日常へ
「……し?もしもし?」
肩を揺すられる振動に意識を取り戻した。
ここは……?
「もしもしぃ?大丈夫ですかぁ?」
彼が、あの若い駅員が、私の顔を覗き込んでいた。
「……ぁ…?」
「あぁ、よかったぁ。具合が悪いのかと」
呑み過ぎは良くないですよと彼が笑う。
朦朧とする意識を取り戻す為に私は頭を振り、手のひらで顔を拭った。顔から噴き出した脂汗で手がぬるねるとぬめる。
ベンチにもう片方の手をついて身体を支えた。
……ベンチ?
私はプラットホームの隅まで歩いたのではなかったのか?
あれは、夢だったのだろうか?
「大丈夫ですかぁ?帰れます?これから保全作業を行いますのでぇ……」
見れば何人かの駅員がプラットホームの下にいた。彼等の持つ懐中電灯がちらり、ちらりと視界に入る。
その光は線路とその周囲をくまなく探る様に照らしている。
目の前にいる彼もゴミ拾いなどでよく使う青いトングを手にしていた。『火ばさみ』とか謂ったか。
火ばさみがカチカチと金属音をたてる。
彼は何の気なしに鳴らしたのだろうが、早く帰れと急かされた様に感じた。
「……何をしてるんだい?」
ベンチから立ち上がりながら、ふと気になって訊ねた。
「え?あぁコレ?」
火ばさみを持ち上げてカチカチと鳴らす。
「まぁ……急いで運行再開するとぉ、どうしてもね。こんな時間にしか出来ませんで」
同僚達が作業をしている姿を眺めながら彼は続けた。
「早いとこ再開しないといけなかったもんですからぁ、朝はざっとさらうしかなかったんですよ」
線路から私に視線を向け、彼は困った様な愛想笑いを浮かべた。
「そんな訳でぇ、今から細かいのを拾わないとならないんですわぁ」
……
……細かいの?
拾う……?
「結構ね、敷石にまぎれちゃうもんですから……今夜ぁ、徹夜かなぁ?」
でも頑張りますよぉ、集めてやらないと仏さんに悪いですから。葬式するのに『足りない』んじゃ、可哀想ですもんねぇ。
頑張ると云う彼に別れを告げ、私は家路についた。
それからも私は日和ヶ丘駅を利用している。
私が見たあの人影はなんだったのか、それは解らない。
夢だったのか。
それとも現実だったのか。
この前、隣県へ繋げる工事が始まったというニュースが放送された。開通すれば日和ヶ丘は無人駅ではなくなるという。
ニュースを聞き流しながら、あの駅員が常駐するのかもしれないな、と私は思った。
あの夜の事は、日々の生活に埋もれ、毎日の通勤に記憶は上書きされ紛れていった。
ただ……
あの目。
べとついた赤黒い髪の間から覗いたあの目。
あの時プラットホームの縁から私を凝視したあの目だけは……
──────────────終