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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第四章:満たされんとして追う
46/67

46.

「王子はどうして此処に居るのですか」

 彼が檻の下に回って網を切り開いてくれるのを待つ間、手持無沙汰なミスリアは質問を投げかけてみた。

 正直のところ、答えてくれるとは思っていない。

「私の砂場だ。居て当然だろう」

 ミョレン王国第三王子オルトファキテ・キューナ・サスティワは、こちらを見向きもせずに答えた。檻の底から両手でぶら下がっている。左腕を治してあげられたのは、懐の中の水晶のおかげである。

「砂場?」

「なんだ、それもゲズゥに聞いてないのか」

「いいえ」

「聞きたいか?」

 王子は片手を空けて、抜き身のナイフを構えている。

「……聞かない方が良いのなら、聞きません」

 逡巡した後、ミスリアはそう答えた。鉄格子にしがみついた姿勢で、王子の一挙一動を見つめる。

「ああ。情報を知って何かしら害が及ぶのかと案じているのなら、それは問題ない」

 ――ギリッ!

 短い金切り音が響いた。反射的に目を瞑り、再び開くと網には既に裂け目ができていた。それをオルト王子はナイフの背を当てて淡々と広げている。指の開いた軍手を嵌めていなければ、手の甲を怪我していたかもしれない。

「そうですか。では聞きます」

「よかろう」

 十分に裂け目が開けたところで王子はナイフを腰の鞘に納め、再び空いた右手を差し出して来た。

 その手を見つめて、一瞬、ミスリアは本気で恐怖した。

 我が身を委ねていいのだろうか。人に関して「使い道」なんて言い回しを使う男にとって、約束を破るのは日常茶飯事では――?

(ここまで手間をかけて人を騙すなんて…………ありえない話じゃないし。わからないわ、誰か教えて)

 袖の中に潜む異形の存在を想った。もしもソレか、或いはソレに連なる人物が、ミスリアが間違った選択をしていると判断したら、妨害してくるはずだ。そう思い込めば、恐怖は薄れた。

「私の首にしがみつけ。あとできれば足も巻きつけるといい、その方が安定するだろう」

「わかりました」

 言われた通りにせんと腕を伸ばす。よく知らない人間に進んで密着するのは気が進まない話だけれども、思い返せば、ゲズゥだって最初はただの他人だった。

 つべこべ言っていられる状況ではない。谷に落下せずに済むなら、今は何でもやるつもりでいる。

 一度深呼吸をしてから、滑り落ちるようにして檻から出た。背中辺りの布が、切れた網に引っ掛かって破ける感触があった。

「ほう」

 王子の首に腕を回したのと同時に、力強い片腕がミスリアの腰を締め付けた。

「何か?」

「予想以上に重いな」

「す、みません。重くて申し訳ありませんが、できれば落とさないで下さい」

 目を伏せ、消え入るように懇願した。すると王子は喉を鳴らして笑った。

「体重はつかないより、ついた方が良いだろう。餓えていない証拠だ」

「はあ……」

「それより、もっと全力で引っ付け。片手で登れるほど私は器用ではないぞ」

「は、はい」

 男性の身体に巻き付けた腕と足に持てる力をありったけ込めた。それに応じて自らの腰を支えていた腕が離れる。

 間もなくして、ぐらぐらと風景がぶれた。王子が鉄格子を登り始めたのである。

 眩暈がした。瞼を下ろし、もう残っていないと思っていた力を己の奥から振り絞って、更に腕に力を込める。

(この人は、怖く、ないの、かしら……)

