31ページ目:変化
「へぇ...」
耳に届いたのは、今日幾度目かの感嘆の声。
紛れもない、敵の声。
「ほんとすげぇなぁ。」
「ぐぅっ...」
ザクザクと枯葉を踏み潰し、こちらへ悠々と彼が歩いて来ているのはわかっているのに、私の体はそれに反応することが出来なかった。
「あ"ぁああ"あ"ぁああぁぁあ"っ!!」
失われた両腕の痛みが、それを許さなかった。
「ほんとすげぇよ。爆裂する直前に後ろに跳んで衝撃を軽減すると同時に魔力で強化した両腕を滑り込ませて即死を回避する、だなんて素人が咄嗟にできることじゃない。」
「ぎっ、ぐ、あ"ぁああ"...!」
血の匂いが鼻のさらに奥の奥から香る。爆発の時に内臓がやられたらしい。
呼吸をするだけで痛い。
脈動するだけで痛い。
辛うじて幸いにも、傷口は焼け爛れているからこれ以上出血が酷くなることはないだろうけど、それでも、
この痛みはあまりにも受け入れ難い。
「異常なほどの戦闘勘、あいつとの契約を受け入れられるほどの器、そしてそれを持っていても尚他に馴染める凡庸さ、お前には興味が尽きないよ。」
「ひ...や、来ないで...!助けて...!」
目の前に立ちはだかる小柄な体躯の男に対して、あまりにも無様な命乞い。
黒く煤けた手を前に突き出して、背中を擦るようにして後ずさる。
心底ではわかってる。こんなことをしても見逃してくれるはずがないって。でも、そんな藁にも満たないものに縋らなければ、心が壊れてしまう気がしていた。
「安心しろよ。ちゃあんと魂は保管しといてやる。身体をいじくり終わったら蘇生してやるよ。当然その後にも実験には付き合ってもらうが...まぁ、全部終わってまだ原型保ってたら解放してや──ありゃ?」
駆け出した。
怖くて恐くてこわくてコワくて。
背中を見せて全力で、街があったはずの方向へ。
無い手を振れば振るほど、大気と擦れる傷口は痛みに疼く。けれどそれでも死ぬ気で足を、腕を回す。白色の大男と、大亀と相対した時よりも明確な死のイメージ。
まとわりつくように周りに漂うそれを振り払うために。
「くくっ、逃げるなんてあんまりじゃねぇか?」
それでも影は着いてくる。
どれだけどれだけ。
どれだけどれだけどれだけ。
走れど転べと影は剥がせず壁は近づかない。まるで地面を足踏みしてるみたいな。動く床と逆向きに進んでいるような。
男が歩いているようにも、ましてや走っているようにも見えないのになぜだか声は耳元から聞こえる。追いつかれていると理解するにはそれだけで十分で、恐怖をより増幅させられるのもそれだけで十分だった。
「ひとまず止まれってくれや。」
「──ぁぎっ...!」
なんの予兆もなくふくらはぎから短い刀身が覗いた。それは紛れもなくさっきまで私が持っていたナイフのものだ。
私の右足に穴を開けて見せたそれによって、私は走ることが出来ず、前のめりに転げた。
腕も痛けりゃ足も痛い。
無い手では満足に受身を取ることもできず、顔から枯葉と青葉の上に倒れ込んでしまう。
「これ以上時間を稼がれても困るんでな。そろそろ茶番も追いかけっこも終わりにしよう。ティオが来る前にお前を回収したい。」
うつ伏せの私の上からそんな声が降りかかる。
上、どころか、耳元。
囁くようなその声は、明確に私の命の終わりを告げていた。
「おやすみ。」
ぴとりと、背中に這わされた手が熱を持つ。目の端に、先程とは比べ物にならないほど膨大な光量の朱が覗く。熱はさらに増していき、光はさらに強くなり。そしてその熱で肉が焼ける匂いが鼻腔をくすぐったその瞬間、
鼓動が止まるのを不思議と感じた。
***
ふぅ、と。男は息をついて見下ろした。
その視線の先にいるのは先程自分が殺した、胸に半径10センチ程の穴をあけた少女。目を開けたまま死んでいる。
首に手を当て脈をはかる。うん、確かに心臓は止まっている。そりゃまあ無い心臓で鼓動を刻むことなんてできるはずもないのだが。
それにしても危なかった、と男は再び、今度は先よりもさらに深く息を息をつく。戦闘を苦手とする自分からすれば、この女は非常にやりづらい相手だった。
身体能力も魔力も、戦闘勘ですら長命な自分をはるかに上回る。きっと、もし恐怖せず立ち向かって来ていたら自分が血に伏し倒れていただろう、と。
思考を恐怖に誘導したのは自分自身なのだけれども。
しかしだからこそ男は不思議でたまらない。どうしてティオはこの程度で恐怖するような弱い人間を主としたのか。当然、あいつの主となれる人間がその時点で希少であるというのはあるだろうが、だったら主をつくらなければいいだけの話だ。
実際に《大戦》ではあいつに主なんていなかった。それに不都合がある訳でもないだろうに。
それとも、この女には自分が気がつけなかった特異性があったのだろうか。だとしたら勿体ないことをした。死んでしまっては特異性を発見することが出来ないかもしれない。
それはそれで構わないのだけれど。
「さて、そろそろ帰るとするかね。エットの野郎は何をしてるんだか。」
誰ともなくそう呟いた男は、ノルの死体を脇に抱えて黒い箱を開く。呑気にも鳴き声をあげる鳥達に薄く微笑んで帰路を辿る一歩を踏み出した──いや、
踏み出せなかった。
「ありゃ?」
がくんと姿勢が崩れる。重心が傾き、膝を着いて、そんなに疲労していたのかと自嘲気味に笑う。
そして、
遅れてやってきた鈍い痛みに笑い事ではないと気がついた。
「ん〜?」
痛みの走った部位に目をやる。足。右足。右足が膝の先から無くなっている。断面は酷く醜い。皮が伸び切っている。まるで剛力で引き千切られたかのようだ。
ティオがついにやってきたかと身構える。しかし当たりを見渡しても、探知範囲を広げてもそこにティオの影は無い。ならばどうして?
