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聖女ミスリア巡礼紀行  作者: 甲姫
第二章:聖地を巡る意味
25/67

25.

注意:奴隷など、非倫理的な行いを仄めかす要素が出ます。苦手な方はご注意ください。

 ――油断した、と悟った時にはもう遅かった。

 顔面めがけて斬り付けてくる剣をしゃがんで避け、左手を地面について側転の動作に入った。蹴りあげた足首を敵のうなじに絡ませ、回転に巻き込んで水面に叩きつける。

「すばしっこいな、このっ……」

 背後から襲い掛かる二人目の敵に足払いをかけ、更に三人目を肘で殴り飛ばして、ようやくゲズゥ・スディルは現状確認をする為に一息つけた。

 水が岩を打つ音が周囲に反響している。正面には高さ十ヤード以上の滝があって、その水が流れつく小川の中にゲズゥは直立していた。かなり冷たい水が脛の周りを通り抜けているが、その冷たさは淡水であるからだけではなく秋の訪れが近いからだろう。

 両岸は隙間なく緑に覆われ、朝日が漏れる箇所もまばら、襲撃者が身を隠すにはもってこいの場所だ。

 それでも雑魚が三人来たって、数十秒で倒せるぐらいにはゲズゥは反応できたが。

 一度深呼吸して、滝水の音の壁より外へ意識をやった。音が邪魔で感じ取りにくいが、どこにも人の気配がしない。紛れも無くもう遅かった。

 ゲズゥが油断したのはこの雑魚ども相手にではない、ミスリアの方への注意を怠ったことにある。

 鋭く舌打ちした。

 着替えたいと言ったミスリアから離れたのは数分程度。普段なら背を向けて待ったものの、ちょうど水筒が空になっていたからその間にゲズゥは滝の水で水筒を補充しようと考えたのだ。

 それが彼女の傍で何か異変があったと気付いて戻ろうとした途端、奇襲されてこのざまだ。

 ――この状況は何だ。さらわれたとでも言うのか。

 その瞬間、確かにゲズゥは眩暈を覚えた。少なからず動揺している。

 旅する聖女の護衛という肩書に甘んじている以上、護るべき対象が失われた場合、どうすればいいのかわからなかった。

 真っ先に思い浮かんだ選択肢は二つある。

 解放されたと喜び、このまま行方をくらまして好きに生きるか。

 護るべき少女を取り戻す為に奔走するか。

 思わず右手でこめかみを抑えた。

 するとこちらの思考とは無関係に、青緑に輝くトンボがぶぶーんと羽音を立てて視界に入った。まるでゲズゥを睨むように正面に止まって忙しなく羽ばたいている。何故だか、決断を迫られている気がした。

 例えば前者を選んだとする。三度目の投獄以前の生活に戻ることになるだろう。

 ……生活?

 果たして自分には戻るほどの日々があっただろうか。もはや遠い昔のように感じられた。

 やはり後者しかないかと考え――こんな時だが、少し前の会話が脳裏に蘇った。


 ――オレとお前は確かに境遇が似ているし、だからこそそれなりに気が合った。だけど覚えとけよ、お前を救える人間が居るとしたらそれは外側からでないとダメだ。

 ――そういうお前はこれからどうする気だ。

 ――くすぶる恨みはまだ残ってるけどな、ケジメつけるよりこの町でぼへーっと過ごしてた方が多分オレには合ってるんじゃないかな。

 ――ぼへー……。働き過ぎて過労死するなよ。

 ――しないって。その前にヨン姉に叩き殺されるだろーし。ま、とにかく、嬢ちゃんをちゃんと大事にしてやれよ。役目なんだろ?


