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僕が管理棟に入ろうとすると、入れ違いに夫婦らしき男女が管理棟から出てきた。軽く会釈だけして、建物の中に入る。受付カウンターで、八木先生が新しい宿泊カードをファイルに綴っていた。
「お、来たね。澤江君、コーヒーは飲めるかい?」
「はい、大丈夫です」
「ホットとアイス、どっちがいい」
「アイスでお願いします」
慣れた手つきでグラスに氷を入れ、八木先生がアイスコーヒーを入れてくれた。と言っても、コーヒーメーカーが自動でドリップしてくれるものだ。アイス用に濃いめにドリップされたコーヒーが、氷を溶かして程よい温度で混ざり合う。
「ミルクとガムシロは要る?」
「ミルクだけお願いします」
手渡されたポーション型のミルクを入れて、ストローで掻き回す。カラカラと涼しげな音色に、ようやく疲れが癒えてきた気がする。
「それにしても、久しぶりだね。今はもう四年生か?」
「はい。なんとか進級出来ました」
「はは、それは良かった。就職活動はどう、進んでいる?」
「一応、大手の広告代理店から内定は貰いました」
「そっかぁ。それなら、この時期はもう気楽なもんだね」
八木先生は自分のコーヒーカップを手に、ラウンジのソファーに腰を下ろした。
そう、本来ならばもう悩む必要は無い。面倒な就職活動から解放されて、後は卒業を待つだけの気楽な身分だ。しかし、
「それで良いのかな……って、ずっと思っていまして」
声にすれば、なんとも贅沢な悩みだ。今も就活真っ最中の学生にとっては、腹の立つ話だろう。
「君は確か、油絵を専攻していたっけ」
「はい」
八木先生の作品が好きで、彫刻学科の講師として招かれた彼女の講義を取ってはいたものの、僕の専攻は油絵だ。分野の違う相手に相談に来るのも、おかしな話かもしれない。
「広告代理店で仕事をするんじゃなく、芸術で身を立てたい……そう思っている?」
彼女の言葉は、正鵠を射ていた。僕の抱えた悩み――就職して、このまま会社員として安定した道を選ぶのか、それとも芸術家を志し、不安定ながらもやりたいことをやって生きていくのか。
「なるほどねぇ。それで私のところに相談に来たわけかぁ」
「はい」
八木先生は親戚が経営していたコテージを引き継いで、暇な時にはアトリエで作品を作って暮らしていると聞いた。二足の草鞋ではあるが、正に僕が望む生き方を体現している。ここに来る迄は、そう思っていた。
「実際に見てみると、副業も大変そうですね」
「そうなんだよ」
あっけらかんと笑う八木先生の様子から、大変さは窺えない。しかし、九つものコテージを毎日手入れして、客の相手をして、電話対応に経理までと考えたら、並大抵の仕事量では無いだろう。作品作りに割く時間なんて、あまり取れないのかもしれない。
「好きなことを仕事にするって言えば聞こえは良いけれど、成功しなきゃ、食べていけないからね」
他の講師達からも、口を酸っぱくして言われた言葉だ。夢を見るのは良い。だが、どこかで現実に立ち返らなければいけない。就職というのは、折り合いを付ける丁度良い機会でもある。
「学生の夢を打ち砕くようなことを言わないでください」
「そうかぁ? 卒業したら、どうしたって社会の荒波に揉まれることになるんだからさぁ。それなら、今から現実を知っておいた方が良いじゃないか」
先生の言うことは、もっともだ。そんなことは言われなくても分かっている。分かっていながら、僕は内定の通知を貰ってからと言うもの、先生に会いたくて仕方が無かった。背中を押して欲しいのか、それとも夢を断ち切って欲しいのか……どちらを求めているのかは、自分でも分からない。
「芸術だけが全てでは無いし、それだけが全ての人って、物凄く危ういと思うんだよ。分かるかなぁ」
意外な言葉だった。僕のイメージする彫刻家八木美夕璃は、一に彫刻、二に彫刻、とにかく作品作りに打ち込む人だ。
「八木先生のお言葉らしくありませんね」
「君は私をどう思っているんだ」
僕の言葉に、先生が苦笑する。彫刻馬鹿だと思っていましたなんて、流石に口には出せない。
「ご両親は、何て言っているんだい」
「両親とは、疎遠なので……」
幼い頃に家族で鬼姥の森に遊びに来た僕は、両親から離れて、妹と二人で森の中を駆け回っていた。途中までは確かに妹と手を繋いでいたはずなのに、気付けば、妹とはぐれてしまった。それが、双子の妹――二葉を見た最後だった。両親は僕を叱責し、憤慨し、大いに悲しんだ。両親が出した捜索願も虚しく、二葉は帰っては来なかった。それっきり、僕と両親の間には、深い溝がある。いや、僕が抱えた罪悪感から、その溝を乗り越えることが出来ずに居た。
