頭か並んで、崖上からこちらを真っ直ぐに見下ろしている。

 よくわからない奴らだ、端的な感想だけに留めて、ゲズゥはその場を後にした。


 やがて辿り着いた巣窟の奥深くで奇妙な場に居合わせた。どういう展開なのか――見知らぬ女が剣を胸に生やして、こと切れている。ボロ雑巾みたいな衣類に、相当に汚れた髪や身体。身だしなみをピシッと統一させたカルロンギィの民とは一線を画した風貌である。

 ――此処に来る途中で疲弊した女どもを連れて里に戻る人々を目撃したが、まだ救出されていない者が居たのか?

 しかし女は醜い異形のモノと人だかりとの間に横たわっている。見た目の印象から、異形を人間たちから庇ったのではないかと疑う。

「あ、聖女さん、兄さん。はいはーい、みんな道開けてあげてー」

 リーデンの一声で民衆がきれいに二つに分かたれた。

 ミスリアを下ろしてから即席で作られた道を大股で進む。

「何があった」

 異形に警戒しつつも、訊ねた。答えたのは近くに立っていたオルトだった。

「親による子の断罪を、牢に居た女の一人が邪魔したのさ。女はどうやらあの男の思想への賛同者だったようだ。ヤン・ナラッサナも複雑だろうな。正常な世ならばそいつは孫の母親で、その者を手にかけたのだからな」

 オルトの言動に対し、ゲズゥは顔を顰めた。では、研究室にて蠢いていた気色悪い生命体も孫になるのか。あまり気分の良い血縁関係とは思えない。ヤン・ナラッサナという女に多少なりとも同情を抱いた。

 ふとミスリアの動向に気を配ってみると、小さな聖女は胴体と首しかない年若い「混じり物」たちの傍でしゃがみ込んでいた。

「後悔……してない。死んでる……みたいに生きた……里より、ヤンのところは、ずっと楽しかった。違う自分に、変身できた。ジェルーチも、同じ、きもち……だった」

 胴体は、うわ言のように呟いた。独り言であったが、面前に居る話を聞いてくれそうな相手を意識しているようにも見えた。双子の首を抱き抱えたまま、チラチラとミスリアを気にしている。「なんで……泣いて、るの…………」

「わからないからです」

 ミスリアは涙声で静かに答えた。

「貴方がたは間違っている。自分が辛い想いをしたからって、他の人の想いを踏みにじっていい訳にはならない。でも、だったら私は道を踏み外す前の貴方たちに何か言えたのか、何かしてあげられたのかと想像しても……わからないんです……!」

 胴体だけの少年は、大人しく静聴している。

「その苦しみを和らげることはきっと私にはできなかった! その方の元で得られたような満足感は、与えてやれなかった! 今ここでも、どうもしてあげられないんです。摂理を外した貴方がたは、生きて、償う時間すら許されないのでしょうか」

「せつり?」

「私のしたことは、余計だったのでしょうか……」

 ミスリアは力なく項垂れた。その背後で、ゲズゥはリーデンと顔を見合わせた。

「償う時間すら許されない、か。魔物と違って自我があるだけに厄介だね。向き合い方がわからないもんね」

 南の共通語でリーデンが言った。慰めるように、小さな肩に手をのせた。

「なかないで」

 意外なことにジェルーゾも慰める言葉を口にした。多分、聖女が何を悲しんでいるのか、その悲痛な叫びの意味をわかっていないのだろう。ただなんとなく、自分の為に涙を流しているのだと感じ取っているだけだ。

「ねえ、きみは……なんで……光って、るの」

 ごぼっと血を吐いた後、ジェルーゾが訊いた。ゲズゥの視界の中では、ミスリアは別段光を放ってはいなかった。或いは霊的な世界との距離が短い「混じり物」だからこそ、ジェルーゾには違って見えるのかもしれない。

