CHAPTER0 さいごの日
もしも今日が人生で最後の一日だったとしても、それを生きている者が知ることはない。
人生にはいつか必ず終わりがあるのに、誰にでも訪れることなのに、なぜか誰もそれを考えようとはしない。生きているのが、当たり前なことだと思われてるからだ。
でも生きているのは決して当たり前なことではない。
僕にとってそれが最後の一日だったとしても。
○
目覚めると凍えるような朝だった。
弱い太陽光線に照らされた街はまだ、かすかに眠りについてるかのように見える。
切りつけてくるような冬の冷たさをその身に感じながら、アパートのドアポストを確認した。一枚の封筒が入っていた。
先日、面接に訪れた会社からだった。開ける前から僕の脳内にはすでに、結末が見えた。
部屋を出る直前に聞いた面接官の言葉だけで、もはや結果が分かってしまうのだ。
それは、たった一言。
「わかりました」
最後の面接官のその言葉だけで、僕には分かってしまった。その小さなニュアンスだけで。
息を整えてその場で封筒を破いた。
長々と書いてある無駄な文言。
最後の言葉が「今後の御活躍に期待しております」だった。自分の人生そのものを否定されたみたいで、頭に血が上った。ぐしゃぐしゃに紙を丸めてコンクリートに叩きつけた。
何もかもが納得がいかない。
どこが悪かったのか。なにが問題だったのか。
どこかで選択を誤ったのかもしれない。もしもやり直せるなら、と思わずにはいられない。
僕のこれまでの人生とは何だったのだろう。すべてをリセットできるのなら、いっそすべてをリセットしたい。
冬の街は僕の心中などお構いなしに、静かにそこに佇んでいるだけだった。
○
午前中に母の入院している病院を訪れる予定だった。午後はいったんアパートに戻り、準備をしてからコンビニのアルバイトだった。
そこは、都内にある総合病院だった。
母は長いこと闘病生活を強いられていた。それも厄介なことに治療が不可能な難病だった。入退院を繰り返して何年にもなる。
それに加えて僕は今年で三十七歳にもなるのに、未だに定職にも就けずにフラフラとフリーターなんかを続けていた。
アルバイトに続くアルバイトの連続で、いずれも同じ場所に長続きしない。かつて一度だけ正社員で採用されたこともあったが、やはり長続きせずにすぐ辞めた。
母のことはすべて父に任せきりであった。父との関係は全くうまくいっておらず、実家から逃げるように離れて数年にもある。父ともずいぶん顔を合わせていない。顔を合わせても喧嘩ばかりだ。
最近やけに思うのは、自分の人生とは何なのかということだ。くだらない選択の連続だった。
もしも全く新しい人生にやり直せるなら、と願わずにはいられない。
たとえば、異世界で勇者に転生したり、とか。あるわけないと苦笑いした。
○
病院の待合室に入ったとき、ベンチに腰掛けていた男性の前を通り過ぎた。見た感じ、四十代の半ば、もしくは後半といったところか。黒の革ジャンに色落ちしたジーンズを履いていた。
頭を抱えながらぶつぶつと独り言を呟いていたため、僕はぎょっとして一瞬足を止めた。
「ボクは転生するんだ。勇者に転生して、世界を救うのだ。夕べ、夢のなかでお告げがあったのだ。だから」
何だか危ない雰囲気の男性だった。決めつけるのはもちろん良くないが、だいぶ心を病んでるのではないか。
この病院は総合病院だし、確か心療内科もあったはずだ。この男性はそこを受診する患者かもしれない。
「世界を救うのだ、ボクは。チート級の勇者に転生するのだ。だから」
母の入院している病室を目指そうと足を動かすと、男性は背中でこう呟いた。
死のう、と。
○
病室に足を踏み入れると、母がすぐにこちらを向いて優しく微笑んだ。
母は六人部屋の、一番窓際の奥のベッドで寝ていた。以前よりもずっと顔色は良さそうだった。僕も微笑んだままゆっくり母の寝ているベッドに近づいた。
「わざわざ来てくれたの。ありがとうね」
