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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第三章:この世で最も価値がある
32/67

32.

 一度の魔物討伐に六十人もの人員が駆り出されるのは珍しい、それは間違いなかった。

 あるセオリーによれば、安全性を重視した配置をするには以下の対比が最適だという――魔物狩り師一人に対して魔物は三体まで、と。

 六十人の内の全員が魔物狩り師というわけではないが、仮にそうだとしてセオリーに則って計算するならば、今この場に居る人間だけで最多で百八十体の魔物の相手ができるということになる。

 それだけの数の魔物が一箇所に集まっているのはありえないのではないか。そこまでの状況であれば教団から「忌み地」と断定されて封印されるはずではないか。

 百八十よりも少ない数が相手だとしても、大人数の方が安全だという考え方には、穴がある。

 集団として統率の取れた動きが維持できるのか。人員同士で実力にムラが出るかもしれない。それを巧く補い合えるようにバランスを取った配置をするか、より弱い者を前線から一歩引かせるか、考慮すべき問題が人数と共に増える。

 何より、どんな討伐隊も全滅に遭って戻らない……その噂が本当なら? 人数が多くても全員死ぬのが決定事項なら、小隊に捨て身の攻撃をさせ、敵の数を徐々に削ることを優先すればいいのではないか。少ない犠牲を払ってより確実な解決法を選ぶべきではないか?

 己の思考回路が弾き出した疑問を聖女たちにこっそり持って行こうと思って、リーデン・ユラス・クレインカティはゆっくり歩き出した。

 薄い茜色に染まりつつある世界の下。討伐隊は戦陣を組み立てたり指示の確認をしたりで忙しい。

 フォーメーションはシンプルで、たとえるならA字型になっている。魔物狩り師たちが二列を組んで矢印のように攻め込み、後ろに並ぶ非戦闘員、つまり聖職者たちを同時に守ることになる。

 非戦闘員は夜になれば司教の簡易結界によって囲まれるので魔物狩り師の働きが無くともある程度は安全だ。

 リーデンはその中で杖に寄りかかって佇む兄を瞥見した。今日は非戦闘員に徹するらしい。脚の怪我に関しては昨夜さんざん問い詰めたが、結局口を割らせることはできなかった。

 次に、彼から数歩離れた位置に立つ小さな聖女の姿を認めた。

 そんな荷物は無かったはずなのにどこから仕入れたのか、聖女は足首まで届く白い服を何重にも着込んでいる。ウェーブがかった栗色の髪はレースに縁取られた半透明のヴェールに隠れ、あどけなさの残る顔は慈愛と自信に溢れていた。不安を相談しに来た魔物狩り師の女性たちを励ましているらしい。三十路に届きそうな年齢の女どもが揃って十四歳の子供に群がる様は何やら可笑しかった。

 聖女ミスリア・ノイラートは、興味深い人間である。

 兄のゲズゥが彼女を気に入っている、または特別視しているらしいことは噴水広場で会った時にすぐに気が付いた。

 ゲズゥが口数少ないのは他人と意思疎通することに意義を見出さないからだ。そのため必要最低限にしか喋らないし、よく舌の回る人間、中でも女子供の相手をするのがやたら面倒に感じるらしい。

 そうでありながらミスリアを突き放していないのは何故か。リーデンにとっては少々面白くない話ではあるが、それ以上に純粋に興味がある――兄が心を許しているというこの少女に。

 リーデンは結界が張られる予定の範囲の端に立って、目当ての人間を手招きした。

「聖女さん、ちょっといい?」

 初対面ではかわいい名前だねと褒めた割には「聖女さん」で呼び方が定着しているし、おそらくミスリアの名を呼ぶ日は一生来ないだろう。

「何でしょう、リーデンさん」

 聖女ミスリアは微笑んで答えた。リーデンに対して嫌悪や恐怖を抱いていたとしてもうまく隠している。

 この場に居るもう一人の聖女、レティカ・アンディアがミスリアの隣で怯んだのが目に入った。こちらも同じように人の輪に囲まれている。士気を高めるのも彼女らの務めなのだろう。

「そっちの聖女さんもおいでよ」

 と、笑って声をかけてみた。

 二人の聖女が歩み寄る。人の群れはいつの間にか司教を囲むことに決めたらしく、聖女たちを追わなかった。

「ねえ、僕を怖がってるのはどうして?」

 目を合わせようとしないレティカに軽い調子で訊ねると、彼女は視線をきょろきょろさせた。彫りの深い顔が僅かに紅潮し、白い手は首の横で束ねられた青銅色の髪を撫でている。ミスリアはともかく、この女性に目を逸らされるようなことをした覚えはない。

「……ありのままに答えても?」

「どうぞどうぞ。傷ついたりしないから」

 微笑で先を促すリーデンは、勿論ちゃんと、己の顔立ちの破壊力を理解していた。だからといってそれに執着があるわけではなく、使い方を心得ているだけである。

 美しさとは武器であり権力だ。使う為に存在するものである。が、たとえ使えなくなっても武器が一つ減るだけなので、彼は美貌を維持する為に右往左往しようとは思わないし、顔に傷を負ったとしても嘆いたりはしない。

