01
泡沫のような夢を見る。あぶくが弾けてしまえば、元に戻ることは無い。瞼の裏を駆ける情景も、瞬きの間に淡い光に呑まれてしまう。
日に照らされて瞼の裏が白む。
朝だ。
飛ぶように起き上がり、階段を駆けた子供が、大きな鏡面を設えた洗面台の前に立つ。
闇を梳いたような暗い髪、星空を閉じ込めた黒い瞳。陶器よりもなめらかで果実よりも瑞々しい白い肌、白魚のように透ける手の先には桜貝を思わせる薄桃色の小さな爪が並んでいた。
歪みのない鏡面を睨んでも、大きな瞳が細まるだけで威圧も恐怖も感じない。少女と言うよりは幼女だなと、柔らかな髪を一房、指先で摘んで考えた。
モノクロの世界に迷い込んだかと錯覚するほど強い、白と黒のコントラストは、薄紅に染まった唇が動くことで否定される。
動く人形のような子供。
その身に与えられた名はローレンティアーナ。両親からは愛を込めてティアーナと呼ばれている。
ローレンティアーナは鏡を見つめながら、おもむろにハサミを手に取った。
そうして摘んだ前髪をばつり、ばつり、と切り揃えていく度に景色が広がって、視界が明るい希望に満ちていく。
瞳に入る光が増えると、陽光を受けて黒真珠のように艶めいた。
前髪を切るのは、今日を素晴らしい旅立ちの日にするために、ローレンティアーナが考えた儀式なのだ。
だからつい、ついやりすぎてしまって。
「おや、こんなところに天使がいるね。翼をどこに置いて来たんだい?」
「つばさ?」
「ああ……輪っかも足りないな」
眉上でぱつんと切り揃えられた前髪を撫でる大きな手。節くれだっていて皮膚の厚いその手が、ローレンティアーナから離れたあと、洗面台の上を滑るように通って、散らばっていた髪が燃えていく。
魔術だ。
「僕のもとに来てくれてありがとう。可愛い天使さん」
抱き上げられるのは少し恥ずかしい。けれど、そうやって父はローレンティアーナを、それはもうたいへんに可愛がるのだ。
「さあティアーナ。ママがお腹を空かせて待っているから、朝ごはんにしようか。」
食卓の上に並ぶのは、どれもこれもがローレンティアーナの大好物。身を解した焼き魚、具だくさんの野菜スープに柔らかい焼きたてのパン、肉の串焼きまである。
あまり狩りをしないから、肉なんてたまにしか食べられないのに!
「ティアーナ、食事の前にこちらへおいで」
母に呼びかけられて、父の腕から滑り降りる。
最初に手渡されたのは弓と矢だった。それから、弓を使うためのグローブと用途別に形や長さの違うナイフ。更にはナイフを収納するウエストポーチに、肩がけできる矢筒。底の厚い丈夫なブーツと防水防火仕様のマント。
それからそれからと次々に物が増えていく。
「おおくない?」
「多くないわ」
全てに装飾があり、更には古代エルフ語が彫られている。これらを作った母は、ダークエルフだ。
ダークエルフと聞くと褐色肌の美しいエルフを想像するけれど、母は金髪碧眼のエルフだった。
この世界のダークエルフには黒いエルフという意味はなく、暗い地下に生きるエルフだからそう呼ばれているのだと、母に聞いたことがある。
なら、地上に住むエルフはライトエルフなのかと聞いたら、そうではないらしい。
ダークエルフはエルフの中でも一際鍛治が得意な種族で、物作りに長けている。この家で使っている物は鏡などの家具から、食器や父のメガネに至る小物まで、ほとんど母が作ったものだった。
ちなみに父は普通のエルフだ。女神を信仰していて、肉食をしない、魔術の得意な普遍的で普通のエルフである。
そんな二人の愛娘である私は、魔術が使えない。精霊の声も聞こえないし、妖精を見ることもできない。エルフっぽいところは耳が尖っていて少し長いところと、身体能力が高いところくらいだ。
そのため私は、物心着く前から両親に弓などを習っていた。
「ご飯を食べ終わったら、僕からもティアーナに贈り物があるよ」
「はぁい!」
穏やかであたたかく、静かで心地よい幸せな時間。いつまでも浸っていたいけれど、甘えを許されはしない。
立ち止まったものから淘汰されていく世界で歩き続けるために、ローレンティアーナは旅に出る。
成長の止まってしまった小さな体を、再び時の流れに戻すのだ。