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第二話 花粉症にはピ◯ノアがよく効く


 胡散臭い二人組の下で強制的に雇われてから数日。

 魔獣の襲撃でも、恐ろしい呪いでもない。僕たちは今、現代日本でも問題になっている『とんでもない事態』に見舞われていた。

「ぶぇっくしょん!!」

 限界廃屋の土間。竹箒でパタパタとホコリを掃いていた僕の鼻腔を強烈なムズムズが襲い、盛大な破裂音と共にくしゃみが暴発した。

「おい、龍悟! こっちに向けて飛ばすな、ヨッション!!」

 縁側で刀を磨いていた勝成も、僕に文句を言いかけた口をへの字に曲げ、奇妙な破裂音と共にくしゃみを放つ。

「もう! なんなんですかコレ!」

 僕はズルズルと鼻水をすすりながら、赤くなった鼻を擦った。

「異世界に来てまで『花粉症』に苦しめられるなんて、テンプレでも聞いたことありませんよ!! どんだけスギかヒノキ植わってんですかこの天ノ黄泉原は!」

「そうだ! おいヒメ、神様なんだろ! なんとかしろ!!

 鼻水止まんねぇぞ、ろ、ろ、ローション!!」

 勝成が涙目で鼻をかみながら、もはや原型を留めていないくしゃみと共に神様へクレームを入れる。

「……全く、これだから脆弱な人間は」

 そんな鼻水まみれの僕たちを、部屋の奥で優雅に茶を啜っていたコノヤマサクヤヒメが、やれやれと心底見下したような目で鼻で笑った。

「たかが空気中の花粉如きで、涙目に……なって……くしゃ、みっくしょん!!」

 ――ピタッ。

 ボロ屋の空気が、一瞬だけ完全に静止した。

「……あっ」

 ヒメが、小さな両手で慌てて自分の口元を塞ぐ。

 しかし、遅い。その可愛らしい小動物のような、しかし明確な『くしゃみ』の音は、僕と勝成の耳にバッチリと届いていた。

「ちょっとヒメ様? 今、くしゃみしましたよね?」

 僕は箒を持ったまま、ジト目でヒメに詰め寄った。

「めちゃくちゃ可愛らしく、くしゃみしましたよね? 人様を花粉症だとバカにしておいて、そのまま見事にくしゃみしましたよね?」

「そ、そ、そんなことないわ……! ただの気のせいよ。神様は花粉なんてノーダメージなんだから!」

 ヒメは顔を真っ赤にして視線を泳がせている。神様特有の威厳は完全にゼロだ。

「いや、気のせいっていうか、ハッキリッ……クション! 見ましたよ? ヒメ様がくしゃみする瞬間を、バッチリッ……クショ――」

 ガシィッ!!!

 僕が鼻をムズムズさせながら容赦なく追い詰めた、その瞬間だった。

 ヒメの小さな右手が、僕の顔面をすさまじい力で鷲掴みにしたのである。ミチミチと頭蓋骨が悲鳴を上げる、あの死のアイアンクローだ。

「……可愛らしい女神が、くしゃみなんてするわけないでしょ?」

 先ほどの狼狽えぶりはどこへやら。ヒメは一切の光を宿さない、深淵のような真っ暗な瞳で僕の顔面をギリギリと締め上げた。

「もし本気でそう思ってるなら……まずはその腐ったオタクの頭から治さないとね?」

「アアァァァァァッ!! 割れる! 僕の脳髄が物理的にデバッグされるゥゥ!!」

 僕がボロ屋の床でのたうち回っていると、少し離れた安全圏から、勝成がドキュメンタリー番組のナレーターのような神妙な声色で呟いた。

「いいか少年。男の頭を片手で握って潰そうとしてる女を、この世界では決して女神なんて呼びゃしねぇ……」

 勝成は遠い目をした。

「生物学的に、そいつは霊長目ヒト科ゴリラ族……『メスゴリラ』というんだ」

「オラァァァッ!!!」

 ついに堪忍袋の緒がブチ切れたヒメが、顔面を掴んでいた僕の体を、まるでハンマー投げの要領で勝成めがけて全力でぶん投げた。

「なんでェェェェ!!?」

 ドォォォォンッ!!!

 悲鳴を上げる間もなく、僕の体は砲弾と化して勝成の土手っ腹にクリーンヒットし、そのまま二人揃ってボロ屋の土壁をぶち抜いて庭の泥水へとダイブした。

「ゲホッ、ガハッ……! ……皆様、この物語は、フィックション! です」

 瓦礫の中から這い出してきた勝成が、血反吐とくしゃみを撒き散らしながら、虚空(読者)に向かってメタな注意書きを叫ぶ。

「実在の人物、団体、およびゴリラとは、一切なんの関係もございません……!」

「そうよ。現実とはなんの関係もない……だから――」

 土煙の向こうから、般若のオーラを纏ったヒメ(ゴリラ)が、ゴキキ……と首を鳴らしながらゆっくりと歩み寄ってくる。

「ここでアンタらを、ぶっ潰ッ……クション! しても、コンプライアンス的になんの問題もないってわけ」

「やめて! ヒメちゃん!!」

 殺意の波動にくしゃみが混ざっているのが逆に恐怖を煽る!

 僕は土下座の姿勢で泥水に額を擦り付け、天に祈るように絶叫した。

「主役の僕らは勘弁してください!! 僕らがここで死んだらこの作品終わるんで! 開始二話目にして、作者が絶筆ッ……クション! しちゃうんでェェェ!!」

 僕の悲痛なくしゃみ交じりの命乞いが、花粉の舞う異世界の空に、虚しくこだましていった。

「大丈夫よ」

 僕の悲痛なメタ的命乞いに対し、コノヤマサクヤヒメは泥まみれの着物をパンパンと払いながら、冷酷極まりない現実を突きつけてきた。

「どうせこの辺境の小説を読みに来る物好きな人間なんて、たかだか二十、三十人程度……。私たちがここで絶命して連載が途絶えようと、世間の誰も気にしやしないわ。だから安心して死になさい」

「安心の要素が1ミリもない!! 読者様に失礼だろ! 一人でも読んでくれる人がいるなら最後まで足掻くのが主人公の――」

「ごめんください……」

 僕が涙ながらに少年漫画めいた熱い反論を試みようとした、まさにその時だった。

 ボロボロになった立て付けの悪い玄関の戸の向こうから、ひどくくぐもった、遠慮がちな男の声が聞こえてきた。

「ん?」

 ヒメが殺意を引っ込め、首を傾げる。

「あの……仕事を、頼みたいんですけど……」

 ――キタ! 記念すべき、異世界『契り屋』の初依頼人だ!

