【短編版】実家が破産したので、漆黒令嬢は大嫌いな冷徹王子と婚約しました
セレスト・エイマーズは漆黒令嬢のレッテルを貼られている。
もちろん、よい意味ではない。
彼女の黒く艶やかな髪は、古い迷信を信じる者にとって不吉の象徴。そして、ここ魔法アカデミーは、そういった迷信に敏感な輩の吹きだまりだった。
もともとセレスト自身、それほど積極的に人に話しかける性格ではないので、アカデミーで孤立を深めていた。
「ねえ、見て。漆黒令嬢よ。朝から不吉ね」
「本当。私だったらあんな髪、恥ずかしいから短くして頭巾で隠すわ」
「なのにあんなに長く伸ばして、しかも割と手入れしてるし。どういうつもりなんでしょうね」
「表情も不気味だ。ずっと無表情で、なにを考えているのやら」
廊下を歩けば、陰口がそこら中から聞こえてくる。
だが、正面から喧嘩を売る者はいない。
なぜならセレストは、筆記テストでつねに一位をキープし、三学年合同で行われる魔法戦闘トーナメントでも優勝の常連なのだ。文武共に最強の生徒と名高い。
ゆえに生徒たちはセレストを恐れている。話しただけで呪われるという噂があるらしい。
くだらない噂だが、そのおかげで陰口だけで済んでいると思えば、むしろありがたかった。
セレストは小国とはいえ王家の生まれだから、実家も息が詰まる場所に変わりはない。それでもこの留学先よりはマシだ。
卒業までの数ヶ月。淡々と授業をこなせば、アカデミーとおさらばできる。
漆黒令嬢に話しかける者はいない。
ただ一人を除いて――。
「セレスト。筆記テストの結果を見たか?」
廊下で立ち塞がったその男子生徒は、遙か頭上からそう話しかけてきた。
「フェリックスくん……ええ、見ましたよ」
セレストは首を上に向けて答えた。
それは彫刻のように顔が整った男子だった。銀色の髪も、アイスブルーの瞳も、普通の女子ならばうっとりと見とれるだろう。
だが、セレストにとって大嫌いな男子である。
彼、フェリックスは男の中でも特に背が高かった。だから視線の高さが違うのは仕方がない。
だが今は精神的にも見下ろされていた。
「ついに俺が一位だ。二位に転落した気分はどうだ?」
フェリックスは勝ち誇る笑みを浮かべ……てはいなかった。
いつもと変わらない氷のような表情で、淡々と語る。
セレストは周りから言われているように、表情が変わらないという自覚がある。それはこのフェリックスも負けず劣らず同じだ。
そして自分はどこか眠たげで、フェリックスは怒ったように目をつり上げている。
同じ無表情でも、迫力というか凜々しさが随分違うな、とセレストは密かに嫉妬していた。
「まあ、悔しいですよ。おめでとうございます、と素直に言いたくない程度には」
「悔しいか。それはよかった。なにせお前は感情が読めん。こうして聞かねば、俺の努力が実ったか分からない」
「はあ。私を悔しがらせるために一位を目指していたんですか」
「無論だ。これでようやく一つ、ベイレフォルト王家の面目躍如だ」
フェリックスの故郷ベイレフォルト王国は、セレストの故郷エイマーズ王国のすぐ隣。
どちらも面積は小さく、大国とはお世辞にも言いがたい。
だが同じ小国でも、フェリックスのベイレフォルト王国は鉱物資源の採掘で順調に経済発達している。
対して、セレストのエイマーズ王国は、ここ何年も天候不順が続き、農業も漁業も不作で、税収が減る一方だ。
隣国の王族として、フェリックスへの嫉妬は確かにある。
しかしそれだけで『大嫌い』にはならない。
そもそもセレストは他人に対し、あまり強い感情を持たないほうだ。
いつも陰口を叩いている連中を、どうでもいいと思っている。害がないからだ。
ところがフェリックスは陰口ではなく、こうして目の前に立ち塞がってくる。筆記テストが終わるたびに「いい気になるなよ」「図に乗るな」「次こそは討ち取ってやる」と絡んでくる。
もっと友好的なら、友達のいないセレストとしては歓迎だ。セレストは孤独に耐えるのを苦にしないが、好んでいるのでもない。
だが喧嘩を売られると憂鬱になる。いくら人付き合いに不慣れなセレストでも、フェリックスが悪意を持って立ち塞がっていることくらい分かる。