 こういう場合は断固として下を見なければ良いらしいが、それでも手が滑ったらどうしようとか、恐ろしくならないのだろうか――。

 オルトファキテ王子から漂う砂のにおいが、今のミスリアの心を落ち着かせる唯一の要素だった。

「気を紛らわせる為に昔話でもしてやろうか」

「…………」

 気遣いは有難いのに、返事をしようにも声が出ない。察したのか、王子はひとりでに語り出した。

 ――ぎし、ぎし、と檻は音を立てて揺れる。

「私がゲズゥに初めて会ったのも、都市国家郡だった」

「……え」

 目を瞑ったまま、ミスリアは声を漏らした。

「今はシウファーガ市国という。当時は国と呼べないほど荒んだ土地だったがな」

 シウファーガという地名は聞き知っている――ゲズゥはそこで暮らしていた時期があったはずだ。

「ヤツは特に目的もなく浮遊していたように見えたが、何かから逃亡していたようでもあった」

「逃亡……」

「知っているか、聖女? 『天下の大罪人』が滅ぼしたと噂されている小国を」

 その前振りを聴いて、ミスリアの中で友人と交わした会話が呼び起こされた。

 カルロンギィを傘下に治めていた都市国家、それこそが滅ぼされた小国だったとカイルは言っていた。

「真相など、きっと呆気ないものだ。たとえばそう――」

 オルトファキテ王子は、自らの立てた推論を語った。目を閉じたままのミスリアは、なんとなく彼の一言一句を映像としてイメージする。

「あの国は名をなんと言ったかな。レグァイ、だったか。レグァイ市国は元々勢力を二分して内紛に発展しかけていた。一触即発状態で、なんとか均衡を保り続けて長く……今度こそ決定的な交渉をして平和を紡ごうと、ある時片方の勢力がもう片方に遣いを送った」

 ここに来て王子は一旦休憩を挟むことにしたらしい。おそらくは檻の上に立っているのだろう。こちらとしてはまだ目を開ける勇気も足を下ろす勇気も無いけれど。

「遣いの者は従者を一人だけ連れ、敵方の妨害を怖れて人通りの多い道を避けた。しかしそれが、ある意味ではいけなかった」

「どうなったんですか?」

「森の中で遭遇してしまったのさ。たまたまそこに居合わせた、一人の気味悪い若者に。既に神経質になっていた遣いには、そいつを自分を害する為に現れた間者と信じて疑わなかった。ゆえに、誰何もせずに襲い掛かってしまった」

「――!」

 その先はもう聞かなくてもわかった気がした。

「襲い掛かってきた敵を返り討ちにするのは生き物として正しい反応だ。ゲズゥ・スディルは何も間違った行為をしていない。しかし遣いを殺したのは果たして何者なのか、和平の可能性を潰したい誰かの仕業か、提案した方の自演か――両勢力の疑心暗鬼に拍車がかかったのは言うまでもない。結果として内紛は勃発し、跡には荒地しか残らないまでに悪化した」

 じゃらり、と鎖の目がぶつかり合う音がした。王子がまた動き出したのである。

「果たして聖女よ、これは誰の罪だ? もしもゲズゥが殺さずに相手をやり過ごしていれば何事もなく済んだ話なのか? それとも遣いの運命は元より定まっていて、他の誰かが結局殺していたか? もしもの話にそもそも意味は無いだろうが」

「…………結果だけを省みれば、摂理はきっと、レグァイの滅亡をゲズゥの咎とするでしょう」

 複雑な因果関係だったとしても、民の死が大勢の人間の業の末に起きたことだとしても、ゲズゥが罪の一端を背負わなければならないのは確実だ。

 ――それにしても、推論なのにやけに真に迫っている印象を受ける。

「あの時生き延びた従者が『事の発端は邪悪な左眼をした男だった』と言い伝え、ゲズゥの悪評は広まった。同時に、カルロンギィ渓谷の民はヤツを我が国を自由にした救い主として密かに崇めた。だが本人はこれっぽっちも気付いていない、そうだろう」

「はい。ゲズゥはカルロンギィの地に何も感じていないようでした」

「ふ、人の世というのは荒唐無稽なものだな」

 何故か彼は清々しそうに笑っていた。今の話を聞いて理不尽な世の中に失望しかけたミスリアには、そんな風に考えられるのが、羨ましいとさえ思う。

 ふいに笑い声が止んだ。それどころかそれまで饒舌だった王子が一言も発さなくなった。どうしたのかな、とミスリアは久しぶりに目を開いた。首を巡らせてみると、もう岩棚はすぐそこにあった。