「それは導くのが役目だから――」

 言い終わらずに、ミスリアはしばらく考え込んだ。

 ぐっと顔を上げた頃には少女の両手は黄金色の輝きを微かに帯びていた。

「手を繋いでもよろしいですか」

「て? いいよ……」

 興味津々にミスリアの手を凝視しながら、胴体だけの少年は片手を伸ばした。残る手は勿論、兄弟の亡骸を抱え込んでいる。

繋いだ手の先が劇的に変化することは無かった。

 いくら「奇跡の力」でも重すぎる怪我を治せないように、胴体だけとなった人間を再生させるのは不可能なのだろう。

 金色の光の帯はふわふわと少年を包むだけだった。しかし少年は頬を緩める。

「あったかい。ね、ジェルーチ、あったかい…… ね………… 」

 それまで形を保っていたのが嘘のように、二人の少年は呆気なくその場に崩れた。

 もはや肉塊を含んだ血だまりでしかない。

 観衆が息を飲み、声をも出さずにミスリアの次の動きを見守る。そんな中、ゲズゥだけは傍まで近付いた。ぴちゃり、と一歩踏みしめる度に靴の裏から不快な音がする。

「彼の魂はどこに向かうのでしょうね。神々へと続く道に、ちゃんと辿り付けるとは思えません」

 掌に残った骨の破片を見つめる瞳は虚ろである。悲しみが押し殺され、諦観が滲み出ている瞳だった。

「気負うな。お前は、できるだけのことはやった」

 やや強引に肩を掴んで立たせた。尾を引く後味の悪さは仕方ないが、できることならゲズゥはミスリアをその場の毒に染まらせたくなかった。

「そう――だといいです」

「そうだ」

 続けて強引に身体の向きを変えさせる。

 断片的な会話が聞こえてきた。ヤン・ナラッサナとその息子だという化け物のいる方からだ。

 一度はリーデンの耳がいた言語。雰囲気でなんとか訳すと、こうなった――

「――女贔屓? わたくしがお前を跡目に選べなかったのはお前が未熟だったからです。いい加減、目を覚ましなさい」

『夢から……野望から、目を覚ますことほどつまらないものは無い!』

 憤怒の咆哮に翻訳は必要なかった。

 無用心に踏み込んでいたナラッサナに向けて、化け物の顎が迫る。融解せずに残った人間の部分の、黒ずんだ歯が女の顔に噛み付こうとしている。

 幾重もの悲鳴がこだました。

 だがその中に、ヤン・ナラッサナの断末魔は交じっていない。

 ――ごとり。

 ヤン・ナヴィの首が落ちた。

 そうなったまでの流れを、ゲズゥの視覚はしっかり捉えていた。オルトが地面の女に刺さっていた剣を抜いて、無駄を省いた動きで振るったのだ。

 この男、人が気付かぬ内に立ち回るところは変わっていないらしい。

 ふいにゲズゥの手からするりと温もりが抜けた。

 ミスリアがよろめきながらも自分の足で歩き出したのである。一直線に、新たに登場した生首に向かって。

『きさま……そんなものをおれに向けるな! やめろおおおおお』

 首が、かざされた少女の掌を世にも恐ろしいものであるかのように睨んでいた。

「すみません。止めることは、できません」

 聴いたことも無いような冷たい声だった。

『ぐっ……! 世界の正しい流れに祝福などされてたまるか。おれは、おれの生きたいように生きて、死にたいように死ぬ』

「貴方にとっての祝福かはわかりませんけど」

 返る声はやはり冷たい。

 ――果たしてそれは会話と呼べるような言葉の応酬であろうか。

『……なんだかな。悔しい話だ。この光を浴びると……』

「浴びると?」

『きぶんが……いい…………なつかしい……」

 ――びしゃん。

 それで終わりだった。ヤン・ナヴィという男の一生はそこで途絶えた。

 歪な固体が、穢れの池に還った。

「はじまりはあんなにも騒々しくて。大仰で、大切な時間だったのに……おわりは、こんなものなのですね」

 子を失った母が――血だまりに沈む澱のような、重苦しい息を吐いた。

「終わりも結構騒々しかったけどね。母親らしく、子供が誕生した瞬間を思い出してたのかな」

 と、リーデンが小声で言った。それには「さあ」とだけゲズゥは答える。

「反抗期にしては面倒が過ぎる」

「そりゃあねぇ。でもま、なんとかなってよかったよ。兄さんにとっては聖女さんの心のアフターケアが最重要事項じゃない?」

「…………」

 答えの代わりに、ゲズゥはぱったりと意識が途切れたミスリアを素早く支えて横抱きにした。

「僕は旅の資金とか荷物の新調とか、その辺どうにかなんないか里人をつついてみるよ。転んだからってタダじゃ起きられないしね」

 さすが、ちゃっかりとした弟だ。常人が同じ目に遭っていれば、カルロンギィとこれ以上関わり合いたいとは思わないだろう。だがリーデンは常人ではなかった。自分を謀った民からは諸々と搾取するつもり満々である。この生き辛い世の中ではそれくらいでちょうどいい。