ーーーーーーー

「ど、どうぞ……お入り、くだ……は、ハックション!!」

 僕は慌てて泥を払い、精一杯の営業スマイルを浮かべて客人を招き入れた……が、容赦なく舞い散る花粉のせいで、第一声は盛大な破裂音にかき消されてしまった。

 ズルズルと鼻水をすすりながら顔を上げた僕と、縁側で鼻にティッシュを詰めている勝成の視界に、とんでもない不審者の姿が飛び込んできた。

「どうも……」

 現れた初依頼人の男は、なんと世紀末のサバイバルゲームから抜け出してきたかのような、重装備の『ガスマスク』をすっぽりと被っていたのである。

 黒光りするフィルター。曇りのないゴーグル。花粉はおろか、毒ガスすら一ミリも通さないであろう完璧な防御態勢だ。

「……で、用件ってのは?」

 勝成が、片方の鼻の穴からティッシュをはみ出させた何とも情けない顔で、ジト目を向けながら尋ねた。

「用件はですね」

 男はガスマスク越しにシュコー、シュコーと不気味な呼吸音を響かせながら、深々と頭を下げた。

「実は、この異常な花粉をなんとかして欲しくて参りました」

「いや、それについては俺たちも切実に困ってるっていうか……」

 勝成が呆れたようにため息(と、微かなくしゃみ)を漏らす。

「完全武装してるお宅より、無防備な俺たちの方がよっぽど苦労してるっていうか……」

「実を言いますとですね」

 男は勝成のぼやきを華麗にスルーし、ガスマスクの奥から僕たちを真っ直ぐに指差した。

「『お宅』の山城の周辺から、異常な量の花粉が飛散しているらしいんですよね。ご近所が大迷惑しておりまして。それをなんとかして欲しくてですね」

 ……は?

 僕と勝成は顔を見合わせた。この理不尽な花粉症地獄の発生源、まさかの僕らのボロ屋(の庭)!?

「あの……アンタ、人の話聞いてる?」

 勝成の額に、ピキリと青筋が浮かんだ。

「お宅よりこっちの方が困ってるって言ってんだよ。というか、くれよそのガスマスク。全然困ってねぇだろアンタ、めちゃくちゃ快適そうに呼吸してんじゃねぇか」

 勝成はズンズンと男に歩み寄り、凄みのある声で吐き捨てた。一国の主人が民にとっていい態度ではない。

 「ティッシュっていう『紙武装』しかしてない俺たち相手に、花粉解決の『神対応』求めるアンタ……相当狂ってると思うよ俺は?」

 勝成が鼻の穴からティッシュをだらりとぶら下げたまま、この世の不条理を全て背負ったような凄みのある声で吐き捨てた。

 しかし、ガスマスクの男は全く動じる様子を見せなかった。シュコー、という不気味な呼吸音と共に、ガスマスクの奥からひどく余裕ぶった、それでいて腹立たしいほど丁寧な声が返ってくる。

「まぁ、その点については大丈夫でしょう。なんせ『お宅』には、本物の神様がいらっしゃるんですから。さぞ素晴らしい『神対応』をしてくださるでしょうよ」

「……はっ」

 男の言葉を聞いた瞬間、勝成は鼻で思いきり嘲笑した。勢い余って右の鼻の穴からティッシュがスポンと飛び出しかける。

「いやいや、うちのバァさんを過大評価しすぎだろ。アイツ、神なんて肩書きを名乗ってるだけの、ただの凶暴なゴリラだから!」

 勝成は親指で背後を指差し、命知らずにも程がある暴言を放った。

「あんな短気なヤツに神対応なんて無理無理! 物理で全てを粉砕する『ゴリ対応』しかできねぇよ!!」

 ――ピキッ。

 限界廃屋の四畳半の空気が、文字通り凍りついた。

 物理的な音ではなかった。だが僕の魂の鼓膜には、神様あるいはゴリラの堪忍袋の緒が、鋼鉄のワイヤーを引きちぎるような凄まじい音を立ててブチ切れたのがハッキリと聞こえた。

(あっ……コレヤバイ……死んだ……)

 振り返るまでもない。背後から立ち昇る、絶対零度にして灼熱の殺気。花粉症のムズムズすら一瞬で吹き飛ぶほどの生存本能の警鐘が、僕の全身の細胞でけたたましく鳴り響く。

「……いいわ。その仕事このコノハナサクヤヒメが引き受けてやるわよ!!」

 ドスッ! と畳を踏み抜くような足音と共に、般若のオーラを背負ったヒメが僕と勝成の間に割って入った。

「ああ!?」

 勝成が素頓狂な声を上げる。

「ただ花粉を止めればいいんでしょ? この鼻水まみれの世紀末を終わらせればいいんでしょ? 上等じゃない、やってやるわよ!」

 ヒメは小さな拳をワナワナと震わせながら、ガスマスクの男めがけてビシィッと指を突きつけた。

「この無礼極まりないチンピラ剣士の目を覚まさせるためにもね! 見てなさい、元凶を見事に退治して、誰もがひれ伏す完璧な『神対応』を見せつけてやるわ!!」

「おお、それは素晴らしい限りです!」

 男はガスマスク越しにポンと手を打つと、目的は果たしたとばかりにクルリときびすを返した。

「では、私はコレで失礼いたします。吉報をお待ちしておりますよ……!」

「あっ、ちょっ……!」

 あまりにも見事な逃げ足に、僕が思わず手を伸ばすよりも早く。

 バタンッ!!

 男は立て付けの悪い玄関の戸をすさまじい勢いで閉め、脱兎のごとくボロ屋から逃げ去っていった。

 残されたのは、怒りに震える神様と、鼻水まみれの僕、そして――。

「待てやコラァァァ!! 用件とかもうどうでもいいから、まずはそのガスマスクを俺によこせやゴラァァァッ!!!」

 神対応でもゴリ対応でもなく、己の快適な呼吸サバイバルだけを求めて閉まった戸に全力で突進していく、チンピラ剣士及び大将の雄叫びだけであった。

ガスマスク男が嵐のように去り、再び静寂(と大量の花粉)が戻ってきたボロ屋の四畳半。

 僕はズビズビと鼻水をすすりながら、ドヤ顔で腕を組んでいるコノヤマサクヤヒメへと恐る恐る尋ねた。

「あの……売り言葉に買い言葉で勝手に引き受けちゃいましたけど。具体的に、どーすんですかコレ?」

 さぞかし神様らしい、神秘的でダイナミックな解決策(例えば、奇跡の風で花粉を彼方へ吹き飛ばすとか、神の浄化の光で大気を清めるとか)が提示されるのだろう。

 そう淡い期待を寄せていた僕に対し、ヒメは小指で耳をほじりながら、とんでもなく俗っぽく、かつ現実的なプランをあっけらかんと口にした。

「まぁ、とりあえず**『ピ◯ノア』**でも配っとけばいいんじゃない?」

「……はい?」

 『ピ◯ノア』。

 どこからどう聞いても、現代日本の医療機関で処方される強力な抗アレルギー薬(抗ヒスタミン薬)のパチモンみたいな名前である。神様が異世界の住人に現代の処方箋をばら撒く気か。というか、その薬は一体どこから調達してくるつもりなんだ。

