30年間起動してなかった乙女ゲームを起動したらゲーム内でも30年経ってて攻略対象は皆おじさんになってました
※鬱病や自殺に関する描写があります。
※ヒロインがゲロを吐きます。
※出てくる魔物がちょっとキモめです。
以上許せる方のみお読みください。
目覚ましなんてもうかけてないのに、毎朝6時には目が覚める。
いつも起きた時には視界が涙が滲んでる。夢の内容は覚えてないけど、きっと怖い夢を見たのだと大きく鳴る心臓が告げる。
体を起こして、自分を抱きしめる。大丈夫、大丈夫、大丈夫。ここは実家で、もうあの職場には行かなくていい。大丈夫、大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせないと布団から出られないくらい、私の心はズタボロになっていた。
♢
「葉月、あんたいつになったら次の仕事探すの?」
やっと起き上がれた体をなんとかリビングに持っていき、ようやく朝ごはんにありつけたというのに。お母さんが急に痛いところをついてくるものだから、持った箸を置いてしまった。
「さ……探してるよ」
「嘘つかないの! あんたずっと家にいるじゃない!」
「だ、だから在宅で出来る仕事とかを、ネットで……」
「はぁ!? ネットぉ!?」
お母さんまで箸を置く。あ、これは完全にしっかり説教モードだ……。
「葉月、お母さんもあんたが仕事やめたことに怒ってるわけじゃないの。病気だもんね、仕方ないわよ。でもそれに甘えてまともに次の仕事を探してないのは違うでしょ!」
「だから探してるって……」
「ネットでろくな仕事が見つかるわけないでしょ!!」
……高齢出産で私を産んだ母はこの令和の時代に珍しくネットに懐疑的なのだが。
「ミーチューブでも言ってたわよ、ネットで探した裏バイトとかいうので酷い目に遭った人がたくさんあるんだから!」
……なぜか好きなミーチューバーの言うことは鵜呑みにする、なんともちぐはぐな感性をしていた。
国の陰謀論だの芸能人の整形だのの話を鵜呑みにする前に目の前の娘の話を聞いてほしい。
「そんなのごく一部だよ。今時ちゃんとした転職サイトなんかたくさんあるし、まともな仕事先はいくらでも探せるんだから……」
「また出た、言い訳! そうやってあんたは自分に甘いからそうやってぶくぶく太るんじゃないの! 28にもなって恥ずかしい!」
体型のことを持ち出すな、と言ってやりたいが、実際自分に甘いところがこの太ましい体を作り上げているという自覚はあるので閉口するしかなかった。
半年前、新卒の頃から勤めていた会社をやめた。原因は病気……鬱になったからだ。
元々なんだか気分の浮き沈みが激しくなったなと思っていた。主に沈む方。普通に会社に行って普通に仕事してきただけなのに、社員寮に帰ってきたら涙が止まらなくなるなんて日が続いた。
友達に愚痴ってみてもあまり本気にされなかった。昔から葉月はそういう少し気にしすぎなところがあるよねって。私もその自覚はあるから、そうだね気にしすぎだねとしか返せなかった。
唯一叔母だけは職場環境に対して怒ってくれたけど、「そんな気持ちをさらにどん底に落とすお勧めの乙女ゲームがあってさ!」とすぐに自分の推しジャンルの布教を始めてしまった。あの年季の入ったオタクにまともな返事を期待した私が馬鹿だった……年季の入ったオタクはお互い様だけど。
あ、そういえば、あの叔母さんが勧めてソフトもハードもくれたゲーム、全然やってないな。
「聖なる乙女の穢れた血」……通称おとけが。約30年前に発売された乙女ゲームの始祖ともいえる作品だが、発売当時はまったく人気がなくとんでもない安価で叩き売りされるような代物だったらしい。
そこら辺のオタクが裸足で逃げ出す筋金入りの我が叔母はそれがたいそうお気に入りで、おとけがのソフトを見るたびに買い集めては布教したい人に渡していくという布教テロ活動に勤しんでいた過去がある。現在おとけがにプレミア価格がついてるのってこの人のせいじゃないだろうか。
そんな叔母は仕事をやめたんなら時間ができて暇だろうというもっともらしい言い訳を引っ提げて、家にぽつんと残っていたというおとけがの在庫(?)を私に押し付け……もとい、譲ってくれたのである。ご丁寧に対応するハードまで添えて。
こりゃやって感想を言わないと後がうるさそうだ。そんな現実から乖離したことを考えると、少しだけ気が楽になったような気がする。
「はぁ……また上の空! もういいわ、早く食べちゃって!」
母のそんな怒鳴り声で説教は終わる。味噌汁に口をつけると、もうすっかり冷めていた。
♢
朝ごはんを食べ終えて、散らかった部屋に戻る。ごちゃごちゃで整理がついてない頭の中そのものみたいな部屋の中の唯一の足場……ベッドに座って、私が生まれる前に出たハードであるゲームキッズを起動した。
うわ、音も絵もガビガビ……。ドット絵でなんとかイケメンを表現しようとしてる。この違いもよく分からない人たちの中から一人選ぶの? 無茶では?