 エンが言っていた「外側」の意味はわかりそうでわからなかった。

 ただ、ここで何もしなかったら自分の今後の一生、一切の選択肢がなくなりそうな気がした。そして、行方をくらますのは急がなくてもできるが、ミスリアを救いたければ一時も立ち止まっていられないだろう。

 気が付けば襲撃者の一人の胸ぐらを掴んでいた。ざばっと音を立てて男を水中から引き上げる。冷たい水飛沫がそこら中に跳ねた。

「どこへ向かった」

 主語を抜いて、抑揚の無い声でゲズゥは問い詰めた。奴の両手がゲズゥの手首にかかるが、全く問題にならない程度の腕力である。次に蹴ったり暴れたりして抵抗を試みているようだが、体勢が不利なせいかこれまた弱い。

「私は何も話しませんっ」

 賊のような身なりに似合わず丁寧な発音の南の共通語だった。

 「そうか」とだけ呟いてゲズゥは片手で素早く短剣を抜き、日頃からよく研いでいる刃を男の顎の下に当てた。

「ひいっ。ちょ、殺しちゃったらわからないんじゃないですか!」

「お前が死んでも後二人いる」

 刃をぐいっと押し当て、近くで呻いている他二人の襲撃者を目頭で示した。殺しは駄目だとミスリアにさんざん念を押されているが、どうせ今この場に居ないのだから多少は妥協してもいいとゲズゥは考える。

「わ、わかりましたよ! 言いますから! 殺さないでください!」

 男は青ざめて叫んだ。ゲズゥはただ男を射抜くように睨んだ。

「……ウペティギ様の城です」

 冗談みたいな名前だと思いつつ、誰だ、と訊き返すと男は小ばかにするように鼻で笑った。

「大公家と縁ある血筋の貴族さまですよ、知らないんですか?」

「城はどこだ」

 無視して問うた。貴族の血筋などどうでもいい、そんなものを聞いても名前と一緒にすかさず忘れそうである。

「誰がそこまで喋ると思っ――いたた、痛い、血が出てる! やめて! 言います!」

 押し当てた刃を僅かに引いたのが効いた。

 涙浮かべる男の返答を聞いて、これは面倒なことになった、とゲズゥは顔には出さずにげんなりした。

 男の話によると、城の位置はディーナジャーヤ帝国の属国の一つである、ゼテミアン公国内にあるという。そう遠くない距離だが、問題は現在地と目的地の間に国境があることだ。

 元々ゼテミアンの領土を通ってクシェイヌ城へ向かうつもりだった。ただし、ミスリアと一緒であることを前提としていた。

 身分証明書の類はミスリアが持っていたし、そもそも証明書など持たなくても聖女の力を少し見せ付けてやれば、大抵の国はあっさり受け入れるらしい。ところがゲズゥ個人はどの国の戸籍も持たない、元指名手配犯だ。運が良ければ追い払われるだけに留まり、悪ければ捕縛される。

 ふと疑問が浮かび上がり、また質問を吐いた。

「連れ去った目的は何だ?」

「……」

 男はガチガチ歯を鳴らしながらも答えない。その両目は挑戦的に睨み返してくる。

 いちいち非協力的な態度に若干イラつき、ゲズゥは男の腹を思いっきり蹴った。言葉にならない呻き声が返る。

「目的」

 声を低くして催促した。

「そっ……んなの決まってるでしょう!? ウペティギ様は、女が好きなんですよ! 若ければ若いほど良いっ。私らはだから、手当り次第に、連れ帰って、愛玩奴隷に……」

 その返答にゲズゥは僅かばかり安堵した。ミスリアが聖女だとわかっていてさらったのではないのか。こんな単純な理由なら、身代金の要求に応じるなり複雑な交渉をする必要は無い。

 同時に、別の焦燥も沸き起こる。愛玩奴隷は主の興味や寵愛を浴びている間は安全でも、飽きられた後が危険だ。捨てられた玩具は社会に返されるのか、どこかに維持されるのか、それともあっさり殺されるのか。

 この際ゲズゥが案じてやれるのはせいぜいミスリアの生死だけで、助け出すまでの間に経験するかもしれない諸々の辱めや絶望に関してまでは気を配れない。気にしたところでどうしてやることもできないわけだが。

 とにかく次の取るべき行動について思索した。

 密入国――それは大陸中の他の国境ならいざ知らず、大国ディーナジャーヤの属国ともなると、容易には果たせない。警備体制は万全だと考えて然るべきである。

 いかに足が速くて戦闘に長けていても、単独では使える方法に限りがある。ゲズゥは姿が見えなくなる術など持たない。変装しようにも体型が目立って難しいし、荷物に隠れようにもそんなに都合良く荷台を引く人間は現れない。

 しかし全く方法が無いわけではない。かつてオルトと二人だけで似たような状況を打破したことがあった。あの時はオルトの立案で闇に、もとい混乱に乗じて警戒網を突き破ったのだ。

