異世界転生系ってなろう系小説でよく見るけどパターンが決まってきた感がすごい
(異世界転生――)
読者の皆様は、この魅惑的な響きから一体どのような物語を想像するだろうか。
不慮の事故でトラックに撥ねられて目覚めると、そこは中世ヨーロッパ風の壮麗な王城。ふかふかの絨毯の上で、立派な髭を蓄えた王様から「おお、勇者よ!」と仰々しく迎えられ、魔王討伐を託される王道ファンタジー?
それとも、最弱の職業からスタートして、なんだかんだで無双して最強へと成り上がる下剋上ストーリー?
いやいや、エルフやら獣人やらの美少女たちに囲まれ、キャッキャウフフのハーレム・ランデブーを満喫するのも、このジャンルにおける一種の嗜みというやつだろう。
大前提として、この手のお約束には「特別なチート能力」がつきものだ。
神様的な存在からチートスキルを授かったり、あるいはステータス画面を開いてみたら規格外の魔力を持っていたり。何はともあれ、未知の世界を生き抜くための最低限の「初期装備」は与えられるはずなのだ。
だがしかし。僕、白波 龍悟に限って言えば――。
「……嘘だろォォォォォォォォッッ!!!!」
朝露に濡れた木々の間を、僕の悲痛な絶叫が鳥たちを散らしながらこだました。
与えられた能力、ゼロ。
神様との心温まる面談、なし。
え、なんで!? 状況が全く飲み込めない。
ふと目覚めると、見渡す限りの鬱蒼とした大自然。マイナスイオンはたっぷりだが、僕の心はすでにマイナス方向へと振り切れている。
そして何より不可解なのは、僕が『愛用のベッドの上』で寝巻き姿のまま、この森のド真ん中に鎮座しているという事実だ。いくらなんでもシュールすぎる。
枕元には、中二病をこじらせて趣味で買った『漆黒の模造刀』が、やけに堂々とした存在感を放って立てかけられていた。まさか、寝床に武器を置く(お気に入りだから手元に置きたいだけ)という痛い癖が、役に立つ日が来るとは……いや、模造刀だから斬れないんだけども。
混乱する頭を抱えながら、僕は唯一の文明の利器であるスマホの画面をスワイプした。
……なぜか、こんな異世界の森のど真ん中なのに電波はバリサンで繋がっているらしい。だが、検索エンジンやSNSのUIは見慣れたものなのに、タイムラインに流れてくる情報が僕の脳髄をパニックに陥れた。
『妖の街、また霊の領域を侵犯か』
『龍ノ口にて神の御印を持つ不審な辻斬り現る』
『天ノ黄泉原サバイバル術まとめ』
文字は読める。読めるが、意味が全く理解できない。
妖? 霊? 天ノ黄泉原? 膨大で未知の概念と常識が脳内に直接注ぎ込まれ、処理落ち寸前だ。
ああ、これが某呪術アニメで最強の目隠し先生が使っていた『無量空処』というやつか……。廃人になる前に、僕はそっとスマホの画面を閉じた。情報量が多すぎる。
「……はぁ。とりあえず、街を目指して歩くしかないか〜」
いつまでもフカフカのベッドの上で現実逃避しているわけにもいかない。
僕は意を決してシーツを跳ね除け、湿った腐葉土の上へと降り立った。
足の裏から、生温かい泥と落ち葉の感触がダイレクトに伝わってくる。スニーカーなんて気の利いたものは履いていない。なにせ寝起きなのだから当然、完全なる『裸足』である。
普段の僕なら、五千円も奮発して買ったお気に入りの『日田杉の下駄』をカランコロンと小気味よく鳴らして歩くところなのだが、生憎と愛用の下駄は元の世界の玄関に置かれたままだ。木目の美しさと杉の香りが最高だったのに……と、足裏の泥の感触に顔をしかめながら心の中で涙を拭った。
とはいえ、ただ落ち込んでいるだけの僕ではない。
かなり癖の強い『日本史マニア』を自負する僕は、こんな絶望的なサバイバル状況下にあっても、同じく趣味で手に入れていた『三度笠』をベッドの脇から引っ張り出し、深く被った。そして、漆黒の模造刀を左手に携えるようにスッと構える。
うん、完璧だ。形から入るのはオタクの基本にして極意である。
高校の友人たちからは、よく「お前、絶対に生まれる時代を間違えてるだろ」と呆れ顔でツッコミを入れられたものだ。まさかその言葉が、文字通り「違う世界(時代)」に放り出されるための壮大なフラグだったとは思いもしなかったが、不思議とこのスタイルになると少しだけ心が落ち着いた。
気分はすっかり、諸国を漫遊する江戸の浪人である。
――しかし、現実は時代劇のように甘くはなかった。
見渡す限りの大自然を歩き続けること数日。
僕の身に、生命を脅かす極めて重大にして深刻な問題が発生していた。
「お腹すいたんですけどォォォ!?」
鬱蒼とした森の木々に、僕の情けない絶叫が虚しく木霊した。
そう、ご飯である。食糧問題だ。
誤解のないように言っておくが、僕は普段から燃費が良いというか、極めて少食な部類だ。学校でも「お前、ちゃんと食べてる? 光合成で生きてるの?」と友人たちから本気で栄養失調を心配されるレベルで、食に対する執着が薄い。
だがしかし! 流石に数日間、見知らぬ森を水だけで彷徨い続ければ話は別だ。
限界を迎えた胃袋は空っぽを通り越して背中にくっつきそうだし、泥まみれの裸足はもう感覚がない。三度笠の浪人スタイルでバッチリ決めていたはずが、今や空腹のあまり腰がへの字に曲がり、完全に『行き倒れ寸前の哀れな遭難者』へと成り下がっていた。
――そんな時だった。
静まり返った不気味な森の奥から、微かな声が鼓膜を打った。
……ヒック、グズッ。
間違いない、誰かの泣き声だ。性別までは分からないが、確かに人のすすり泣く声が聞こえる。
泣き声が聞こえるということは、人がいるということ。人がいるということは、助けを求められるということだ!
もちろん、一般常識や道徳というフィルターを通せば、「泣いている相手=助けを求めている側」であり、僕が助けてあげるのが筋だろう。だが、数日間水だけで彷徨い続けた僕の胃袋は限界だ。泣きたいのはこっちである。
倫理観? 知るか! そんなもの、なりふり構っていられるかッ! 背に腹は代えられないのだ!