「泣いているのか」

「あ……」

 前を向き直った瞬間、不思議そうに彼は呟いた。藍色の瞳の見つめる先はミスリアの頬だ。言われて初めて、自分が流している生温かい涙を意識した。

「まあいい。着いたぞ」

 王子はミスリアの腰の下に腕を回し、押し上げるようにして崖の淵に移した。硬い大地の感触に安堵した後、すぐに一ヤード(0.91メートル)に満たない幅を仰向けの四足歩行で後退る。

 次に王子も崖をよじ登って、ミスリアの隣に座り込んだ。

 眉毛についた汗や血管の浮かんだ腕などに、疲労の色が滲み出ている。大部分は自分の所為だとわかっていて、ミスリアは礼を言った。オルトファキテ王子は軽く目配せをして――

「あの男の命運を想うとやるせない気持ちになるか?」

 ――話題を戻した。

「…………」

 いきなり弾けた感情の波に飲み込まれて、口を開いても喉からは音が出せない。

「なんとかしてやりたいと強く願うか?」

「は、い」

 己でも形にできなかった心の内を、会って一時間も経たない他人に言い当てられるのは、どうしてか悔しい。

「それはお前が、ヤツに対して特別な感情を抱いているからだ」

 フードを下ろした王子の横顔は遠くを見つめていた。

 この断言する口調には、やはり、よくわからない悔しさを覚える。

「では……貴方はどうなのですか」

 一分近く黙り込んだ後、ミスリアはようやくそう訊き返せた。自分のことはおいておくとして。

「無論、私はゲズゥを愛すべき有能な人間と思っているさ。シウファーガを掌握する際に最初に共犯者となった悪友であり、最後には断りなく姿を消した薄情なヤツではあるが、そういうものだと思っている」

「共犯者?」

 彼は今、何をどう掌握したと言ったのだろう。けれども訊く機会は無かった。

「そろそろくぞ」

 そう言って突然立ち上がった王子を、数秒ほど呆然と見つめる。

「ま、待ってください。イマリナさんは――」

 未だに崖下にぶら下げられたままのもう一つの檻では、中の人物が起き上がっているのが見える。彼女を捨て置くなど考えられない。

「見張りは定期的に回ってくる。その女とゲズゥの両方を逃がすには猶予が足りない」

 王子はにべもなく答えた。「選べ」

「そんな……!」

 胸を押し潰されている想いで、ミスリアはもう一度イマリナの方を見た。穏やかな気質の年上の女性は、ミスリアの視線に気付いて微笑み返した。

 声が出せない代わりに、手先が動く。

 イマリナの扱う手話を多少なら覚えていた。何とかその意図を探る。

 ――わたしは、大丈夫。

 「行って」、と彼女は笑った。



_______


 岩陰から崖下を見下ろしていたところ、急にミスリアは目を逸らした。谷を意識していると気分が悪くなるのだ。ましてや現在進行中に吊るされている者の心境を想像すると、もう最悪である。

 一方で隣のオルトファキテ王子は、平然とした顔で独り言交じりに状況を分析した。どうやってゲズゥを助け出そうかじっくり検討しているらしい。

「さて。本来ならばここは手詰まりとなるところだったが――何と間の良いことに、ちょうど見張りの連中が来ている上、その内の一人は鍵束を腰に提げている。これを好運と呼ばずしてなんと呼ぶか」

 岩陰に身を潜めたまま、王子は人差し指だけを動かして指摘した。彼の指差す方向には確かに三人の男性の姿がある。

 王子が身に纏う代物とよく似た砂色の服装をした現地人の内、二人はそれぞれ腰に縄を巻き、その端を崖上の低木に結び付けている。残る一人は縄の長さを調整する係として低木の傍に陣取っている。