 このやり方で行くなら下調べや準備が必要となる。

 まだ他に必要な情報があっただろうかと男を見下ろすと、奴はひとりでに喋り出した。

「はっ、たとえ城に辿り着けても無駄ですよ。罠にかかって無残に殺されますから」

「……罠?」

「ゼテミアンの鉄に貫かれて苦しめ! ウペティギ様に歯向かう奴なんて皆死ねばいい! あははははははは」

 笑い声が耳障りになり、ゲズゥは手早く男を殴って気絶させた。

 ――それにしても無差別な人攫いを平然とやってのける貴族が野放しにされているとなると、国の政治体制や公平さなどにも期待できないだろう――。

 ゲズゥは襲撃者どもを一人ずつ確実に気絶させてから、奴らの衣類からベルトの類を引き抜いて三人とも樹に縛り付けた。それから自分の持ち物を確かめ、更にミスリアの居た辺りまで戻って、落ちている荷物が無いか念入りに探した。

 一分経っても何もみつからず、立ち上がってその場を去ろうとしたその時。苔に覆われた石の傍で何かが光ったのを目の端で捉え、近付いてしゃがみ込んだ。

 手を伸ばして草をかき分けると、そこに落ちていたのはミスリアがいつも大事そうに持っていた銀細工のペンダントだった。


_______


 近頃頻繁に見るクシェイヌ城の夢から覚めた。

 まどろむ間も無くミスリア・ノイラートはすぐに違和感を覚えた。そこは、随分と明るい場所だった。

 部屋に三十人以上の若い女性が押し込められているように見える。大体の女性は沈んだ表情或いは無表情だったが、大きな化粧台と鏡の前では何人かの女性が黄色い声を出してはしゃいでいる。女性たちのほとんどは華やかな衣装や露出度の高い衣装などと、明らかに着飾っている風である。

(ううん、それより……動けない!? どうして?)

 ミスリアは可能な限り全身を注視したが、両手両足を後ろに縛らているようでうまく動けなかった。猿ぐつわも噛まされ、見たところ部屋の隅に転ばされている感じだ。全身がどことなく鈍く痛む。打撲でもしたのだろうか。

 首を捻って壁を向くと、隅の最も暗い場所に互いに寄り添い合うように膝を抱える少女が二人居た。ミスリアと同い年か更に年下のようだ。痛々しいぐらいに怯えた目をしている。

(ここはどこ? 一体、何が起こったというの――)

 もう一度自分の身体に視線を走らせた。服が所々千切れている。それにほとんど下着姿である。

(うそ! あの時!?)

 羞恥心が体中を駆け巡ったのとほぼ同時に、ミスリアは自分が着替えている最中に襲われたことを思い出した。

「あららぁ、気が付いたの、新入りちゃん」

「んん――!」

 人間の言葉を発せない状態にあるミスリアは身をよじり、声の主を探した。

「うん? 幼いのねーえ。顔はまあまあだけど、小さいし、ウペティギ様に気に入られるかもねぇ」

 ひどく訛った共通語だった。

「ええー。困るわよぉ~、やっとアタシを見てくれるようになったのにぃ」

「自惚れてんの? 見てるも何もアンタ顔がそんなケバいから嫌でも目が行くだけデショ」

「あー言ったなー、アンタこそ人のこと言えないわよぅ」

 むせ返るような香水の匂いにミスリアは咳き込んだ。

 再び目を開けると、十代後半か二十代前半くらいの女性が三人、屈みこんでミスリアを頭から爪先まで眺めまわしている。白粉おしろいまたはパウダーが濃くて、元の顔が美人なのか何とも判断し難い。

(ヴィーナさんを男性を振り回すタイプとするなら、目の前の三人は媚びるタイプかしら)

 そういった違いを解する日が自分に来るとは今まで想像したことが無かったが、これほどあからさまに差を見せつけられてしまえば嫌でも納得する。感心するあまりに置かれた状況への恐怖を数瞬の間忘れていられた。