僕は弾かれたように駆け出した。
極端な前傾姿勢を取り、泥だらけの裸足を素早く回転させる。急いでいるにも関わらず、落ち葉を踏む音は驚くほど小さかった。
何を隠そう、僕はこれでも『剣道二段』の有段者なのだ。……まぁ、昔見た時代劇ドラマの剣士に憧れて近所の道場に通い始め、ノリと勢いで取得してしまっただけの見掛け倒しなのだが。それでも、すり足を応用したこの無音の高速移動(ただの小走り)が、まさかこんな異世界のサバイバルで役立つ日が来るとは思わなかった。
声が聞こえるポイントまで一気に距離を詰めると、僕は太い木の幹の裏にサッと身を隠した。
……落ち着け。まずは状況確認だ。
僕は木の陰から、恐る恐る顔を出して様子を窺う。
気が知れた親友たちと歴史やアニメの話題で盛り上がる時なら、息継ぎすら忘れて早口で喋り倒せる。だが、根が完全なる『陰キャ』である僕は、初対面の人間相手――ましてや見知らぬ土地で泣いている不審人物(お互い様だが)に対して、どうアプローチすべきかというコミュ力のハードルがエベレスト並みに高い。
危機的状況下だからこそ、変に警戒されないように細心の注意を払わなければ。頭の中で何度もシミュレーションを繰り返し、極力敵意がないことをアピールできる声色とトーンを調整する。緊急時でも、どうしてもガチガチの丁寧語になってしまうのは陰キャの悲しい性であった。
僕はゴクリと生唾を飲み込むと、左手の模造刀をなるべく後ろに隠し、木の陰からそっと声を張り上げた。
「あの……大丈夫ですか?」
「え?」
びくりと肩を震わせ、声の主がこちらを振り返った。
その顔を見た瞬間、僕の思考回路は完全にショートし、ピタリとフリーズした。
女子……女子? 女子なんですけどォォォ!?
え、ちょっと待って! 見知らぬ森で泣いている女の子に声を掛けてしまうとか、生粋の陰キャにとって一番きつい(そしてハードルが高すぎる)シチュエーションなんですけど!
空腹の勢いに任せて「大丈夫ですか?」なんて第一声を発しちゃったけど、改めてこの後なんて言葉を繋げばいいのか全く分からない! 僕の脳内辞書にそんな会話ツリーは存在しない!
これまで散々チート能力やご都合主義をスルーしておいて、こういう時だけピンポイントで『異世界系あるある』のフラグを押し付けてくるの、マジで辞めてくんない!?
パジャマ姿で裸足、頭に三度笠を被り、怪しげな模造刀を握りしめている男。そんな不審者MAXの僕が下手に慰めの言葉をかけようものなら、内容や距離感によっては完全に事案になっちゃうんだけど! キモがられて悲鳴でも上げられたら、社会的に殺されて速攻で終わっちゃうよ僕の異世界ライフ!
もう無理だ、死んだ。さようなら世界、あの世(三途の川)が見えるわ僕……。
おまけに、さらにタチが悪いことに――この子、脳の処理能力が追いつかなくなるレベルの『ちょー美人さん』なんだけど!
『漆黒の絹を思わせるセミロングの髪(姫カットのアレンジだろうか?)に、涙で潤んだ花紫色の澄んだ瞳。顔周りを縁取る整った毛束が、彼女の穏やかさをより印象的に引き立てている。右の耳元に揺れる薄紅色の桜飾りは、凛とした佇まいの中に、少女のような可憐さを一滴だけ落とし込んだようだった――。』
――的な! 的なライトノベル風の完璧な説明文(地の文)が、僕の脳内で勝手にスラスラと生成されてくるんですけど!!
ただでさえ空腹で倒れそうなのに、視覚情報だけでこれだけの属性が過積載されたヒロイン級の少女を前にして、コミュ力底辺の僕はこれからどーすれば良いのォォォコレ!?
思考回路が完全に焼き切れてフリーズする僕に向かって、彼女は儚げに涙を流して、すがるような視線を向けてきた。
「た、助けに来てくれたんですか……?」
「い、いや……僕はその……」
違います、ただ腹を空かせて彷徨っていただけの可哀想な不審者です。
そう正直に申告しようと口を開きかけた僕の目に、恐るべき破壊力を持つ最終兵器が飛び込んできた。
(うるうる……っ!)
涙で潤んだ花紫色の瞳。それが、小動物のような上目遣いと共に僕を射抜いたのだ。
「は、はい……まぁ、そんなとこです」
押し切られた! 女子の『うるうる攻撃』に一瞬で押し負けたよ僕!
ダメだ、チョロすぎる。こんなあざとかわいい上目遣いに0コンマ2秒で屈するなんて。とことん堕ちるわ、底なしの地獄まで真っ逆さまに落ちていくわ僕の薄っぺらいプライド……!
己の意思の弱さに絶望しつつも、この気まずい沈黙に耐えきれなくなった僕は、引きつった声でなんとか言葉を絞り出した。
「ところで……どうしたんですか? こんなところで」
「実は……その……し、仕事で。仕事をしにきたんですけど、その、失敗してしまって……」
彼女は申し訳なさそうに身を縮め、誰に対してもそうであるような、優しく穏やかなトーンで言葉を紡ぐ。
「詳しく教えられないんですけど……今、襲われてまして――」
うんうん、なるほど。僕と同世代くらいのこんな可憐な女子が、わざわざこんな森の中で仕事をするなんて、現代社会のニート予備軍である僕からすれば改めてえらいなぁ。勤労少女、素晴らしいじゃないか……えら……え?
……襲われて?
「あの〜すみません……今、襲われてるって……」
僕のぽんこつな脳みそが、その不穏すぎる単語の処理に追いつきかけた、まさにその刹那。
『ワォォォォン!!』
鼓膜を劈くような獣の咆哮が、森の静寂を木端微塵に打ち砕いた。
周囲の茂みがガサガサと乱暴に揺れ、木々の影からヌルリと這い出してきたのは――どす黒い怨念のような禍々しい気配を全身に纏った、巨大な『狼の群れ』であった。
血に飢えた赤い双眸が、僕と少女を明確な『餌』として完全にロックオンしている。
え、ちょっ……ちょっと待って。
いきなりデスゲーム級の理不尽バトルイベントォォォ!?
ちょっと待てェ! 世界の創造主(作者)! 何、大河くん相手に初手からガチモンの魔獣退治させようとしてんの!?
僕、正真正銘の一般人! 神の加護とか、異世界特有のチート能力とか一切ないの! 腕力とか皆無なの! ただちょっと日本史とアニメに詳しいだけの、平和ボケした普通の高校生なの! 聞いたことねぇよ、初期装備が寝巻きと模造刀だけのグダグダな主人公なんて!!
よりにもよって、相手は赤黒い瘴気を放ち、完全に理性を吹き飛ばした異形の狼の群れだ。ギラついた鋭い牙から粘着質な唾液を垂らし、僕らの背後にいる彼女を『ただの肉』として完全にロックオンしている。その残酷に飢えた瞳は、人間という種族を完全に弱者として見下していた。
……コレ、完全に詰んでない? 僕の異世界ライフ、チュートリアルすら始まらずに即ゲームオーバー(バッドエンド)直行じゃない!?
頭の中でけたたましく鳴り響く危険信号。生まれたての子鹿のように震える膝。今すぐ裸足で逃げ出したい絶望的な衝動。
……だが。
とはいえ、この包囲された状況下で僕一人だけが背を向けたところで、どうせ数秒後に背後から喉笛を噛み千切られるのがオチだ。どのみち死ぬなら――最後まで足掻いて、せめて男としての意地くらいは見せて散るしかないじゃないか!