彼はセレストが大嫌いらしい。だからセレストもフェリックスが大嫌いだ。
嫌われるような真似をした覚えがない。きっとこの黒髪のせい。彼もまた古い伝承を信じて、見た目だけで人を侮辱する人間なのだ。
大っ嫌い。
初めて話したときは、ちょっといい人かもと思ったのに――。
「見て見て。フェリックス様よ。相変わらずお美しい……ねえ、誰かお茶会に誘ってみて」
「無理に決まってるでしょ。今まで何十人の子が冷たくあしらわれたと思ってるの。冷徹王子の異名は伊達じゃないのよ。せめてもう少し話しかけやすかったら……けど、あの氷のような表情が素敵……」
「ところでもうテストの結果見た? フェリックス様、ついに漆黒令嬢に勝ったのよ」
「いい気味よね。あんな暗くて孤独な奴がずっと一位なんて、アカデミーの名折れだもの。その点、冷徹王子は同じ無表情でも孤高の美しさ……それにしてもフェリックス様、漆黒令嬢となにを話しているのかしら?」
「それはもちろん、お前のような奴はアカデミーに相応しくないって話でしょ。成績しか取り柄がないのに、その成績が落ちたんだから。私だったら自分から退学するけど。って言うか、あんな黒髪で外に出たくなーい」
こちらに聞こえるように語られる陰口。
いつものことだからセレストは心にさざ波さえ起きなかった。
だがフェリックスは心底不快そうに、その生徒たちを睨んだ。
「貴様ら。見世物ではないぞ。セレストに勝ったのは俺だ。俺の手柄を自分たちのもののように誇るな」
彼女らはフェリックスに怒りの声をかけられたことで、喜びと恐怖が入り交じった悲鳴を上げて走り去っていく。
セレストはその背中を無感動に見送った。
「ふん。愚かしい奴らめ。このアカデミーは愚かな奴ばかりだ」
「私を筆頭に、ですか?」
「なに? ……まあ、いい。セレスト。今日の放課後、時間を作れるか?」
「少しなら。なんの用ですか?」
本腰を入れて嫌味の続きを語るつもりだろうか。だとしたら勘弁願いたい。
「いや……その……なんだ。校舎裏にある、伝説の樹に来て欲しい……」
フェリックスは周りを気にし、誰も聞いていないと確かめてから、珍しく歯切れの悪い口調でそう言った。
「伝説の樹? そんなのがあるのですか?」
「なに、知らないのか? ……なるほど、分かった。やはり初志貫徹し、実技でも勝ってからにしろという神の思し召しなのだろう。今の誘いは忘れてくれ」
フェリックスは勝手に納得し、立ち去っていく。
一人残されたセレストは、訳が分からず首を傾げる。
実技でも勝つ。
それはおそらく、魔法を用いた戦闘のことだろう。
年に二回、一年生から三年生まで共同で開催されるアカデミーのトーナメント。セレストは二年生のときから三回連続で優勝している。次の卒業間近のトーナメントで優勝すれば四回連続だ。
そしてフェリックスは今のところ、三回連続で二位。
次こそはセレストを倒したいに違いない。
それを踏まえた上で、校舎裏に呼び出した用件を推察するに――。
「決闘でしょうね。フェリックスくんは筆記で勝った勢いで、実戦でも私をボコボコにしたいのでしょう。しかし、まずは試合で勝ち、確実にボコボコにできると確証を得てから校舎裏に呼び出すと考えを改めた……そんなところでしょうか」
魔法師の世界において、男女に力の差はない。
だから男が女に決闘を挑んでも、卑怯ではない。ほかの女子は知らないが、少なくともセレストはそう考えている。もし挑まれたら正面から受けて立つ。
セレストが脳内でフェリックスとの仮想戦闘をしていると、廊下の窓に一羽のハトが止まった。
右足にはエイマーズ王家の紋章が刻まれたリングが。左足には筒状のカプセルがつけられていた。
魔法で操られた伝書鳩だ。
ハトはセレストの姿を確認すると、クルッポーと鳴きながら肩に飛び乗ってきた。
その背中を撫でてから、カプセルに入っていた手紙を読む。
やはり父親からだった。
今夜、話したいことがあるので指定する場所に来て欲しい、という内容だった。
場所の地図も記されていた。
もちろんエイマーズ王国ではなく、魔法アカデミーがあるこの帝都である。