その答えは、案外すぐに見つかった。
「うぐぉっ!」
肺から押し出されたような声と共腹部にに生じた痛み。そこには深々と手が──殺したはずの女の手が突き刺さっていた。項垂れ抱えられたまま、腕力だけでねじ込まれたその小さな腕が、ぐちゃぐちゃと臓器を掻き混ぜる。
そう、無いはずの手が。
「っち、なぁにをしやがるんだ...!」
男は焦ったように腹からその手を引き抜くと、手近な大木に向かってその死体だと思っていた体を投げつけた。
脱力した様子のそれは抵抗することも受身を摂ることも無く背中を強く打ち付ける。そしてぐったりと傷一つない五体を地面に投げ出した。
いかにして治したのか。
それを気にする余裕もない。男は早急に腹部の治療に取り掛かった。さしたる怪我でもない。男の実力であれば治すのに大した時間はかからないだろう。
だから、男にとっての問題は目の前の少女だった。
「んぐぁ〜...さっすがに痛えなぁ...」
腹部の傷に添えた手から、青い光を発しその傷を癒していく。その光量は例えばティオがサリアを治した時とは比べ物にならないほど強いものだった。
じくじくと音を立てて傷は癒えていき、男の荒くなった呼吸も次第に整っていく。その間、ノルは身動ぎ一つ取ることなく、ただちに顔を埋めているだけだ。
殺したはずの少女、心の臓まで止まっていたはずの彼女が明確に危害を加えてきたというその事実に、男の警戒心は高まっていく。
「...おい、生きてんのか?」
投げかけた声にも、その身は動かない。腹の傷を感知させ、次は無くなった右足に治療を施していく。今度は先程よりもさらに強い光で。
部位の欠損ともなれば、やはりそれだけ多大な魔力が必要になるわけだ。欠損した部位が残っていれば話は別だが、今回の男にとっては残念ながらそうはいかない。
なんせその足は、視線の先で倒れ伏した少女が握りしめているのだから。
「生きてんだったら返事をくれよ。これでも急いでんだから。」
誘拐の主犯としては、あまりにも身勝手すぎる男の言。
当然、男はそれを理解した上で耳触りの悪い言葉を連ねていく。
「ほれ見てみ?今だって怖くて怖くて足がぶるぶる震えてんのよ。」
ひとまず何か反応を得たい。
それが男の考えだった。
「ガキが大人をあんまり困らせるもんじゃねぇよ。そりゃあ痛い目に合わせたのは俺だが。」
男はまだノル・ブレイズという人間のことを知らない。だから手当たり次第に神経を逆撫でる言葉を選んで並べていく。
少しでも、
少しでも感情を揺さぶることが出来れば、勝ちだと確信しているから。
「このままじゃあ俺もお前もただじゃあすまねぇよ?だって──」
とはいえ並べる言葉に嘘はない。男は急いでいるし、さっさとここを去りたいのだ。
黒い箱。
あれは中身を丸々と隠すことが出来る。あれを開けてしまった今、再び閉めるのには手間がかかるし何より場所が悪い。
そして隠れていないということは、
「ティオが来ちまう。」
ぴくりと。
指が動いたのが見て取れた。
僅かに土を削りながら関節を曲げ動かす。その様子は正しく男が求めていた反応だ。
ティオ、という単語。もとよりノルはそれに過剰反応していたがここまでとは思っていなかった。
信頼、憧憬、恋慕、劣等、恐怖、歓喜、憤怒、畏怖、嫌悪、親愛、友愛、殺意。
はてさて一体目の前の少女はその名に何を思っているのか。未確定な情報が多すぎる。正直危険だと言えるだろう。
しかし勝負をかけるにはここしかないと、男は理解していた。時間があまりにも足りない。今ここにティオが現れてもいい頃合いだ。
「にしたってティオも驚くだろうなぁ。ご主人様が悪もんに攫われちまったら。ひょっとしたら王子様みてえに助けに来てくれるかもしんないぜ?」
ざり、と地を爪で掻く音。
確かにそれはノルが発したそれだった。
「それとも失望しちまうかな?手塩にかけて育てた相手が簡単に遊ばれちまって。もしかしたら怒るかもしんねぇな。その腑抜けたざまはなんだっ!見たいな?」
ミシミシと、握られた男の足が音を立て、そして破裂したように弾け飛ぶ。男からすればあまり見ていて気分のいいものではないが、まあいいだろうと自分を納得させる。
なんせもう足は治ってる。既に五体満足の身だ。
「ほれほれ、いつまでも寝てたら怒られちまうかもよ?んにゃ、もしかしたら怒られんのは俺か?大事な大事なご主人様をこんなにズタボロにしちまったんだから。」
ノルはゆらりと重量を感じさせない動きで立ち上がり、俯いたまま男と向き合う。どうやら刺された右足も、既に元に戻っているらしい。
そして──
「治しちまったなら仕方ない。」
ゆっくりと──
「もう一度手足をぶった切って、」
その顔を上げる。
「持ち帰らせて──...っ!?」
感嘆ではない。
初めて男は、驚愕に表情を染め、息を詰まらせた。
「おいおい...あいつ、これ知ってんのか?」
顔を上げた。
その少女の、ノルの眼球は、
宵闇のような漆黒に染まっていた。
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