 派手な色の化粧は無駄に多い装飾品と調和が取れていないし、服と言えば袖が長いくせに肩や背中の露出は高く、布が変な形をなぞったりしてお世辞にもセンスが良いとは言えなかった。なのに扉の両脇を挟む武装した格好の兵士たちは、隙を見ては彼女らの露わになった肌や輝かしい首飾りに強調された胸元にばかり視線を這わせている。

「見張りさぁ~ん、新しい子起きたわよぉ」

 三人の内、一番肉付きの良い茶髪の女性が兵士たちに話しかける。手招きすると同時に、袖のピンク色のフリルがヒラヒラと揺れる。

「縄を解いて身支度させろ」

 兵の一人が歪んだ陰鬱な笑みを口元に張り付かせて言った。

「はぁ~い」

 対する女性たちはゆとりのある表情をしている。

 縄を解かれる間、ミスリアは「身支度」が何を意味するのか考えた。それにこの女性たちは何の為に一所に集められているのだろう。「ウペティギ様」、「気に入られる」は何か重要なキーワードだろうか。

 考えても答えはわからないまま、自由の身になった。見張りの兵士が居るせいで、声に出して女性たちに問い質していいか迷う。

 そこで察したのかどうかはわからないが、縄を解いてくれた黒い巻き毛の女性が顔を近付けてきた。

「いーい? 逃げようとか助けを待とうとか考えてもムダだかんね。絶対ムリ。ウペティギ様に気に入られるように頑張る方が生き延びられるんだからぁ」

 だから諦めなさい、と彼女は強く言った。

(助け、なんて、待ったところで、来るかどうかも……)

 小さく耳鳴りがしたと思ったら、一気に心の中に海が広がった。絶望という名の海に溺れていく手応えを、ミスリアは静かに感じた。

 友人も家族も教団の仲間も旅の途中で出会ったちょっとした知り合いでさえも、何が起きても今は助けてくれたりしない。現実的に考えて、有り得ない。ミスリアがどうしているのか、その消息を積極的に追っていないのだから。たとえ追っていたとしても情報が入るまで最低でも数日の遅れがあり、助けを期待するには心もとない。

 もしこの世で自分をここから連れ出してくれるかもしれない人物が居るとしたら、それはたった一人である。そのたった一人が来てくれるかどうか――自信は無い。

 涙が滲まないように天井をさっと見上げた。

 一瞬だけ――水を汲んでくる、と呟いて振り返ったゲズゥの、あの黒曜石にも似た黒い右目と所々金色に光る左目が記憶に浮かんで――心がざわついた。

 あれが今生の別れになるかもしれない。

「……ご親切に、忠告ありがとうございます」

 努めて笑顔を作り、ミスリアがそう返すと、黒髪の女性は大袈裟に手を広げて驚いた。

「やだあ、シンセツなワケ無いじゃなぁい。アンタなんかに負けない自信があるから言うのよ」

 そうですか、とわざわざ返事をする気力が沸かなかった。

「なあによ、ねえ何でそんなに言葉がキレイなのよ」

 問われてミスリアはただ苦笑した。巧い嘘がつけるはずが無いので、詮索は避けるのが得策である。

「それより、ウペティギ様って誰?」

 話題を変えようとミスリアは明るく訊ねた。発音はどうしようもないけれど、とりあえず丁寧な口調を使うのはやめた。なるべく浮かない方が良い気がするからだ。

(一分一秒でも長く生き延びるしかないわ)

 或いはそうしている間にもっと何か助かる方法が見えてくるかもしれない。

「ここの城主さま。焦らなくても夜宴で会えるわよー。ねね、それよりアンタどの服にする? この赤と銀色のヤツなんてちょうどいいんじゃなぁい?」

 城主、について思考を巡らせたかったのに、ミスリアは黒髪の女性が差し出した衣装を受け取って顎を落とした。

「絶対似合うと思うのよぉ。ね? いいでしょ?」

「ほ、他に何かないの」

 手の中の布をどう広げても、下着姿といい勝負の露出具合がうかがえる。いや、ミスリアの色気に乏しいもっさりとした下着相手ならどう考えてもこの衣装の完全勝利だ。

「他って言ってもねーえ、アンタのサイズじゃあこれとか……あとこれとか?」

 更に差し出された服もどれもあまり多くの生地を使わずに作られていた。

 絶句するほか無かった。つい引きつった笑みを浮かべてしまう。

(絶対嫌! ……でも、抵抗したら……どうなるんだろう)