「お父様がわざわざ帝都に来ている? 私に会うために……いえ、それはありえませんね」
この黒髪は、父とも母とも違う色だ。そしてセレストの母親は、出産してすぐに死んでしまった。だから父親に「妻を奪った呪われた子」と思われているふしがある。
親の愛情を感じた記憶がない。
ずっとメイドに育てられた。
だから、父親が自分に会いたいがために予定を組むのは、あり得ないと思えた。
そしてセレストは指定されたレストランに到着した。
店の前に知っている顔がいた。
「フェリックスくん。なぜここに?」
「父上に呼ばれたのだ。お前こそなんの用だ」
「私もお父様に呼ばれたのです」
店に入り、名乗る。
するとセレストとフェリックスは、同じ部屋に案内された。
そこにいたのはエイマーズ国王と、ベイレフォルト国王。つまり、それぞれの父親が待っていた。
一体これはどういう会合なのか。
訳が分からぬままセレストは着席を促された。フェリックスをチラリと見たが、その表情からはなにも読み取れなかった。
「セレスト。済まない。我が国はもうすぐ破産する」
真っ先にセレストの父がそう言い放つ。
衝撃的な発言ではあった。しかし予測の範囲に収まった。故郷の財政悪化は、セレストが帝都に留学する遙か前から始まっていたのだから。
しかし――。
「だからそれを救うため、そちらのフェリックス・ベイレフォルト王子殿下と婚約して欲しい」
続いて放たれた言葉は、セレストの予測と覚悟を容易く凌駕した。
親が決めた婚約。政略のための結婚。
自分は王族だから、そういうのに巻き込まれるだろうとは思っていた。だとしても、これは唐突すぎる。まして相手がよりにもよってフェリックス? 理解が追いつかない。
「エイマーズ王。そういう言い方では、セレスト姫が混乱してしまいますよ」
そしてフェリックスの父親ベイレフォルト王は、柔らかい口調で事情を説明し始める。だが、いくら口調を変えても、セレストにとって少しも楽しい話にはならなかった。
いわく。
エイマーズ王国の食糧不足は慢性化し、その埋め合わせを輸入に頼り続けたせいで、国庫は完全に尽きた。
このままでは大規模な飢饉が起きる。いや、すでに奪い合いが起きつつある。
隣国の治安が乱れるのは、ベイレフォルト王国にしても歓迎しかねる。よって、全面的にエイマーズ王国を支援する。
その代償として、近いうちにセレストの父親には王座から降りてもらう。そしてセレストに即位してもらう。これも暫定的な措置で、いずれはセレストの夫となったフェリックスが国王として統治する。
二人の王が――いや、ベイレフォルト王が描いた未来の展望が静かに語られた。
「つまり、フェリックスくんが……いえ、フェリックス殿下がエイマーズ王家に婿入りするということですか?」
「いいえ。女王に即位したあと、あなたがベイレフォルト王家に嫁ぐのですよ、セレスト姫」
「それではエイマーズ王家が消滅してしまいます」
「そういうことになります。よって、そちらの国名を変える必要があります。分かりやすく、西ベイレフォルト王国でどうでしょう?」
どうでしょうもなにも、これは国の乗っ取りだ。
エイマーズ王国は経済が安定しない国だ。だが海がある。ベイレフォルト王国にはない。
鉱物資源を輸出して利益を上げているベイレフォルト王国としては、港が欲しくてたまらないのだろう。
「お父様。本当によろしいのですか? 家と国を売り渡すのですか?」
そうは言いつつ、セレストは家系にさほどの思い入れはない。だが祖国は好きだった。漁船が並ぶ王都の海が好きだ。一面に広がる麦畑が好きだ。そこで働く人々も好き。小さいけれど活気のある商店街が好き。
「……ワシのような無能が統治するより、有能な者に売ったほうが、国民のためになる」
遠い目でそう呟いた父親を見て、セレストは反論する気が失せた。
つまりもう気力の全てを使い果たしたのだ。天候不順が続いたのは別に父親のせいではないが、この程度の人が治めるより、別の誰かに変わってもらうべきだと同意した。
あの土地で暮らす人々の衣食住を保証するのが最優先。
そして貿易用の港を建設するにも、運用するにも、人手が必要だ。それはどこからか連れてくるより、今のエイマーズ王国の国民を使うほうが簡単だ。