僕は奥歯をギリッと噛み締めると、すくむ足を無理やり前へと踏み出し、怯える女子を庇うようにスッと前に出た。
役に立たない模造刀を左手でスッと押し出し、右手で深く被った三度笠の縁をグッと下へ引き下げる。
それは、狼たちに僕の顔(と目線)を絶対に見られないようにするための、決死の防衛本能だった。
端から見れば、強者の余裕を漂わせて素顔を隠す、凄腕の浪人にでも見えたかもしれない。
だがしかし! 僕の心の中では、現在進行形でバケツをひっくり返したような大雨警報が絶賛発令中である! 脳内サイレンがけたたましく鳴り響き、膝は生まれたての子鹿のように震えまくっている。
だが、そんな僕の情けない内情を、目の前でよだれを垂らす狼たちに――そして何より、背後で震える美少女にだけは絶対に知られてはならない。
恐怖を悟られた瞬間に底辺の弱者と見做され、僕も彼女も仲良く狼たちの豪華なディナー(晩餐)へと直行してしまうからだ。それだけは絶対に避けなければならない。
僕は、震える腹の底にグッと力を込め、ついに覚悟を決めた……!
『ガァァァッ!!』
先陣を切った一匹の狼が、強靭な後脚で地を蹴った。
赤黒い瘴気を尾を引くように残しながら、鋭い牙が僕の喉笛めがけて一直線に迫り来る。コマ送りのように遅く見える死の接近。
僕は左手に握った鞘をグッと引き、右手に込めた力で一気に刀を抜き放った。
見よう見まねの『抜刀術』である。
当然だが、僕が部活でやっていたのは竹刀を真っ直ぐ振り下ろすだけの「剣道」であり、鞘から刀を抜き放つ居合や抜刀術など一度も習ったことがない。
おまけに、この四、五万円は下らない奮発して買った愛用の『模造刀』は、本物の真剣とは違って刃筋や重心の概念が甘く、鞘走りの摩擦が異常に大きいのだ。
イメージとしては、某国民的剣客漫画『る〇剣』の主人公が振るう逆刃刀と同じ原理である。あちらは峰を下にして抜くせいで摩擦が生じて抜刀が遅くなるという理屈だったが、僕の場合はただ単に「模造刀だから鞘との摩擦で異常にモタつく」という極めて現実的な理由だ。
途中で引っかかることこそないものの、生死を分かつコンマ数秒の世界においては、致命的なほどにスピードが出ない!
シャァァンッ!
鞘から抜け出た瞬間に、空気を裂く良い音が鳴るのだけが唯一の救い(ハッタリ)という、見掛け倒しにも程があるポンコツ抜刀術。
こんなナマクラで、あの凶悪なバケモノの突進を止められるわけがない。毛皮を撫でるのが関の山だ。
ああ、神様。どうか来世は、初期装備にチート武器をお願いします。
この重たくて遅い一撃を振り抜いた瞬間に、僕の短いセカンドライフは終わ――。
ドォォォン!!
鼓膜を破るようなすさまじい轟音と共に、爆風が森の木々を激しく揺らした。
「……ん?」
目を固く瞑り、首を刎ねられる痛みを待っていた僕の視界が、突如として眩い光に包まれる。
振り抜いたはずの模造刀の先には何の感触もなく、ただ、僕と狼の間に「何か」が凄まじい質量を伴って爆発したような、圧倒的な衝撃波だけが吹き荒れていた。
それを感じた僕は死の恐怖に固く瞑っていた両目を、恐る恐る見開いた。
するとそこには、ニュートンもアインシュタインも裸足で逃げ出すような、物理法則を完全にガン無視した信じられない光景が広がっていた。
(狼、めっちゃ吹っ飛んでるゥゥゥゥゥッ!!)
ほんの数秒前まで僕の喉笛を噛み千切ろうと宙を舞っていたはずの赤黒い巨大狼が、まるで不可視のダンプカーに真正面から撥ね飛ばされたかのように、見事なまでの放物線を描いてはるか上空をぶっ飛んでいくではないか!
「キャイイィィンッ!」
さっきまでの魔獣然とした凶悪な唸り声はどこへやら。その図体に全く似つかわしくない、飼い犬そっくりの情けない悲鳴を大空に響かせながら、狼は数十メートル後方にそびえ立つぶっ太い大木に激突した。
ドバァァァァンッ!!
凄まじい轟音と共に大幹がへし折れ、土煙を上げて地面に墜落した巨獣は、ピクピクと無様に痙攣したのち、完全に沈黙した。
「えっ? は? ええええええええ!?」
理解が全く追いつかない。僕は思わず己の両手と、右手に握られた『五万円の模造刀』を二度見……いや、四度見くらいした。
刀身は鈍く光っており、刃こぼれ一つしていない(そもそも刃がついていないのだから当たり前なのだが)。鞘との過剰な摩擦のせいでモタモタと引き抜いた僕の抜刀術なんて、剣速で言えば素人の竹刀振り以下のへっぽこスイングだったはずだ。
それなのに、なんだ今の特撮ヒーロー番組の必殺技みたいな大爆発と吹っ飛び方は!?
まさか……僕の中に眠っていた『隠されしチート能力』が、絶体絶命の危機に瀕してついに開花したとでもいうのか!?
『あまりにも遅すぎる抜刀は、逆に周囲の空間を極限まで圧縮し、解放と同時に絶大な衝撃波を生み出す』――なんていう、深夜アニメやライトノベルでしかお目にかかれないオタクの妄想全開な『異世界トンデモ物理学』が発動しちゃった感じ!?
半信半疑のまま前方へ視線を戻すと、残された狼の群れたちは完全にパニックを起こしていた。
「マジかよ……群れのボスがワンパンじゃん……」「あいつヤバすぎだろ……」という声なき声が聞こえてきそうなほど完全にドン引きしており、自慢の尻尾を股の間に丸め込んで、ジリジリと後ずさりし始めているではないか。
……なるほど。
現状、僕の脳みそは一ミリたりとも事態を理解できていない。だが、客観的な結果だけを見れば、『顔を隠した謎の凄腕浪人が、圧倒的な未知の力で魔獣のボスを瞬殺・粉砕した』という、主人公補正MAXの神展開(激アツシチュエーション)が出来上がっているらしい。
ならば、このまま押し切るしかない。HP1の最弱裸足浪人が生き残る道は、もはやこれ(ハッタリ)しかないのだ。
完全に調子に乗った僕は、被っていた三度笠の縁を左手でスッと押し上げ、笠の奥から(内心ビクビクの)鋭い視線を放った。
そして、実際は何の役にも立たないナマクラの切っ先を震える群れへとビシッと向け、無駄に洗練されたスタイリッシュな構えでピタリと静止してみせた。
「……………」
僕は無言のまま、湿った腐葉土を蹴って駆け出した。
下駄を持たない裸足の足取りは、皮肉なことに完全なる『無音』を生み出していた。それが逆に、歴戦の暗殺者のような底知れぬ不気味さを醸し出していた(と、後になって思う)。
残された狼たちが怯み、迎撃のために牙を剥くよりも早く、僕は群れの懐へと一気に飛び込んだ。
右手に握った漆黒の模造刀を振るう。時代劇の立ち回りのような、刀を頭上高く大仰に振りかぶる真似はしない。というか、実戦(?)の恐怖でそんな大きな動作をする余裕なんてないし、僕の体に染み付いている剣道の基本はコンパクトな振りである。
シュッ! パスッ!