『時は聖暦0年。剣と魔法の異世界ナディアでは、魔王の出現を機に魔物と人間の世界を滅ぼさんとするような大戦争が起こっていた……。これを止めるためにとある勇敢な若者が同じく現状を憂いた仲間たちと共に立ち上がり……』
しかも最初の世界観説明長ッ。まどろっこしい文章で分かりにくい上に目が滑る。
『そして、時代は現代。予言された魔王の復活の時に備え、世界中から魔王を倒すに相応しい人々が集められた……』
叔母もこんなゲームに何をそんなにのめり込むことがあるのか……いけないいけない、人の推しジャンルをそう悪く言うもんじゃないな。叔母さんがあそこまでのめり込んでネタバレは伏せるけどキャラの深みが! 衝撃の展開が! とか言ってるからきっと、多分……おそらく……いいゲームなんだろう。
でもこれ、オープニングの時点で結構眠たい……。
病院の先生から昼に寝るのは生活リズムが崩れるから控えなさいって言われてたのに、どうしても眠気にあらがえない。
少しだけ、少しだけうたた寝するくらいだから。また自分に言い訳をして、自分を甘やかす。自己嫌悪の海に溺れるみたいに、私は起動中のゲームを持ったまま意識を手放した。
眠るのは好きだけど嫌いだ。眠ってる間は現実から逃れられるのに、眠ってる間も嫌な夢が襲ってくるから。
『先輩がちゃんと教えてあげないからじゃないですか!』
『知ってる? ああいうのパワハラって言うんだよ』
『作業中に君がしつこく話しかけてきたからミスしたって言ってたらしいけど……』
『もう少し言い方とか変えたらいいと思うよ!』
『あのさ、職場の和を乱さないっていう当たり前のことも出来ないの?』
『っていうかさぁ』
いやだ、やめて、聞きたくない。
『君、なんのためにここにいるの?』
「っそれは……!!」
答えようとする自分の声で目が覚めた。浅い呼吸、ばくばくと鳴る心臓の音、リアリティがあったのに夢の内容を何も覚えてないこと。全て、今朝起きた時と、毎朝と一緒。
だけど、違う。
「……ここどこ?」
体に触れる草の感触。生い茂る木々。少し青臭い風の匂い。どこをどう見ても、そこは私の散らかった部屋じゃなく……鬱蒼とした深い森の陽だまりだった。
「え……っ……」
ひゅっと喉が鳴る。大きい声なんて出し慣れてない。だから、裏返る声で。
「ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!?」
叫んだ。というより、叫びが漏れた。
ここどこ!? ベッドは、机は、パソコンは、スマホは、ゲームは!? 身体中をぺたぺたと触ってみるけど、触れるのはウニクロのルームウェアの生地だけ。
もしかして、まだ夢? ベタだけど頬をつねってみる。……痛い。いや、感覚がある夢だってあるのかも。実際土とか草の感触はこんなにリアルなんだし。
……これは考えたくないけど、ついにお母さんが痺れを切らして私を山に捨てたとか……? いや、いくらお母さんでもそんな姥捨山みたいなことは……いやしかしミーチューブでニート脱却法とかあったりしたら見てるだろうしやりかねないし……。
とにかく。
「こ、ここから出なきゃ……」
夢だと思いたいが、もしかしたらお母さんから捨てられたという可能性もある。とにかくこの森を抜けてから考えよう。せめて実家にスマホくらい取りに行かせてくれ。あれには大事な推しの画像とか人には見せられないようなポエムってるメモだって入ってるんだから。
震える足をなんとか立たせる。自分が裸足なのに気付いて、あまりにもひどいと思った。せめて靴下くらい履かせてから捨ててよ。
小石が足の裏の皮膚に食い込んで痛いのを我慢して、そろそろと歩いていく。
このまま家に向かうのは無理だ……どこかで人と会えたらいいんだけど。いい人だったら靴をもらえたり、もしかすると家まで送ってくれたりするかもしれない。わずかな希望を探して進んでいくと、少し遠くでかさりと草が揺れたのが見えた。
「っ、誰かいるんですか!?」
もう足の裏が痛いとか言ってられない。早くしないと、どっかに行っちゃうかもしれない! 私は走って、希望の尻尾を追いかけていた……つもりだった。
「ピー……ガガ……ピ……」
草むらから現れたのは、羽虫だった。
いや、ただの虫じゃない。私の身長と同じくらい大きい。蟹と虫が組み合わさったようなピンク色の体に、蝙蝠みたいな羽と丸まった芋虫みたいな形の頭がくっついてる。その頭のいたるところからうねうねと短い触手が伸びて、私のことを感知したみたいにすべての先端がこっちを向いた。
化け物が、そこにいた。
「っひ……!!」
逃げなきゃいけないのに思わず尻餅をつく。腰が抜けて立てない。化け物は私が逃げられないのを察してるみたいに、ブーンと不愉快な音を立てながらこっちに飛んできた。
「ガガ……ピ……ガガガ……」
チューニングの合ってないラジオのような声を出して、化け物は頭の触手で私の頬を撫でる。全部の皮膚どころか臓器にまで鳥肌がたったのかと思うほどの悪寒が走った。
これは、なんとなく分かる。私、このまま。
「ピーーーーーーーーーッ……」
殺される。
とても夢とは思えない死への恐怖に目を瞑った、その瞬間。
「セオドア、アレン、援護!!」
「私に命令するな脳筋!!」
「二人とも静かに。ほら、ミ=ゴに気付かれた」
少し枯れた、賑やかな声が聞こえた。
目を開くと、化け物の触手は私じゃない方を向いていた。私もその先端が向く方を見る。
そこには3人の男がいた。
「このまま懐に入る!!」
もう中年と言って差し支えない年齢に見える白髪の男が、大きな斧を持って化け物に迫る。
化け物は男に向かってその蟹の鋏のような脚を伸ばすけど、宙にぼんやりと光る魔法陣みたいなものが現れてそれを弾いた。
「考えなしに突っ込むな脳筋!!」
白髪の男の少し後ろで、これまた中年の細身な男が怒鳴った。魔女みたいなローブと木製の杖。杖の先端は煌々と輝いている。
その隣では、メガネをかけた少し神経質そうな男が何もない空中を支えるようにして掌を上に向けている。彼だけ他の二人より少し年下には見えるが、いずれにせよ私より随分年上だろう。
「ふんぐるい・むぐるうなふ・くとぅぐあ・ふぉまるはうと・んがあ・ぐあ・なふるたぐん・いあ・いあ……」
メガネの男がそう唱えると、木漏れ日に混じって燃える星のようなものが化け物の上に現れる。
「タイミングは合わせます。一緒に燃えないでくださいよ」
「分かってる!!」
白髪の男が化け物に向かって斧を振り下ろす。化け物はそれを阻止しようと脚を伸ばしたけど、その脚がぼっ、と燃やされた。……上空から降ってきた、燃える物体によって。
「っだぁぁッ!!」
何も止めるもののない斧はそのまま化け物の体に叩き込まれ、「ガッ」という鈍い声と共に化け物は真っ二つに裂かれた。
悪臭のする液体……色は違うけどおそらく血液があたりに撒き散らされる。
「……ふう……大丈夫だったかな?」
白髪の男が私に向かって手を差し伸べる。軍服に見える白い服はさっきの化け物の体液を浴びて汚く染まっていた。
「だ……大丈夫、です……」
正直、手袋にもあの液体がべっとりとついていて触りたくない。躊躇っていると、細身の男が「少しは気を遣え」と白髪の男を咎めた。
「そんな汚れた手を女に触らせるつもりか」
「えっ、ああ、そうか!」
「じゃあ、私の手であれば触れますか」
眼鏡の男が私の方に手を差し出す。知らない人、それも異性の手……躊躇ったが、手を借りないと立てそうにない。その手をとって、踏ん張って立ち上がる。まだがくがくと足が震えるけど……なんとか、手を離しても自分で立つことが出来た。
お礼を言わなければ、と男たちの方に向き直す。
……なぜかみんな、目を丸くして私を見ていた。正確には、私の手を。
「……おい、嘘だろう」
「いえ。確かに予言にあった通り……」
「じゃあ、貴女が……」
何か驚いたような、困惑したような声を出している。なんだろう、私の手に何かついてるのか?
「……何、これ?」
右手の甲に、見覚えのない痣があった。
ハートから枝が伸びたような……言ってしまうとピクシヴで何度も見てきた淫紋みたいなそれは、まるで生まれつきそこにあったかのように私の皮膚に沈んでいる。
「……大変失礼致しました!」
何も分かっていない私の前に、男たちは恭しく跪く。
「その紋章、間違いありません。魔王復活の予言の日から30年……この日を待ち侘びておりました。聖女様」
魔王復活? 予言の日? 聖女?