「地上に残った方が鍵束を持ってる。つまり、まだゲズゥを解放する気は無さそうだな」

 ぼそりと王子が呟いた。

「様子を見に行っただけなんでしょうか……」

「かもしれん。どちらにせよ、動くなら今しかない」

 言いながらも腰が浮いている。王子は既に行動に移す好機をうかがっているのだ。

 彼は何の指示も出さなかったが、この場合自分にできることは身を隠して大人しくしていること、それのみだろうとミスリアは判断した。

 縄を締めた一人の男性が素早く後ろに跳び、崖を降下し始めた。もう一人も彼に続く。

 オルトファキテ王子は岩陰から飛び出し、谷肌に沿った坂を駆け下りた。あれほど狭い道だというのに、まるで躊躇なく進んでいる。

 頃合いを見て地面を蹴った。

「――!」

 仲間たちの為に縄を持っていた現地人の男性は、異変に気付いて喚いている。しかし役割上、踏ん張るしかできない。避けたり逃げたりすれば縄を離してしまうし、そうなれば仲間たちの大怪我は必然である。

 ところが跳び蹴りはフェイントだったらしい。すんでのところで王子は着地して身を屈め、いつの間にか構えていたナイフを薙いで鍵束を奪い取った。

 奪われた側は吠えるようにして喚いた。

(この後どうするんだろう)

 ミスリアは身を乗り出して見守った。鍵を奪ったはいいが、どうやってそれを使うつもりなのか、降下中の二人をどうする気なのか――

 その時、袖の中から白い物が飛び出した。

「え!?」

 瞬く間にそれは視界から消えた。

(真っ先に考えられるのは、主の元に戻ったってことだけど!)

 気が付けばミスリアは岩陰から駆け出していた。

 崖っぷちに悠然と立っていた王子は視線を下に向けたまま、顎に手を当てた。何故か手ぶらになっている。

 そして次の瞬間には、縄持ち係の男のみぞおちに肘を当てて気絶させていた。唐突に尺の余った縄は、ぐんと張り、低木を軋ませた。

「何を――」

「まあ待て。この縄なら二人分の体重がかかっても平気そうだ」

「はい?」

「ほら、自力で上がってくるぞ」

 王子が指を指す方に目を向けた。すると、鍵束を歯の間に咥えた青年が縄を登って来るのが見える。

 無表情の青年は、顔の左半分から青白い光を立ち上らせていた。

 それに対して先ず抱いた感情は、畏怖だった。

 ミスリアは内ポケットの水晶を無意識に撫でた。

(すごくハッキリしてる)

 眼窩に戻った呪いの眼があの光の発信源なのは明白だが、以前は微かにしか目視できなかったのが、今度は昼間にも目に見えるほどに濃い。半歩後退ったのは不可抗力だ。

 ゲズゥは崖を登り切ると、鍵束を落として尻餅をついた。息を整えてから、どことなく不機嫌そうにこちらを向いた。

「ミスリア」

 首を斜めに逸らす仕草で、こっちに来い、と伝えている。

 呼ばれたミスリアはたじろいだ。彼の不機嫌の原因に思い当たらなくて、気後れする。

(ううん、きっと大丈夫)

 再会への心配と安心を胸の奥でモヤモヤさせたまま、結局駆け寄ることにした。

「オルト、お前には用が無いが」

 立ち上がったゲズゥは「さっさと消えろ」とでも言いたげな視線を知人に向けた。不機嫌の原因は王子だったようだ。なんとなくミスリアは気が抜けて、ゲズゥの隣に立った。

 どうしてかその位置には言葉に表せない安心感があった。無事で良かった――しみじみそう思う。

「ご挨拶だな。私も久しぶりにお前に会えて嬉しいよ」

 王子は浴びせられた嫌味をものともせずに笑った。そんな彼を、ゲズゥは目を細めて睨んだ。

「見ていたな」

「ほう、何を?」

「リーデンだけが連れ去られた場面だ。何故崖に吊るすのか……連中の狙いも、わかっていただろう」

「ああ、わかっていたぞ。何を隠そう先に同じ目に遭っている。よってお前たちに比べれば遥かに状況を理解していた」

「放っておいてもいずれ解放されていたはずだったのも、か」

 もしかして助けに来てくれたことを責めているのだろうか、とミスリアは意外に思って隣の青年を見上げた。

「解放どころかその眼があれば優遇すらされたかもしれないな。妙な手違いによって、崇められているのはお前ではなく銀髪の方だが」

 王子の意味深な眼差しや仕草からは、呪いの眼の正体や、ゲズゥの左眼から漏れる瘴気が見えているのかどうかまでは読み取れない。或いは彼はあらゆる事情を把握しているのかもしれない。