 レティカの碧眼がリーデンを上目づかいに見上げる。そしてすぐにまた顔を逸らした。

「見た目の輝かしさと相反して、貴方の周りの空気が……渦巻いていると言いましょうか、ねっとりしていると言いましょうか……あまり見ていると吐き気を催しますの」

「周りの空気?」

 思わず訊き返す。するとレティカは自分が生まれつき人の周りの空気が色がついて見えるという話をした。

「じゃあ人の業が見ただけでわかるってワケだね。業っていうか生き様か」

「え、ええまあ、簡単に言えばそうですわね」

「あははは。ごめんねー、業が深くて。じゃあ無理にこっち見て話さなくてもいいよ。にしても、その能力欲しいな。悪質な人間が一目でわかるってのは良いね、前もって対策練れるから」

 リーデンは自分のことは思いっきり棚に上げて、ころころ笑いながら率直な意見を口にした。レティカは気まずそうに唇を噛んでいる。

「それでリーデンさん、ご用件は何でしょう?」苦笑交じりにミスリアが訊ねた。

「ああ、そうだったね。ズバリ、土地が『忌み地』判定をされる為の条件って何なの」

 質問に面食らったようにミスリアが目をぱちくりさせた。一度レティカと目を合わせてから、答える。

「確か……何か惨事が起きた明確な過去と、常に漂う大量の瘴気と、後は昼夜構わず魔物が闊歩してる状態、でしょうか」

「なんか大きな事件があった場所じゃないとダメってこと?」

「そうなりますね」

「もう一つありましたわ、確か。忌み地と判定して封鎖するには範囲が一定の面積以下でなければなりませんの」

 レティカが横合いから付け加えた。

「ふうん? 何で」

「広大すぎると対応しづらく、教団にとっては管理対象外になるからだと思いますわ」

「それは私は知りませんでした。ではユリャン山脈の西にある樹海が浄化されていないのはそういう理由からなのでしょうか」

 何かを思い起こすようにミスリアは視線を彷徨わせている。そうかもしれませんわね、とレティカが相槌を打った。

「この場所はどうなの?」

 リーデンは手をかざして河の向こう岸まで見通してみた。確かに広いが、教団に対応できない程なのかと問われれば否と答えるだろう。

「司教様に聞きましたけれど、忌み地となる原因が記録に無いそうですわ」

「記録に無いだけかも。古すぎたとか」

「古い事件でしたら今になって魔物の数が増えるのはどうしてでしょう」

 解せないと言った具合にミスリアが首を傾げている。

「そんなの君らにわからないのに僕にわかるわけないし。外的要因があるんじゃない」

「……構いませんわ。教団が正式に助勢して下さらなくても、わたくしたちがおりますもの。町民たちの不安の芽を摘んで差し上げましょう。聖職者とはその為に存在しているのですもの」

 連日大勢の聴衆の前に立って演説をしてきた癖だろうか、レティカは声に力を込めて言い張った。彼女がぐっと拳を握ったのを、リーデンは見逃さなかった。

「サムイ。意気込むのはいいんだけど、そういう台詞からは無理してる感がヒシヒシと伝わるね」

 目を細めてそう言うと、聖女レティカはその場で凍り付いた。

 近くに来ていた彼女の護衛二人がそれぞれ身を乗り出した。たまたま、より近くに居たのがレイという名前の大柄な女の方だ。

「貴様、レティカ様を愚弄するか」

 リーデンの顔めがけていかにも重そうなロングソードをスラリと薙いできた。

「するかも何も、もうしちゃったよ。あは」

 彼は剣を素手で掴む。左手の親指・人差し指・小指にそれぞれつけている指輪が、ちょうど刃に当たってるので手を切ることはない。

「遠慮を知らない物言い、協調性に問題あり」

 レイはただでさえ強面な顔を更に険しくしながら、大きな声で告げた。不穏な空気に気付いて司教とそれを取り巻く人間が注目を向けてくる。なるほどこうやって退ける気か、とリーデンはニヤニヤと口元を吊り上げる。

「大丈夫、戦闘が始まったら協調性を出すよ」

「何が大丈夫なものか」

 レイは尚も抗議したが、それを制したのがエンリオという小柄な男の方だった。

「作戦に支障が出なければそれでいいんですよ」

 女の方が先に怒りを見せたからか、エンリオの方は冷静さを取り戻していた。確か、最初に会った時に魔物退治に誘ったのもコイツだった。

「しかし、レティカ様を……」

 二人の内で実直な性格で忠誠心が強いのはレイの方か、とリーデンは評した。

 エンリオは「大したことない」とでも言いたげに手を振っている。それを合図と受け取った司教とその他の魔物狩り師の視線がリーデンから外れる。

「貴方にはレティカ様の言葉が虚栄に聴こえたんですか?」

「どちらかと言えば思い込もうとしてる感じかな。聖女とはこうあるべきだと考えてそうふるまっているだけで、本当に自分にその道が合ってるのかわからず、自分の実力を自分ですら信じられていない」