最近どこかで聞いたことのあるキーワードの羅列に、脳裏で叔母さんの声が響いた。
『おとけがはね! 魔王復活の予言を受けて聖女として魔王討伐の旅に出る王道RPGの側面もあってね!』
……え? いやいやいや、ないないない。
「あの、ここは何県ですか?」
「何……ケン?」
「聖女は異世界から来ると予言にあっただろう。異世界の概念かもしれない」
「この世界、という意味であればここはナディアですが」
脳内叔母さんが『ナディアっていう中世ヨーロッパ風世界を旅して……』と語っている。いやいやいや。
「あの、今は令和何年……」
「聖暦のことでしょうか……?」
「今は聖暦696年。魔王復活と言われた聖暦666年から30年が経っています」
「聖暦ッ……!!」
脳内叔母さんがきゃあきゃあと喜ぶ声が聞こえる。何かの間違いであってくれ。だって攻略対象、こんなおじさんじゃなかったもん。
「あ……あなた達の、名前は……」
震えながら、まず白髪の男を見た。垂れ目がちで優しげな顔立ちをしているのに、左目に刻まれた大きな傷が彼をただの優しい男じゃないと警告してくる。
「え……ああ、僕はウィルオウィスプの騎士団で騎士団長をしていました、レイモンド=グレイブといいます」
『まずこの銀髪の子がレイモンド! 大国の騎士団団長で、すっごく強いのよ!』
今度は細身の男に目を向けた。暗い緑色の髪を肩まで伸ばして、その隙間からのぞくルビー色の目は爛々と輝いている。
「私はセオドア=ウィンプ。聞いて驚け、あの魔法大国オズが産んだ高名な魔法学者、セオドアとは私のことだ!」
『この緑髪で細身なのはセオドア様ね。プライド激高だけどすごい魔導師なの!』
最後にメガネをかけた男を見た。黒髪に琥珀色の瞳、あまり人に興味なさそうな表情。少し若く……というより幼く見えるその人は小さな口を開いた。
「アレン=ノートと申します。遊牧民なので出身地はありません。召喚術師をしています」
『この眼鏡の子はショタ枠のアレンくん! 最初は魔物にしか心開かないのよぉ』
叔母さんが布教してきた時に聞き流してきた説明が脳裏を駆け巡る。
目の前にいる人達、さっきのバケモノ、手に刻まれた何かの紋章。全ての状況が、たった一つの正解に向かっている。
私、トリップしちゃった。
おとけがの世界……それも、本編開始しないまま30年経ったおとけがの世界に……。
♢
脳の処理が追いつかなかった私はあの後ぶっ倒れてしまったらしい。目が覚めたら自分の部屋……なんて都合のいい話は無く、私はレイモンドさんによって皆さんが拠点にしてるとかいう山小屋の古いベッドに寝かされていた。
少し落ち着いた私に、レイモンドさんが「飲めますか」と紅茶を差し出してくる。
「急に色々なことを言われて混乱したんでしょう。大丈夫ですか?」
「は……はぁ……」
紅茶を受け取って一口飲む。美味しい。
「やはりここ最近の魔物の暴走ぶり、私は魔王復活と聖女召喚の予兆だと見抜いていたぞ!」
「あなた昨日まで魔王なんてもう復活しないとか言ってたじゃないですか」
「あれは冗談だ!」
「都合がよすぎる」
部屋の真ん中にある小さなテーブルではセオドアさんとアレンさんがくっちゃべっている。
なんだか、叔母さんから布教された時は「ギスギスしてるパーティに主人公の聖女が加わることで和やかになっていく」って聞いてたけど……。
「にしても聖女がこんなちんちくりんとはなあ、もっと傾国の美女と予想していたのだが」
「いいんじゃないですか? しっかり肉がついていて長生きしそうですよ」
「二人とも失礼なこと言わない! すいませんね聖女様……不躾な奴らで……」
「は……はぁ……」
……もう最初から和やかじゃないか? そりゃ、口喧嘩してるようには見えるけど。
「何だ自分だけ善人ぶって、この筋肉ダルマが! お前だって巨乳の美女じゃないと守り甲斐ないって言ってただろうが!」
「言ってないことを捏造するな」
「それ全部セオドアさんのセリフですよ」
「は〜つまらん、国じゃ絶世の美男子と呼ばれた私がだぞ? こんな地味女守る羽目になるなんて」
「何年前の話してるんだ51歳」
「ギャ!! 年齢の話やめろ!!」
「さっきまで腰痛がどうこうとか話してた人に聖女を選ぶ権利ないんですよ」
「お前らだって膝だの何だの痛めてるだろうが!!」
これは……喧嘩するほど仲が良いって言っていい、範疇なのでは?
ぽかんとしていると、「で」とセオドアさんの目が私の方を向いた。
「こちらは名乗ったのだ、聖女様。君も名乗るのが筋というものでは?」
「あっ、あの、えっと」
名刺……なんて今はないのか。そもそもまだウニクロのルームウェアだし。
「結城葉月です。その……よろしくおねがいします」
カップを手に持ったまま、ベッドの上でぺこりと頭を下げた。
「ユウキ……? ハヅキ?」
「どっちが名前だ?」
「あっ、葉月です。結城はその、ファミリーネーム? かな?」
「ではハヅキ様、ですか」
「あ、様じゃなくていいです……私、そんな敬われるようなものじゃないので……敬語も、なしでお願いします」
私の言葉にレイモンドさんは「分かった」と答えたけど、アレンさんは「はぁ」とあまり興味なさそうだった。元々敬語キャラなんだろうか。二人と話す時も敬語だったし……。
しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。
「あっ……あの……元の世界にはどうやったら帰れますか!?」
「へ?」
「私、聖女なんて無理です……! こんな危険な世界、生きていく自信ないです!!」
ゲームは好きだし色んなタイトルをやってきた。主人公が死んで『ゲームオーバー』の文字が画面にでかでかと表示されたのも何度だって見てきた。
だから、分かる。
ここはゲームみたいな感覚で、さくさくと人が死んでいく世界だ。
さっきは運が良かっただけ。この人達があと一瞬でも遅れてたらあの化け物に無惨に殺されていた。このわけの分からない世界で死体すら残らないかもしれないと思うと心がゾッと震える。
早く帰りたい。もうこんなゲームは起動したくない。この人達は強いから、聖女なんていなくたってどうにでもなるだろう。私には無理。
そんな思いが涙になって溢れ出す。
「いっ……家に……帰りたい……」
奇しくも、仕事に行けなくなった日、お母さんに電話で泣きついた時と同じセリフを吐いた。
あの時お母さんは私がいよいよだというのを感じ取ってすぐに迎えに来て心療内科に連れて行ってくれたけど。
「ふむ、聖女が元の世界に帰る方法か……心当たりあるか? ある奴挙手」
「ないです」
「同じく」
「は〜、貴様らは本当に役に立たないな! ちんちくりんとは言え女が泣いてるんだぞ!」
「セオドアだって人のこと言えないだろ!」
「そもそも予言では神の国から勝手に聖女が舞い降りてくるみたいな話でしたからね」
「勝手にって。この感じだとハヅキさんも来たくて来たかったわけじゃないように見えるけど」
「しかし聖女の力がないと魔王を殺せないからな」
「というか、魔物の方が召喚魔法には詳しいんですから魔王をぶっ叩いて帰す方法を吐かせればいいのでは」
「それだ! さすがアレン! 天才!」
「神童! 逸材!」
「45の男に対する褒め方じゃない」
おっさん達のゆる〜いやりとりを見せられた後に、おっさん達は「というわけで」とこっちに目を向けた。
「まず魔王を倒すしかないね」
「無理ですけど!?」
思わず大きな声が出た。
「私さっきの虫みたいな化け物ですらだいぶ無理でしたよ!? 魔王倒すなんて無理です!!」
「とはいえ、ここにいても元の世界に帰れるわけじゃないだろう。腹を括れ聖女」
「無理無理無理! 私ここにいるので皆さんでやってきてくださいよ!!」
「そうしてあげたいのはやまやまなんだけど……予言では聖女の力でしか魔王を倒せないって言われてるんだよね」
「無理ですって!! ここにいます私っ!!」
「ここにいてもどうせまた魔物が襲ってきますよ。人間には滅多に興味を示さないミ=ゴがあんなに近付いて接触してきたんです。魔物はあなたを感知すればすぐ聖女と見抜いて殺しにくると思いますよ」
「ヒッ!!」
さっきみたいなことがまた起こる……ってこと!?
