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不意に、車のエンジン音が響いた。駐車場に新たな車が停まり、誰かが歩いてくる。
「お客さんかな」
呟いて、先生は受付カウンターに向かった。宿泊カードとボールペンを用意して、来客を待つ。僕はコーヒーを啜りながら、その様子をじっと眺めていた。
カランコロンとドアベルが鳴り、一人の男性が入ってくる。年は四十半ばだろうか、眼鏡を掛けた生真面目そうな人だ。
「予約をしている田上だが」
「田上様……田上雅也様ですね」
八木先生の言葉に頷き、男性が宿泊カードにペンを走らせる。
田上。田上雅也。どこかで聞いたことがある気がする。そうだ、去年どこかの賞をとった有名な小説家の名前が、田上雅也では無かったか。
「どうかね、女将。メールで相談した件は、考えてはくれたかね」
「メール……ああ、ホームページの件ですか」
「そうそう。君にとっても、悪い話ではあるまい」
田上さんは受付カウンターから身を乗り出すようにして、八木先生に話しかけている。
「あの件なら、お断りしたはずです。どれだけ謝礼を積まれましても、公開する気はありません」
「どうしてだね。君だって、確か彫刻家を生業としているのだろう。芸術を理解しない訳ではあるまい」
「どうしてもです」
ホームページの件と言うから、てっきり八木先生の作品を掲載する話かと思ったが、どうやらそうでは無いようだ。田上さんは眉間に皺を寄せ、八木先生を見据える。
「あれからもう何年経っていると思っているんだ」
「そういう問題ではありません」
「色々気にしているのなら、言いたい奴には言わせておけば良い。たとえ事件の――」
「やめてください!」
ついに、八木先生が声を荒らげた。二年間リモートとはいえ先生の講義を受けていたが、こんなに感情を昂ぶらせた先生を見るのは初めてだ。
「あ、あのー……」
恩師が絡まれて困っているところを、放ってはおけない。
どうにか話題を逸らそうと、僕はラウンジのソファーから立ち上がって、田上さんに声を掛けた。
「ひょっとして、作家の田上雅也先生ですか?」
「おお、私のことを知っているのかね」
「はい、『冥府からの誘い』読ませていただきました。恐ろしい中にも美しさがあって、凄く引き込まれる作品でした」
「そうかそうか」
田上さんは相好を崩し、上機嫌で向かいのソファーに腰を下ろした。ふぅと息を吐く八木先生に目で合図をして、僕もラウンジのソファーに座り直す。
「こんなところでもファンの子に会うなんてなぁ。いやぁ、君は実に運が良い」
「光栄です」
差し出された名刺を受け取り、愛想笑いを返す。そんな風に言われると、とても八木先生が不快そうだったので助け船を出しただけですとは言い難い。受け取った名刺に視線を落とすと、そこには『ライター・小説家・埋目木まゆファンクラブ会長 田上雅也』とあった。執筆以外にも、アイドルの応援活動などをやっているのだろうか。
彼の代表作『冥府からの誘い』は、都市伝説を元にした作品だ。綿密なロジックによって練られた良質なミステリーでありながら、悍ましさを感じさせる導入部分は、ホラー作品としても評価が高い。多少グロテスクな描写は目立つものの、読んでいるうちに世界観に引き込まれる一冊だ。
「受賞後はどこの本屋でも品切れになっていて、結局重版を待って、ネットで予約したんですよ」
「無事に手に入ったのなら、良かった。最初からもっと刷るべきだと言っていたのだが、出版社の連中が慎重過ぎてねぇ」
「この不景気ですからね」
「それにしたって、売れる作品とそうでは無い作品の区別が付かんとは、まったく見る目の無い奴等だ」
「はは……」
八木先生が気まずそうにしていたから、話を逸らせれば良いなぁと軽い気持ちで声を掛けた訳だが、僕が後悔に苛まれるまで、そう時間は掛からなかった。
「分かるかね? 今の業界、リアリティの足りない作品が多すぎる! 執筆の前に、まずは地道な取材活動、下調べが大事だ。君もそう思うだろう、えぇと……」