刃筋もへったくれもない。ただの鈍器による、無駄な予備動作を一切省いたコンパクトな連続打撃。
――しかし、結果は再び僕の常識を軽々と飛び越えた。
「キャンッ……」
「くぅん……」
ドサッ。パタリ。ズシン。
僕がナマクラを軽く振り抜くたびに、刃が触れたか触れていないか分からないようなタイミングで、凶悪な巨大狼たちが次々と白目を剥いて地に伏していくではないか。
先ほどのボス狼を吹き飛ばしたような、ド派手な大爆発(特撮エフェクト)は起きない。ただ、文字通り『糸が切れたマリオネット』のように、瞬時に意識を刈り取られて無力化し、折り重なるように倒れ伏すのみである。
(やっぱりだ……!)
次々と沈黙していく魔獣の山を飛び越えながら、僕は笠の奥で歓喜の涙を流し、内心でガッツポーズをキメていた。
どうやら、この見知らぬ世界において、僕の腕力――あるいはこの五万円の模造刀には、常軌を逸した未知の力が宿っているらしい。
理由は全く分からない。だが、今この絶望的な状況において、それが圧倒的に有利な条件であることに変わりはなかった。ならば、迷う必要はない。一気にカタをつける!
僕は泥まみれの足で地を蹴り、残る獣たちの群れへと無音で飛び込んだ。
無駄な掛け声はいっさい発しない。ただ静かに、そして淡々と漆黒の刃を振るう。
風を切る冷たい音だけが鬱蒼とした森に響き、その度に巨獣たちが糸の切れた操り人形のように次々と地に伏していく。恐怖に駆られて逃げ出そうとした最後の一匹の背を鈍器のように打ち据え、戦いは唐突に、そしてあっけなく幕を下ろした。
***
「ふぅ………」
静まり返った森の中、僕は三度笠の縁を軽く押さえながら、張り詰めていた息を細く吐き出した。
「あ、あの……ありがとうございました」
背後から、鈴を転がすような震える声が鼓膜を打つ。
振り返ると、先ほどの美しい少女が、両手を胸の前で固く握りしめながら深々と頭を下げていた。花紫色の瞳には、まだ微かな恐怖の余韻と、それ以上の安堵の涙が浮かんでいる。
「いえいえ、別に……大したことは……」
僕は極力平静を装いながら、ひどくぎこちない丁寧語で言葉を返した。
命の危機を乗り越えたとはいえ、女性とまともに話すこと自体に慣れていない僕にとって、この美しい少女との距離感は別の意味で心臓に悪い。おまけに、極限の緊張状態から解放された途端、限界を迎えている胃袋が容赦なく自己主張を始めていた。
(あぁ……腹が減ったなぁ……)
今にも盛大に鳴り出しそうな腹の虫を必死の気力で押さえ込みながら、僕は頼れる恩人のフリをして、無理やり話題を実践的な方向へと切り替えた。
「……だが、まずはとにかくここを離れましょう。これだけ倒せば、血の匂いなどを嗅いで新しく別の獣がやって――」
危険な場所には長居しない。そんなもっともらしい推測を、いかにも手慣れた風を装って語りかけた、その時だった。
「すみません……」
少女がサッと血の気を引かせた顔で、僕の背後――森のさらに深い闇の方へと震える指を向けた。
「もう、来ちゃいました……」
「……え?」
嫌な予感――いや、細胞の底からけたたましく警鐘を鳴らすような、圧倒的かつ暴力的な死の気配。それに急かされるようにして、僕はギシギシと悲鳴を上げる首を無理やり後ろへと回した。
そして、己の不用意な発言を心底呪った。
振り返った僕の視界を完全に埋め尽くしていたのは、先ほどの狼の群れなどとは全く次元が違う、天を衝くほど巨大な『化け物大蛇』の鎌首であった。
鬱蒼とした木々をへし折りながら、ヌルリと夜の宙へともたげられたその巨躯は、樹齢数百年の大木よりも遥かにぶっ太い。闇夜に鈍く光る黒緑色の鱗が、身をくねらせて擦れ合うたびに、ギリギリ……と不快な金属音を立て、森の空気を重く、息苦しく圧迫していく。
カァァ………ッ!!
全身の血の気が一瞬にして蒸発した。
脳天から爪先まで、本物の雷に打たれたかのような凄まじい衝撃と悪寒が突き抜ける。
(ちょっと待てェェェェ!!)
なんで!? どーしてこうも次から次へと、規格外のヤバいやつに連続で遭遇するわけ!?
つい数秒前に狼の群れを全滅させて、三度笠を押さえながら「ふぅ…」とか一丁前に息を吐いて強キャラ感を演出してたじゃん! これじゃ完全に、調子に乗った直後にワンパンで退場するモブキャラの立ち位置じゃん! 僕の立場、全然無いじゃん!
この絶望的な状況はまさにアレだ。
死線を潜り抜けて地獄のデスゲームをやっとの思いでクリアし、涙ながらに安堵した直後、空から「おめでとう、次はセカンドステージ(ネクストレベル)だ」と容赦ない無理難題を突きつけられる、某『今際の国のアリス』的なサバイバル展開そのもの……。
いやいや、知らない知らない! 知らなーい!
こんな展開は知らなーい! こんな希望の欠片もない絶望のバーゲンセール、断じて認めなーいよ僕はァァァ!!!
改めて天の創造主(作者)に向かって叫びたい。
ただの少食で陰キャな歴史オタクの高校生が、一体前世でどんな大罪を犯せば、こんな目に遭うわけェェ!!?
そんなツッコミをしていたその時だった。
『シャァァァァァッ!!』
鼓膜を劈く咆哮と共に、天を衝くほどの巨体が弾かれたように迫ってくる。
(まずい、巻き付かれる!)
その圧倒的な質量と暴力的な死の気配を前に、僕の体は恐怖のあまり思考よりも先に動いていた。
「っ……!」
僕は咄嗟に横へ腕を伸ばし、背後にいた彼女の細い肩を力任せに突き放した。
直後。
「グゥゥゥゥッ……!!」
視界が黒緑色の鱗に覆い尽くされ、全身の骨という骨が一斉に悲鳴を上げた。
まるで巨大なプレス機で全身の血液を搾り取られているかのような、規格外の締め付け。先ほどの狼たちを一掃した謎の腕力をもってしても、この大怪獣みたいな大蛇の質量相手では、漆黒の模造刀を横に構えてギリギリ耐え忍ぶだけで精一杯だった。
肺の中の空気が容赦なく押し出されていく。
肋骨がミシミシと嫌な音を立てる中、完全に潰されて声が出なくなる前に――!