八方塞がりの私の震える手から、カップが滑り落ちる。あ、やば……っ、と思って手を伸ばしたけど、床に叩きつけられる前に「おっと」とレイモンドさんがそれをキャッチした。
「ハヅキさんが怖がるのも無理ないよ。さっきの反応見て思ったんだ。神の国にはああいう魔物がいないんだろ?」
私はこくこくと頷く。神の国って言われるとそんなことはないけど、少なくとも現代日本にはあんな化け物はいない。
「でも、僕らも君を神の国に返す方法はわからない。手がかりがあるとすれば、魔王に聞く他ない」
レイモンドさんの銀色の目がまっすぐと私を見つめた。きっとかつては美青年のそれだった眼差しに貫かれて、息を呑む。
「僕達が絶対に君を守る。だから、世界を救うのに協力して欲しい」
そうだ、この人って、攻略対象……。
「……ごめん、中腰辛いから隣に座って良いかな……」
「あ……どうぞ……」
……いやしっかりおっさんだ。そりゃそうか。30年も経ってるんだもんな。
「情けない、女泣かせと言わせた騎士団長様の名が泣くぞ!」
「変な異名つけるな……!」
「ほらおじいちゃん、椅子ですよ」
「年寄り扱いするな……!! アレンだって4歳しか違わないだろ……!!」
全員等しくおっさんだろ。そんな言葉を飲み込んで、改めて全員を見る。
かつては皆、乙女ゲームのパッケージを飾っていたイケメン達だったのだろう。しかし今はおっさんだ。老けてはいるが、顔立ちは整っているしいわゆるイケオジと言って差し支えないと思う。しかしおっさんだ。さっきも私を助けてくれたし、頼りになると思う。
「あいた〜……湿布ってもうきらしてるんだっけ?」
「薬草摘んでこないとないですよ」
「それなら早く摘んで来い最年少!」
「無理無理、しゃがむの膝が辛いですし」
……しかし全員おっさんだ!!
一抹の不安を覚えるものの、私が元の世界に帰るためにはこの人達に頼るしかない。
「よ……よろしくお願いします……」
さっきは会釈程度だった頭を、今度は深々、土下座の勢いで下げた。
「あと私、そこまでまだどこも痛めてないので薬草? 摘みに行けますよ……」
「本当に!?」
全員の声が揃う。
やっぱり不安だ……。
♢
予言通り、私がこの世界にやってきた翌朝には魔王が復活したという報せが入った。
それ即ち、3人のおっさん達と私が魔王討伐の旅に出ないといけない合図でもある。
「大体、30年も猶予がある間に新しい討伐部隊くらい組んでおけって話ですよね」
「仕方ないよ、アレン。予言の日から30年も何もないなんて誰も想像してなかったし」
「それに私を超える魔導師など現れなかったからな! 致し方あるまい!」
「30年母国に帰ってないのに見てきたように言ってる」
「ああいうの井戸の中の蛙って言うんですよね」
「聞こえてるぞ若造二人!」
「そう年齢変わらないだろ」
カーテンの向こうでしているゆるーいおっさん達の会話を聞いていると、本当に大丈夫なのかという気持ちが襲ってくる。
いや、多分大丈夫。叔母さんがゲーム自体はそこまで難しくないって言ってたし……。
「これで大体準備は終わりか?」
「セオドア、老眼鏡忘れてる!」
「もうボケたんですか」
「ボケてない! ちょっと忘れただけだし!」
……いや、やっぱ大丈夫じゃないかも。
しかしもう腹を括るしかない。セオドアさんが物質精製魔法で準備してくれた服に着替えて、カーテンを開く。全員の目が私に集まった。
「おお、よかった! はちきれてないな!」
「セオドア!」
おかげさまでこのわがままボディにぴったりです……。
恐ろしいくらいのフィット感に戸惑うものの、ウニクロのルームウェアと裸足で外を出歩くわけにもいかないから助かった。
生成りのシャツに軟い生地のスラックス、歩きやすいペタンコの靴。焦茶色のリボンで髪を縛れば、荷物なんて何も持ってない私の旅の支度は整った。
おっさん達もちょうど旅の準備ができたらしく、部屋の隅には3人分の荷物がこてんと置かれている。あとは出発するだけという中、レイモンドさんがテーブルの上に地図を広げた。
「魔王城は大陸の最北端、インフェルヌスに建てられる。予言によれば、だけど」
「今回時期を大幅に外しましたからね。全部鵜呑みにするのは危険かもしれません」
「しかしこれ以外に手がかりもない。インフェルヌスに向かう他ないだろう」
「あの、移動手段は……」
恐る恐る尋ねると、アレンさんが淡々と「馬車の予定でした」と答えてくれる。
「しかし30年前の話なので、馬はもう……」
「ああ……」
新しい討伐部隊も準備してなけりゃ新しい馬車も準備してなかった、と……。今からでも準備してもらいましょうか、とアレンさんに言われたけど断った。そんなことに時間を割く暇があったら早く魔王城に行きたい。
「まあ、道中で馬車や馬くらい買えるしね。それくらいの買い物は許されてるから」
「まったく、30年も何もなかったとは言えこうも準備不足だとはな」
「セオドアさんも昨日までもう何も起きないんじゃないのかって言ってましたよ」
「黙れ小僧!」
どっかで聞いたことのあるセリフを言いながら、セオドアさんが立ち上がる。それに倣うように後の二人も立ち上がって、荷物を抱えた。
「まあ聖女様が歩き疲れてもそこの筋肉バカが抱えてくれるだろうよ」
「申し訳ありませんが私達には抱えられません。重そうなので」
「あ……はは……」
「セオドア! アレン! 失礼! 謝んな!!」
「事実を言っただけだろう!」
「太っているのは別に悪いことじゃないでしょう。失礼と判じる方が失礼なのでは」
「屁理屈こねない!! ごめんハヅキさん……二人ともその、だいぶ性格が……」
「いえいえ……まあ乙女ゲームのイケメンってこんなもんですよね」
「ん? なんて?」
「いえ、何でもないです」
イケメンは性格に難があるもの。色んなゲームをやってきた私はそう自分に言い聞かせて、3人の後を追うように山小屋を出た。
♢
昨日目覚めた時には全然気付かなかったけど、冷静になって歩いてみるとここが中世ヨーロッパ風のゲームの世界なんだって分かる。
まず舗装された道がない。どこを見渡しても黒いアスファルトはなく、人が何度も踏み潰して作ってきたのだろうでこぼこの土の道しかない。
そして歩けど歩けど車の音や飛行機の音、機械で動くものの音が聞こえない。普段は気にしたことなかったけど、ああいう音がないと森の中ってこんなに静かだったんだ。
きょろきょろと落ち着きのない私が心配になったのだろうか。3人の歩調は少しずつ遅くなり、ついには止まってしまった。
「……ハヅキさん? どうかした?」
「あっ、いえ、あの……あまりにも元の世界と違ってて……」
「もしかして神の国には木や森がないのか?」
「ありますあります! あるんですけど……」
「……少し興味があります。神の国の話を聞いても構いませんか」
アレンさんの目が少し光ってるように見える。……これは結構興味があるんじゃないか?
