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緊張からか、やけに喉が渇いて、僕はコーヒーメーカーでホットコーヒーを入れた。
「俺も貰えるか」
声を掛けてきたのは、村井さんだ。
「こっちも……」
岩月さんと竹之下さんの旦那さんが、おずおずと手を上げる。
「杉森さんは?」
「私は、自分で入れるからいいよ」
そう言って、彼女はドリンクディスペンサーで紅茶を入れた。
「じっとしていろって言われたけれど、飲み物くらいはいいよね?」
「流石に……大丈夫だと思います」
杉森さんに言われるまで、飲み物を入れることもダメだなんて、考えてもみなかった。確かに、動くなと言われるとこれもダメなのかと考えてしまう。
「コーヒーを入れるだけで、証拠の隠滅にも何にもならないし」
証拠の隠滅。自分で言っておいて、ぞくりとした。何をした訳でも無いのに、そんなことにまで気を使わなければいけないのか。
「目の前で入れているから、毒も何も混入しようがないもんな」
はは、と竹之下さんが笑う。下手な冗談だ。他の人は、誰も笑っていない。
「そんなこと、する訳が無いでしょう」
流石にムッとして、僕は竹之下さんを睨んだ。
「いや、別に疑っている訳じゃ……」
「今のはお前が悪いぞ、寛文」
岩月さんに窘められて、竹之下さんがぺこりと頭を下げる。寛文と言うのは、竹之下さんの名前らしい。
「別にいいですけどね」
まだ拗ねたような声が出るあたり、我ながら大人げ無い。とは言え、こんな状況では誰しも余裕なんて持てないだろう。
村井さん、岩月さん、竹之下さんの前にコーヒーを置いて、僕もラウンジのソファーに腰を下ろす。紅茶を手にした杉森さんは、僕の隣に座った。そう広くないラウンジで、五人でテーブルを囲んでいると言うのに、気まずい沈黙ばかりが流れる。
「鬼姥の森、か。まさか、本当だとはな」
最初に口を開いたのは、岩月さんだった。その言葉に、思わずギョッとする。
「鬼姥の森って、それ……」
「行方不明事件とか色々あったみたいだが、元々の伝承だと、一面血だらけになったって話だろう」
そうだ。そう言えば、田上さん当人が言っていたことだ。
『鬼姥が現れた場所は血で赤く染まり、哀れな犠牲者の腹はぱっくりと切り裂かれていたと――』
それは正に、先ほど八木先生が言っていた光景そのものでは無いか。
「はは、そんな冗談みたいなことを言わないでください。伝承通りに人が殺されたって? 鬼姥が出て殺されるなんてこと、有る訳が無いでしょう」
杉森さんが、引き攣った笑みを浮かべた。
「いや、この森では本当に事件が起きていてだな」
岩月さんに代わって真顔で話し始めた村井さんを、杉森さんが遮る。
「やめてください、馬鹿馬鹿しい。いつの時代の話をしているんですか?」
村井さんの話に、杉森さんは一向に耳を貸そうとはしない。ひょっとしたら、怖いのかもしれない。紅茶の入ったカップを持つ手が、僅かに震えている。
「鬼姥が出たと考えた方が、まだマシだな。そうで無いのなら……」
竹之下さんの呟きに、再び皆、黙りこくる。鬼姥か、それとも悪鬼か……どちらでも良いが、僕達以外に殺人鬼が出没したので無ければ、犯人は今日このコテージに居る誰かと言うことになる。
「田上さんと言えば、あの人小説家なのですが」
「え、小説家の田上って、あの田上雅也かい?」
僕の言葉に反応したのは、岩月さんだった。
「そう、その田上雅也です。彼、鬼姥の森についても調べていたみたいですね」
僕は、田上さんから聞いた話を皆に語った。とはいえ、あの時はそれほど詳しく聞くことも出来なかったのだが。
「田上雅也って、確かホラー小説家だろう?」
「ホラーじゃない、ミステリーだ」
竹之下さんの言葉を、岩月さんが訂正する。
「同じようなものじゃないか。死体の描写や殺し方がやけに詳細に書かれていて、とても読めたものじゃなかった」
どうやら、竹之下さんは田上作品のグロテスクな部分がお気に召さなかったようだ。
「あんなのを書いた本人が、グロテスクな死に方をしたって訳か」
が、流石にこの言い方はいただけない。
「酷い……」
竹之下さんを見つめる杉森さんの目には、ありありと軽蔑の色が浮かんでいた。
「鬼姥が現れたか、それとも、見立て殺人が行われたか……」
岩月さんが、ぽつりと呟く。
見立て殺人。こんな言葉が出てくるあたり、岩月さんはミステリー小説が好きなのだろう。見立て殺人とは、文字通り何かに見立てて遺体や現場を飾り立てることだ。
「考え過ぎじゃないですか? 伝承に見立てたところで、捜査を攪乱出来るとは思いませんが」
「犯人がクローズドサークルのつもりだったとしたら、どうだい? この雨でどうせ警察は来られないだろうと判断したとか」
岩月さんが、さらにミステリー用語を出してきた。どうやら彼も僕と同じことを考えていたようだ。
「確かに夕方からの雨は激しかったですが、それで警察が来られないと楽観的に考えられるかと言えば、疑問でしょう」
「それはまぁ、そうなんだよなぁ」
僕の言葉に、岩月さんはすぐに持論を引っ込めた。
「だからって、鬼姥が出たなんて話の方が、もっと荒唐無稽だ。有り得ない。それこそ非科学的だ」
伝承を信じ難いのは、僕も同じだ。だが、ここは鬼姥の森。実際に、過去に行方不明者が出ている土地だ。
「十年ほど前に、このあたりで行方不明者が出るって話があったよな」
その話題に触れたのは、竹之下さんだ。
「あったな。あの頃はニュースを見ることも無かったから、そんなに詳しくは知らないんだが」
岩月さんが腕を組む。
「実際に、鬼姥の森で事件が起きていたってことですか?」
杉森さんの不安そうな声。
「事件の話は、確かに聞いたことがある」
それまで黙って聞いていた村井さんが、頷いた。
鬼姥の森の、行方不明事件。僕は、いわば当事者だ。双子の妹と一緒に森に来て、妹はそのまま行方不明になった。しかし、それを彼等の前で言う気にはなれない。
実際に起きた殺人事件と伝承とを、並べて語ること自体がそもそもおかしい。理性ではそう言って笑い飛ばしたいはずなのに、過去のトラウマに囚われた僕の心が、それを許してはくれなかった。
管理棟の扉が開いて、二人の刑事と八木先生、竹之下さんの奥さんが戻ってきた。傘を差していても雨に濡れたらしく、事務室からタオルを持ってきて、八木先生が刑事二人と竹之下さんに差し出している。
「これから、皆さんに詳しい話をお聞きします。どこか部屋はお借り出来ますか?」
「そこの事務室でしたら」
音羽刑事に言われて、八木先生が事務室を指さす。
「でしたら、第一発見者の方……オーナーから、お願いします」
「はい」
刑事二人と八木先生が、事務室に消える。パタンと扉が閉まった後、誰からともなく深く息を吐いた。