 扉の前で陣取る兵士たち四人を見やると、彼らは槍を手に目を光らせている。部屋に窓は無いし、扉は一つしかない。逃げ道があるとは到底考えられなかった。例えばゲズゥのように兵を斬り伏せる技量があれば話も違ってくるだろうに、生憎とそんな方法はミスリアには取れなかった。

 唾を飲み込み、手の中の衣装を握り締める。背に腹は代えられない。

「好きなの選んで着替えてねぇ」

 黒髪巻き毛の女性がウィンクする。

「う、うん……って」

 部屋中を見回し、ミスリアは重要なことに気が付いた。

「身を隠す場所がないんだけど……」

「そりゃあ見えない所で着替えたら、何か凶器とか隠し持っちゃうかもしれないじゃない? しょうがないのよぅ。我慢してねえ」

 豊満な体つきの茶髪の女性がひょいっと横から口を挟んできた。

「こ、こんな大勢が見る前で脱ぐんですか!?」

 衝撃のあまりに思わず口調が元に戻った。部屋中の視線がミスリアに集まった。そのほとんどが陰鬱なものだったが、兵士からは厳しい目とたしなめる怒声が飛んできた。

「大声出しちゃだめよう」

 三人目の、金色の髪を縦にぐるぐる巻いた女性がしーっと唇に指を当てた。

 ごめんなさい、とミスリアはとりあえず謝る。納得はしていないけれど、どうしようもないのだろうと諦めねばならない。下着姿とどちらがましかと問われれば言葉に詰まるけれど。

 結局最初に渡された赤と銀色の服を選んだ。付け方を確かめるように慎重に眺めて、部屋の隅に行ってからまずは上の部分を下着の上に付けた。

「ソレ、そんな風に着るんじゃないの。下着付けたままじゃだめデショ」

「わかってるよ」

 金髪縦ロールの女性の指摘に、ミスリアは振り返らずに答えた。

 元々上は、体を締め付けない緩いキャミソール型の白い下着を着ていた。普段は外出時は夏であっても何段にも重ね着をしているから、一番下の段は誰かの目に入る心配が無く、簡素な物を好んで使用している。

 その上に衣装を付けてから、体を捩ってキャミソールだけを引き抜いた。肌に残った、布の面積が少ない衣装を、ちゃんとぴったり合うように結び目を調整した。

(ううううううううう、恥ずかしい)

 面積は少なくてもせめて胸に当てられる部分はそれなりの厚さである点だけが救いだ。肌触りも悪くない。

 ただしほとんど無い胸を強調するデザインがどうしようもなく恥ずかしい。一方で何だか悔しくなって、掌で胸の脂肪をかき集めたりしてしまう。

 そしてミスリアははたと動きを止めた。

 背中に冷や汗の粒が浮かび上がり、顔からは血の気がサアッと引いた。

 ――アミュレットが無い!

 下着の中や自分が転がされていた周辺の床を目で探ったが、やはりどこにも無い。

 森の中で着替えていた時はまだ首にあったから、きっと攫われた最中に千切れて落ちたのだろう。

(何で……私の為に造られた唯一の物なのに――)

 手元を離れたのは今回で二度目だ。しかも前回のように急いで取り戻す選択が無い。きっと教団に戻ったら説教され、罰掃除などさせられ、最低でも一週間の断食を強いられる。

 ふっ、と自嘲げに笑った。

(そんな心配をするのは、教団に戻る以前に……ここから生きて帰らないと……)

 迷走気味の思考がすぐに現実に着地し直した。口の中が妙に乾いている。

 叱られる場面を想像して現実から逃避していた方が、まだ気分が良かった。

(でも、困ったわ)

 アミュレットが無いのが、どれほど不自由なことか。あれが肌に触れている状態でないと、聖気はほとんど扱えない。全神経で集中しても、かろうじて触れている相手のかすり傷を治せるか治せないか程度。当然、魔物の浄化はできないし、カイルに教えてもらった応用の術――その一つは魔物を意図的に呼び寄せる方法――も使えない。