「だからこそ逃れる必要があった。連中の四六時中の監視の目があっては望むように立ち回れないし、隠し事もされやすい。情報に誤りが生まれては面倒だ」

「……お前は俺らに何をさせる気だ」

 その問いかけで、腑に落ちた。ゲズゥが不機嫌なのは、助けられたことに不信感を持っているのは、目の前の王子が企みを秘めているからだ。

 そこまでわかると、ミスリアも興味津々に返事を待った。

「わかっているくせにいちいち訊くな。私は都市国家郡を連邦とし、他国に抵抗しうる一つの勢力として育て上げるのが目的だ。残る地の一つ、カルロンギィ渓谷は国としての機能が不完全だったため、偵察に来た」

「そうしてお前一人の手には負えない厄介ごとを見つけたと」

「うむ。よって、お前たちの手助けを乞うことに決めた。何だ、姫君を救ってやったというのに礼の一言も無いのか?」

 口の端を歪に吊り上げた笑い方は、見る者の不快感を煽ごうとしている――ミスリアにはそんな気がしてならなかった。

 ゲズゥはくるりと王子に背を向けて、こちらを見下ろした。

「怪我」

 この冷静な双眸と視線を絡めると、ミスリアは逆に落ち着かない。そんなに寒いわけでもないのに両手の指を擦りあわせた。

「ありません。檻や崖を登る苦労も王子が負担して下さったので、私は擦り傷すら負ってません。ゲズゥの方こそ大丈夫でしたか?」

「逆さに吊るされてた名残を除けば、大したことない」

 そう答えて彼はこめかみに指関節を押し当てた。よく見ると足首や手首の周りに充血の痕がある。

 というよりも、改めて見ると、この不自然なまでの肌の露出。ミスリアも上着や荷物がなくなっているが、ゲズゥに至っては言葉通りに身ぐるみを剥がされている。

 まるで見計らったかのようにぶわっと何かが宙を横切って飛んできた。大きな布を、ゲズゥは片手で受け取る。

「お前には丈が短いだろうが、無いよりマシだ。使え」

「…………」

 ゲズゥは訝しげに眉をひそめた。その手にあるのは、砂色のマントである。ついさっきまでの持ち主であった王子は、黒に近い濃い茶色の髪をかき上げる。

「流石に腰布一枚じゃあ過ごせまい? 悪いが、私物の回収は後にしてもらおう。じきに日が暮れる」

 彼は時刻を気にする発言をし、サッと天を一瞥した。青空はいつしか雲の割合がかなり増えている。

「……不本意ながら、礼を言う。ミスリアに関しても」

 やっとのことで口を開いたゲズゥは、機械的に言葉を連ねた。言い終わる前にも手を動かし、マントを羽織っていた。胸元で紐を結び合わせると、少なくとも上半身は完全に覆われる。

「気にするな。借りとは、返せばいいだけのもの」

 もっと恩着せがましいことを言うのかと思いきや、王子はあっさり流して歩き出した。深く考えずにミスリアたちもその背後についた。

 岩場なのに裸足で大丈夫かな――とミスリアはゲズゥの足の裏の皮膚が気がかりだったが、私物の回収をしている暇は無いという発言の方が重要度が上だと判断し、道すがら問い質すことにした。

「あの、じきに日が暮れるというのは、魔物の出現を危惧してるのですか?」

「魔物じゃなく――『混じり物』の活動時間に、おそらく昼夜の制限は無い。ただ、理由はまだ突き止めていないが、ヤツは夜に活動するのを好むらしい。私がこれまで観察してきた分にはな」

 オルトファキテ王子は大袈裟に肩をすくめてみせた。

「活動していない時間に探りを入れるのが狙いか」

 そこでゲズゥが静かに口を挟む。

「そういうことになる」

 王子は振り返らずに相槌を打った。

(でもオルトファキテ王子なら、探りに行くくらい一人でも向かってそうなものだけど……)

 もしや腕の異常はその結果だったりしたのだろうか。

 毒などではなく魔物か彼の言う「混じり物」が発した呪いみたいな物だったりして――?