 思ったままに、エンリオの問いに答えた。それは今のやり取りだけでなく、これまでの彼女の言動やミスリアに聞いた話も取り入れての考えだ。

「かもしれませんね。過度に失敗を恐れているのもその所為でしょう」

 エンリオは深く頷いた。彼は所在無さげに佇むミスリアとも丁寧に目を合わせて話す。

「構いませんよ、それでも。思い込もうとしているだけでも、ボクらはレティカ様の人生観が好きなんです。それに殉じてもいいくらい」

 乳白色の瞳は真摯な光を灯していた。

「……私はエンリオほど難しく考えていない。レティカ様にはご恩があるからついていくと決めているまでだ」

 剣を引いたレイが呟く。

「まあそういうのも良いんじゃない」

 リーデンは生返事を返した。レティカのことは思いついたから指摘しただけであって、別に他人の在り様にそれほど興味がある訳ではない。

 主人たる聖女が半端な気持ちでも、従者たちに迷いが無いのなら三人組はそれはそれでうまく機能するのだろう。

 聖女レティカは潤んだ瞳で、護衛たちに感謝の意と自身の不甲斐なさに対する謝罪を述べている。護衛たちの方は、気にしなくていい、一緒に居られるだけで光栄だ、みたいな語句を並べてなだめる。絆の強さが再確認される感動的な場面――になるのだろうか。

(さて、なんか他にも訊いてみたいことがあった気がするけど、もういいや)

 面倒臭くなって、リーデンは自分の持ち場に戻ろうと決めた。夕焼けの空は開始時間が近いことを示している。

 踵を返して歩き出す。するとふと少女の呟きが聴こえた。

「自分の力を自分で信じられない……ですか」

「ん?」

「あ、なんでもありません」

 振り返りざまに訊き返すも、ミスリアは頭を振るだけでそれ以上は何も言わない。

 その後ろに佇むゲズゥは、まるで聞き耳を立てて一部始終に注意していたかのように、己の護衛すべき対象をじっと見つめていた。


_______


 青白くゆらめく魚の大群が夜空に浮かび上がっている。正体は、空を飛ぶべきではない、魚の形をしただけの人を喰らう化け物だ。

 リーデンはおぞましい光景を討伐隊前列の右翼から見上げた。

 どこからか攻撃の合図たる声が聴こえたので、間髪入れずに動き出す。

 狙いを定めてから手首を捻らせるまでのは誰よりも短い――と自負したい所だが、同じ右翼からナイフを投げるエンリオも、なかなかに速い。

(しかも僕よりも狙うのが巧いかも)

 うじゃうじゃ居る敵の大群の中から標的を選び、眉間を正確に貫いている。ちなみにリーデンが狙ったのはあの間抜け面の顎下辺り。狙いは的中し、そのまま仰角四十五度に頭部が削がれる。

「替われ!」

 前列の戦闘員が魔物たちに飛び道具を浴びせた直後、後列から号令が上がった。それには素直に従い、一列目が今度は二列目になる。

 スリングショットや弓矢などの武器が再装弾されるまでの時間を、他の者たちで稼ぐということだ。

 武器の性質上、装弾のラグなどリーデンとは無縁だった。加えて彼は両利きなので、片手で攻撃を繰り出す間にも空いた手は次のチャクラムを指の間に挟むことができる。しかもベルトにかけている鉄の輪の数はゆうに五十を超えていて、回収に手間取る必要も無い。

 今は一応混乱を避ける為に、本来のペースよりも手数を減らして周りと攻撃のタイミングを合わせてはいるが。

(三、四列でも組んでも良かったけど。飛び道具を浴びせる波が続けざまな方が効果的なのに……人数的に幅が足りなくなるか)

 待機中にそんなことを考えた。

 魚どもが一直線に襲ってくるならまだしも、奴らは広い範囲をデタラメに飛んでいる。

 偶然か運悪くか、今晩集っている人員の中では飛び道具を扱う人間よりも接近戦に長けた人間の方が多かった。

 この人材のバランスでなんとか一体でも多く倒すことを念頭に置いて、フォーメーションを決めたのだろう。

(あと、敵の進軍にも中距離攻撃が出て来る可能性アリ、だっけ)

 リーデンは宵闇の中で薄く光る異形の群れを凝視した。

 攻撃された魚たちはギャーギャー鳴きながら身をよじる。第一波で撃ち落とされなかった個体が目に見えて膨らんでいった。

 次に、魚たちはビュッと唾液のようなものを吐き出した。

 その間、唾液を打ち出す時の魚たちは進行が止まっている。

 ――聞いていた通りの現象だ。

 作戦が実行される当日までに、何度か下見に来た人間が居る。あらかじめ得た情報が皆に伝えられたため、準備は万全だった。

 接近戦派の人たちが盾や得物を駆使しておそらく毒性の唾液を退ける。唾液攻撃がおさまった頃には装弾も終わり、前後の列がまた入れ替わった。それらを何度か繰り返す内に、大群はすっかり数が減って形を成さなくなっていた。進行を許してしまった分は剣や槍や斧などによって戦士たちが豪快に片付けている。

(はぐれモノも居るけどね)