 のろのろと、ミスリアは衣装の下半分を手に取った。透明な素材を使った銀色のふわふわとしたスカートを、直視せずに履く。

「あ、ごめん。それもう一つパーツがあったわぁ」

 金髪の女性が何かを投げてきた。もう何を見ても驚いてやらない、と意気込んで受け取ると、それはレースをふんだんにあしらった真紅の下着だった。

「…………」

「セットだからね、絶対揃えて着なきゃだめだかんね」

 ミスリアはものも言わずにそれを見つめた。

(ねえ、待って、スカートがほぼ透明なのに下はコレなの)

 上の部分と色が合っているといえば合っているが、色々と大丈夫だろうか。心の内には疑念しか沸かない。

 すうっと深呼吸した。スカートは履いたまま、素早く下着を着替える。兵の(と思われる)視線が突き刺さるが、恥じらっていられる心の余裕がもう無かった。できるだけ早く済ませたかった。最後に、一応変な箇所が無いように身なりを確かめる。

 既に今日一連の展開がミスリアの常識の範疇を超えていた。

 意を決し、声をひそめて女性たちに訊ねた。

「訊いても良い? 私たちは、これから何をさせられるの?」

「アタシたちは愛玩奴隷よぉ。ナニをさせられるかなんて決まってるじゃなぁい」

 唇をすぼめて、黒髪の女性が答えた。

 ミスリアは首を傾いだ。

 「愛玩奴隷」とは人が使うのを聞いたことはあっても意味をあまりよく知らない、馴染みの無い言葉だった。愛玩動物ならわかるけれど。

「そんでねえ、特に気に入られたオンナは愛人にしてもらえる。そうしたらもっと金も贅沢も自由にできるんだからねーえ、アタシら必死にもなるワケよ」

「愛人……」

「おい、時間だ! 並べ。順番に手錠をつける」

 兵士が張り上げた声により、会話が中断された。驚くほど速やかに、そして静かに、部屋中の女性が出入口へ向けて一列に並んだ。ミスリアも慌てて列の最後尾に続く。

 隅にうずくまっている小さな少女二人だけが立ち上がらなかった。

「耳が聴こえないのか!?」

 兵士の一人がズカズカと彼女らに歩み寄った。

(――!)

 次には信じられないことが起きた。兵士が少女の一人を蹴り飛ばしたのである。鮮やかな衣を纏った小さな身体が化粧台にぶつかって跳ね、残った少女が鋭い悲鳴を上げた。

「うるさい! お前もだ!」

 今度は兵士は、少女の白い頬を叩いては腕を引っ張り、無理に立たせた。そして別の兵士が蹴飛ばされた方を半ば引きずるようにして列の前に投げ出した。

 そこからは痛いほどの沈黙が続いた。

 定期的に、ガシャン、と手錠が一人一人に付けられる音、ジャラ、と歩かされる女性たちの鎖が引きずる音、その両方が部屋に響き渡る。

 音が一個ずつ重く胸に沈む内に、あわよくば逃げられないだろうかと心のどこかで考えていたのだと、ミスリアは自覚した。

 体が小刻みに震えるのを抑えられなかった。あと五人もすれば自分の番になる。

 手錠をつけられればもう終わりだ――本当にどうしようもなくなる――こんな故郷から離れた城の中に閉じ込められて一生を終えるのではないか――

『死にたくなければ、動け』

 ふいに頭に響いた声が考えを遮った。

 次いで、何度も見てきたクシェイヌ城のイメージが脳裏にチラつく。

 それらが消えると、後に残った強い使命感が胸の内に燃えていた。

 ――だめだ、弱気になるのだけは。自分に何ができるか今はまだわからなくても、諦めたら本当に希望の一つも浮き出ては来ない。

 唇を噛んで俯いていたのは、数秒だったかもしれないし数分だったかもしれない。

「次!」

 呼ばれて顔を上げたミスリアは、自分がどんな表情をしているのかわからなかった。手錠を持った武装兵と目を合わせると、向こうは露骨に驚いて一瞬身じろぎした。物言いたげに眉間に皴を寄せている。