 そもそも呪いなんてものが本当に実現可能か? この時この瞬間、ミスリアが思い起こせる知識に照らし合わせただけでは、判断しかねる。

(聖気が生き物に影響するように、瘴気にもそんな効力があるとしたら、可能なのかな)

 しかしそう決めつけるには材料が足りない。器を核として瘴気の流れを生じさせ、それを何かに向けて流し込む――その工程は聖気を施す以上に、術者の「意思」に依存している気がする。

 そんなことが可能だとすれば、扱うのは魔物などではなく、人間と同等以上の自我を持った存在でなければならない。

 しかも、聖気を扱う為の知識と技能は教団や旧信仰の神官たちが長年研究してきたからこそ、人生経験の浅いミスリアのような人員にも習得できるようになっている。ならば瘴気で似たことをするには何が必要か?

 ――ゾッとした。

(待って。違うの、私は瘴気を呪いに進化させようとずっと研究している人間が居たのかなって仮定したかったのであって……違うの。聖気を熟知した立場の人間が逆の試みをしたとか、そういう疑いを持ちたかったわけじゃ)

 混乱のあまり、ミスリアはその場に立ち止まって両の拳を握りしめた。

(考えすぎよね)

 最近やたらと魔物信仰だとか、魔物を体内に取り込んで人間の枠を超越したがったエピソードだとか、道を外した行いに関する見聞を広げ過ぎただけなのだろう。そう、自分に言い聞かせた。

「オルト、この風」

 最後尾を歩いていたゲズゥがふいに声を張り上げた。意外と声が近くてミスリアは小さく身じろぎした。

「ああ、まずいな。一雨来るやもしれん。濡れたら足場がかなり歩きにくくなる。急ぐぞ」

 二人の話をきっかけに、ミスリアも空気の流れに意識を集中させてみた。なるほど、気温は下がっているし肌寒い風も前よりも頻繁に吹き抜けている。

 王子の急かす一声に従い、一同は小走りになって坂を下りた。最早それは獣道と化しており、ミスリアにとっては何度かバランスを崩すまでの難易度に上がっていた。その都度後ろから腕を掴んで支えてくれるゲズゥを振り返ると、彼は傷だらけの足をなんともなさそうに進めていた。

(ひと段落ついたら治癒してあげよう)

 と言っても、あとどれくらい歩くのか、わからない。先刻からずっと風景は変動しているはずなのにミスリアにはあまり見分けが付かなかった。左右にそびえる谷の高さからして、大分降下してきたという点には自信が持てるけれど。

「そういえば聞きそびれたが、お前たちは元々巡礼の為に来ていたのか」

 意気消沈しそうな間際。有り難いことに王子がまた気を紛らわせる為に話を振ってきた。ミスリアは特に警戒せずに応じた。

「はい。カルロンギィ渓谷に、聖地と認められている箇所があります」

「ほう、それは知らなかった」

「前回聖獣が蘇った約四百年前ではなく、更に三百年遡った頃の出来事だと言い伝えられています」

「七百年前か。想像も及ばぬような時間だな」

「そうですね」

 せっかくなので、ミスリアは王子にも当の聖地の逸話を語り聞かせた。七百年前に起こったとされる一つの衝突の話を。

 聞き終わった王子は、「怪獣大戦だな」と笑った。

「しかし、これはヒントかもしれない」

 最初はニヤニヤ笑いを浮かべていた彼が、次第に思慮深い表情に変化していった。

「ヒントとはどういうことですか?」

「もしも谷底の混じり物がその怪獣伝説を――」

 オルトファキテ王子がみなまで言うことは無かった。

 大気を切り裂く甲高い鳴き声が響き渡ったからだ。三人は弾かれるように音のした方を見上げた。

 遥か頭上を、巨大な影が飛行している。

 影の形は長く、左右対称的で、まるで尾や翼を有したように見える。尾の形状を見るに、鳥とはかけ離れた外観だった。

 ――竜などという存在は、空想か伝承か魔性の中にしか具象化されない。そう、ミスリアは認識している。

(まだ陽が落ちてないのに魔物!?)