 片目を瞑って休ませ、リーデンは右目だけで非戦闘員エリアの方を向いた。

 聖人・聖女たちが特別魔物に的にされやすいという話は兄から聞かされている。案の定、結界に守られた高嶺の花を目指して魚たちが見えない壁に挑んでいる。

 同じ箇所をあまりに何度もぶつけられば結界が綻びることもあるのだろう。司教やレティカが緊張した面持ちで身構えている。ミスリアだけが落ち着いた眼差しで見守っていた。

(数は多くても一体ずつは大したことないし)

 リーデンは両目を開けて、次に起きた一連の出来事を観察した。

 小さな穴をこじ開けようとしている魚たちの前に、大きな人影が立った。

 T字型の杖の先端が地面に突き刺さる。

 右の杖と脚に体重を預けたゲズゥは左脇下の杖を地に引きずった。

 それが地から抜けた瞬間、振り上がる速さが一気に加速し――結界越しに数匹の魔物に強烈な衝撃を見舞わせた。問題はそうしてあっさりと解決した。

 やがて、黒い生地の装束と赤い帯、そして頭皮にぴったりくっついた丸い帽子を身に着けた初老の男、司教が声を張り上げた。

「聖女レティカが落ちた魔物の浄化に回ります、手の空いた者はサポートして下さい! 怪我をされた方々は、聖女ミスリアの元へ!」

 次に敵の大群が押し寄せるまでの時間を有効に使って、体勢を立て直す手筈である。全員が忙しなく動き回った。

 リーデンは怪我をしていなければ、レティカのサポートをしたいとも思わない。なので人の集中している範囲から離れ、兄に「話しかけ」ることにした。

 ――君の経験上、今の内にやった方がいいこととかって何か思いつく?

 よく夜に出歩くリーデンは何度も魔物退治を経験しているが、あまり細かいことはわからない。適当に切り刻んでいただけで、「浄化」という対処法についてもさっき初めて聞いたくらいだ。

 返事が来るかは定かではない。気にせずにリーデンはのんびり歩いた。

 ――根源を見に行け。あの猿みたいな男も連れて行くと良い。

 返事があった。

 根源とは河のことだろうか。猿みたいな男とは誰を差しているのかと少し考えて、ああ、とリーデンは答えに至った。

 跳んだり跳ねたりしながら投げナイフを操る、あのすばしっこくて小柄な男を猿と重ねるのは容易である。

 ゲズゥに「何でお猿さんを?」と訊ねると、「目が良いから」と答えが返った。

 リーデンは納得してその人物を呼びに行った。

「お猿さん、お願いがあるんだけど」

「猿!? ボクのことですか」

「うん。君、目が良いんでしょ」

「それなりには良いですよ……」

 猿と呼ばれたことに不平があるのか、エンリオは口を尖らせた。それには構わずに、一緒に河を見に行って欲しいと話したら、彼は二つ返事で同意した。彼なりに何か引っかかっているらしい。

「これだけの数が一斉に現れるからには、統一された意思、つまり『源』があると考えるのは当然です。そこから分離した個体が陸に上がって人間を襲っている」

「どこかに大きなお魚さんが居るってことだね」

「ひとつの例ですね。昨日も探したんですけど、これといったモノは見つかりませんでした。今日はどうでしょうね」

 リーデンとエンリオは、岸まで歩み寄った。

「暗くてイマイチ何も見えないね」

 人並み以上に夜目の利くリーデンでも、水の中までは見えない。視線で遠くまで探るが、やはりダメだ。

 隣のエンリオは黙りこくっている。右から左へとゆっくり頭を巡らせながら、両目を細めたり見開いたり、を何度も繰り返している。

 彼の目線の先を辿ってみても何もわからなかった。

 一分後、エンリオが口を開いた。十時の方向を向いている。

「…………左、あっちの方で水底が薄っすら光ってるように見えます」

「んー、ゴメン、僕には見えない」

「水に入って確かめても?」

 その提案に関してリーデンはしばし考え込んだ。自分にはそこまでする必要があるように思えないが、なんとなく、兄の視線が後ろから注がれているのを感じ取った。

 おそらく根源を絶たなければどれだけ討伐隊を送り込んでも無駄だ。民の不安とやらは消えない。

 リーデンはそんなものはどうでもいいが、魔物の根源の正体には興味がある。

「わかった。僕は入らずに岸から援護するけど、それでもいい?」

「十分です」

 そういうことに決まったので、二人は件の場所に近づくように左に少しずれた。水に入る前にエンリオが余計な外套や装備を脱ぎ捨てている。

 水面は、先程魔物の大群を吐き出したとは思えぬほどに凪いでいる。

 リーデンは両手それぞれに武器を用意して待った。光っているのがどの辺りなのか、エンリオの泳ぐ方向を確認しながら探す。

 何も見えないのは変わらないが、エンリオが止まったので、大体の位置は掴めた。

 彼は立ち泳ぎをしながら水底をじっと睨んでいる。

 潜るべきかどうか迷ってるのかな、などと考え、引き続き見守っていると――

 ――ゴボボボボ。

 渦でも発生したのかと疑わせる、水が吸い込まれるような耳障りな音がした。次いで、エンリオが叫び声を上げて暴れた。目に見えぬ敵に引っ張り込まれまいと、溺れまいと抵抗している風である。

(これはヤバそう)