 僕が鼻をムズムズさせながら顔を引きつらせていると、ヒメは名案を思いついたとばかりにポンと手を打ち、さらにとんでもない解決策(?)を重ねてきた。

「あとはそうねぇ……天界にいる私の同僚(雨神)に頼み込んで、春の時期の間ずっと、ひたすら土砂降りの雨を降らせてもらうとかね。これで花粉も全部地面に落ちるでしょ!」

「結局他人だよりじゃねぇかァァァァァッ!!!」

 僕の血を吐くような魂のツッコミが、限界廃屋の天井を激しく揺らした。

「どこが『神対応』ですか! 薬(現代医療)の力と、同僚の神様に仕事を丸投げしてるだけじゃないですか! さっき大見得切ってたアンタ自身の力は、1ミリも使ってないですよね!?」

 見事なまでの他力本願。

 自分で大見得を切っておきながら、実作業は全部他人にぶん投げるという、ブラック企業の上司も真っ青のクソムーブである。

「だってぇ〜……」

 僕の血を吐くようなツッコミに対し、コノヤマサクヤヒメは畳の上でいじけるように人差し指をツンツンと合わせながら、ひどく間の抜けた言い訳を始めた。

「私の神様としての本来の力なんて、この手の事象になると『植物の繁栄』とかになっちゃうし……。本気出しても、ここら一帯に豊かな実りの『金色の海』を作り出すくらいしかできないし……」

「……うん、そうだね!!」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内でオタク特有の神話知識が最悪の形でリンクした。

 コノヤマサクヤヒメ。その元ネタである『木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ』といえば、桜の花が咲き誇るように繁栄をもたらす神、ひいては山の神、豊穣の神である。

「アンタの元ネタ的に、バリバリの『豊穣の神』だもんね! 植物の成長を促すのが仕事だもんね! そりゃ花粉を抑えるなんて絶対に無理だわ! むしろ、この異常な花粉症地獄を生み出した原因そのもの(権化)だわ!!」

 もはや怒りを通り越して乾いた笑いが出そうになった僕の肩を、ポンと叩く手が一つ。

「まぁ、そうかっかすんなよ龍悟」

 振り返ると、鼻の穴にティッシュを詰めた勝成が、歴戦の勇者のような頼もしい(しかし絵面は最悪な)笑みを浮かべて立っていた。

「この駄女神さまの救いようのない無能っぷりには、俺もこれまで散々苦しめられてきたもんだが……安心しろ。今回は俺に、とっておきの『いい方法』がある!」

「えっ!? 本当にあるんですか!?」

 神様が完全なるポンコツなら、頼れるのはやはり実戦経験豊富な凄腕剣士しかいない。僕は泥まみれの顔をパァァッと輝かせ、すがるような目で勝成を見つめた。

「ああ。それはな――」

 勝成が、もったいぶるように声を潜める。

「それは……!?」

 僕もゴクリと息を呑み、天才的な解決策を待つ。

 ――――――――。

 ――――――――。

 限界廃屋の四畳半に、ドラマチックな静寂が降り降りた。

 すきま風の音すら消え去り、期待感が最高潮に達した、まさにその瞬間。

 勝成は最高に爽やかなドヤ顔を決め、親指をビシッと立てて言い放った。

「ここら一帯の森ごと、全部燃やします」

「物理的にも社会的にも大炎上するわァァァァァッ!!!」

 僕の喉が千切れるほどのツッコミを受けながらも、勝成は全く悪びれる様子もなく、むしろ「何言ってんだコイツ」とでも言いたげに鼻で笑った。

「なに一人でキレてんだよ、龍悟。安心しろって。この国は水路が張り巡らされた水の町だ。仮にここら一帯の森を盛大に燃やしたところで、延焼する前に水ですぐに鎮火する。完璧な計算だろ?」

「完璧なのはアンタの頭のイカレ具合だよ! 鎮火するかどうかの問題じゃない! 放火なんてしたら、異世界の治安維持組織的なやつに捕まって社会的に抹殺されんだよ! 少しは常識というものを分かれ、この脳筋バカ!」

 僕はボロ屋の畳をバンバンと叩きながら、涙目でコンプライアンスと法治国家の尊さを説いた。そもそも一国の主人ともあろう方自ら国を焼こうとするなど前代未聞の話である。しかし、勝成の耳に届いたのは別の単語だったらしい。

「……おい」

 勝成の声のトーンが、一段低くなった。

 彼はスッと目を細め、ヤンキーが因縁をつける時の特有の、あのねっとりとした凄みを利かせて僕を見下ろした。

「バカとはなんだ? あぁん? 職場の偉大なる上様に向かって、バカはねぇだろ少年。言葉に気をつけな」

 放火という大罪をスルーして、自分の呼称にだけマジギレするチンピラ剣士。

 僕が頭を抱えて胃痛に耐えていると、勝成は腕を組み、ふと真面目な顔つきになって論理的な指摘を始めた。

「大体な。さっきのガスマスク野郎は『ここら一帯で多く確認されてる』って言っただけで、俺たちのこのボロ屋の庭から花粉が発生してると完全に断定したわけじゃねぇだろ?」

「……え?」

 僕は思わず顔を上げた。

 確かにそうだ。発生源がここだと確定したわけではない。風向きや地形の関係で、たまたまこの家の周辺に花粉が溜まりやすくなっているだけという可能性も十分にあり得る。

「そ、それは……確かに、勝さんの言う通りです……」

 僕は素直に頷いた。

 なんだ、勝成もやればできるじゃないか。ただの脳筋かと思っていたけど、意外と冷静に状況を分析する知性も持ち合わせている。僕が少しだけ彼を見直した、まさにその瞬間だった。

「だろ? つまり――」

 勝成はニヤリと、最高に邪悪で自信に満ちた笑みを浮かべた。

「出どころが分からない以上、やっぱりここら一帯の森を、手っ取り早く全部燃やすしかねぇんだよ」

「だから燃やすなァァァァァッ!!!」という僕のツッコミが虚しく響き渡る中。

 ボロ屋の縁側で退屈そうに外を眺めていたコノヤマサクヤヒメが、ふと小さな指をある方向へと向けた。

「ねぇ、発生源って……あの店じゃない?」

「「え?」」

 僕と勝成は、鼻に詰めたティッシュをヒクヒクさせながら、彼女の指し示す方向へと目を凝らした。

 花粉で霞む視界の先。ボロ屋から少し離れた水路のほとりに、一軒の奇妙な店が建っていた。

 店先には、魔界から直輸入してきたのかと疑いたくなるような、毒々しい色をした異様な植物の鉢植えが所狭しと並べられている。そして何より、僕らの視線を釘付けにしたのは、その店の上空に広がる『絶景』であった。

 モワァァァァァ…………。

 美しい。実に美しい。

 夕日に照らされたかのような、見事なまでの『金色の雲海』が、その店を中心に竜巻のごとく渦巻いていたのである。

(さっきヒメが言ってた『金色の海』って、豊穣の証じゃなくてコレ(スギ花粉)のことだったのかァァァ!?)