「神の国の住み心地がよさそうであれば終の住処にしたいので」
「ああ、遊牧民ニルヴァはもうほぼ全滅してるからね」
「ええ」
「へえ……って、え!?」
だいぶ重い過去をさらっと話したよ今!? 全滅ってことは、友達も家族ももういないってことだよね!?
乙女ゲームのキャラだしある程度の重い過去は覚悟してたけど、だけど。
「大体子供一人連れて行くのに本気出しすぎなんですよ世界中。ほぼ私刑でしたからね」
「ニルヴァの連中が貴様を大人しく差し出さないからだろうが! 魔王討伐に必要だって言ってるのに出し惜しみおって!!」
「まあ……今になって思えばもう少しやりようがあったよなあと……」
「レイモンドさんの国が一番酷かったですよ。族長人質にされたら従うしかないじゃないですか」
「ごめんって……」
ごめんってアンタ、そんなんで済むかい。
ギスギスしていたパーティが聖女の存在で和やかになっていく。これはそういう乙女ゲームのはずだ。
「しかし神の国の永住には私も興味があるな。何せ聖女を産んだ国だ。我々の知らない知識や魔術が蔓延ってるかもしれん」
「好奇心もほどほどにしなよ、セオドア。魔王に寝返りたいって騒いでたの一生忘れないからな」
「ギャ!! 忘れろ!! 若かったんだ!!」
「復活するかも分からなかったのに魔王と共に文明を作るんだって騒いでましたよね」
「ヒーーー! やめろ!! そんなこと言うならそこの筋肉も自分に世界を救う資格はないって騒いでただろうが!!」
「飛び火やめて!! 若かったの!!」
「魔王復活すらしてないのにお二人とも賑やかでしたよね」
「ハァ? 貴様も賑やかだったが? 魔王討伐したら我々を殺すって言ってたあの時の眼光はどうした?」
「覚えてません」
「ここまで来て嘘つくなよアレン!」
……私がいなくても、30年という月日はこの人達の尖りを削った。触れ合っても傷つかないくらい、お互いに丸くなっていた。
きっと30年前のここに私が来ていたら、世界を救う資格はないというレイモンドさんを慰めたのだろうし、魔王に寝返ると言い出したセオドアさんを必死で止めたのだろうし、一族を滅ぼされたアレンさんに寄り添ったのだろう。だけど。
『君、なんのためにここにいるの?』
前に上司から言われた言葉が頭の中を反響する。
私、何のためにここにいるんだろう。
賑やかに話す3人を見て、そんな言葉を飲み込んだ。この場に私はいらない。でも、私が元の世界に帰るためにはこの人達を頼って魔王のもとへ行くしかない。
「それで、神の国ってどんなところ?」
「……よく考えたら、あんまりここと変わらないかもです」
どちらの世界も、私を必要としていなかった。
♢
魔王城に向かうための最短ルートを行くには、まず森を抜けたところにある小さな農村を突っ切る必要があるらしい。老眼と戦い、地図と睨めっこしながら歩くレイモンドさんについて行くと、夕方になる頃には小屋と家の中間くらいの建物が乱立する村に辿り着いた。
「日が暮れる前に森抜けられてよかった……セオドアが膝痛いから休憩って言い出した時は終わったと思った……」
「ハァ!? 私があそこで休憩の英断を出したからこそ無事に辿り着けたんだろうが!!」
「だいぶ序盤でしたよ。50過ぎると体力がガタ落ちするって本当だったんですね」
「ガタ落ちしとらん!! 予防に毎朝体操しとるだろうが!!」
会話の加齢臭がヤバいけど、とにかく人里に着けたことに安心して、今度は私の膝から力が抜ける番だった。ふらついて後ろに倒れた私を「おっと」とレイモンドさんが支えてくれる。
「大丈夫? ハヅキさんにも無理させたかな」
「だっ、大丈夫です!」
顔が近くて、思わずその腕から逃げるように飛び退いた。
顔がいい……!! おっさんなのに、乙女ゲームの攻略キャラだから無駄に顔がいい!!