ベイレフォルト王家は、友好的な侵略をしてくれるに違いない。
少なくとも、このやる気のない現国王よりはマシな国政をもってして。
「分かりました。その提案、お受けします……」
セレストは計算を巡らせ、それが最善だと納得して頷こうとした。
しかし、なぜか心にモヤモヤしたものがある。
それがなにか分からないでいると、急にフェリックスが立ち上がって口を開いた。この場において初めての発言だった。
「なにを勝手に話をまとめようとしている。俺の意思は無視か。俺はまだセレストと婚約すると言っていないぞ」
相変わらず氷の表情と声色だ。柔和な父親とは真逆である。
セレストが彼を嫌っているように、彼もまたセレストが嫌い。
そしてセレストにとってこの婚約話は祖国を救う手段になるが、フェリックスから見れば違う。港があれば国がより潤うにしても、ないならないでやっていける。
重みがまるで違う。
嫌いな女と婚約する理由がフェリックスにはないのだ。
「第一、セレスト。お前はなぜ納得しようとしている。エイマーズ王が売ったのは家と国だけではない。娘だ。娘のお前を売る父親を前にして、なぜ怒りを見せない」
フェリックスはいつも怒ったような顔をしている。それが本当に怒るとこんなに眉間に皺が寄るんだな、とセレストは思った。怒っても綺麗なままだな、と呑気な感想まで抱いた。
そして彼の言葉で初めて、父が娘を出荷したのだと認識した。長い間、国王と王女という関係でしか考えていなかったので、言われるまで分からなかったのだ。
さっき感じたモヤモヤはそれだったのだと知り、自分の中にまだ父親に期待する部分が残っていたのだと意外に思った。そして期待はついに永久に失われた。
「フェリックス。急にワガママを言ってどうしたのですか。王侯貴族にとって政略結婚は当たり前。しかも自分のことよりセレスト姫の立場に怒っているように見えます」
「当然だ。俺は父上に逆らう余裕がある。ベイレフォルト王国は、この婚約が成立しなくても生きていける。だが彼女は違う。選択の余地がない。彼女の意思を無視し、このような要求をするのは不当だ」
「ほう……」
凍てつく息子の眼光を、ベイレフォルト王は正面から受け止め、笑みを浮かべた。
いけない。このままではこの親子の関係にヒビが入る。自分と父のようになってはいけない。そう思ったセレストは、フェリックスに視線を向け、首を横に振った。
「もういいです、フェリックスくん」
怒りだした彼を見て最初、よっぽど自分と婚約したくないのだなと思った。
けれど違う。彼は人間の矜持の話をしてくれている。
セレストを嫌っているくせに、人間扱いしてくれているのだ。政略結婚の駒として見てくる父と違って。
「あなたの言うとおり、私には選択の余地がありません。ゆえに婚約をお受けします。それで祖国の国民が助かるのです。ならば喜んで。これは私の意思です」
「しかし」
「フェリックス・ベイレフォルト王子殿下。どうか私と婚約してくださいませんか?」
「……分かった。話を拗らせて悪かった」
もしこの話が流れれば、セレストの故郷は更なる窮地に立たされる。それを理解したフェリックスは、それ以上なにも言わず押し黙った。
婚約は成立した。
セレストは馬車でフェリックスの住居に連れてこられた。帝都の高級住宅街としてはありふれた一軒家だった。
「それでは、今日から二人で暮らしてください。くれぐれも仲良くお願いしますよ。あなたたちが仲睦まじいと帝都で評判になれば、円満な併合だと思われるでしょう。いや、実際に円満に進めるのですがね」
フェリックスの父親は、併合と言い出した。
エイマーズ王国を西ベイレフォルト王国の名に変えるだけではない。いつかは『西』を取り払い、ベイレフォルト王国に吸収してしまうつもりなのだ。
「セレスト。押しつけた婚約だが……できれば幸せになって欲しいと思っている。なにを今更と思うだろうが」
セレストは自分の父の言葉を聞いて『本当に今更ですね』と思った。思うだけで口にはしなかった。その気力が沸かなかったのだ。
二人の王を乗せた馬車が走り去っていく。