 手を貸してやるべきなのかもしれない。

 リーデンは素早く辺りを見回し、河の中で足場になりそうな物を探した。残念ながら何も見つからない。

 束の間逡巡していたら、巨大なエイの形をした魔物が四匹、水の中から飛び上がった。

「なんて素敵なタイミング」

 巨大な魔物たちは低空飛行をし出した。リーデンにとっては足場にしか見えない。

 高く跳び上がり、四匹の魔物を順番に踏み越えて行った。四匹目の上に立つと、振り落されないように身を屈め、左の袖に隠し持っていたナイフを取り出した。やはり振り落されない為にエイの背中にナイフを突き刺し、右手で自身の帯を引き抜いた。

 リーデンが日頃から身に着けている帯は二本ある。普段、他人の目につく上の帯は鉄輪を提げる為につけているものであって、服を調整する為に着けている帯はその下だ。より長い下の帯を引っ張り出して、エンリオに届くようにと垂らした。

 パニックに陥っていながらも、エンリオはすぐにこちらの意図を察した。手を伸ばし、手袋をした手で帯を握る。

 水中の渦巻きと方向を同調させてぐるぐる飛ぶエイの上で、リーデンは唇を噛んで腹に力を入れた。目が回る前に、急いで帯を引き上げる。

 翼幅が四フィート程度のエイの上は狭い。

 幸い今は物理法則を無視した魔物が重力に逆らってくれているおかげで、河の中に逆戻りしなくて済んでいる。二人仲良くあの渦の中に落ちたらどうなるのかなど、知りたくはない。

 こちらの心配を察したのか否か、エンリオが近くの別のエイに向かって跳び、そのピンと張った尾を掴んだ。

 彼は飛び移った勢いのままスイングし、尾を離してくるくると宙を舞って行った。リーデンもその後に続き、エイの背中を踏み越えて岸に戻った。

 直に土を踏みしめるのには何とも言えない安心感を覚えた。

 振り向けば、エンリオが用無しになった魔物たちを次々とナイフで撃ち落としていた。それが終わると、彼はリーデンに向き直って一礼する。

「助かりました。見かけによらず腕力があるんですね」

「よく言われるよ。君はなんていうか、曲芸師みたいだね。雑技団でもやっていけそう」

「わかります? 実はサーカス団で育ったんですよ」

「へえー」

 河の方面からを目を離さずに、二人は戦陣の方へと一歩ずつ慎重に後退る。

「で、何かわかったの」

 リーデンは早速本題へ移った。

 訊ねた途端、エンリオの童顔が翳った。

「かなりまずいかもしれません」

「具体的にどうまずいの?」

「…………あの一帯の川底そのものが、魔物です」

 蒼白になった顔でエンリオがぐっと唇をかみ締めた。

「は? 川底が生きてるって?」

 川底に潜む魔物に足首を掴まれたのではなく川底の触手に捕えられたのか、と奇妙なイメージが脳裏に浮かび上がる。

「いいえ、生きてるって表現は不適当ですが……。パッと見ただけでは、川底がそうなのか単に底に横たわっている巨大な魔物の塊が在るのか、どちらとも言えませんね。ただ、敵が無尽蔵に分離して現れるのは間違いありません。あの塊をどうやって討伐すればいいのかわかりませんけど、こうやって分離してきた魔物を倒していても底が尽きることはない……そんな予感がします」

「なにそれ、普通にやってても無意味じゃん。もう忌み地でいいんじゃない」

 エンリオの話は、聞くだけで脱力してしまう、無限に終わらない戦いを示唆している。

 何故だか首の後ろがぞわぞわと粟立った。野性の本能が、その場を離れろと警告を出している。

「外的要因が見つかれば――」

「おっと、伏せてね」

 エンリオが顎に手を当ててひとりごちるのを遮り、リーデンが右の踵を軽く地に叩きつけた。ブーツの爪先に仕掛けた刃物を発動させる為だ。

 素直に身を伏せたエンリオの頭上で回し蹴りを繰り出す。

 降ってわいた魚の魔物が真っ二つに裂け、どろどろとした液体が四方に飛んだ。

 横から来るもう一匹が、リーデンが手を出すまでも無く、木製の杖によって殴り飛ばされた。

「引き際だな」

 いつの間にか近くまで来ていたゲズゥが、静かに言った。リーデンと似た左右非対称の瞳は、ただならぬ空気を湛えていた。

「同感だよ」

 これまでの短い人生経験からして、野性の本能には従うべきなのは重々承知していた。兄まで同じ危惧の念を抱いているというのなら、選択肢は一つだけ。

 他の誰が何と言おうと、この世には確かに手を出してはいけない領域というものがある。見極められなかったら、死あるのみだ。リーデンは魔物狩り師の美学はよく知らないが、戦っても勝てない相手と対面したことはいくらでもある――それが人間にしろ、人間以外にしろ、勝てないのなら戦わないのが正解だ。もしくは相手の土俵から引きずり出せるならそれもいい。死を覚悟して戦うのは、本当に逃げ場が無い時だけ。