 何か不自然だったかと疑問に思って目を逸らし、手を差し出した。兵士は結局何も言わなかった。

 それからすぐに、両手首に冷たく硬い鉄が絡みついた。泣きたくなる重さだ。

「よし、全員手錠を付けたな。このまま一列に歩いて宴会室に向かうぞ。変な真似をしたら鞭で罰する。貴様らは奴隷だ、それだけは忘れるなよ!」


_______


 落日がゼテミアン国境の壁を緋色に染め上げる様を、木の葉の合間から見下ろしていた。

 木々の枝を渡り、かなり高い場所に身を隠したゲズゥは、警備兵の数や装備を確認している。

 警備が手薄な場所を探すのではなく、むしろその逆で、不自然に兵が多く配置されている場所を探していた。

 全体を見渡せば、人が通れる門からは遠いのに兵士の多い箇所がいくつか見えた。

 それらを目標と見定め、ゆっくりと枝の間を一本ずつ降下していく。ギリギリまだ全体の状況を把握していられるような高さに留まった。

 後はもう、陽が完全に地に潜るのを待つだけである。

 やがてゲズゥは、物音がすればいつでも目を覚ませるような、浅い眠りに落ちた。

 虫の鳴き声が一匹、二匹と数が増えていく。これまでは警備兵のひそひそとした話し声以外は静かだったが、たちまち虫の合奏が周囲を満たした。夢現をさ迷う意識の中にも届く程である。

 しばらくして、夜風の香りと共に、夢が訪れた。

 夢の中の少年には左目が無い。地に横たわり、眼球があるべき場所には空洞しかなく、そこからとめどなく鮮血が流れ出ている。少年は苦しげに胸を上下させて、青白い顔でこちらを見上げる。

 いつも、どうしてやればいいのかわからなくて同じ行動を取る。ゲズゥは従兄の手を両手で掴み上げ、無言で強く握った。

 重苦しく息を吐きながら、従兄は呟く。

 ――頼む、約束してくれ。大人になったら、かならずこの五人を殺せ――

 目の前の惨状や従兄に頼まれた内容よりも、ゲズゥは掌に伝わる温度が怖かった。周りが燃え上がって熱くて気がどうにかなりそうだったのに、握った手からは温もりがどんどん失われていく。自分が総てを失うのだと、それを止める術を持たないのだと、その事実を思い知らされた。

 ――任せたよ。族長の長男、お前なら、大丈夫だ――

 掠れた声から生気が抜け落ちていく。

 突如、いくつもの鋭い鞘の擦る音に目が覚めた。

 夢が霧散した。辺りはどっぷりと暗くなっている。

 国境に異変があったのだと瞬時に気付き、ゲズゥは騒ぎの中心を探した。

「出たぞ! こっちだ!」

「弓兵、構え!」

 十五人ほどの警備兵が二重に弧を描くように列を組み立てている。「放て」の号令で、後列から一斉に矢が飛ぶ。

 矢を浴びた、樹の如くそびえる青白い異形は、刺さった矢を煩そうに払うだけで怯まない。

 二本足で立って二本の長い腕を垂らしている姿はまるで人に見えた。と言っても、似ているのはそこまでだ。肩はあっても頭部が無い。

 胴体から短い咆哮が響き、同時に腕から何本もの太い枝が伸びた。

「うああああ」

 前列の人間が三人、枝によって貫かれた。痙攣する手から剣が落ち、金属音がした。

「前衛、まだ交戦するな! 下がれ! 松明を投げろ!」

 指示を出している人間はまだいくらか冷静さを保っていた。植物に構造の似た魔物なら炎がダメージを与えると考えたのだろう。

 魔物に飛び移った炎が激しく燃え盛った。腐臭と煙と共に焦げた臭いが広がる。

 しかしダメージを与えるには至らないのか、魔物は平然と火の伝う枝で警備兵らを次々と地に叩き伏せた。

 赤く燃え上がる戦場を見ているだけで体温が上がりそうだった。ゲズゥは何度か深呼吸する。夢に出た光景と似ているせいで波立つ心を、鎮めねばならない。

 最初からこの三ヤード以上の高さの壁を越えられる場所は限られていた。おそらく外にも内にも兵士が配置されている。門の近くは、論外。思い切って壁を越えようとしても、登る間に誰かに見咎められて射落とされるのがオチだ。