 直視しただけで鼻の粘膜が崩壊しそうな、純度1000%の花粉のオーラ。疑う余地など一ミリもなかった。

「「「あそこだァァァ!!」」」

 僕、勝成、ヒメの三人の声が、奇跡的なまでのユニゾンを奏でて異世界の空に響き渡る。

 発生源は特定した。あの怪しげな植物屋(?)が、この街を花粉地獄に陥れている諸悪の根源だ!

「よし」

 チャキッ。

 隣で、ひどく冷たくて物騒な金属音が鳴った。

 振り返ると、勝成が刃こぼれした青白い刀を抜き放ち、もう片方の手にはどこから取り出したのか、松明たいまつのような火種をしっかりと握りしめていた。

「いきなり森全体を燃やすのはさすがに気が引けるからな。まずはあの店だけ、とりあえず『弱火』でじっくり燃やしていくか」

「料理の火加減みたいなノリで放火しようとするのやめてって言ってますよね?」

 僕は呆れたようにツッコミをしたが正直もう疲れた。

ーーーーーーーーーーーーーーー


花粉の発生源とおぼしき、不気味な植物が所狭しと並ぶ怪しげな店。

 僕たちは決死の覚悟(と大量のティッシュ)を胸に、ついにその店の敷居を跨いだ。

「ごめんくださ〜い」

 コノヤマサクヤヒメが、まるで近所に回覧板でも届けに来たかのような気の抜けた声で呼びかける。

「あ、はいはい。ようこそいらっしゃいました♪」

 奥から、鈴を転がすようなひどく可愛らしい、うら若き女性の声が響いた。

 ドスッ、ドスッ、という、どう考えても若い女性が立てるはずのない重低音の足音と共に、店の奥から『それ』が姿を現した。

「「「カァァァァァッ!!!」」」

 僕と勝成とヒメの脳天を、文字通り本物の雷に打たれたかのようなすさまじい衝撃ショックが貫いた。

 顔は、まさしく絶世の美女だった。透き通るような白い肌に、パッチリとした瞳。雑誌の表紙を飾っていてもおかしくない可憐な造形である。

 だが、首から下の情報量が完全に脳の処理能力を超越していた。

 丸太のように太い腕。服の布地を内側からはち切れんばかりに押し上げる、大胸筋と僧帽筋。一応、体のラインや服装から『女性』であることは辛うじて判別できるものの……顔と体のバランスが、狂気の沙汰としか思えないレベルで完全に崩壊していたのである。純度100%の筋骨隆々たる肉体美マッチョだ。

「……あ、あの。ちょ、ちょっと待ってもらってもいいですか?」

 先ほどまで「弱火で燃やす」と息巻いていた勝成が、借りてきた猫のように背筋をピンと伸ばし、かつてないほど丁寧な言葉遣いで後ずさりした。

「ええ、どうぞ」

 筋肉の塊に可憐な笑顔を浮かべた店主が、優雅に(しかし凄まじい威圧感で)頷く。

 僕たち三人は、脱兎のごとく店の隅へとダッシュし、円陣を組むようにして額を寄せ合った。

「オイ、どーいうことだコレは!?」

 勝成が、冷や汗をダラダラと流しながらひそひそ声で吠えた。

「なんで可憐な花屋のネーチャンが、何処ぞのヘラクレスみたいな体してんだよ!!」

「し、知りませんよ! あんな本物の『メスゴリラ』、僕だって生まれて初めて見ましたよ!」

 僕も顔面を蒼白にしながら、ガタガタと震える声で同意した。

「……ほら、見なさいよ」

 そんな僕らのパニックをよそに、ヒメだけが腕を組み、ドヤ顔でウンウンと頷いていた。

「私はメスゴリラなんかじゃなくて、れっきとした可憐な神様だってことが、これで証明されたでしょ? これ機に、今までの非礼をしっかりと反省なさい」

「んなこと言ってる場合ですか! アンタのゴリラ疑惑が晴れたとかどうでもいいんですよ!」

 僕はヒメの小さな肩を掴んで前後に揺さぶった。

「あの規格外の筋肉から花粉について聞き出さなきゃいけないんですから! なんとか上手いこと話をつけてきてくださいよ、神様!」

「いやいや無理無理無理!!」

 ヒメは全力で首を横に振り、僕の背中に隠れるようにしてしがみついた。

「あんな正真正銘のメスゴリラ相手なんて絶対に無理よ! 私、ワンパンで殺されちゃう! 丸太みたいな腕で、顔面メキメキって握り潰されちゃう!!」

「さっき『この物語はフィクションだ』なんだとメタな言い訳して、俺たちの顔面を握り潰そうとした張本人がなに被害者ぶってんだ!!」

 勝成が、ヒメの首根っこを掴んで店の奥へと物理的に放り投げようとする。

「逝け! お前が神対応するって豪語したんだろうが! とっとと逝ってこい! 安心しろ、あとで骨だけは拾ってやるから!」

「死ぬ前提で送り出そうとしないでくれない!!?」

 円陣を組んで醜い押し付け合いを繰り広げていた僕たちの背中に、ふわりと、可愛らしい声が降ってきた。

「あの〜」

「「「ビクゥッ!!?」」」

 三人の肩が、完全に同じタイミングで大きく跳ね上がった。

 恐る恐る振り返ると、そこには背後から僕らを見下ろす、そびえ立つ肉の壁――もとい、絶世の美女の顔面を持ったマッチョ店主が、可憐な小首を傾げて立っていた。

「お話は、済みましたか?」

 ニコリ。

 花がほころぶような、純度100%の営業スマイル。だが、はち切れんばかりに盛り上がった大胸筋の圧迫感のせいで、僕らにはそれが『死刑宣告を待つ死神の微笑み』にしか見えなかった。

(やべえよ! コイツちょーヤベェよ!! 俺たちのコソコソ話、全部聞かれてたんだ!)

 隣で硬直している勝成の顔面から、滝のような冷や汗が吹き出している。

(消し炭にされる! あの丸太みたいな筋肉で雑巾みたいに絞り上げられて、この気色悪い花の養分にされるゥゥゥ!!)