「す”み”ません! 助けを………だす”けを呼んで………っ!!」
血を吐くような思いで叫んだ僕に対し、突き放されて尻餅をついていた彼女は、ハッとして顔を上げた。
「え、は、はい! で、ですが………っ」
走り出そうとした彼女だったが、その視線が己の足元へ落ちた瞬間、激しい戸惑いがその美しい顔を歪ませた。
何を戸惑って……。
軋む視界の端で彼女の足元を捉えた僕の脳裏に、一つの残酷な事実が腑に落ちた。
そうか……僕が駆けつける前のあの時、彼女はすでに足を負傷していたのか……!
だから逃げられずに泣いていたのだ。今の彼女は、自分の怪我をした足では、僕が蛇に潰される前に素早く助けを呼んで戻ってくることなど到底不可能だと悟り、絶望しているのだ。
だが、ここで二人仲良く蛇の胃袋に収まるというバッドエンドだけは、絶対に御免だ。
「い、行って”………行って”く”ださ”い”ッ!」
肺に残った最後の空気を振り絞り、僕は血走った目で彼女を見据えた。
「!」
「だい……じょうぶ……あなたが……呼ぶまで……」
「耐えま”す”からッ! あなたを………信じますからッ! だからッ!」
それは、折れそうな自分を奮い立たせるための強がりであり、彼女の背中を押すための、僕なりの精一杯の『主人公ムーブ』だった。
泥まみれの陰キャオタクが、人生で一番カッコつけた(そして一番痛々しい)決死の叫び。
僕の言葉を受け取った彼女は、ハラハラと涙をこぼしながらも、ついに覚悟を決めたように強く頷いた。
「わ、分かりました……っ!」
彼女は痛む足を引きずりながら、必死の形相で森の奥へと駆け出していった。
よし、彼女は無事に逃がした。最大の懸念事項はクリアしたぞ。
あとは……。
(あとはひたすら、助けが来るまで耐えるだけェェェェェェ!!!!!)
迫り来る蛇の生臭い息と、今にも折れそうな自分の肋骨を前に、僕の心の中の悲痛な絶叫が異世界の森へと虚しく木霊した。
(抗え! 抗え……っ!)
声にならない悲鳴を心の中で上げながら、僕は必死に歯を食いしばった。口を開けば、そのまま肺の中の空気を全て搾り取られてしまいそうだったからだ。
ミシミシと肋骨が軋む絶望的な状況下にあって、唯一の希望は、漆黒の模造刀を握りしめている右腕だけが、まだ忌まわしい鱗の戒めから自由であることだった。
僕は手首を素早く返し、柄を『逆手』に握り直す。そして、異世界補正がゴリゴリに掛かっているデタラメな腕力を全開にし、分厚い黒緑色の鱗めがけて、刃のついていない切っ先を渾身の力で突き立てた!
ズチュッ……!
生々しい感触と共に、本来なら通るはずのないナマクラが、見事に化け物の分厚い肉を貫いた。
だが、ここで止めるわけにはいかない。僕はさらに腕の筋肉を総動員し、深々と突き刺した刀を、肉を抉るように力任せに真横へと引き裂いた!
『シャァァァァァァァァッ!!!』
夜の森を揺るがす、大蛇の凄絶な絶叫。
傷口から生温かい体液が噴き出し、僕を締め付けていた巨躯が苦痛にビクンと大きく跳ねる。
(本当に……この世界では僕の力がバグみたいに強いのが、唯一の救いだな……!)
元の世界のモヤシ腕なら、鱗に弾かれて手首を捻挫して終わっていたはずだ。僕は謎のトンデモ物理法則に心底感謝しつつ、大蛇の拘束がフッと緩んだ、その一瞬の隙を見逃さなかった。
今だ!
僕はすかさず体を捻り、死の螺旋から抜け出そうと上体を滑らせる。
いける、脱出できる――そう確信した寸前だった。
ズギューンッ!!
「……っ!?」
甘かった。手痛い反撃に明確な『怒り』を覚えた大蛇は、僕を逃がすまいと即座に胴体をうねらせ、今度は僕の腰から下を鋼鉄の万力のごとくガッチリと締め直したのだ。
下半身の骨が砕けそうなほどの圧迫感と共に、僕は再びその場に完全に縫い留められる。
そして、獲物をいたぶるのをやめた大蛇は、今度こそこの生意気な餌を丸呑みにしようと、天を覆うほどの巨大な鎌首を僕の真上へと持ち上げた。
顎が外れるほどに大きく開かれた、生臭い死の匂いが充満する底なしの口腔。無数の鋭い牙が並ぶその暗黒のトンネルが、僕の頭上から猛スピードで墜落してくる。
喰われる!!
頭から丸呑みにされる絶望的なビジョンが脳裏をよぎる中、僕は咄嗟に左手に持っていた硬い『鞘』を水平に構え、渾身の力で突き出した。
ガァァァンッ!!
僕を飲み込もうと迫った巨大な口の上下――上顎と下顎の間に、突っ張るようにして鞘をねじ込み、強引にその噛み合わせを防ぐ。上から押し潰そうとする大蛇の恐るべき顎の力と、それを下から押し留める僕の異常な腕力。
ギリギリ……ミシミシ……と、五万円の愛用鞘が限界を超えた嫌な悲鳴を立てる。視界は生臭い暗黒に覆われ、無数の鋭い牙から滴り落ちる粘着質な涎を顔面に浴びながら、僕と化け物大蛇の、文字通りゼロ距離での命の削り合いが続いていた。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、視界がチカチカと点滅し始めた、まさに絶体絶命のその時だった。
「どうも〜。契り屋で〜す」
場違いなほど間の抜けた声が、張り詰めた夜の森にのんびりと響き渡った。
え?
大蛇の牙の隙間から必死に視線を向けると、そこには信じられない二人組が立っていた。
一人は、深い三度笠に不気味なお札をベタベタと貼り付け、刃こぼれした青白い刀をだらりと下げた、異様な出立ちの長身の男。
そしてもう一人は、その背後に隠れるように立つ、神々しい衣を纏った小さな少女だった。
「契り屋で〜す」
男の気の抜けた挨拶に、少女がやまびこのように復唱する。
「狼退治に来ました〜」
「来ました〜」
……助けだ!
あの時逃がした彼女が、ものすごい速さで救援を呼んできてくれたんだ! 見た目は完全にヤバい辻斬りと幼女のコンビだけど、背に腹は代えられない。助かった、これで僕は生き残れ――。
「(ちょっと待って? なんで狼倒されてんの? なんで大蛇がいるの? おかしくない?)」
――ズコーッ!!
僕の全身から、歓喜と安堵が一瞬にして抜け落ちた。
男が刀をだらりと下げたまま、隣の少女に向かって顔を引きつらせながらヒソヒソと囁いたのだ。
(オイ! なんか情けないぞ! 死闘の最中の僕の耳に届くくらい、めちゃくちゃ情けない本音が漏れ聞こえてきたぞ今!!)