セレストはフェリックスと二人っきりになった。
そして家に入った途端、フェリックスは「ちっ」と舌を鳴らした。
見たことのない家具が勝手に運び込まれていると言う。
とある部屋に、タンスや机、化粧台などがあった。白を基調に統一されたインテリアだ。
タンスを空けると、女性用の衣類が入っていた。鏡の前で広げてみる。セレストのサイズに合っているようだ。
「これが私の部屋ですね。遠慮なく使わせてもらいますよ」
「ああ、遠慮などするな。必要なものがあれば言え」
「そうですね……さしあたってベッドが見当たらないのですが」
「確かにそうだ。父上がそんな基本的なものを忘れたりするか? いや待て」
なにか思い至ったらしいフェリックスは部屋を出て行く。
セレストがそれを追いかけると、巨大なベッドがある部屋についた。天蓋付きで、細かい装飾が施された、立派な代物だった。
「やられた……ここは俺の寝室なのだ。置いていたのは一人用の簡素なベッドだ。しかし、これは」
「二人で一緒に寝ろと、そういうことでしょうね」
「そんな真似ができるか。俺はリビングのソファーで寝る」
「待ってください、フェリックスくん。失礼ですが、あなたのお父様はかなり狡猾な方でしょう? そんな誤魔化しが通るでしょうか? このベッド、なにか魔法的な仕掛けがあって、私たちが一緒に寝ているかどうか感知するかもしれません」
「そうかもしれん。いや、父上が用意したのだ。そうに違いない。とはいえ――」
「そんなに私と一緒に寝るのは嫌ですか」
「嫌に決まっている。お前こそどうなんだ。こういうのは女性のほうこそ拒否感が強いだろう」
「そりゃ、私だって嫌ですよ。けれど故郷の人々のためです。協力してください、フェリックスくん」
「……仕方がない。正直、俺も父上に逆らうにはまだ力不足だ。覚悟を決めるとしよう。風呂に入ってくる。そこらで休んでいろ」
「あの、その次に私も入っていいですよね?」
「当たり前だ。そんなことをいちいち確認するな」
セレストがリビングでブラブラしていると、風呂上がりのフェリックスが現われた。
髪をしっとりさせた寝間着姿を見て、さすがのセレストもドキリとした。
いくら嫌っていても、彼が絶世の美男子だという事実までは否定できないのだ。
意外と自分も安っぽい女だなと思いつつ、自室のタンスから着替えを取って浴室に向かった。
帝都はエイマーズ王国と違い、上下水道が完備されているので、蛇口を捻れば水が出る。この家には魔石の力でお湯を沸かす装置もあるので、簡単に浴槽に湯を張れるし、熱いシャワーにも困らない。
疲れと汚れを洗い流してから、ふわふわのタオルで体を拭き、真新しい寝間着に袖を通す。
フェリックスはすでに寝室で布団に入っていた。
セレストはその隣に寝転がる。
ベッドの脇には魔石で明かりを放つスタンドがある。それを消すと、カーテンの隙間から差し込む月明かりだけになった。
「平然としているな。嫁入り前の女性が、男とベッドを共にしているのだぞ。なにか思うところはないのか?」
「嫁入り前って、フェリックスくんは私の婚約者でしょうに」
「それはそうだが」
「思うところはありますよ。けれど安心しています。フェリックスくんは私が大嫌いなのでしょう? こんな黒髪で、陰気な顔の女には、絶対になにもしてこないという確信がありますから」
「一つ俺の名誉のために訂正しておく。横にいるのが好きな女性だったとしても、同意なしにはなにもしない」
「誠実なんですね、フェリックスくんは」
「なんだ、嫌味か?」
「いいえ、本心です。明日、私の家からここに荷物を運ぶので、手伝ってくださいね。では、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
フェリックスの声色は、いつもと変わらない。
やはりこの状況でも平然としている。よかった。意識されたら、セレストも意識してしまう。
なにせもうフェリックスを以前ほど大嫌いではいられそうにないから。
△
フェリックスはセレストに対して一度たりとも『嫌い』などと言った覚えはない。そういう態度を取ってはいるが、口に出せば本当に嘘をついたことになるので、言うわけがない。