「助かりました。あなたさまは命の恩人です」

 一方でヤン・ナラッサナは気持ちの整理がついたのか、それともそういった感情を奥深くに押し隠したのか。息子だったモノの残骸から離れて、オルトに礼をしている。

「ああ、気にするな。恩を着せたくて動いたのではない」

「ではお客人、わたくしの長女を伴って女王陛下を訪ねて下さい。陛下とは特に親睦の深い者ゆえ、楽に謁見が叶うでしょう。それをもって、借りを返させていただきます」

「よかろう。了承した。これでわざわざこの里に寄った甲斐があったと言うもの」

 ナラッサナと握手を交わしてから、後半の独り言はカルロンギィの民に聴こえないようにか、オルトは南の共通語に切り替えた。

「……事情説明もなく、みなさまがたには、多大なご迷惑をおかけしました。どうか我々の里にいらしてくださりませ。お詫びには足りませんが、おもてなしをいたします」

 ヤン・ナラッサナの意識がこちらに向いた。今度は謝礼ではなく謝罪の意を込めて腰を折り曲げる。

「何の裏も企みもありません。よろしかったら宴の一つや二つ、催させてください」

 ――奪還した女たちの介抱でしばらくは多忙であろうに、宴?

 無理をしてでももてなそうとする姿勢には誠意が感じられた。

「わーい、ちょうたのしみー」リーデンはなんとも心の篭もっていない様子で応じた。「ヤンさんさあ、多大な迷惑をかけたお詫びに物資もくれないかなー」

「なんなりとお申し付けください」

「そ、じゃあリスト作っておくね。後、もう一個だけ言いたいことがあったんだ」

「なんでしょうか、解放主」

 里の代表者たる女が顔を上げる。

「うん、それ。数年前に成り行きで君らの自由を取り戻した救世主さまって、実は僕じゃなくてこっちのでかい人なんだよね」

 一斉に驚きと疑惑の視線がこちらに集まった。

「……そうでしたか」

 探るような視線がゲズゥを包囲する。判別する為の証たる左眼は前髪に隠れている所為か、民の眼差しは一貫して半信半疑だ。

「そうでしたよー。だから崇め平伏すなら兄さん相手にするのが正解だね。ていうかそれ、単に僕が見たいから是非お願いするよ」

 人だかりにどよめきが走った。ところどころ互いの顔を見合わせ、迷いを見せている。リーデンが言うならきっと間違いない、という空気だ。

 これは実際に平伏す者が出てくるかもしれない。

「やめろ、鬱陶しい」

 そうなる前にゲズゥは冷淡に釘を刺しておいた。


_______


 放し飼いにされている山羊の群れに紛れてぼんやりしていた。

 左手には野鳥の骨付き肉、右手には水で薄めた山羊の乳が入ったゴブレット。胡坐をかいた膝の上にはトカゲと蛇の香ばしい串焼きなどが並べ立てられている。爬虫類を食べ物と考えたことはあまり無かったが、今後その認識を改めてもいいとゲズゥ・スディルは思う。

 日頃の生活の中で一番制御されがちな肉料理が、際限なく出される宴という催しは、いいものだ。

 移動をしている間は乾燥食糧で食事を済ますのが多いだけに、ありがたみが違う。時間がかかってもいいから、道中もっと狩りをするべきか。

 ばりっと鋭い音を立てて、野鳥のカリカリに焼かれた皮膚を噛んで裂く。実に爽快な音と食感だった。

 ――聖女さん、風に当たりたいからってそっち行ったんで、よろしくー。

 独りで黙々と肉を平らげていた最中、弟から能天気な通信が届いた。

 ミスリアがこっちに来る。

 体調が悪いのか、人に当てられでもしたのか。そのことについて思案する為に、一旦咀嚼を止めた。

 混じり物騒ぎから一週間が経ち、ミスリアが目覚めたのは今日中のことだった。イマリナ=タユスでの過去例と比べると眠りこけていた日数が短い分、起き掛けの様子が変だった。

 泣きながら目覚めたのである。

 不吉な夢でも見たのかと問うても何も憶えていないの一点張りだ。直接の原因なのかはともかくして、それからミスリアは一日中元気が無かった。

 案の定、天幕の群れから抜けてとぼとぼと歩み寄ってくる小さな影は、スカートの裾を両手で持ち上げながらも、俯いて肩を落としている。

「こんなところに居たんですね」

 ミスリアはこちらの姿に気付いて、顔を上げた。少しだけ微笑みが表れる。

「人混みは別にどうでもいいが、他人に尽くされるのが面倒だ」

「……大変そうでしたね」

 そう、宴の座に居ると、何かと里人が構ってきた。解放主だなんだと言ってもほとんど身に覚えのない行為だ。それをやたらと讃えられているというのは、ゲズゥにとっては薄ら寒いだけだった。リーデンのように好都合と捉えて最大限利用する気は起きない。