僕が顔面を涎まみれにしながら心の中で猛烈なツッコミを入れていると、少女が男の足を踏みつけ、小声で鋭く言い放った。
「(なりふり構わずやるの! アンタのせいで家計が火の車なんだから、用心棒としてちゃんと働いて! 狼も大蛇も同じでしょ!)」
「(いやいや、全然違うよ。だって爬虫類だもん。ウネウネしててキモいもん。俺、爬虫類昔から嫌いなんだって。マジで無理、ゲロ吐くくらい嫌いで……オボボボ!!)」
男は突如としてその場に崩れ落ち、あろうことか大蛇を前にして、文字通り盛大に胃の内容物をリバースし始めた。
(ちょっ……!! 何やってんのあの人ォォォォォ!?)
大蛇の顎を必死に押し留めている僕の目に飛び込んできたのは、剣を構える英雄の姿ではなく、爬虫類恐怖症で嘔吐する凄腕(?)の剣士の姿だった。
助けに来たはずの用心棒が、敵の姿を見ただけで戦意喪失してゲロを吐く。
そんな前代未聞のクソダサい光景を前に、僕の限界ギリギリだった気力は、物理的な圧力よりも先に別の意味でポッキリと折れそうになっていた。
(ヤバッ! 限界……!)
バキィッ!
ついに、僕と大蛇の顎の間で死闘を繰り広げていた五万円の鞘が、限界を超えてひしゃげ始めた。防御のつっかえ棒が失われ、暗黒の胃袋が猛スピードで僕の顔面に迫ってくる。
(飲み込まれる!!!)
「ふんぬゥゥゥゥゥッ!!」
僕は全神経を両腕に集中させて牙を押し返そうとするが、爬虫類特有の生臭い吐息が、すでに僕の前髪をべっとりと濡らしていた。圧倒的な力の差。このままでは頭から丸呑みにされる!
「ちょっと! アンタ吐いてる場合じゃないでしょ! あの子、頭からパクッと喰われそうになってるわよ!!」
背後から、神々しい衣を纏った少女の、その外見に全く似合わない俗っぽい怒声が飛んできた。
「早く助けなさい! RTAの勢いで助けに行きなさい!!」
(本当にそう!! アンタの連れ(?)の言う通りだよ! マジで早く助けてェェェ!!!)
声に出す余裕すらなく、僕は血涙を流す勢いで心の中で激しく同意した。神様っぽい美少女から飛び出した『スピードラン』というゴリゴリのゲーマー用語にツッコミを入れる余裕すらない。
「……ったく、これだからババ様はよォ〜」
不意に。
先ほどまで情けなく胃液を撒き散らしていた男の気配が、カチリ、と極寒のそれに変わった。
口元を乱暴に拭いながら、男はだらりと下げていた青白い刀を無造作に持ち上げる。その目は、やかましく喚く少女と、僕を締め付ける巨大な大蛇を、ひどく面倒くさそうに――しかし、絶対的な強者の冷徹さで見据えていた。
「ガミガミガミガミと……反抗期のガキと戦うお母様ですか〜? 嫌だね、俺は永遠の反抗期なんだけどッな!」
ダァァァァンッ!!
男の足元で、地面が爆発したかのようなすさまじい踏み込みの音が鳴った。
次の瞬間。
僕の目の前を、音さえも置き去りにした一筋の『青白い閃光』が通り抜けた。
風が凪ぐ。
大蛇の動きが、僕を丸呑みにしようとしたその姿勢のまま、ピタリと静止した。
「……え?」
ズルリ。
嫌な湿り気を帯びた音と共に、僕の目の前で、天を衝くほどの巨大な鎌首が不自然な角度で斜めに滑り落ちた。
遅れて、おびただしい量の黒い血が間欠泉のように夜空へ噴き上がる。
男はすでに大蛇の背後に着地し、刃こぼれした刀の血振るいを終えていた。
ただの一閃。
泣き言と嘔吐と愚痴の直後に放たれた、文字通り次元の違う神速の剣撃。あれだけ僕を苦しめたボス級の化け物は、抵抗する間も、悲鳴を上げる間すらも与えられず、その『首を刎ねられて』完全に沈黙したのである。
圧倒的な質量を誇っていた大蛇の巨体が、地響きを立てて崩れ落ちる。
それと同時に、僕の全身を粉砕しかけていた万力のような拘束がフッと解けた。
「ゲホッ、ガハッ……!」
泥だらけの地面に倒れ伏した途端、強引に肺へ流れ込んでくる生温かい空気。
助かった。生き延びたのだ。
だが、安堵したのも束の間、極限の恐怖と肋骨の激痛、そして何日も空腹状態だった僕の肉体は、すでに限界をとうに超えていた。全身の力が抜け、まぶたが鉛のように重くなる。
ブラックアウトしていく視界の端で、お札だらけの笠を被った男と、神々しい衣の少女が、僕を見下ろしながらヒソヒソと話し合っているのが見えた。
『(で……コイツどーするよ)』
『(そうねぇ。とりあえず連れて行きましょ。こんな物騒な森の中に置いていったら、この子、確実に死んじゃって困るだろうし……)』
貧弱な一般人で悪かったな。せめて「勇気ある少年」とか言ってほしかった……。
そんなささやかな反論すら口に出す気力はなく。
泥のような疲労感に包まれながら、そこでプツンと糸が切れるように、僕の意識は深い闇へと途切れたのだった。
***
――ピチョン、ピチョン。
どこからか雨漏りでもしているのか、水滴の落ちる音がする。
微かな隙間風の冷たさと、鼻をくすぐるカビ臭い井草の匂いで、僕はふと目を覚ました。
「んん……」
重い瞼をこじ開け、ゆっくりと上体を起こす。
不思議なことに、折れかけていたはずの肋骨の痛みは引いていた。どうやら、気を失っている間に誰かが手当て(あるいは魔法的な治療)をしてくれたらしい。
僕はホッと息を吐き、自分が今どこにいるのかを確認すべく、ぐるりと周囲を見渡した。
(目覚めると、そこは――)
異世界転生における気絶明けのお約束。
それは中世ヨーロッパ風の豪華な天蓋付きベッドであったり、あるいは助けた美少女ヒロインの柔らかい膝枕であったり。そんな淡い期待に胸を膨らませた僕の網膜に映り込んだのは。
土壁はボロボロと崩れ落ち、天井には雨漏りの巨大なシミが世界地図のように広がり、立て付けの悪い障子の隙間からピューピューと隙間風が吹き込む、絵に描いたような限界廃屋であった。
(――ボロ屋でした)
おい嘘だろ。
なんだこの昭和の売れない劇団員が住んでそうな四畳半の極貧空間は。さっきまでのファンタジー感はどこへ行った。天蓋付きベッドは? 美少女の看病イベントは!? これじゃただの昭和の貧乏長屋じゃないか!
そんな悲痛な『心の声』が、盛大に僕の脳内を満たした、まさにその瞬間だった。
「んだと少年コラァ!!」
「ビクゥッ!?」
突如、部屋の隅の薄暗がりで胡座をかいていた柄の悪い男(さっきゲロを吐いていた凄腕の剣士)が、青白い刀の柄に手をかけながら猛烈な勢いで凄んできたではないか!