 大蛇をワンパンしたはずの凄腕剣士のメンタルは、圧倒的な筋量バルクを前にして早くも崩壊の危機に瀕していた。

「何か、お手伝いしましょうか?」

 店主は両手を胸の前でふんわりと組み(その際、上腕二頭筋がピクンと脈打った)、優しげな声で申し出てきた。

「こう見えて私、結構こういうの……お手伝いするの得意でして♪」

(ヤバイヤバイヤバイ!!)

 僕の脳内で、危険を知らせるレッドアラートがけたたましく鳴り響いた。

(コレ、僕らの自殺を手助けする(介錯してやる)つもりだ! 逃げられないと悟って震えてる僕らを見て、どうせならワンパンで楽に逝かせようとしてくれてるんだよこの人!!)

 花探しのお手伝いという極めて真っ当な接客用語が、極限状態の僕の脳内では最高に物騒な意味へと完全変換されていく。

「ふふっ。それで――どれになさいますか?」

 店主は、ズラリと並んだ不気味な植物たち(僕らには処刑道具に見える)を背に、コテンと可愛らしく首を傾げた。

(ヤバイ、ちょーヤバイわ……!!)

 僕の背中に隠れていたコノヤマサクヤヒメが、小動物のようにガタガタと震えながら青ざめている。

(この天下のコノヤマサクヤヒメに向かって、『どの殺しどれがいいか』を聞いてくるなんて……! 絞殺? 撲殺? それとも圧死!? 私、なんてとんでもないヤツを相手に手ェ出しちゃったのよォォォ!)

 圧倒的な『筋肉』のプレッシャーに押し潰され、誰も言葉を発することができない地獄の沈黙。

 その張り詰めた空気を破ったのは、やはりと言うべきか、この場において最も卑劣な大人(チンピラ剣士)だった。

 ドンッ!

「えっ」

 突然、背中に強烈な衝撃が走った。

 振り返る暇もなかった。僕の体は勝成の両手によって無慈悲に押し出され、マッチョ店主の目の前へと、文字通り『生贄』として放り出されたのである。

「あ、あのですね! 実はこの少年が、店長さんにどーしても聞きたいことがあるらしくてですね!」

 勝成は僕を盾にするように背後にサッと隠れながら、裏返った声で早口にまくしたてた。

「な!? 龍悟! お前、さっきからずっと気になってたんだよなァ!?」

(コイツゥゥゥゥ!! 自分の命が惜しいからって、一番若い僕をスケープゴートにしやがったァァァ!!)

 僕は裏切り者の先輩に内心で盛大な殺意を向けながら、ギギギ……と錆びついた機械のように、絶望の顔面を前へと戻した。

「あら?」

 店主が、僕を見下ろしてコテンと小首を傾げる。

 その可憐な仕草に連動して、丸太のような首筋の僧帽筋がピクンと躍動した。怖い。物理的な説得力が普通に怖い。

「どうしました? 少年」

 彼女は心配そうに(そして上腕三頭筋を隆起させながら)、僕の顔を覗き込んできた。

 逃げ場はない。ヒメすらも僕から目を逸らし、ブルブルと震えている。

 ここで黙っていたら、本当に『どの花(処刑道具)にするか』を選ばされてしまう!


(こうなれば、全員道連れだ!!)

 僕だけがこの筋肉処刑台の露と消えるなんて絶対に許さない! 僕を売った薄情なチンピラとポンコツ神様も、絶対に同じ地獄に引きずり込んでやる!!

 極限の恐怖が、僕の脳内で最悪の生存戦略(自爆テロ)を弾き出した。

 僕は引きつった顔に精一杯の爽やかな笑みを貼り付け、声を裏返らせながら決死の思いで言い放った。

「あの……お部屋に上がってもいいですか? 『みんなで』」

 ――ピタッ。

 店先の空気が、完全に凍りついた。

 背後から、勝成とヒメの顔面からスゥッと急激に血の気が引いていく音が、ハッキリと聞こえた気がした。

(オイィィィィィッ!! なんでテメェから進んで処刑室(プライベート空間)に飛び込もうとしてんだよ!! しかも『みんなで』って巻き添えかよ!!)

(バカバカバカ! 龍悟のバカ! 密室に連れ込まれたら逃げ場ゼロじゃない! 完全に終わったわ!)

 背中を突き刺す二人の強烈な怨嗟の視線を背に受けながら、僕はひたすら目の前のマッチョ店主から目を逸らさずに立っていた。

 すると、僕の予想外の大胆な(?)提案を受けた筋肉美女の店主は、パチクリと可憐な瞬きを二、三度繰り返した。

 そして――。

「……まぁっ」

 ポッ、と。

 絶世の美女の顔面が、まるで初恋を知った純情な乙女のように、リンゴのように真っ赤に染まったではないか。

 しかし、その顔面の可憐さに反して、彼女が「もじもじ」と体をよじるたびに、極太の上腕二頭筋と大胸筋がメキメキッ! ピクピクゥッ! と凄まじい躍動を見せる。顔は純情派ヒロインなのに、首から下のバルクは完全に世界大会に出場するボディビルダーのフリーポーズだ。

「男の子から直接お部屋に誘われるなんて……私、久しぶりで……。しかも、いきなり三人いっぺんにだなんて……ふふっ」

 店主は両手で熱を持った頬を包み込み(その拍子に広背筋が鬼の顔のように隆起した)、上目遣いで僕を見つめてきた。

「とっても大胆なんですね、少年」

 違う。

 決してそういう意味(複数プレイ的なアレ)で言ったんじゃない。

「ええ、どうぞ。少し散らかってますけど……奥へいらして?」

 ミチィッ……!! と店の床板を粉砕しそうな重い足音を立てながら、彼女は満面の笑みで店の奥にある居住スペースへの扉を指し示した。

 退路は、完全に断たれた。

 僕の一か八かの道連れ作戦によって、僕たちはもはや「帰ります」と言える空気を完全に喪失してしまったのだ。


案内されたのは、意外にも生活感にあふれた、台所とリビングが一体化したごくごく一般的な造りの部屋だった。

「適当に座っててください。すぐにお茶と、軽いもの用意しますから♡」

 そう言って可憐にウインクを飛ばすと、筋肉美女の店主は鼻歌交じりに台所へと向かい――僕らの目の前で、信じられない光景が繰り広げられ始めた。

 彼女が身に付けたのは、フリフリの可愛らしいピンク色のエプロンだった。

 だが、それを纏う肉体が完全に規格外すぎる。背中で蝶々結びにされた細いエプロンの紐は、鬼の顔のように隆起する広背筋のせいで限界まで張り詰め、今にもブチィッ! と千切れそうな悲鳴(物理)を上げている。

 そして、料理が始まった。

 トントントン……という、家庭的で軽快な包丁の音を期待した僕の耳をつんざいたのは。

 ドガァァン! メキボキィィッ!! ズドォォォン!!!