 それともこれこそが王子の言う「混じり物」だろうか。

 影は咆哮した。骨の髄まで揺さぶられるような、ただならぬ振動だった。一行はその場に縫い付けられて微動だにできない。

 余韻が消えて谷が静寂に包まれてもまだ、呼吸をしていいのかわからなかった。

 影は大きく羽ばたいてゆったりと旋回する。己の意思とは無関係に、魅入ってしまう。

 やがて、ぱらぱらと小石の落ちるような音が耳朶に届いた。

(あれ? 影がこっち来る)

 放心状態からのろのろと抜け出し、目を擦る。

「ミスリア!」

 いつになく切羽詰った声が呼ばわったのと時を同じくして、雨粒が頬を打った。

 あっという間に大雨になった。この世の一切を叩き潰すかのような勢いをつけた水が、忽ち身体を重くする。

 次いで腕を掴まれ、引かれた。暗転した視界に驚いている間に岩場が激しく震動した。何か大きな物がぶつかったのだろう。

 足の下にあった地面が突如崩れ――

 ――落下が始まった。

「目を閉じて息を止めろ! 運が良ければ河の中に落ちる」

 聴き慣れた低い声が怒鳴りつけてくる。

「んっ」

 即座に指示通りにした。

 運が悪かったらどうなるの、と想像している余裕も無かった。抱き抱えてくれる腕に負けじと、ミスリアは必死に青年にしがみつく。

 直後、衝撃が意識を埋め尽くした。



_______


 左眼に映し出される映像が一瞬だけ見知らぬ別物とすり替わった。

(……水飛沫?)

 あまり経験しない現象ではあるものの、リーデン・ユラス・クレインカティには何が起きたのかちゃんと飲み込めた。

「どうかされましたか、解放主ヴゥラフ?」

 その所為でぼんやりしてしまったらしい。すぐ近くに控える中年の女が、眉根を寄せて覗き込んできた。

「何でもないよ。で、何の話だっけ」

「あなたさまに、谷底に根付いた脅威を排除していただきたいと、申し上げたのです」

「ふうん。そんなことして僕に何のメリットがあるのかな」

「あまり多くのお礼はできませんけれど……」

 彼女の目線が向かった先には、民がかき集めた食物やら薬草やら山羊やらがある。

「あー、いいよいいよ。大体わかった」

 問いは形式的なもので、リーデンはこんな辺鄙な小国にこれといった期待をしていたわけではない。どう返されたところで決断は変わらない。面白けりゃ何でもいいや、くらいにしか思っていないのである。

「解放主、お供の方をお連れいたしました」

 一人の男が前に進み出た。その背後から人影が飛び出て、一直線に向かってくる。

 ちなみにカルロンギィの民の勝手な思い込みの中では、いつの間にかリーデンが集団のリーダーだったみたいな解釈になっている。実際は十四、十五歳ほどの少女がその立場だったと知れば彼らはどう思うのか、興味深い。

「おかえりマリちゃん」

 リーデンは胸に飛び込んできたイマリナをしっかり抱き止めた。彼女の温もりを身近に感じ、宥めるようにその背中をさすりながらも、そのまま取り囲む連中を観察した。

 連中は他の二人については何も言わない――しかし少なくともミスリアが自ら脱走したらしいのはさりげない手話で今しがた知ったので、よしとする。

「で? さっきの鳴き声、何? みんな、何も聴こえてませんみたいな顔して全力で無視してたみたいだけど」

 そう責めた途端、通訳の女は気まずそうに俯いた。

「……あれは催促ですわ」

「あのさぁ。もっとこう、わかるように言ってよ」

「ですから……我々に、妙齢の娘を差し出せと。数週間ごとに、化け物が催促に来るのです」

 手を握り合わせた女が消え入るように答える。

「へ、えー? それはまたどっかの神話みたいなやり口だね」

 自分はそれを聞いてどんな感想を抱いたのか、それとも抱けばいいのか、リーデンはすぐにはわからなかった。

 ただ、イマリナを一層きつく抱き締めながら、小さな聖女の安否に思いを馳せた。

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