「あっ、筋肉が聖女を怖がらせている! 本当どうしようもないな貴様は」
「えっ!? 怖かった!?」
「あっ、いや違」
「ハヅキ様、この人そんなに怖くないですよ。騎士団長とか立派な肩書きはあるけど基本は乙女趣味のおじさんです」
「おじさんって! アレンも人のこと言えない年齢だろ!!」
全員おっさんなのは見ればわかる。そうだ、全員おっさんだ。そう自分に言い聞かせて、呼吸を整えた。
「大丈夫です……あの、この村を突っ切るんですよね?」
「いや、今日はここで宿屋を探して泊まろう。夜は魔物の動きが活発になるから」
「でも、急がないといけないんじゃ……」
「急いては事を仕損じるという言葉もある。無駄に焦って暗い中で魔物と戦闘して全滅じゃ洒落にならないだろう」
……確かに、この世界の明かりはなんとも心もとない。家の灯りも、歩く道を照らしてるセオドアさんの魔法もどこか薄らぼんやりしていて、足元がやっと見えるくらいだった。
仕方ないか……確かに、焦って死んだらそれこそ元も子もないし。
「わかり、ました……」
「じゃあ村に入ろうか。ないと思うけど、ハヅキさん。知らない人についていかないように」
「はぁ……」
なんだか必要以上に子供扱いされてるような気がする……いや、そりゃそうか。この人達からしたら小娘みたいなもんだよな。
おっさん達に囲まれた状態で村の中へ入ると、余所者の気配を察知したのだろうか。窓から何人かの人がこっちをのぞいてきた。
突き刺してくる男の人たちのじっとりした視線。なんだか値踏みされてるみたいで気分が悪い。それを察したのか、アレンさんがす、と壁になるように隣に立ってくれた。
「あ……ありがとう、ございます……」
「いえ……視線を怖がる動物も多いので、癖で」
私ゃ動物と一緒か。
宿屋を探してとぼとぼと歩いていると、魔法で照らされた先にぼんやりと腰の曲がった影が見えた。
「ヒッ!」
「ハヅキ様、落ち着いてください。人間です。魔物じゃないです」
分かってはいるけど急に現れるとびっくりするでしょ!! しかしおっさん達は誰一人驚いていなかった。それどころか、腰の曲がった影……おじいさんに向かって「こんばんは」と話しかけている。コミュ力強すぎだろ……。
「その軍服に銀髪……魔王討伐部隊のグレイブ卿とお見受けしました。ついに出立されたのですね」
おじいさんはしゃがれた声で言った。なんだかそれを不気味なものに感じるのは疑いすぎだろうか。
「私はこの村の長をしております、ゴートと申します。今夜の宿に困っているのでしょう。ちょうど空き家があります。今夜はそこに泊まって行ってください」
「それはありがたい。急に押しかけたのに、お心遣い痛み入ります」
さっきまでぎゃあぎゃあ騒いでたおっさん達は恭しく頭を下げる。私もそれに倣って頭を下げると、セオドアさんから「女はこうだ」と胸に当てていた手を腹に添えるように指摘された。
「それではご案内しましょう」
なんだか嫌な予感がする。でも、きっと気のせいだ。私は昔から些細なことを気にし過ぎるところがある。だからこんな病気になって、28にもなって実家でニートしてるんだ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。言い聞かせながら村長のおじいさんに着いていく。なんだか善意で舗装された道を歩いているような気がしてままならなかった。
♢
「ふう……」
シャワーを浴びた後、私の寝室として準備された部屋に入る。清潔なタオルとシーツ。ポンプ式とはいえちゃんと出る水道。村長さんから夕飯だと言って渡された味も見た目も素朴だけど現代日本と大して変わらないレベルのパンとスープ……。
ここはやっぱり本当の中世ヨーロッパとかじゃなくて、ゲームっぽい都合のいいファンタジー世界なんだなあ……。
ベッドに寝転ぶと、歩き疲れたのもあってかすぐに眠気が襲ってきた。
そういえば、この世界に来てからちゃんと朝に起きて夜寝てる。悪魔も大して見ていない。薬もろくに飲んでないのに。トリップのせいで体が変になったのかな。それとも、仕事探さなきゃっていうプレッシャーから逃げられた安心感かな。
そんなことを考えていると、瞼が少しずつ重くなってくる。髪の毛乾かしてない。でも、今はいいか……。
叔母さんはこのゲームを「気持ちがどん底に沈む」と言って私に寄越してきた。鬱病の姪になんてものを勧めるのかと思ったけど、今のところそんなに鬱要素はない。
そりゃ、あの化け物の見た目にはビビったけど。もっと可愛い感じの魔物が出るもんじゃないの? 乙女ゲームって。
あんな気持ち悪いのが出るなんて予想もしてなかった。
でも魔物が気持ち悪いくらいじゃ鬱展開って言いづらいよね? あの3人の過去とか、軋轢を解決する過程で鬱イベントがあったりしたのかな。それとももっと別の……。
意識がどんどん深いところに沈んでいく。体と意識が離れていくような感覚に身を任せてると、どこか遠くの方で声が聞こえるような気がした。上司とか、後輩の声? 違う、お母さん……も、違う。知らない声だ……。
「井戸に撒いた薬が効いたみたいだ。よく眠ってる」
「正直言ってあの3人に勘付かれないかは賭けだったが……」
「何、大国の騎士団長様も高名な魔法学者様も無敵の召喚術師様ももう随分歳をとって耄碌したんだろう」
「30年前は皆選りすぐりの強者だったのに、時の流れというものは恐ろしいなあ」
何? 何の話してるの……? 体が浮いたような感触がする。
嫌な予感の正体が、ここでやっと掴めた。この村、女の人がいないんだ。
♢
「ここ……」
目が覚めると、知らない場所にいた。地面が湿ってて気持ち悪い。それに、ここすごく暗い。目が慣れてくると、ここは洞窟で、ずいぶん遠くに出入り口らしき穴があることが分かった。
そこから海が見えるけど、そこには辿り着けない。洞窟の途中に鉄格子がかけられていて、私はその内側にいるからだ。
「何これ……どういう、こと……?」
まだうまく回ってない頭で、意識朦朧としてる中聞こえた声を思い返す。薬……私眠ってたんじゃなくて、眠らされてたんだ……。
でも、何のために……。
「ああ、お目覚めですね。聖女様」
洞窟の入り口から、しゃがれ声が聞こえた。
「村長……さん……」
「意識もいくぶんかはっきりしてきましたか」
村長さんはさっき私達を空き家に案内した時の優しげな顔が嘘みたいに、険しい顔でこっちに歩み寄ってきた。
「これ、どういうことですか! レイモンドさん達は……!!」
「まだあの空き家でしょうね。よく眠っていますよ」
「なんで私だけここに……!!」
「聖女様、我々には貴女が必要なんです」