「「「ひぃっ!?」」」

 リビングのちゃぶ台を囲んで正座していた僕ら三人は、完全に肩を寄せ合い、雷に怯える小動物のようにビクッと震え上がった。

 見れば、彼女は美しい鼻歌を歌いながら、大根らしきものを刻んでいる。いや、刻んでいるのではない。『粉砕』しているのだ。

 彼女の丸太のような腕の中で握られた一般的な三徳包丁は、まるで爪楊枝かオモチャのナイフのように小さく見えた。

 極太の上腕二頭筋と前腕筋群が躍動するたび、分厚い木製のまな板が深々と抉れ、台所全体が震度3クラスの局地的な地震に見舞われている。顔は絶世の美女で、鼻歌もアイドルのように愛らしいのに、首から下で行われているのは完全に重機を使った『解体作業』であった。

「……おい、龍悟……」

 勝成が、顔面を土気色にして僕の耳元でヒソヒソと囁いてきた。

「あの悲鳴を上げてるまな板……間違いなく、五分後の俺たちの未来予想図だぞ……!」

「僕のせいにしないでくださいよ! 元はと言えば、アンタが僕をあのアマゾネスの前に突き出したんでしょうが!」

 僕も血の気を失った顔で、必死に声を殺して猛抗議した。

「神様なのに……私、神話史上最も美しい神様なのに……こんな密室で、大根おろしみたいにすり潰されて肥料にされるなんて……」

 ヒメに至っては完全に心が折れ、ちゃぶ台の木目を虚ろな目で見つめながら、ブツブツと生気の無い念仏を唱え始めている。

 ジュワァァァァァッ!!!

 今度はフライパンに何かが投入されたらしく、爆発でも起きたかのような凄まじい炎が台所の天井付近まで燃え上がった(フランベというには火柱が高すぎる)。

 その猛火に照らし出された店主の僧帽筋は、もはや神々しいほどの陰影を作り出している。

 僕たちは、これから振る舞われるのがお茶とお菓子なのか、それとも死刑囚に出される『最後の晩餐』なのか分からない恐怖に耐えながら、台所から響き渡る大地の咆哮(お料理の音)に、ただただ怯えることしかできなかった。

ズドドドドォォォンッ!!!!!

 もはや料理の枠を完全に逸脱した、鼓膜を破るほどの凄まじい爆発音が密室のリビングに轟いた。

 同時に、台所の方から真っ黒な煙がモクモクと立ち込め、ボロ屋とは比べ物にならないレベルで部屋全体がグラグラと激しく揺れる。

「「「ヒィィィィッ!!?」」」

 ちゃぶ台の端にへばりついていた僕たちは、あまりの衝撃に全員揃って畳の上を数センチ跳び上がった。

 煙の向こう側で、チリチリと何かが燃える音と、重厚な金属フライパンだったものがひしゃげる嫌な音が響いている。

「あわわわっ、ちょっと火力が……!」

 黒煙の中から、フリフリのピンクエプロンを煤だらけにした筋肉美女が、可愛らしく小走りで(しかし床板をミシミシと軋ませながら)姿を現した。

 絶世の美女の顔にはうっすらと黒い煤がつき、申し訳なさそうに眉尻を下げている。その可憐な表情と、爆風を微塵も物ともしない鋼の肉体のギャップが、僕らのパニックをさらに加速させた。

「すみません、お料理ちょっと失敗しちゃって……もう少しかかるかもです♡」

 彼女はペロッと舌を出し、右手の拳で自分の頭をコツンと叩く、いわゆる『テヘペロ』のポーズを決めた。

 その瞬間、彼女の極太の上腕三頭筋がバンプアップし、エプロンの肩紐がプツンと悲鳴を上げて弾け飛んだ。

(――爆殺するつもりだァァァッ!!!)

 僕たち三人の脳内で、見事なまでに思考が完全一致した。

(お料理の失敗なんかじゃない! あんな爆発、どう考えてもC4爆薬か何かを調合してた音だろ! 僕らをただ殺すだけじゃ飽き足らず、この家ごと、いや、ここら一帯を更地にするレベルの超強力な爆弾を製造してるんだ! だから『すんごい時間かかる』んだ!!)

 僕の全身の毛穴から、先ほどの冷や汗とは比にならない量の脂汗が噴き出した。

 隣を見ると、勝成はちゃぶ台の脚をガッチリと抱え込み、ガタガタと歯の根を鳴らしながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」と、異世界で全く効果のなさそうなお経を猛スピードで唱え始めている。

 ヒメに至っては、完全に白目を剥いて畳に突っ伏し、口から一筋のエクトプラズム(魂)を吐き出しかけていた。

「もう少しだけ待っててくださいね。今度は絶対、とびっきりのを『ドカン』と完成させますから♪」

 ドカンって言った!! 今、ハッキリと爆破予告ドカンって言ったよこの人!!

 ニコニコと微笑む美女の顔面と、殺人兵器を錬成する破壊神の肉体。

 充満する黒煙と、鼻腔を突き刺すスギ花粉の気配。

 タイムリミット(爆弾の完成)が刻一刻と迫る中、僕たちは処刑を待つだけの生贄として、絶望の淵へと完全に追いやられてしまったのである。

ギリッ……。

 台所から漂ってくる焦げ臭い煙と、死へのカウントダウンのような不気味な静寂の中。

 僕の隣で、ちゃぶ台の脚にしがみついていたはずの勝成が、強く奥歯を噛み締める音を立てた。

「かっ、勝さん……?」

 僕が震える声で呼びかけると、勝成はゆっくりと立ち上がり、青白い刃こぼれした刀の柄に手をかけた。その横顔は、普段のチンピラじみた薄ら笑いは消え失せ、死地に赴く歴戦の侍のような悲壮な覚悟に満ちていた。

「悪いな、龍悟」

 勝成は前を向いたまま、ひどく落ち着いた、それでいてどこか哀愁を帯びた声でぽつりと呟いた。

「俺は先に逝く。俺が奴の懐に飛び込んで、あの丸太みたいな腕ごと斬りかかる。……その隙に、お前はヒメを抱えてこの部屋から逃げろ」

「……勝さん!?」

 僕は息を呑んだ。

 いつも僕を盾にし、幼女ヒメ相手にマジギレし、隙あらば放火しようとするあの最低な大人が、まさか僕らのために自らを犠牲にする(スケープゴートになる)決意を固めたというのか。

「大丈夫だ。気にするな」

 勝成は自嘲気味に鼻で笑い、虚空(読者)へ向けて寂しげな視線を送った。

「どうせこんなマニアックな小説、誰も見りゃしねぇんだ……俺一人がここで散ったところで、誰も悲しまねぇさ。それに――!」

 ダッ!!