「おい、今心の中でハッキリと『ボロ屋』っつったな! 俺とヒメの仮宿を、失礼極まりない脳内語彙でディスりやがったなコノヤロウ!!」
「えっ!? ちょっ、なんで僕の『心の声』聞こえてるんですか!?」
殺気立って詰め寄ってくる辻斬り男に、僕は部屋の隅まで後ずさりしながら悲鳴を上げた。
エスパー!? この人、大蛇をワンパンする腕力に加えて、他人の思考を読み取るチート能力まで持ってんの!? しかもその能力の使い道が「心の声の悪口にキレる」ってどういうこと!?
「フン、俺の研ぎ澄まされた剣気を舐めるなよ。てめぇの顔にデカデカと『なんだこのボロ屋』って書いてあったんだよ!」
「それ、ただ顔に出やすいタイプってだけじゃないですか!!」
僕が理不尽な言いがかりに涙目で抗議していると、ギィ……と立て付けの悪い襖が開き、見覚えのある小さな影がひょっこりと顔を出した。
「あら、目覚めたのね」
神々しい衣を纏った少女――絶体絶命の窮地から僕を救い出してくれた、あの謎の凄腕コンビの片割れだ。
「あ、ありがとうございました……!」
僕は慌てて居住まいを正し、擦り切れた畳に額を擦り付ける勢いで深く頭を下げた。ゲロを吐きながらも大蛇を一刀両断したあの男と、それを急かしたこの少女がいなければ、僕は今頃あの生臭い胃袋の中で完全に消化されていただろう。
「どういたしまして。無事で何よりよ」
少女はふわりと微笑み、神様らしい慈愛に満ちた(そしてどこか得意げな)声で応えた。
平和な空気が流れる。ああ、やっぱり女の子の優しさは冷え切った心と体に染み渡るなぁ……と安堵したのも束の間だった。
「ちょっと聞いてくださいよババ様。コイツ、恩人である俺たちのこの立派な屋敷を、心の中で『ボロ屋』呼ばわりしやがり――」
ガシィッ!!
男の子供じみたチクリ(告げ口)は、最後まで言い切られることはなかった。
少女の小さな右手が、目にも留まらぬ速さで男の顔面を真正面から鷲掴みにしたのである。ミチミチミチ……という、頭蓋骨が軋むような極めて物騒な音が四畳半に響き渡る。
「いっ、いでででで!」
「……誰がババ様よ!」
先ほどまでの慈愛の微笑みはどこへやら。少女は般若のような凄絶な形相で男の顔面を締め上げながら、ドスの効いた声で吠えた。
「私はれっきとした神様! ババ様じゃないって、何度言えば分かるの!!」
「い、いや理不尽だろ! 神は神でも、あんた何千年も生きてるんだから、人間から見りゃもう立派なババ様だろ!? イタタタ、頭蓋骨! 俺の美しい頭蓋骨割れる!」
アイアンクローを食らいながらも、男は一切引くことなく屁理屈をこね続ける。この男、戦闘力はカンストしているのに、命知らずというか学習能力がないというか。
「あ、そうか。ただの『ババ様』って言い方が、レディとしてお気に召さなかったんだな? 分かった分かった、これからは敬意を込めて『湯バーバ』って呼ぶから――」
「誰が某国民的アニメの性悪な魔女キャラみたいに呼べなんて言ったのォォォ!?」
ドガァァァン!!
ついに神の逆鱗に触れた男は、少女の理不尽な腕力によってボロ屋の土壁めがけて勢いよく投げ飛ばされた。ただでさえ立て付けの悪い屋敷全体がグラグラと悲鳴を上げ、天井のシミからパラパラと土埃が落ちてくる。
(……なんなんだ、この人たち)
僕――龍悟は、部屋の隅で小さく体育座りをしながら、大蛇との死闘よりもタチの悪い、次元を超えた神と剣士の痴話喧嘩をただ呆然と眺めることしかできなかった。
土壁にめり込んだ凄腕の剣士(?)と、肩で息をする神様(?)の漫才のような喧嘩がようやく一段落したところで、僕は部屋に舞い散る土埃を払いながら、恐る恐る本題を切り出した。
「……ところで、ここは一体どこなんですか?」
「ここは『契り屋』よ」
神々しい衣を纏った少女が、コホンと一つ咳払いをして乱れた衣服を整え、誇らしげに小さな胸を張った。
「『契り屋ハナさん』。まぁ、現代人であるあなたに分かりやすく簡単に言うと――」
「金さえ貰えればなんでもする、『何でも屋』だ」
少女の芝居がかった見せ場を容赦なくぶった斬り、壁からズルズルと這い出してきた男が、面倒くさそうに言葉を引き取った。
男は頭に被っていたお札だらけの笠を乱暴に畳へ放り投げると、ボサボサの髪を掻き毟りながら、ニカッと柄の悪い(しかしどこか憎めない)笑みを浮かべた。
「で、俺が火野 勝成。『かっちゃん』とでも何でも、好きに呼びな」
(……かっちゃん)
神速の抜刀術で大蛇の首を刎ねた冷徹な辻斬り……と見せかけて、爬虫類でゲロを吐き、幼女相手にマジギレするチンピラ剣士・かっちゃん。情報量が多すぎて僕の脳内処理能力はすでに限界を迎えているが、とりあえず顔の造作だけは無駄に整っているのがまた腹立たしい。
そんな僕の内心のツッコミなど知る由もなく、今度は少女が男の前にグイッと割り込んできた。
「で! 私がコノヤマサクヤヒメ! 神話史上、最も美しいとされる神よ!」
ビシィッ! と効果音でも鳴りそうなポーズを決め、彼女は自慢げに僕を見下ろした。
僕はその姿を、頭の先から爪先まで、まじまじと観察した。
(……ロリっ子だ)
僕のオタクとしての純粋な第一印象は、それであった。
身長は僕の胸元にも届かないくらい小さく、手足は折れそうなほど細い。神々しいオーラは確かに漂っているものの、『神話史上最も美しい』という成熟した大人の女性の美貌を期待させるハードルに対しては、明らかにベクトルが違う。
美しいというよりは、完全に『可愛らしい』――もっと言えば、マスコット的な庇護欲をそそる純度100%のロリっ子キャラクターではないか。
先ほど森で助けた『ちょー美人な女の子』が圧倒的な美貌のヒロイン枠だとすれば、彼女は完全に「生意気で可愛い幼女枠」である。
とはいえ、命の恩人(おまけに本物の神様)に向かって「ロリっ子ですね」などと口走れば、先ほど男の顔面を握り潰したあの理不尽なアイアンクローが僕の頭蓋骨に飛んでくるのは火を見るより明らかだ。
僕は脳内のオタク的分析を慌てて心の奥底に封印すると、畳の上で正座の姿勢に直り、絵に描いたような優等生の愛想笑いを浮かべて深々と頭を下げた。
「僕は、白波 龍悟です。助けていただいて、本当にありがとうございました。どうもよろしくお願いします」
極限のサバイバルから一転、ボロ屋での奇妙な自己紹介。
僕の異世界ライフは、かくしてこの前途多難すぎる「何でも屋」の二人組と共に、本格的な幕を開けようとしていたのだった。
「よろしく、龍悟」
神様を自称する少女――コノヤマサクヤヒメは、その可愛らしい容姿にふさわしい、花が咲くような無邪気な笑みを浮かべて頷いた。
「はいはい、よろしくよろしく〜」
一方の勝成はというと、すでに畳の上にゴロンと横に寝転がり、鼻でもほじりそうな極めて気怠いテンションで適当な相槌を打っていた。
だが次の瞬間、彼はゴロゴロと寝返りを打って僕の方へ視線を向けると、ひどく現実的で、かつ鋭利な刃物のような問いを無造作に放り投げてきた。
「で、これからどーすんのお前?」
「……え?」
予想外の角度からの質問に、僕は間の抜けた声を出して完全にフリーズした。
「え? じゃねぇよ。お前さん、これからどーすんのって聞いてんの」
勝成が呆れたようにため息をつく。
これからどうするか。その言葉が引き金となり、極限状態の連続で完全に麻痺していた僕の脳味噌に、冷酷な『現実』が雪崩れ込んできた。
(そうだ……僕は、いわゆる『こことは違う世界』の住民なんだ……!)