村長さんは洞窟の入り口に目を向けて、「どうぞ」と大きな声で言った。
すると、べた、と水かきのついた手が洞窟の入り口から現れて岩肌を掴んだ。その手の向こう側にある化け物の姿を見て、私は悲鳴をあげることすらできなかった。
「………………っ!!」
半魚人という表現が一番近い。ぬめぬめと光る鱗に覆われた肌。魚そのもののような頭に人間に近い形をした体。首の左右にはえらがついていて、呼吸しているのか肩と一緒に上下に動く。
「『ソレ』が聖女カ?」
それは喋った。喉の奥に粘った水が絡んだような不愉快な声だけど、流暢に人の言葉を話してる。それが余計におぞましくて、吐き気が迫り上がってくるのをごくんと飲み込んだ。
「はい。手の紋章、間違いございません」
「ソウカ、ソウカ……孕めるのカ?」
「それは……してみないと分からないでしょう」
孕めるって何? なんであの化け物はこっちに来るの? 後ずさろうとした時に、自分の腰が抜けてしまってるのに気付いた。
「あの、私これから……どうなるんですか?」
「聖女様は……この村を守るための生贄になっていただきます」
「生贄……?」
村長さんは憐れむような目で私を見た。それがとてつもなく申し訳なさそうで、私はさっきまで浮かんでいた文句が全部吹き飛んでしまった。
「……今から半年ほど前でしょうか。我々の村は、深きもの達に襲撃を受けました。村民の全滅を防ぐ唯一の手段として、彼らが提案してきたのは女の生贄を差し出すことです」
ひた、ひた、と湿った足音がゆっくりと近付いてくる。
「老若は関係なく、村中の女を差し出しました。彼らの目的は繁殖です。胎さえあればいいのです」
化け物が近付いてくるほどに生臭い匂いが強くなる。
「聖女様のことを奴らに話した時、聖女様を差し出すのであれば今までの生贄を全て返すと言われました。我々にはあなたしか希望がないのです」
村長さんががちゃん、と鉄格子の錠を解いた。ぎいい、と扉が開いたのに、逃げれるのに、腰が立たない。足が動かない。声が出ない。
「お願いします、聖女様。我々には貴女が必要です」
縋るような声に、昔の記憶がフラッシュバックした。
子供の頃のこと。学生時代のこと。社会人になってからのこと。会社をやめてからのこと。そこまで思い出して、これは走馬灯だとやっと気付いた。
必要なのかな。私が我慢したらいいのかな。私がここでまた自分を甘やかして逃げたりしたら、また誰かが迷惑を被るじゃないかな。私が我慢したら。私が、もっと頑張ったら。
化け物の手がこっちに伸びてくる。
「サア聖女よ、その身をダゴンとハイドラに差し出せルナ?」
ひたりと冷たい手が触れた瞬間に、私は全てを受け入れる覚悟ができた。……つまりは、諦めた。
はい、と返答しようとした時だった。
「ふんぐるい・むぐるうなふ・つぁとぐぁ・んかい・うがふなぐる・ふたぐん」
奇妙な呪文が耳に届いて。
「ンカイで眠る空腹の神よ……あなたの落とし子、お借りします!」
それまで聞いたことのない声量のアレンさんの声が洞窟の中に響いたのと同時に、化け物の体を、黒い液体のような何かが貫いた。
「ウガァッ!!」
化け物の体から溢れ出した血がばしゃりと顔にかかる。臭い、生暖かい、不快、色んな気持ちが襲ってきたけどそれどころじゃなかった。
「ショゴスと違ってちゃんとした主がいるので、一撃従わせるのでやっとです。あとお願い出来ますね」
「ああ!」
「無闇に突っ込むなよ、援護に回るこっちの身にもなれ!!」
洞窟の入り口から入る月明かりを背に受けて、見知った影がこっちに迫ってくる。腹から派手に血を流した化け物が振り向いた時にはもう遅く、斧を持ったレイモンドさんが化け物の眼前にいた。
「このッッ……主を持たぬケダモノガ!!」
化け物はその鋭い鉤爪をレイモンドさんに振り下ろそうとしたけど、セオドアさんの魔法陣によってばちんと音を立てて弾かれる。そのバランスを崩した一瞬。
「っだあぁぁあ!!」
化け物の首は宙を待って、司令塔を失った体が何歩か歩いた後に、べちゃり。地面に、叩きつけられた。
噴き出す血液が悪臭とともに周囲を穢す。心臓がうるさいくらい鳴る。冷えた肌に体温が戻ってくる。
……生きてる。
「ハヅキさん、大丈夫!?」
「まったく、揃いも揃って寝こけるとはな! 追跡魔法をかけていた私の手柄だ! 讃えろ!」
「あなたも寝こけてたでしょうが」
へたり込む村長さんを無視して、三人の男は私に目線を合わせるべくしゃがみ込む。腰も膝も辛いはずなのに。
私が我慢すれば、生贄は帰ってきたのかもしれない。私が我慢すれば、全部うまくいったのかもしれない。でも、それでも。
「こわ……こわかったぁ゛…………!!」
ただ生きてることが嬉しくて、私は子供みたいに泣き喚いた。
♢
「あの、もう大丈夫なのでおろしてもらってもいいですか……」
「腰が抜けてる状態で大丈夫もクソもないでしょう」
「大人しく背負われておけ、聖女。元はと言えば貴様が捕まったのが悪いのだ」
「それを言うならみすみす攫わせた僕らの方が悪いでしょ……」
レイモンドさんに背負われた状態で洞窟を出る。外には広大な海が広がっていて、潮の匂いがさっきの化け物の悪臭を掻き消すようだった。
三人は目が覚めたら私がいないので慌てて探しに来てくれたらしい。その道中でさっきの化け物……深きものと呼ばれる魔物の群れに襲われて撃退したので、大体の根城の見当はついてるらしかった。
一人で歩けもしない私がそこに行きたかったのは他でもない。もしかしたら生贄の人達が無事かもしれないと思ったからだ。
私は生贄になれなかったけど、あの魔物を3人が倒してくれてるなら、もしかしたら……そんな淡い期待を胸にぎゅっとレイモンドさんの服を掴む。そんな私を見て、アレンさんがため息をついた。
「……期待するだけ無駄と思いますけどね」
「アレンさん?」
「……何でもありません」
とぼとぼと夜道を歩いて、おそらくここが根城ではないかとセオドアさんが指差したのは、私が閉じ込められてたそれよりもっと大きく深い洞窟だった。
中から悪臭がする。奴らがまだいるかもしれない。一刻も早く助けないと!! 私が生贄にならなかったから助からないなんてあっちゃダメだ、絶対に!!
その一心から、レイモンドさんの背中から飛び降りて、止める三人を置いて暗い洞窟を走って行った。
私が生贄になるから、私が必要なことってきっとそれくらいだから、だからお願いします。私のせいで誰も死なないでください……!
祈るような気持ちで奥へ奥へ進んでいくと、何か硬いものに躓いて柔らかい地面の上に膝を叩きつけた。
「あたた……」
おかしい。結構深くまできたはずなのに、あの化け物がいない。ならこの悪臭はなんだ?