「澤江です。澤江一樹」
「澤江君か。君はなかなか見所のある青年だ」
ラウンジに腰を下ろして、話し込むこと数十分。声を上げて笑う田上さんの勢いに、僕はすっかり呑まれていた。
「君も作家志望かね?」
「いえ、僕は美大に通っていまして……」
「そうか、君は美大生か! デッサン一つ描くにも、モデルを準備して、実物を前に緻密に描写する。それが芸術と言うものだよ」
「は、はい」
言っている内容は正しいとは思うのだが、彼の勢いにすっかり圧倒されてしまい、こちらは曖昧に頷くばかりだ。
「私も『冥府からの誘い』を書く前には、しっかりと取材をしたものだ。噂の発端となった場所を回って、色々聞き込んだりしてね。今日も、そうだ」
都市伝説をテーマにした作品を書く為に、都市伝説そのものについて調べたということか。この人、話は長い上に回りくどいし、随分と衒学的なところがあるけれど、作家としての仕事は誇りを持って取り組んでいるみたいだ。元々は新聞記者をしていたらしいから、取材はお手の物なんだろうな。
「ここにも、取材で来たんですか?」
「そうだね。取材も兼ねている」
「この辺りの森は、有名ですもんね」
鬼姥の森の話題になると、途端に声のトーンが落ちてしまう。嫌でも妹のことを思い出すからだ。
「そうそう、君くらいの年ならば知らないかもしれないが、一昔前の失踪事件より以前、ずっと大昔から、この地には鬼姥の伝説が残されているんだ」
一昔前の失踪事件という言葉に、チクリと胸が痛む。そんな僕の様子に気付くことは無く、田上さんは意気揚々と話を続ける。
「全国的な表現で言うなら、山姥だがね。この地方では鬼と山姥が一緒になって、鬼姥として名前が残っている」
そう、鬼姥だ。この森にはこわーい鬼姥が出るという言い伝えが残っているから、決して妹の手を離さないように。そう、両親からきつく言われていたと言うのに。
「一般的な山姥よりも、もっと恐ろしいイメージだったのだろうね。伝承では、鬼を想起させるような恐ろしい描写が残されている」
そんな恐ろしい化け物が現れるという森で、僕は妹を置き去りにしてしまった。
「この地に残っている伝承では、鬼姥が現れた場所は血で赤く染まり、哀れな犠牲者の腹はぱっくりと切り裂かれていたと――」
「澤江君、大丈夫?」
田上さんの不安を掻き立てるような語り口から一転、八木先生の声が響いた。ハッと顔を上げると、八木先生が心配そうにこちらを見つめている。
「田上さん、そういう話は相手を選んでください。可哀想に澤江君、顔が真っ青じゃないですか」
「いやぁ、ごめんごめん。つい話に熱が入りすぎてしまったな」
はははと笑う田上さんの顔に、悪びれた様子は微塵も感じられない。
「鍵も受け取らずに話し込んだかと思えば、若い子相手に怖い話をして怯えさせるんだから、もう」
「悪かったと言っているだろう。私のコテージはどこかね」
「一番のコテージをお使いください」
鍵を受け取った田上さんは、荷物を手にして早々に管理棟を出ていった。これ以上責められるのを嫌ってのことだろう。まったく、なんて大人だ。
彼の背を見送りながら、僕はいまだラウンジのソファーで呆けていた。
「本当に大丈夫? あの人ったら話は長いし、ろくな話はしないし」
八木先生は、露骨に不快そうな顔をしていた。自分が絡まれただけでなく、客である僕にまで変な話をされたから、怒っているのだろう。
とはいえ、僕の場合は自分から話しかけにいったのだけれど。
「確かに、長かったですね。あのまま終わらないかと思いました」
ラウンジにある壁時計を見上げれば、時計の針は三時二十分を過ぎていた。田上さんが来たのが確か二時三十分頃だったから、初対面の人と一時間近くも話し込んでしまった。いや、話し込んだと言うよりは、向こうが一方的に話していたに近い。
「もう一杯、コーヒー入れようか」
「今度はホットでお願いします」
「了解」
僕を気遣ってくれる八木先生の優しさが、何よりの癒やしだった。