「きゃっ」

 突如、ミスリアは四方から山羊にもふっと挟まれる。

「や――やめてください。危ないですよ」

 毛深い獣たちは装飾品に興味を持ったのか、腰の飾りや腕輪などを甘噛みしている。

 べぇ、べぇ、と返事をしながらも、山羊たちは引かずに擦り寄る。通常の山羊以上馬未満の巨躯に囲まれて、少女は飲み込まれてゆく。

 助け船を出すことにした。ゲズゥは串の束を歯の間に収め、両手を使ってミスリアを拾い上げた。群れから数歩離れてから下ろす。

「すごいですね」

 肩から振り返りながら、ミスリアの目線は串に釘付けになっていた。

「食うか?」

 歯の間から取り出した合計三本の内、一本を差し出す。

「いえ、私はいいです。なんだか食欲なくて。どうぞ全部平らげてください」

 そう言ってミスリアは自分が去ったばかりの天幕の方を見やった。

 風に乗って、向こうから音楽が流れてくる。宴はなかなかの盛り上がりを見せていた。

 数日だけで快復した女たちは、捕まっていた間の記憶があやふやで里の生活に再び慣れるのも早かった。むしろ身内の者たちの方が女たちの突然の社会復帰に戸惑っていた――もっと休ませるべきか否か、あまりに早い快復を喜ぶべきか訝しむべきか、心配のしどころがわからないかのように。

 その温度差を埋めて全体のムードを無理にでも引き上げる為にも、宴が開かれたのだろう。

 ちなみに無駄に顔立ちの整ったあの弟は、中央の広場で宴の渦中にいた。相手をとっかえひっかえしながらくるくるとステップを踏んでいるのがここからでもよく窺える。馴染みの無い踊りだというのに、回を重ねるごとに学習しつつさりげなく女にリードさせたりと、器用に誤魔化している。その世渡り術は一体どうやって身に着けてきたのか――あまり知りたくない。

「踊らないのか」

 ふとそう問いかけていた。何せその横姿は、己のよく知るそれと相違していたからだ。

 里の女たちによって現地の盛装に着替えさせられ、化粧や髪も惜しみなく整えられている。幾重にも重なった裾の長い衣の下では小柄な身体が更に小さく見えそうなものだが、そんなことは無かった。服の上からかけられた、鉱物をあしらったアクセサリーが華やかな印象を醸し出し、上半分だけまとめ上げられた髪には簪やビーズが多く編み込まれている。

 仕上げには額をぐるっと囲ったヘッドネックレス。涙型の深紅の宝石が主役を飾るそれは、茶色の瞳の深みをうまく引き出していた。

 ゲズゥにはそうする心理がよくわからないが、ここまで豪華に飾り立てたからには、人目に晒されながら宴を楽しむべきではないのか。

「いえ、私はいいです。今は、人がたくさんいる場所はちょっと気疲れしてしまうので」

「…………」

 どこか納得の行かない答えだった。

「あの、何か?」

「だが物欲しそうに眺めている」

「え」

 華奢な肩がぴくりと動いた。少なくとも、踊りたい気持ちはあるように思えた。

 そこで一つ閃く。

「ここで踊るか」

 と言っても、一人ではつまらないだろう。そう思って手を差し伸べる。

「え、えぇ!? ゲズゥは舞踏に造詣が深いんですか!? そ、それは確かに運動神経は良いのですし、弟さんもあの通りですけど」

「まさか。リーデンと一緒にするな」

「でも、私もあまり得意ではないです。馴染みの無い曲調ですし、二人してそうだと足踏んだり踏まれたりしますよね」

「……ああ。それなら最初から踏んでいればいい」

 ゲズゥの提案に、ミスリアは首を傾げた。

 とりあえず文字通りに爪先を足にのせるように促す。ミスリアの右足がゲズゥの左足に、左足が右足に、向かい合う形で重なった。それを心地良い圧力と呼ぶべきか、踏まれてもほんのりとした重量しか感じない。

