呼び出し
束の間の休息は、予想よりも遥かに短かった。
俺がベッドで惰眠を貪る決意を固めてから、わずか三十分後。
再び部屋の扉がノックされた。今度は控えめだが、どこか切羽詰まったリズムだ。
「……誰だ」
「ハンスでございます。坊ちゃま、緊急の事態でして」
扉を開けると、そこには先ほどよりもさらにやつれた顔の老執事が立っていた。彼の頭上の『過労フラグ』が、心なしかサイズアップしている気がする。
「緊急事態? なんだ、まさかシャルロットが早速ワインをぶちまけたのか?」
「いえ、お嬢様ではありません。……旦那様がお呼びです」
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。 旦那様。つまり、当家最強の暴君にして、歩くSランク破滅フラグ、父ゲオルグ・パーシヴァル伯爵だ。
「……父上が、俺を? 何の用だ? 俺は今、病み上がりで体調が優れなくてだな……」
「『三分以内に来なければ、貴様の部屋を馬小屋に改装する』と仰せです」
「すぐ行く!」
俺はベッドから飛び起きた。あの親父なら本気でやりかねない。俺のフカフカベッドが藁束に変わるのだけは阻止しなければ。
俺はセバスチャンの後について、重い足取りで廊下を進んだ。屋敷の中央にある当主の執務室へ近づくにつれ、すれ違う使用人たちの顔色が青ざめていくのが分かる。まるで処刑場へ向かう囚人を見送るような目だ。
執務室の前に立つ。分厚い樫の木の扉の向こうから、何かが割れる音と、雷のような怒鳴り声が聞こえてきた。
「ええい、役立たずどもが! 今年の税収がこれだけとはどういうことだ!!」
俺はセバスチャンと顔を見合わせた。老執事は「ご愁傷様です」と言わんばかりに深く一礼し、音もなく扉を開けた。
部屋の中は、戦場だった。 床には書類が散乱し、高そうな陶器の破片が転がっている。部屋の中央にある巨大なマホガニーの机の向こうに、その男はいた。
ゲオルグ・パーシヴァル伯爵。熊のような巨躯に、常に不機嫌そうに歪んだ顔。その手には愛用の乗馬鞭が握られており、バシバシと机を叩いている。
「……遅いぞ、イリス!」
俺の姿を認めるなり、父上の怒りの矛先がこちらに向いた。蛇に睨まれた蛙の気分だ。
「も、申し訳ありません、父上。体調が少し……」
「言い訳など聞きたくない! 貴様、今まで部屋で寝ていたそうだな。この穀潰しが! わしがどれだけ苦労してこの家を支えていると思っている!」
(あなたが苦労を増やしている張本人では?)という言葉を全力で飲み込み、俺は深く頭を下げた。
「はっ、面目次第もございません……」
俺が謝罪の姿勢を見せると、父上の視界が歪み、その頭上に禍々しい赤黒い文字が浮かび上がった。
『【重税による領民一揆フラグ】進行中(危険度S): 現在、領民の不満度は88%です。90%を超えると、一部の村で暴動が発生します。100%に達すると、領内全域で大規模な一揆が発生し、パーシヴァル家は物理的に滅亡します。 トリガー:「次の増税命令」』
(は、はちじゅうはちパーセント!? もう爆発寸前じゃねーか!)
俺が内心で悲鳴を上げていると、父上は机の上の書類――どうやら今年の税収報告書のようだ――を俺に投げつけてきた。
「見ろ、このザマを! 不作だかなんだか知らんが、愚民どもが税を納め渋りおって! これではシャルロットの新しい宝石も、わしの新しい競走馬も買えんではないか!」
……この人の頭の中は、自分と娘の贅沢しかないらしい。領民が飢えようが知ったことではないという態度だ。これが悪徳領主の平常運転か。
「そこでだ、イリス。貴様に仕事をやろう」
父上の目がギラリと光った。嫌な予感しかしない。
「お前はこれから騎士数名を連れて、領地の北にある『枯れ木村』へ行け。あそこは特に税の納付が遅れている。村長を締め上げて、未納分を耳を揃えて回収してこい。もし払えんようなら、家財道具でも娘でも、金目のものは全て差し押さえてこい!」
《ピロリン♪》 脳内で軽快な音が鳴り、ブレイカーの無慈悲な声が響いた。
『警告:父ゲオルグの命令を実行した場合、【枯れ木村】の不満度が限界突破し、暴動が発生します。それが飛び火し、領民一揆フラグが直ちに成立します。一年後ではなく、一週間後に家が滅亡するルートが確定します』
(詰んだ!!)
俺は顔面蒼白になった。 断れば、目の前の暴君に何をされるか分からない。鞭で打たれるか、勘当されるか、あるいはその両方か。
だが実行すれば、一週間後に農民たちの鍬や鎌でミンチにされる未来が待っている。
「……どうした、イリス。返事がないぞ?」
父上が苛立ちを露わにし、乗馬鞭をピシッと鳴らした。
(ブレイカー! どうすればいい!? これは詰みだろ!?)
『落ち着いてください。最悪の事態を回避する選択肢は存在します。推奨アクション:命令を受諾するフリをして時間を稼ぎ、その間に代替案を提示することです』
(代替案ってなんだよ!)
『父上の目的は「金」です。領民を虐げること自体が目的ではありません。村から搾り取る以外の方法で、彼を満足させる金額を用意できれば、命令を撤回させることが可能です』
なるほど。金か。金さえあればいいのか。 だが、俺はしがない三男坊だ。そんな大金、持っているはずが……。
……いや、待てよ?
俺の脳裏に、ある一つの可能性が閃いた。それは危険な賭けだが、このまま破滅を待つよりはマシだ。
俺は震える膝を叱咤し、顔を上げた。
「ち、父上。その件ですが……私に一つ、考えがございます」
「考えだと? 穀潰しの貴様に何が言える」
父上が不愉快そうに眉をひそめる。俺はゴクリと唾を飲み込み、一世一代のハッタリをかますことにした。
「はい。枯れ木村から搾り取るのも一つの手ですが、それよりも遥かに効率よく、しかも大量の資金を得る方法を思いつきました。それも、父上の名声を高めながら」
「……ほう?」
父上の鞭を叩く手が止まった。「金」と「名声」。この二つの単語が、強欲な父の興味を引いたらしい。
さあ、ここからが正念場だ。俺の口先三寸で、Sランクの破滅フラグを回避できるか。
俺の新たな戦いが、幕を開けようとしていた。