 だからこそこの場所である。

 兵士が不自然に多く待機していたため、過去に魔物が出た事がある場所と踏み――期待通りに今夜も現れた。

 これだけ混乱していれば人間の侵入者の一人や二人、気付けた所で迅速に対応できないはずだ。

 ――魔物を利用して人間を退ける。

 以前ミスリアが聖気で魔物を呼び寄せたと思しき時があったが、もしかしたら似たような理由からかもしれないと思う。

 ゲズゥは自らに手ぬぐいを巻いて猿ぐつわにした。何かに驚いたり怪我をしても咄嗟に声を上げない為である。

 地上を見下ろすと、燃える巨大な塊がさっきよりも壁に近付いていた。近くから増援も到着し、警備兵は前衛と後衛を巧く連携させて善戦しているようだが、魔物を倒せたとしてもそれまでに多数の犠牲が出るだろう。

 当然、ゲズゥも挑んでみたいとは欠片も思わない。

 ひゅっと息を吐いた。

 次の瞬間には樹の枝から飛び降り、地に一回転し、戦場のすぐ横を全力で駆け抜けた。

「何だ!? 新手か!」

 条件反射で矢が飛んできた。掠りもしなかった。

「あんな速さ、ヒトじゃないぞ!」

 誰かがそう叫んだ。どうやらゲズゥは警備兵らに新手の魔物と認識されたらしい。

 立ちはだかろうとする奴らの鎧を踏み付けて、跳躍した。

 勿論、飛び越えるには高さが足りない。うまく行くかは賭けである。タイミングを見極め、ゲズゥは腰に提げた短剣を壁に垂直に突き立てた。奇跡的に剣は折れなかった。

 ――これがエンだったら、鎖とフックを使って簡単に登れただろうに。

 そう思いつつも、武器屋から借りていた曲刀を抜いた。修理の終わった大剣を鍛冶屋から受け取った際、なんとなく曲刀も手元に残そうと思って武器屋に代金を支払ったのである。持ち歩く荷物は増えたが、その苦労も今、報われる。

 短剣と曲刀を交互に突き立て、壁をよじ登った。

 背後では魔物の咆哮と、侵入者に驚く人々の声が上がる。それでも矢は飛んでこなかった。魔物を相手にするだけで精一杯なのだろう。

 一分もしない内に登り切った。

 曲刀は壁に残して踏み台にし、後は壁の内側に飛び込むだけという時に――何か熱いモノが右腕に絡みついた。肌に触れるそれの感覚は乾いていて、細く、硬い。

 振り返った刹那、肩に激痛が走った。ボキッ、って音もしたかもしれない。

 とにかく夢中で枝から逃れようとして、気付いた。右腕が動かない。

 ――脱臼か!

 戻している暇は無かった。利き手ではない左手に短剣を握り、枝を斬り落とす。自分の皮膚も何度か斬ってしまったが、構っていられない。

 右腕を解放した直後にまた枝が伸び、それをすんでの所でかわして跳んだ。

 壁の内側に着地すると同時に背の大剣を鞘から出さずに振り回した。内側に居た八人ほどの警備兵は魔物が現れるのをよほど緊張して待ち構えていたのだろう。一方で人間の侵入者は予想外だったらしく、唖然としている。おかげで苦も無く全員を倒せた。

 すぐに身を隠せる物影を求めて走る。登れそうな樹が無いので、低木の群れに紛れてしゃがみ込んだ。

 動き回った所為で余計に肩が痛い。脈も息も荒くなっている。大きな汗の粒がいくつも顎から垂れた。幸い、口に含んだ布が功を成して呻き声一つ漏らさずにいる。

 少しだけ、ゲズゥは呼吸が落ち着くのを待った。

 さて、自分で脱臼を戻すのは非常に気が進まないが、利き手が使えないままでは不便である。後で聖気で完全に治してもらえば後遺症は残らずに済む。

 それは、まずはミスリアを無事に助け出すのが絶対条件だが。

 歯を食いしばりながら、ここまでする価値が本当にあの少女にあるのか、思いを馳せずにはいられなかった。

 相変わらず何度考えてもわからない。どちらにせよ、この段階で引き返すことはできない。

 動かせる方の左手で右腕を九十度に折り曲げ、脱臼した肩を戻す手順を辿った。決定的な一瞬まで、激痛の波に耐え続けた。

 何故かその間、死の淵から還った時に見たミスリアの泣き顔と、握った小さな手の温もりを思い出していた。


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