「引き際って、どういうことですか……?」

 ゲズゥの後ろにくっついてきていた聖女ミスリアが心配げに訊ねた。それにはリーデンが淀みなく答えた。

「多分だけど、長居したらその内ヤバイのが出て来る。だから逃げるんだよ、この地域の討伐隊全滅記録に組み込まれたくなかったらね」


_______


 彼らの言う通りにした方が得策だということはわかるし、言い分を無条件に信じても構わない。けれどそれを受け入れるのは、集団に対する無責任になってしまう、とどうしてもミスリアは考える。

 そう抗議したら、リーデンはフッとため息をついた。彼はエンリオと共に何を発見したのか手短に説明し、最後に問うた。

「もう一つだけ情報確認いい?」

「はい」

「人里の方に降りて来るのではないかと危惧されているけど実際はまだそんなに来ないんでしょ?」

 リーデンにそう質問されて、ミスリアはついエンリオを見やった。自分よりも自信を持って答えてくれそうだと感じたからだ。

「そうですね。此処ではこれだけの大群が出て来るのに、野田近くで目撃されたのはせいぜい二、三体と聞いています」

 エンリオはこちらの意図を汲み取った。

「つまりいくら数が多くても、ほっといたって河から遠くは行かないんだね。理由はもしかして、河から長く離れられないからじゃないの? 水気が無いと消えるとかベタな何か」

「あ、ああー! すごい発想力ですねアナタ!」

 驚嘆にエンリオが震え出した。

「川底とやらは」

 無表情にゲズゥが言うと、リーデンが腕を組んで答えた。

「そうだね。川底と言ってもどこからどこまでが魔物なの? ソレが広がりつつあるから、ヤバイんじゃない。長く離れられないと言っても、本体が大きくなれば、結局は分離した個体が襲える範囲も広がるってこと。それに、限定要素が水辺ってだけなら、分離した個体も普通に泳いで南……遠くまで行けるね」

「そんなの、一体どうすれば……」

 ミスリアは想像してみた――封印する以外で、川底に巣食う巨大な魔物を倒す方法を。

(聖気と結界を組み合わせれば)

 まず聖気を施す人員を結界で守り、本体まで近付かせる。そして魔物全体が浄化されるまで、根気良く聖気を展開し続ける。

 そこまで考えて、二つの制限に行き詰まる。

 ――敵の数が多過ぎて、結界だけでは作戦の要となる人物を護り切れなかったら?

 結界の外から魔物狩り師を待機させればどうにかなるだろうけど、それではどうにもいたずらに犠牲が出そうな作戦になる。

 ――そして、浄化しなければならない魔物が大きすぎたら?

 浄化し切れるまでの時間が長ければ長いほど、こちらに不利な状況になる。

(こうなれば聖女が二人だけでは心もとない)

 準備不足だ。何度考えてもその結論に至る。

「討伐隊を引き上げるように、司教様と話してみましょう」

 意を決して、ミスリアが提案した。

「そうしましょう」

 エンリオも同意し、共に走り出す。背後にはゲズゥたち兄弟がついて来た。

 突然、すぐ隣で走っていたリーデンが、躓いたようだった。いつも軽やかな足取りを繰り出す彼の足がもつれることを意外に思い、ミスリアは振り返った。

「どうしました?」

「ぐっと胃を握り潰された感じがしてね。でも、僕じゃない。兄さんの動揺が伝わったんだよ」

「動揺? ゲズゥの?」

 ますます意外に思って、長身の青年の姿を探した。彼は裾の長いコートをはためかせ、一対のT字型の杖に体重を預けたまま、河の方面に黒い眼差しを注いでいる。感情が欠落したかのような表情は、心の内を容易に明かしたりしない。

 目線の延長線上に居るのは低い人影。伸び放題の髪に、ボロボロに汚れた衣服。乾いた唇からはとめどない謝罪の言葉が漏れていた。

「仇討ち少年!?」

 他に何と呼べばいいのかわからないので、気が付けばミスリアはそう叫んでいた。

 どうしてまたこんな危険な所に居るのか。いつの間にかこの大人数の中を通り過ぎて行ったのか。だが彼のそれは、生きている人間の気配とは言い難い、生命力に乏しい空ろな存在感だった。通り過ぎていても気付けないのは仕方がない。

「ごめんなさい。ごめん、おばさん。ごめんな。おれ、仇をうてなかったよ。だって、人を殺すのは、怖い。こわいんだよ。むりだった。ごめん」

 少年の口元が歪な笑みの形を作った。

「もういいや。仇は、どうでもいい。あいたいよ。あえるよな? だって……」

 泣きそうなほどに上ずった声だった。

「おれ、知ってるんだよ。死んだ人は魔物になるんだ。だからさがすんだ。きっとまたあえる」

 今にも入水しそうな雰囲気の、少年の昏い呟きを聴いてミスリアは鋭く息を呑み込んだ。

(違う……確かに一部の死んだ人が魔物になるけど、だからって会いたい人に会えるわけじゃないわ)