「入学費用は出して貰いましたが、日々の暮らしは奨学金とバイト代でどうにかしている感じです」
「それなら、なおさら就職した方が良いんじゃないか」
先生の言葉が、胸を締め付ける。親の協力を得ることも無く、安定した職に就かずに、一人暮らしをしながら自由に作品を作り続けるなんて、難しい話だ。そんなことくらい、自分でも分かっている。分かっていてなお、その道を諦めきれずに居た。
「いや、違うな。こんなこと、口を出すべきでは無いのかもしれないが……君は一度、ご両親とちゃんと話し合った方が良い」
八木先生の声に、身体が震える。弄んでいたストローが揺れて、氷が音を立てた。
「実家に戻る気が無いなら、他に手が無い訳では無いが……あー、いや、だがしかし……色々と、なぁ」
明朗快活な八木先生にしては、珍しく歯切れの悪い言葉だった。
「もしご両親に何かあれば、君も後悔するだろうし……無理にとは言わない、いや、言えないんだが」
「先生のご両親は?」
「うちは片親でね。私は母親に育てられてきた。だがその母親は、私が大学に通っている間に、色々あってな」
「そうなんですか」
追求を許さぬ、険しい表情。八木先生も、親との間には一悶着あったのだろう。
だからこそ、先生は僕と両親との仲を取り持とうとしてくれているのだろうか。妹が行方不明になってからは、両親とは事務的な会話しかして来なかった。今更、腹を割った話など、出来る気がしない。
「今更話し合いをしても、僕の両親は変わらないと思います」
「変わらない、とは?」
「両親は僕に愛情も興味も持っていないので」
十二年前、妹の手を放した僕に向けられた両親の言葉。両親の視線。どうして一緒に居なかった。どうしてちゃんと面倒を見ていなかった。どうして妹から目を離した。どうして。どうして。どうして――。
思い出す度に、胃液がこみ上げてきそうになる。酸っぱくなった口の中を、ミルク入りのコーヒーで洗い流す。
「仕方が無いんです。全ては、僕のせいですから」
「澤江……」
そう。両親が悪い訳では無い。全て僕が悪いんだ。僕が妹とはぐれたあの日から、両親は嘆き悲しみ、妹を探し続けた。妹を探すことを諦めた頃から、あの人達の感情は〝無〟になった。僕に対しても、無関心。会話は必要最低限なものだけ。お互い干渉をせずに、居ないものとして扱う。それが実家での生活だ。
「そうか、それなら……澤江がどうしても諦めきれないと言うのなら、ここで働きながら作品を作り続けるという手もあるが、どうだ」
「えっ」
八木先生の口から零れたのは、予想外な言葉だった。
「一人でここを切り盛りするのは、確かに大変でなぁ……ああ、給料は期待するなよ。うちの経営も、それほど楽じゃない。でも、住むところと作品を作る時間くらいは、提供してやれる」
「良いんですか?」
先ほど言葉を濁していたのは、言い出すかどうか迷っていたのだろう。黒縁眼鏡の奥で、手入れされていない眉がへにゃりと垂れた。
「先生と呼んで慕ってくれている教え子が、自分を頼ってきたんだ。こんなの、放っておける訳が無いだろう」
じんと、胸が熱くなる。罪を背負い、抱えた罪悪感から、両親だけではなく親戚とも疎遠になった。こんな暗い性格では、何でも打ち明けられるような友人も居やしない。誰一人、頼る者は居ない。そんな中で、自分の理想とする生き方をしている先生を思い出し、客としてやってきたのに……彼女が、僕に手を差し伸べてくれるのか。
「ああ、当然お前が広告代理店に行きたいとなれば、そっちを選んでもらって構わないからな。そもそもこのご時世に大手からの内定を蹴るなんて、そんな学生、滅多に居ないぞ。就活担当の先生に、あれこれ言われなかったか」
「言われました。何馬鹿なことを言っているんだって」
「あ。それ、磯部先生だろ。懐かしいな、あの頃もそんなことをよく言っていた」
二人で顔を見合わせ、どちらからともなく笑みを零す。こんな風に笑ったのは、いつぶりだろう。暗い小道をただひたすらに進みながら、本当にこの道で合っているのかどうか、そんな不安を抱えていたのが、嘘みたいに晴れた気がした。もう一つの道を提示して貰えることが、どれだけ心の負担を取り除いてくれることか。選んで良い、自分で考えて決めて良いのだと、先生が示してくれた。
「有難うございます。少し、ゆっくり考えてみます」
「ああ、そうしてくれ。結論は急がなくて良いからな」
空になったグラスを持って立ち上がり、先生が二杯目のアイスコーヒーを入れてくれた。ほろ苦いコーヒーの酸味が、今だけはやけに甘く感じられた。