好きか嫌いかで問われれば、好きだった。大好きだった。
あやうく筆記テストで一位になった勢いで告白しそうになるくらいには。
だが筆記とトーナメントの両方で勝ってからと前から決めている。
なのに告白する前に婚約してしまった。
いまだに頭の整理が追いついていない。
一方、セレストは腹が立つほど平然としている。目を閉じたと思ったら、もう寝息を立てている。
緊張感というものが欠落しているに違いない。
フェリックスはこの上なく緊張しているというのに。
風呂上がりのセレストが寝室に入ってきた瞬間など、頬を赤らめないようにするのが大変だった。
寝間着姿のセレスト。
白いネグリジェだ。腕も足も覆われていて、肌の露出は少ない。布が透けているのでもない。それでもレースとフリルをあしらったそれは、セレストの愛らしさを引き立てていた。
セレスト本人は陰気な顔と言っていたが、実に間違った自己評価だ。
アカデミーで彼女の陰口を叩いている者たちさえ、黒髪ゆえの『暗い雰囲気』を貶しても『顔立ちそのもの』は貶していない。貶したくてもできないほど、セレストの容姿は整っているのだ。
なのにセレストは自分が醜女だと思っているらしい。
実際はフェリックスの人生で見た中で一番の美人だ。
もし黒髪でなければ、彼女に言い寄る男は何ダースになっていたか。そもそも黒髪が不吉の象徴とされているのが分からない。こんなにも美しいのに。
今夜は眠れないかもしれない。
幸いなのは、こうして悶々としているフェリックスの気持ちを誰も知らないことだ。
この恋心は胸に秘める。
文武共にセレストを越えて、告白するその日まで。
決して誰にもバレてはならない。
なぜなら、純粋に恥ずかしいからだ。
△
セレストの父親エイマーズ国王は馬車の中で、ベイレフォルト国王に改めて念を押していた。
「国はあなたに全て差し上げる。だから一つ、約束して欲しい。国民の生活だけは守ると」
「分かっています。最終的には私の国民になるのです。それを虐げて、なんの得がありますか。私の人生は、非合理なことをするほど暇ではないのですよ」
「ワシ自身などよりも、よほど信頼できる言葉だ。あとは……願わくばセレストにも幸せになって欲しい」
エイマーズ国王は、自分が王としても親としても落第だと分かっている。
実際、生まれた娘が黒髪だと知って落胆したし、それを隠そうともしなかった。妻が死んだのも娘のせいだと思っていた。
それで娘の世話も教育も、使用人たちに任せっきりにしていた。
自分が親だという自覚が芽生え始めたのはセレストが十歳になる頃だ。今更どうやって父親面すればいいのか分からない。
そのあげくに娘を売り飛ばした。
フェリックス・ベイレフォルトには冷徹王子という異名があった。きっとセレストにとって辛い結婚になるだろう――そう思っていたのだが。
「一つ、確認したいのだが。あなたの息子……ワシの娘を……かなり好きなのでは?」
「ああ、気づきましたか。私も驚きました。冷徹王子などと呼ばれ、言い寄る女性を遠ざけていたのに……国王としてではなく父親として嬉しいです。あれは多分、幸せな結婚生活を送りますよ」
「そうか……それはワシも嬉しい……」
エイマーズ国王は心の底から安堵した。だが一つだけ大きな懸念が残っていた。自分の娘の恋愛スキルだ。
「私からも一つ、確認いいですか? あなたの娘……私の息子の好意に少しも気づいてませんよね? あんなに分かりやすいのに……」
ベイレフォルト国王といえば柔和な顔とは裏腹に、計算高く、狡猾な男として有名だ。そんな男が動揺している。
自分の娘がうろたえさせているのだ。
これが知略などでベイレフォルト国王を上回った結果だとすれば誇らしい。
だが、恋に鈍感すぎて動揺されるのは、父親として不名誉だった。
「これもワシに親としての自覚が足りなかったゆえか……」
「いや……おそらく天然ですよ」
二人の王を乗せた馬車は、かなり間抜けな会話の舞台になりながら、夜の帝都を走って行った。
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