 勝成が、畳を蹴り飛ばして猛然と台所へ向かってダッシュした。

 そして、感動で涙ぐみそうになった僕の鼓膜を、彼の放った最低最悪の『偏見に満ちた偏ったオタク知識』が容赦なくぶち破った。

「こういう漫画や小説で出てくる『性別不詳』とか『顔と体のバランスがバグってる』キャラは、大体問答無用でヤベェ奴(強キャラ)って相場が決まってんだよォォォォ!! 殺られる前に殺るしかねェェェ!!」

「ちょっと!! なにその身も蓋もない偏見に満ちたメタ的思考回路は!!」

 僕の感動を返せ。ただのアニメや漫画のテンプレ知識に怯えて自暴自棄になっただけじゃないか!

「ウォォォォォォッ!! 死ねや筋肉ダルマァァァ!!」

 勝成のヤケクソの雄叫びと、白刃の煌めきが煙の向こうへと消えていく。

 だが、ツッコミを入れている場合ではない。勝成が文字通り命を賭して(あるいはただの錯乱で)作ってくれたこの数秒の隙を無駄にするわけにはいかないのだ。

「クッ……! 勝さんの無駄死には忘れません! 逃げますよヒメちゃん!!」

 僕は悲壮な決意と共に振り返り、さっきまで僕の背後で白目を剥いて震えていたはずの神様に向かって手を伸ばした。

「さぁ、早く僕の手を――え?」

 ……いない。

 ちゃぶ台の横には、ヒメが座っていたはずの座布団だけがポツンと残されていた。

 ――ピューーー……。

 開けっ放しになった玄関の戸から、一陣の虚しい隙間風が吹き込んでくる。

 見れば、ボロ屋の玄関から遥か彼方の地平線に向かって、小さな神様のシルエットが音置き去りの神速で土煙を上げながら遠ざかっていくのが、僕の動体視力の限界ギリギリで確認できた。

「ヒメちゃんんんんんんんんッ!!!!??」

僕は弾かれたようにボロ屋(植物店)を飛び出し、異世界の街道に猛烈な土煙を上げて爆走していく小さな背中を、涙目で必死に追いかけていた。

「ちょっと! ヒメちゃん!! なに一人で勝手に逃げ出してんの!?」

 息を切らしながら放った僕の悲痛な叫びに、コノヤマサクヤヒメは音速の逃走足を一歩も緩めることなく、チラリとだけ後ろを振り返った。

 そして、その愛らしい顔に『酸いも甘いも噛み分けた悪徳政治家』のようなドス黒い笑みを浮かべ、走りながら堂々と言い放ったのである。

「龍悟、よく覚えておきなさい! 自ら囮になって覚悟を決めた男にかける、女の正しい言葉ってのはね!」

 彼女はビシィッと天を指差し、神様らしからぬ最悪の生存哲学サバイバル・セオリーを叫んだ。

「『あなたの分まで、何が何でも汚く生き延びて、天寿を全うして成仏してやるわ!』って言えばいいのよ!!」

「腹黒い! 腹黒すぎるよアンタ!!」

 僕は走りながら盛大にツッコミを入れた。

 なんだその自己中心的なレクイエムは! せめて『あなたの犠牲は無駄にしない』とか『心の中でずっと生き続ける』とか、そういう感動的なフレーズにしろ! 『汚く生き延びて成仏してやる』って、残された側のメンタルが鋼鉄すぎるだろ!

 ――ダァァァァァァッ!!!

 僕が神様のあまりのクズっぷりに絶望していた、その時だった。

 背後の植物店の方角から、大地を揺るがすような凄まじい足音が、土煙と共に猛烈なスピードで迫ってくるのが聞こえた。

「ヒィッ!? 来たわ! あの筋肉の化け物が追ってきたわ!!」

 足音に気づいたヒメが、悲鳴を上げてさらに逃走のギアを上げる。

「そんな……!」

 僕は絶望で顔面を蒼白にした。

 あの足音の主が店主だとするなら。あの密室に残った勝成は、すでに丸太のような腕で粉砕され、植物の肥料にされてしまったということだ。

「ウソだろ……じゃあ、勝さんはもう……ッ!」

 僕の脳裏に、死地に赴く前の勝成の哀愁漂う横顔がフラッシュバックする。

 なんだかんだ言って、最後は僕らを逃がすために盾になってくれた、不器用だけどカッコいい大人の背中――。

「ウォォォォォォォォォッ!!!」

 僕が感動の涙をこぼしかけた瞬間。

 土煙を突き破って猛スピードで現れたのは、筋肉美女……ではなく、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、両腕を大きく振って全力疾走してくる『チンピラ剣士(勝成)』その人であった。

「――って、ちょっと勝さん!? なに全力で逃げてきてんですかァァァ!!」

 僕の感動の涙は、一瞬にして乾ききった。

 あんなに悲壮な覚悟を見せて特攻していったくせに、五秒も経たずに僕らに追いつくレベルの神速で逃亡してくるとはどういうことだ!

「うるせェェェ!! 俺の親父は昔、俺にこう言ったんだよォォォ!」

 勝成は血走った目で前だけを見据え、一族に伝わる(最低の)家訓を大音声で叫んだ。

「『いかなる時も、一番に考えるべきは自分のタマだ』ってなァ!!」

「最後くらい男らしく華々しく散ろうよ、勝さん!! さっきの『俺は先に逝く』ってセリフ返してよ!!」

 特攻するフリからの音速逃亡。

 神様も用心棒も、この『契り屋』の大人たちは、いざとなれば自分の命を最優先にするクズの集まりであった。僕たち三人は、完全に一つになった最低な逃走意思を胸に、夕暮れの街道を一目散に駆け抜けていく。

 だが、絶望はまだ終わっていなかった。

「待ってくださ〜〜〜〜〜いっ♡」

 ――ズドォォン! ズドォォォン!! ズドォォォォン!!!

 背後から、鈴を転がすような可愛らしい声と、アスファルト(あるいは石畳)を粉砕する重機のような足音が、僕ら三人との距離を確実に、そして圧倒的な暴力スピードで詰めてきていた。