 少年の願いが叶わないとわかっていながら、何も口にすることはできなかった。

 魔物は歪な道を辿った異形の存在だ。死を越えた先にあるのは自我の崩壊、或いは意識の混濁、そして魂の混合。生前のままに人格が保たれる可能性は限りなく少ない。

「君、こんなところにいてはいけない!」

「ここは危ない! 下がりなさい!」

 魔物狩り師の何人かが少年の傍へ進み出る。

「ずっと町の中をさがしたんだ。どうしてみつからないんだろ。わかんない。でも、わかった。おれも同じモノになれば、あえる」

 少年は誰の声も聴こえていないようだった。

 彼の細腕が魔物狩り師たちに掴まれる。仇討ち少年は、剣呑な表情で振り返る。歯噛みし、充血した両目を見開き、小刻みに震え出した。

 先日ミスリアを蹴った時と同じ、刹那の激しさが垣間見えた。

 暴れる少年は拘束から逃れ、ゲズゥの前へとズカズカ歩み出た。

 ミスリアの身体は無意識に動き出していた。

 また危害を加えられるのではないかと思って少年の前に立ちはだかる。少年は今度は鉈を取り出したりしなかったが、その苦しげな瞳はミスリアの上を通り過ぎて行った。

「あんたを殺しても、楽になれないんだろ。すこし考えたら、わかった。きっともっと苦しくなるだけだ。だから他の方法をさがした」

「魔物に変じれば楽になれるとでも、思ってるのか。それもおそらく違う」

 ゲズゥの低い声はいつもと違う微かな振動を含んでいた。

「もう、いいよ。どうだっていい。おれは行く! そしておばさんに会うんだ。でももし魔物になっても会えなかったら、あんたを一生呪ってやる」

「…………怨念が連鎖し、循環するとは、よく言ったものだな」

 ゲズゥが言い終わる前に、少年は背を向けていた。彼の行く道に幾人もの魔物狩り師が飛び出している。

「待って!」

 引き留めようと一歩踏み出るも、ミスリアは横から現れた杖によって阻まれた。

「あの子供が決めたのなら誰にもそれを止める権利が無い。奴にとって、生きていても死んだとしても苦痛しかないのなら、他人がしてやれることは無い」

「そんなはずありません……」

「死してなお、浄化されることなく存在し続けることにならないよう、責任を持って斬る」

「違う――それは違います! 生きていれば、いつか苦痛が和らいで、諦めないで良かったって思える時が来ます!」

 抗議しながらも、いつしかミスリアは泣いていた。

「前向きな見解を持てない人間に、わからせることは不可能だよ。子供に『今は苦しくても十年後に大人になったら色々見えて来る』って言うのと同じ。わかってくれる時までひとつところに留まらせるならまだしも、そこまでする義理はないね。ましてやあの雌豚と縁があるんでしょ。死ねばいいんじゃない」

「……っ」

 今度は絶世の美青年が冷徹な意見を投じる。

「よせ! 戻るんだ、君!」

「じゃまだ! はなせえええ」

 再び、目と鼻の先で魔物狩り師たちが仇討ち少年と揉み合っている。

「何の騒ぎです?」

 浄化を終えたレティカがレイを伴って近付いてきた――その時。

 空気の色が変わった。

 厳密には、上から降り注ぐ青白い光に周囲が照らされたのだ。

 あまりに唐突だったのでミスリアは遅れて空を仰いだ。

 喉が恐怖に収縮する。

 それがどういう形をしているのか全体像を捉えられないくらいに、対象は視界からはみ出ていた。

 人間の顔に似た無数の隆起が呻き声と腐臭を放っている。

 その上、一瞬を追うごとに近く感じる。

 ――呑み込まれる!?

 ぐにゅり、と人面型の突起が、丸い吸盤に覆い尽くされた柔軟な足に変化した。

 足が獲物めがけて伸びる。

 咄嗟に顔の前に手をかざしたミスリアは、右手首を絡め取られた。強力な吸引力によって上へ引っ張られる。靴の裏が地面から離れていく――


『むねん』

『いきができない。くるしい』

『いたいいたいいたいいたい』

『たすけて。だれかたすけてよ』


 いくつもの悔しげな囁きが鼓膜をかすめた、気がした。

「リーデン!」

「わかってる!」

 兄弟間で短いやり取りが交わされた直後、ミスリアの身体を上へ引っ張る力が消えた。

 横抱きにされたかと思えば、視界が疾く動いた。

 しかし慣れた感じと何かが違う。乗り心地、とでも言うのだろうか? それに爽やかな香りがする。

「聖女さん、手大丈夫?」

「リーデンさん!?」

 自分を抱き抱えている人物の正体を知って驚愕する。

 が、それ以上に手首に吸い付いたままの魔物の足の先端に吃驚して、左手で慌てて浄化した。白い足が完全に消えると、肌に赤い痕がだけが残った。

 作業も終われば今度は背後から響く悲鳴に注意が行く。

(状況は……!?)