僕は改めて、己の絶望的なステータスを脳内で羅列してみた。
所持金、ゼロ。この世界での身分証明証、なし。寝巻き姿に裸足、持っているのは異様に攻撃力がバグっている五万円の模造刀一本のみ。現代日本の温室で育った陰キャ高校生に、サバイバル知識などあるはずもない。
「あー、一応言っとくけど」
僕の顔からサーッと血の気が引いていくのを察したのか、コノヤマサクヤヒメがニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながら身を乗り出してきた。
「この『天ノ黄泉原』って、基本的に人(人間)にはあまり優しくない世界だから。右も左も分からない丸腰の人間が一人で外に出たら、まぁ確実に妖の餌食か、野垂れ死にね。さーて、どーするのかしらねぇ?」
「ねぇ〜?」
勝成も起き上がり、胡座をかいて同調する。
神様と凄腕剣士。二人の胡散臭い大人が(見た目は幼女とチンピラだが)、完全に僕をからかうような、いや、退路を断って『ある言葉』を言わせようとするような、ねっとりとした視線を向けてきている。
これは……完全にハメられている。
だが、僕に選択肢など初めから存在しなかった。このカオス極まる異世界で生き残るには、このわけのわからない「何でも屋」の二人にすがるしかないのだ。
僕は己のちっぽけなプライドを秒で捨て去ると、畳に擦り付けるような勢いで猛烈な土下座の姿勢をとった。
そして、ついさっき勝成がキレていた某国民的アニメの魔女の湯屋で、主人公の少女が放った『あの名台詞』を、まさか自分の人生で絶叫する日が来るとは思いもしなかった。
「こ、ここで働かせてくださいッ!!」
ボロ屋の土壁に、僕の悲痛な就職希望(命乞い)が木霊する。
数秒の沈黙。
そして。
「よろしい! これからよろしくね♪」
コノヤマサクヤヒメは、待っていましたとばかりに満面の笑みを浮かべ、ポンッと気安く僕の肩を叩いた。
横では勝成が「ヒヒッ、雑用係ゲットだな」と下世話な笑い声を漏らしている。
かくして僕、白波 龍悟は、元の世界に帰る手段を見つけるどころか、異世界のボロ屋を拠点とする怪しげな何でも屋『契り屋』の、記念すべき(そしてブラック確定の)新入社員となってしまったのである。
ーーーーーーーーー
おまけ
半ば脅されるような形で『契り屋』への就職(強制労働)が決まった直後。
僕はふと、大蛇との死闘の最中に一番気がかりだったことを思い出し、二人に尋ねた。
「あの……僕を見つけて助けてくれる前に、僕と同じくらいの年の女子に出会いませんでしたか?」
「あん?」
僕の問いに、畳の上でゴロゴロと寝転がっていた勝成がピクリと反応した。
彼はニヤニヤと意地の悪い、親戚のウザいおじさんのような笑みを顔いっぱいに浮かべると、起き上がって僕の肩を小突いてきた。
「なんだなんだ? 女か? 命懸けで守った美少女の行方が気になっちゃう感じ? かーっ、青春だねェ!」
「…………」
僕はスゥッと目を細め、完全に光を失った絶対零度の瞳で勝成を見つめ返した。
「勝さん。そういう中学生的な揶揄い方、やめてくれません? 普通にウザいです」
「んだとこの腐れオタク!! 先輩に向かって口の利き方教えたろかコラァ!!」
冗談抜きでガチのトーンで引かれたことにブチギレた勝成が、僕の胸ぐらを掴んでガクガクと揺さぶってくる。
この人、凄腕のくせに本当に精神年齢が小学生男子並みだ。僕は無抵抗のまま揺さぶられながら、部屋の片隅で退屈そうに欠伸をしているコノヤマサクヤヒメに視線を向けた。
「いや、知らないわね」
ヒメはそっけなく首を横に振った。
「私たちがそこに着いた時には、首の皮一枚で踏ん張ってるアンタと、デカい蛇しかいなかったわよ。女の子なんて影も形もなかったわ」
「……そうですか」
僕はホッと胸を撫で下ろしたような、それでいてひどく落胆したような、複雑なため息をこぼした。
影も形もなかったということは、無事に逃げ切れたということだろう。あの大蛇の胃袋に収まるような最悪の事態だけは避けられたのだ。僕の決死の囮作戦(結果的に死にかけたが)は、無駄ではなかった。
(でも……せっかくなら、もう一度会って『助かったよ、ありがとう』とか、そういうラブコメ展開があっても良かったんじゃないかなぁ……)
異世界転生における唯一にして最大の醍醐味(美少女とのフラグ)がへし折られた事実に、僕は密かに涙を呑みながら、ボロ屋の天井のシミを見上げたのだった。
ーーーーーーーーーーー
――その頃。
鬱蒼とした天ノ黄泉原の森の奥深く。
「ハァッ、ハァッ……! お願いです!無事でいてください……っ!」
痛む足を引きずり、必死の思いで助け(街の自警団や妖の討伐隊など)を呼んできた『ちょー美人な女の子』は、ついに先ほどの凄惨な現場へと舞い戻ってきていた。
彼女の脳裏には、己を庇い、巨大な大蛇の顎をその細腕一つで必死に食い止めていた、三度笠の少年の姿が焼き付いている。
私が逃げたせいで、彼は喰われてしまったかもしれない。
そんな絶望と罪悪感に押し潰されそうになりながら、彼女は涙目で現場の茂みを掻き分けた。
しかし。
そこに広がっていたのは、無惨に首を刎ねられ、黒い血の海に沈んでピクピクと痙攣している『大蛇の巨大な死骸』と、吹き飛ばされた木々の残骸だけであった。
喰われた痕跡も、血塗れの衣服も、何もない。
三度笠の不審で勇敢な少年の姿は、文字通り綺麗さっぱりと消え失せていたのだ。
「アレ……?」
彼女はきょとんと目を丸くし、血の海と化した無人の森の中心で、ポツリと呟いた。
「……いない…………?」
かくして、命を懸けた少年と、助けを呼んできた少女の見事なまでの『すれ違い』が成立してしまったのである。