 後は上体を安定させるため、少女の後ろ肩と腰にそれぞれ手を回した。

 曲も変わり目だ。ミスリアは未だにきょとんとしているが、早速踊り始める。

「わっ」

 急な動きに驚いたのか、柔らかい手がゲズゥの二の腕にしがみついた。

 流れて来る曲は軽快なテンポである。ある者はシタールという弦楽器を指で弾き、ある者は高らかな歌声を夜気に響かせる。向こうに見える現地の人間は隣の相手と向き合って手拍子を打ったり、片足を蹴り上げて跳んだり、縦笛を吹いていたかと思えばそれを天高く振り回したりと、何をしているのかよくわからない。わからないので、こちらはこちらで適当に踊った。曲が一際盛り上がったところで少女を足にのせたまま、逆時計回りに回転する。

「ふっ――あはは! 回るっ。すごい回りますね。は、速いです」

 一瞬、目を瞠った。生真面目なミスリアが声に出して笑っているなど滅多にない光景だからだ。あどけなさが目立って、微笑とはまるで印象が違う。

 衝撃は波紋のように胸の内に広がった。温かい感覚だ。嬉しい、のだろうか。

「楽しいけど――も、ダメ……目が」

 目が回る、と言わんとしているのに気付き、ゲズゥは足を止めた。ミスリアは胸元を押さえて笑っている。つられて笑いそうになるくらいに解放的な笑い方だった。

 やがて少女は呼吸を整えて背筋を伸ばした。しゃらん、と頭の飾りが音を立てる。

「そういえば王子はもう発たれたそうですね」

「次の日には出ていた」

「そうでしたか。たくさんお世話になったんですから、ちゃんとお礼がしたかったです」

「奴は好き勝手やってただけだ。恩に感じる必要は無い」

 オルトが出発した時にミスリアは居なかったのだ。ゲズゥは去り際に交わした会話を思い返し、語り聞かせることにした。


 ――聖獣を手に入れる、か。その言葉を言い放った時、私は割と本気だった。気が変わったのさ。理由は二つある。まず、言っただろう? 御せない力は要らない。

 ――言っていたな。

 ――あくまで噂に過ぎないが、聖獣には「性格」があるという。獣と言っても、神話からは機械のような、ただの神々の意思の代行者のようなイメージだったが、自我があるとのことだ。

 ――なるほど。扱いにくく、思惑に従わせるのが困難ということか。

 ――そうだ。息災でなければ利用価値は減る。しかし滅ぼさずに意識を操る方法がわからない。私はソレを探すだけの手間をかけたいとは思わないわけだ。

 ――二つ目の理由は?

 ――横槍が入る可能性とでも言い表すべきか。調べたところ、聖なるモノの傍には常に魔が寄り添うらしいな。聖女は『魔物信仰』と呼んでいたか? そこまで言えばわかるな。聖獣に近付くなら、連中が食いついて来るとの話だ。まあ、推測を繋ぎ合わせた曖昧な情報ではあるが。

 ――…………。

 ――お前たちも気を付けるんだな。


 最後にオルトは「それに、古い知り合いから助力を求められた。しばらくはそっちに時間を割く予定だ」みたいなことも言っていた気がする。流石に自分たちとは関係ないため、話すまでも無いが。

「興味深い情報ではあります。それにしても、気まぐれな方ですね。ちょっとだけ羨ましいです。正直に生きるって、清々しいんでしょうね」

 せっかくあんなに笑っていたのに、ミスリアはもうすっかり難しい顔になっている。些か残念だ。

「……お前が何を悩んでるのか――」気が付けばそう声をかけていた。「言いたくないのなら、無理に話せとは言わない」

 ミスリアは目をぱちくりさせた。

「が、言いたくなったら聞く者が居るのだと、忘れるな」

 途端にミスリアの表情が凍り付いた。栗色の上睫毛がゆっくりと落ちる。

「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか」

「――――」

 ゲズゥは不意を突かれた。反応があったとしても、いつもと変わらない礼の言葉が来るのかと勝手に想像していた。理由を問われるなど予想外である。

 しかしながら、自然と答えは見つかっていた。

「強いて言うならお前が俺に優しくしたからだろうな」

「……っ」

 くしゃっと、ミスリアは泣きそうな顔をした。そしてすぐに何かを追い払うようにふるふると頭を振る。

「私は――自分が正しいと信じているものが、必ずしも他の人にとっての最善じゃないのは、よくあることだと承知しているつもりです」

 察するに、これが例の悩み事の相談だ。ゲズゥは口を挟まずに続きを待った。

「あの研究室には、『混じり物』の残骸がたくさんあったのですね」

「ああ。男の思想に賛同していた者は他にも何人か居たらしい」

「魔物を『力』として追い求める心も、死者を捜して彷徨う想いも。私はわかろうとしました。でも、どうしてもそこに伴う苦しみと破滅を肯定することはできません。彼ら自身がいくらそれを良しとしていても、あってはならない方向性だと思います」