さっきの魔物はどこか魚臭かった。でもこれは、それとはまた違う匂いだ。なんだろうこれ。嗅いだことが……。
「聖女よ。何を見ても吐くなよ」
後ろから肩を叩かれて、耳元でセオドアさんの声がした。
ぼう、とマッチの火を灯すように、小さな灯りがセオドアさんの掌の上に現れる。それがあたりを照らして、匂いの正体を見た時……私は、セオドアさんのさっきの言葉を理解して、吐いた。
そこには無数の遺体が転がっていた。全部女性のもので、中には妊娠してるように腹が膨れてるものもある。その大半が蛆虫がわいてしまうほどに腐っていて、饐えた匂いが充満している。
胃が縮みそうなほど吐き尽くす私の背中を、セオドアさんが彼らしからぬ優しい手つきでさすった。
「……酷いね」
「ろくに世話もせず産む道具として扱われたんだろう。……見ろ、大人が子供を食った痕跡がある」
「極限状態になると人間何をするか分からないものですね」
冷静な三人に対して的外れな怒りが湧き上がってくる。でもそれも吐き気と涙で消えた。
結局、私が生贄になっても誰も助けられなかったんだ。私は結局、誰にとっても必要じゃなかったんだ。
何のためにここにいるの? 現実にも居場所がないのに、ここにもいる理由がないの? こんな悲しい光景を見た後なのに自分のことばっかりで、自己嫌悪が余計に吐き気を誘う。
そして、ついに。
「私が死ねばよかったぁ……」
吐物と一緒に本音まで溢れた。
「私が死んでたら、私の方が死んでたら誰も死ななくて済んだかもしれないのに、私のせいで誰かが死ぬなんてことなかったかもしれないのに」
社会人になって5年経った頃、上司から新人のサポート係を任された。私も新人の頃はサポート係に5年目の先輩がついたし、ごく自然なこととして受け入れられた。
でもその後が問題だった。
私の担当した新人の子……雨宮さんは、私の想像を遥かに超えた問題児だったのだ。
雨宮さんのミスのフォローをして、分かってないことを丁寧に教えて、雨宮さんが起こしたトラブルを処理して、また分かってないだろうことを教えて……正直、キリがない地獄だった。
一刻も早く解放されたい。そんな気持ちを抱えながらなんとか勤務していたが、ある日雨宮さんが泣きながら部長に訴えた。結城さんにパワハラを受けている、と。
忙しさでついそっけなくしてしまった。でも世間ではそれをパワハラと呼ぶらしい。私は一日にして新人イビリをする最悪の先輩となった。
でもそれだけならまだよかった。「確かに雨宮さん顔が可愛いからって甘えてるよね」「実際覚え悪いし、部長がデレデレしてるのまじ最悪」……そんな風に、一緒に愚痴ってくれる同僚だっていた。
だけど、雨宮さんが自殺した。遺書の内容は詳しく教えてもらってない。でも学生時代の同級生に並んで、私の名前も書かれていたことだけは風の噂で聞いた。
新人イビリじゃ済まされない、新人を自殺に追い込んだ最悪の先輩。もう職場から逃げた今でも、そのレッテルが剥がれない。
「私が死んだらよかったよぉ……」
今でも雨宮さんのことをずるいと思う。死んだだけで、死ぬ勇気があっただけだ。それだけなのに私一人を悪者にして、とっとと逃げていってしまった。
こんな風に考えるのは最低だって分かってる。だけど、自分に甘い私は責任転嫁をやめられない。自責の念から逃れないと本当に動けなくなってしまいそうだから。
しゃがみ込んだまま吐物の中でしゃくりあげる私の肩に、ぽん、と硬くて温かい手が乗せられた。
「……生き残っちゃったものは、しょうがないよ」
レイモンドさんが、少し諦めたような優しい声で言った。
……しょうがない? しょうがないなんて、そんなことで済ませていいの?
「ふむ……私は自分が死ねばいいなどと思ったことはないし自分が死ぬくらいなら全人類が滅亡した方が割に合うと思っているが」
「セオドアはそうだろうな……」
「これに関しては筋肉の言う通りだ。我々は皆、たまたま生き残ったのだ。仕方ない」
そんな、偶然みたいな言葉で終わらせていいわけない。なのに、つま先から少しずつ体温が戻ってくる感触がする。
「生きるか死ぬかなんて時の運です。それを自分のせいみたいに言うのはあまりにも烏滸がましいと思いますよ」
アレンさんが死体の山を眺めながら言った。
「さ、たまたまとは言え生き残ってるからには仕事があるよ。お墓たてないと、こんなところで腐らせておくわけにはいかない」
「おっ、出たな墓屋のグレイブ卿!」
「揶揄うなセオドア! 僕の二つ名ってそういう意味じゃないだろうし!」
「ハヅキ様はそこで水でも飲んで休んでいてください。重労働なので」
おっさん達は辛そうに腰を上げると、ごきごき関節を鳴らしながら死体の山に躊躇なく触れる。一人一人大切なものみたいに抱え上げて、洞窟の外へ向かう後ろ姿に、パッケージで見たイケメン達が重なりそうだった。
「あ……あの、私もお手伝い……します」
「え? 休んでていいよ、辛いだろ?」
「だ、大丈夫です……多分……」
生き残ってしまったものは、しょうがない。
そんな気休めみたいな言葉が、ふらつく私の脚を支えた。
「もう吐くものないですし、こんなにいるんじゃ皆さんだけじゃ大変ですよ」
怖い気持ちを堪えて、覚悟を決める。もう腐乱した子供の死体に触れると、ぽっ、と手の甲の紋章が輝いた。
「えっ!?」
全員の声が揃う。だって、私が触れた瞬間……腐乱した子供の死体だったものが、安らかに眠る女の子の遺体に変わったのだ。
「えっ、これ……え!?」
「……予言では聖女は癒しの力があるとしか記されていませんでしたが、これは……」
「癒しの力って……治癒魔法、ってこと?」
「何!? この私の知識と技量をもってしても開発出来なかった、あの治癒魔法か!!」
治癒魔法……私が!? でも、確かに触れた瞬間に溶けた皮膚も折れた骨も何もかも治ったけど、まさか……。
困惑する私を置いて、おっさん達は顔を見合わせる。
「これは、少しくらい無茶をしても大丈夫なんじゃないのか?」
「そうだね。早く済ませるのを優先しよう」
「賛成です」
「えっ、なんで……」
おっさん達が各々ドヤ顔をする。
「治癒魔法があるから!!!」
ああ……どこ壊しても、大丈夫ってことね……。
♢
私はきっと、回復要員としてこのパーティにいるのだろう。このおっさん達すぐ膝だの腰だのが痛いって言い出すから。
「ごめんハヅキさん……肩が本当に上がらない」
「さっきの戦いで無茶するから!!」
今日も今日とて旅の道中で魔物が襲ってきて、おっさん達は勇敢に私を守ってくれるんだけどその度にどこかしら痛めて帰ってくる。
最近はかつての美青年だったこの人達に触れることに躊躇がなくなってきた。だって触らないと治らないし。
「レイモンドさん、魔物を叩いた時ゴギッて音したから終わったなと思いました」
「ふははははは! いくら鍛えても寄る年波には勝てんなあ!」
「……そういうお二人はなんで並んでるんですか」
「私は膝が痛いです」
「私は腰だ!! 今朝の体操で痛めた」
「湿布貼っとけ」
生死なんて時の運で、偶然だ。生き残ったものはしょうがない。そう言われた日から、なぜか一度も悪夢を見ていない。
あれで救われたとは言わないけど、気が楽になったのは確かだろう。……私に気が楽になる権利なんかないのかもしれないけど、生き残ったんだから気が楽になることも落ち込んだりすることもある。しょうがないんだ、全部。
「……なんかこういうの性に合ってる気がします。元の世界戻ったらこっち方面で仕事探そうかな」
「へえ? 神の国ではこういう仕事はなんて言うの?」
「……介護?」
恐らく言葉の意味が分かってない三人が同時に首を傾げるのを見て、思わず笑ってしまった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
「私なんて誰からも必要とされてないし死んだ方がいいよね」とかほざいてる輩に向けて書きました。うるせ〜〜〜〜! 必要とされるとか生きる意味とかいらねえからとりあえず飯食って寝ろ〜〜〜〜!!
琴線に触れれば幸いですし、何かしらの形で好き♡の気持ちを伝えてくれたらもっと嬉しいです♡