 リーデンの肩越し、今しがた逃げてきた場所へと視線を向けた。

 そして絶望した。

 そこには地獄絵図が広がっていた。

 倒れたテントみたいに、平坦な形をした大きな魔物がパタパタはためきながら人間たちに覆いかぶさっている。

 逃れんとする人間をしなやかな足で捕まえて、下面の口と思しき空洞へ引き寄せている。

 絡まった魔物狩り師は各々の武器を手に、吸盤付きの足に斬りかかる。だが斬っても斬っても解放されない。

 紫黒色の液体が飛び、朱色の血飛沫も飛び交い、河岸は阿鼻叫喚の巷と化していた。

 誰かの腕が引き千切られる展開を見届けて、ふいに吐き気を催した。

(なにが、これ、なに)

 口元に手を当て、ミスリアは信じられない想いでそのシュールな光景を眺めていた。

 顔から血の気が引いていく。

 仇討ち少年の姿はどこにも無い。

 が、彼の高らかに笑う声が聴こえてくる。

 距離が開けてきているのに、嫌にハッキリと聴こえた。

「いける! これであえる! まってて、おばさん! アハ、はははははははははははは!」

 ミスリアは両耳を手で塞いだ。どうか錯覚であって欲しい。

 ――幻聴だとしても、なんてひどい笑い声――!

 哀しい狂気に憑かれた子供を、ついぞ救うことができなかった。

 現実の重さが心を侵していく。

「助けに戻り――」

「ダメ。無理だよ聖女さん」

「でもあれだけの人を見捨てるわけには――」

「アレと戦うことは、僕や兄さんにはできない」

 反論の余地を与えない声音でリーデンが言い切った。

「理性で抑えられる本能には限界がある。助けようとしても無理。恐れおののいて動けなくなるか、勝手に体が逃げ出す。僕らはそういう種類の人なんだって、そう思ってくれればいい」

 彼は戦闘種族の性質を語っているようだった――戦うまでもないほど強大な敵と対峙した時の対応を。

「それに、生存本能を押しのけてまで他人にそこまでする義理は、やっぱり無いんだよ」

 そんな風に言われては唇を噛み締めるしかできない。

 ミスリアはゲズゥの姿を探し、すぐ後ろにみつけた。杖を使っている人間にしては異様に速く歩を進めている。彼が何も口を挟まないので、弟と同意見なのだと感じた。

 三人は戦陣の中心であった、結界に守られた小さな範囲の目前まで迫った。そこで止まる気は無いのか、リーデンは全く減速しない。

「六十人いてもやはりダメなのか!」

 司教様の失意の喚声。

「何をご存じなんですか司教様!? 教えて下さい!」

 思わず叫んだ。

「聖女ミスリア!? ここで守られていなさい!」

 彼はただならぬ表情で勧めた。リーデンは何を思ったのか、数秒ほど結界のすぐ傍で立ち止まってくれた。中にまで入る気は無いらしい。

「さっき声が聴こえた気がしました。あの魔物の素は魍魎ではなく人間でしょう? どういうことですか? 忌み地とされるような大きな事件が無かったはずでは」

 最初の質問を受け流されたことにミスリアは苛立って、詰め寄るように質問を畳みかける。

「……確かに大きな事件は無かった。無かったのですが、時間をかけてありふれた『死』の集大成が……」

 後ろめたそうに顔を逸らし、司教様が口早に答えた。情報を出し惜しみしたことへの後ろめたさだろうか。

「そこから先は移動しながら話してもらうよ。どうせ君らも、あの混乱の中に飛び込んでお仲間を助けるつもりなんて、無いんでしょ。何度『討伐隊』が全滅しても、司教が死んだって噂は聞かないからね」

「ぐぅ……」

「ボクらも興味ありますね」

 遅れて追いついたエンリオが言った。彼の後ろでは、「離しなさい! 皆を助けに行きます!」と嫌がる聖女レティカを抱えて走る女騎士レイの姿がある。あちらの護衛も同じ判断をしたようだ。

「仕方がありませんね」

 諦め半ばに言って、司教様が結界を解いて動き出す。

 そして語った。

 ――ことの始まりは河で死んだ人間が幾人かこの場所に「集って」塊を構築したことと思われる。

 それを討伐する為に魔物狩り師が訪れるようになり、完全に元を絶つことは出来なかったのか、今度は討伐で死んだ人間が混じる。

 塊は大きくなり、やがて初めての分離が起こる。

 分離した魔物が新しい死を調達して戻る――

 延々と繰り返されるフィードバック・ループ、それが徐々に魔物の源を育み、今に至る。

 ループを絶つ術が見つからなければ、永遠に問題は大きくなり続けるしかない。

(……忌み地として封じる以外にどうしようもないわ)

 どうして今までそうしなかったのか。考えうる可能性は幾つもあるが、もう考える気力も問い質す気力も起きない。

 真実を噛み締める暇も無い内に、リーデンが加速した。司教様や逃げ延びられた魔物狩り師たち、そしてレティカ一行を置いて先に進む。

 ようやく河を離れて静かな夜の世界に戻れた頃、リーデンに地に降ろしてもらった。

 脱力した。

 ちょうど絶妙な位置にあった石の上にミスリアは腰を落とした。

(どうして、私は。こんなに無力なの)

 やや遅れて追いついたゲズゥが、こちらを見下ろしている。黒曜石に似た瞳には案じる色があった。

 何かを思うよりも先に行動していた。

 ミスリアはよろめきがらも立ち上がり、ずっと旅の供で居てくれた青年の傍に近寄る。

 理由はわからない、ただこの人の近くでは、普遍な存在に触れるのと同じような安心感を得られる気がした。

 そうしてゲズゥの袖にしがみついて泣いた。

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