 振り返らなくてもわかる。

 エプロン姿の絶世の美女が、満面の笑みを浮かべ、上腕二頭筋を躍動させながら、僕らを『おもてなし』するために猛追してきているのだ。

「「「ギャアアアアアアァァァァッ!!!」」」

花粉の原因究明など、もはや誰の頭の中にもなかった。

 ただひたすらに、背後から迫り来る死(愛情たっぷりの手料理)から逃れるため、僕たちは肺が破けそうなほど夕暮れの街道を激走していた。

「ハァッ、ハァッ……仕方ないわね! こうなったら、一人生贄スケープゴートを決めましょ!」

 走りながら、コノヤマサクヤヒメが血も涙もない提案を大声で叫んだ。

「というわけで逝け、龍悟! アンタの分まで、私がこの先めちゃくちゃ幸せに生きてやるわ!!」

「そうだ! お前を差し出した分まで、俺がソシャゲで思いっきり課金してやるから安心しろ!!」

 勝成までが、親指を立てて最低のはなむけの言葉を投げかけてくる。

「させるかァァァ!! アンタらの身代わりになぶり殺しにされた分だけ、末代まで祟って呪い殺してやるよコンチクショォォォ!!」

 僕は涙と鼻水を撒き散らしながら、鬼の形相で二人の背中に向かって吠えた。異世界に来て数日、僕のサバイバル能力よりも先に『呪詛の語彙力』が限界突破しようとしている。

「ヒィッ! ア、アンタ、化け物!?」

 僕のあまりの執念に、ヒメがドン引きしたような声を上げる。

「違う! 本物の化け物は後ろのアイツだァァァ!!」

 勝成が振り向きざまに叫んだ、その先。

「皆さん、待ってくださ〜〜〜〜いっ♡」

 ズシン! ズシン! と大地を揺らしながら、筋肉美女が可憐な声で手を振って猛追してきている。

「「化け物だァァァ!!!」」

「「「ウォォォォォ!!!」」」

 僕たち三人は完全にパニック状態に陥り、前を向いてただひたすらに、がむしゃらに足を進め――。

「「「…………お?」」」

 突如として。

 僕たちの足元から『地面』の感触がスッと消え去った。

 空気がふわりと軽くなる。

 猛烈な勢いで走っていた足が虚空を掻き、夕焼け空が視界いっぱいに広がった。

 ピタ、とアニメのワンシーンのように空中で静止した僕たちは、恐る恐る真下へ視線を落とした。

 そこにあったのは、先ほど勝成が言っていた『水の町・龍ノ口』を象徴するような、深く切り立った崖と、その底を流れる激しい水路だった。

「……あの、もしかしてコレ」

 宙に浮いたまま、僕が乾いた声で呟く。

「……あぁ、俺たち完全に詰んだな」

 勝成が、虚無の表情で空を見上げた。

「「「ウワァァァァァァァァッ!!!」」」

 一秒の猶予もなく、僕たち三人の体は真っ逆さまに崖の底へと落ちていった。

 猛烈な風圧が全身を叩きつける。走馬灯が駆け巡る。花粉症に苦しみ、先輩に売られ、崖から落ちて死ぬ。なんて惨めな異世界ライフなんだ!

「いけないっ!!」

 その時、崖の上から切羽詰まった可憐な声が響いた。

 トウッ!! という力強い踏み込みの音と共に、夕日を背に受けた巨大な影が、僕たちを追って崖からダイブしてきたのである。

(ナニィィィ!? あの筋肉ダルマ、飛び込んできた!!)

 落下していく僕の目に映ったのは、美しい顔を必死に歪め、両腕を大きく広げて僕たちに迫り来る筋肉美女の姿だった。

(空中戦!? 地面に激突する前に、空中で僕らを粉砕する気か!? もう終わりだァァァ!!)

 僕は固く目を閉じ、全身を丸めて運命の瞬間を待った。

 ――――――――。

 ――――。

 ……フワッ。

「……アレ? 生きてる?」

 激突の痛みは、いつまで経っても訪れなかった。

 恐る恐る目を開けると、そこは崖下の水路のほとり。そして僕たち三人は、信じられないことに『ふかふかの巨大なクッション』のようなものに包み込まれていた。

 いや、クッションではない。それは、僕たち三人をまとめて抱きとめている、店主の『規格外の大胸筋と極太の両腕』であった。

「ふぅー……。間一髪、危ないところでした……っ」

 僕たちを抱えながら見事な着地を決めた彼女は、ホッと安堵の溜息をつき、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。

 その顔は、殺意の欠片もない、純粋に僕たちを心配する聖母のような慈愛に満ちていた。空中で粉砕されると思っていた僕たちの命は、あの大根を粉砕した筋肉によって、完全に守られたのである。

「あ、あ……」

 勝成は腰を抜かし、完全に言葉を失っている。ヒメに至っては、筋肉の谷間に挟まれたまま気絶しかけていた。

「あ、ありがとうございます……」

 僕は圧倒的な筋量と優しさを前に、震える声でただただ感謝の言葉を絞り出した。

「いえいえ、無事で何よりです♪」

 彼女はパッと花が咲くような笑顔を浮かべると、僕たちをそっと地面に下ろし、改めて丁寧にお辞儀をした。

「申し遅れました。私、『水無みずなし』と言います」

 水無さんは、はち切れそうなエプロンの裾を摘んで可憐に微笑み、そして虚空(読者層)に向かってキリッとした表情でこう付け加えた。

「――CVは、甲斐田裕子さんぐらいでお願いします♡」

「いや……この作品、まだ全然有名じゃないから……。そんな大御所声優さんをキャスティングできる機会なんて、一生来ないですから……」

 命の恩人に対するキレのあるツッコミ……ではなく。

 僕の口から漏れ出たのは、底辺マイナー作品の主人公としての悲哀に満ちた、ひどく呆れたような、そして泣きたくなるほど悲しいトーンの自己評価(メタ発言)であった。崖下を流れる水路の音が、僕の哀愁をより一層引き立てていた。

ーーーーーーーーーーー

 あれからというもの。

 天ノ黄泉原、滝ノ口一帯をパニックに陥れていたあの異常な花粉騒ぎは、嘘のようにピタリと収まった。

 街には平和な空気が戻り、道行く人々のガスマスク姿もすっかり見なくなった。

 

 ただ一つだけ、あの日を境に『変わったこと』があると言えば――。

「ブエックション!!」

 竹箒を片手にした僕の鼻腔から、盛大な破裂音が飛び出す。

「ディスカッション!!」

 それに呼応するように、縁側で茶を啜っていたコノヤマサクヤヒメが、謎の英単語を叫ぶような知的(?)なくしゃみを放った。

「ダビッドソンッ!!」

 トドメとばかりに、天井のシミを見上げていた勝成が、某有名大型バイクのエンジン音にも似た重低音のくしゃみを、凄まじい勢いで虚空に叩きつける。

「……誰ですか今のダビッドソン。くしゃみの原型留めてないじゃないですか」

「うるせぇ。花粉は消えたはずなのに、俺たちの鼻の粘膜に染み付いたトラウマ(花粉症)だけが完治しねぇんだよッ……ション!!」

 そう。原因は排除されたというのに、あの直撃した『金色の雲海』の後遺症なのか、僕たち三人だけは未だに重度の花粉症から抜け出せずにいたのだ。

「もう嫌だ……。元の世界に帰りたい……ブエックション!!」

「私の神としての威厳が……ジェイソン!!」

 かくして今日も今日とて。

 ボロボロの山城の屋根の下では、臣下たちの足音の代わりに、無駄に語感の良いバリエーション豊かなくしゃみの三重奏コーラスだけが、どこまでも虚しく響き渡っているのであった。

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