 俯いていた少女はパッとこちらを振り仰いだ。

「押しつけがましいでしょうか。結果的には『殲滅』となんら変わらないかもしれませんが、彼らを世界中から残らず浄化したいと願うのは私の我侭でしょうか」

 ここで言う「彼ら」とは、混じり物だけでなく魔物をも含んでいるのだろう。

「私にできるのは根源を絶つことだけでしょう。たとえその所為で……解け、てなくなる……人が居たとしても……」

 ミスリアは顔を苦痛に歪ませた。明らかに双子やヤン・ナヴィの最期を思い浮かべている。

 どうしてか居たたまれなくなった。ゲズゥは膝をついて目線を合わせた。月夜の薄闇に煌めく涙を、右手の親指で拭う。

「俺たちには、彼我ひがの線引きが危うい」

「線引き?」

「『呪いの眼』も穢れている。生きた人間である割合が多いだけで」

「!」

「…………先祖が魔に魅入られさえしなければ、一族は無残に殺し尽くされることも無かった。そう考えるとお前が魔を世界から滅する為に動くのは、悪くない」

 今後同じ末路を辿る種族が出る前に、魔の領域に手を出す者をもっと早くに挫折させられるなら。そういう運動は支持する価値がある。

 ミスリアはぐっと唇を噛んだ。瞳の奥にどんな葛藤が秘められているのか。

 構わずに話を続ける――

「正義とやらを押し付けがましいと感じるかどうかは、相手への印象次第だ」

 それが本心であった。出会った当初はあんなにも偽善っぽくて鬱陶しいとすら感じた聖女は、蓋を開けてみれば、やることなすこと全てが慈愛に基づいている。

 ゆえに――やっていることを無駄だとか愚かだとか思う点は同じでも、嫌悪は感じなくなったのだ。

「それがお前の願いなら」

 頬に触れていた手を離し、今度は肩にのせるに至った。布越しに伝わる熱をそっと撫でるように。

「俺は手伝おう」

 ――成就するまで寄り添おう。

 今この場で決めたに過ぎないが、不思議と頭の中は晴れ晴れとしている。自分の罪の贖いよりも何よりも、ただミスリアの為に旅を続けたい。それが、何処いずこへ向かう旅だったとしても。きっとリーデンたちも異存が無いだろう。

「どうして……」

 一度は止まったはずの涙が、今度はぽろぽろと大粒で流れた。どこに涙腺決壊のきっかけがあったのやら、すこぶる謎である。

「動機なら、そうしたいから、しか持っていない」

 などと答えたら抱きつかれた。小さな身体にしては恐るべき勢いだ。

 ゲズゥは抱擁を素直に受け入れた。

「私にもゲズゥのような強い精神があれば……ほんの、数割でもいいのに」

「必要ない。人を思いやる心がお前の強さだ」

「ありがとうございます」

 次いで、くすりと笑う声が間近に聴こえた。

「貴方でよかった」

 耳打ちで「道連れにしたのが」と追加される。突然の囁きは耳朶を打って脳を揺さぶった。

「私はもう迷いません。貫いてみせます」

 腕を解いた頃にはミスリアはまた表情が変化していた。それはまた、見たことのない笑みであった。

 年が明けた頃の記憶がふと脳裏を過ぎる。

 最早これは、姉の幻影を追う己を空っぽな人間だと思い込んで、涙した少女ではない。

 目的を新たに抱いて立ち上がった女だ。その微笑みに、茶色の双眸に、宿った光は苛烈だった。

「ではゲズゥ・スディル氏、これからもよろしくお願いします。私が目的を果たすまで、どうか傍にいてください」

「引き受けた」

 なんとなく今度はこちらから抱き締めてやった。

 小さな身体が腕の中でくすぐったそうに悶えても、簡単に放す気は起きない。

 その時、瞬いたのはただの生理現象からであった。

 ふいに浮かんだ、別れの瞬間への予感。

 その日は近いのか遠いのか。

 聖女ミスリア・ノイラートと道が別れる時がどんな場面か――何も明確なイメージが浮かばずに、ただ果てのない闇が瞼の裏にあった――。

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