僕はベッドの脇の、折り畳まれた椅子を引っ張り出して腰を下ろした。
「具合はどう?」
「ええ、今日はとても調子がいいみたいよ。先生もね、もう少しで良くなるだろうって、おっしゃってるわ」
僕は苦笑いを浮かべる。良くなっている、というのはもちろん心配をかけたくない嘘に違いない。完治不能な病なのだから。母がこういう嘘をつくたびに、僕は胸が痛む。
「そんなことより、ちゃんとしたものは食べてるの?」
「大丈夫だよ、母さん」
「お父さんとはうまくいってるの?」
「まあ、ぼちぼち」
本当は何年も口を聞いてないけど。
「そういえば、面接の結果どうだった?」
やれやれ、次から次へと…、自分のほうが重症で入院しているというのに会って口を開けば、息子の心配ばかりだ。母に心配ばかりかけている自分自身に苛立ちを覚える。
僕が難しい顔で黙り込むと、母は優しく語りかける。
「大丈夫よ。きっといつか、あんたを分かってくれる人に巡り会えるわ」
「だといいけど」
「まさか死にたいなんて、考えてないでしょうね」
母には昔から隠し事は一切できない。それどころか考えていることが、簡単に見抜かれてしまう。
「死んですべてを精算しようなんて、卑怯者のすることよ。苦しくても、しんどくても、恥をかいてでも、生きてなにかを生み出し続ける行為に、命の価値があるの。忘れないで、生きてれば何だってできるから」
「母さん」
手を握られた。
「あんたにはまだ可能性がある。可能性を、最後まで絶対に諦めないで。きっとあんた自身はまだ気づいてないのよ。大勢の人を幸せにできるし、世界だって変えられる」
「それはさすがにないって。僕は普通の人間なんだもの」
「いいえ。最初は小さな出来事でも、少しづつ人や世界に影響を与えていく。やがて世界そのものの在り方も変えていくの。自分の可能性を信じなさい」
僕は何だか照れくさくなって、立ち上がった。
「あら、もう行ってしまうの」
「いや、なにか飲み物を買ってくる。母さんは何がいい?」「そうね、じゃあお茶をお願いするわ」
「了解」
病室を出て行こうとすると、「ワタル」と呼び止められた。「なに?」
振り返る。
「いえ、なんでかしらね。変に胸騒ぎがしてね。気のせいよね」
母は最後にまた微笑んだ。
「気をつけてね」
○
廊下の自動販売機の前に立って小銭を選らんでいると、先ほどロビーのベンチに座っていた男性が、階段に消えていくのが見えた。
確か屋上に通じている階段だったはず。
あのぶつぶつ独り言を呟いていた男性が、屋上にいったいなんの用だろう。屋上は確か立入禁止のはずでは。
嫌な感覚がする。
空気がビリビリと切り裂いてくるような。
僕は慌てて男性の後ろ姿を追いかける。階段まで走ってくると、屋上の扉を開ける。
嫌な感じがする。心がザワザワする。
突き抜けるような冬の空が広がっていた。嫌になるくらいの、薄い青色。街が百八十度見渡せる。
キョロキョロ辺りを見渡すと、男性が屋上の端っこで呆然と立ち尽くしているのが見えた。下界を静かに見下ろしている。
嫌な予感が的中する。
あまりのことに頭がフリーズする。
どうしよう。この場合、どうするべきだ。
「あの」
男性が振り返る。
「なにを、しようとしてるんですか」
男性が笑った。
「異世界に転生するんです。昨晩、神が夢に出てきて教えてくれました」
どうしよう。完全にいっちゃってる。話しが通じる相手じゃない。誰かを呼ぶべきか。しかし、呼んでる間に飛び降りられたらどうする。
「そうですか、疲れたのですね、分かります。休まれるのは、良いことだと思います」
ゆっくりゆっくり近づいた。男性はビクッと反応した。
「邪魔しないで、もらえますか」
「いや邪魔しますよ。そんなことしても無意味なんだから。あの、早まらないでください」
もう少し、もう少し、近づけば。
「来ないで」
男性が震えた声を上げる。胸がキリキリと痛む。
やはり誰かを呼んでくるべきか。いやその間に彼は間違いなく飛び降りてしまう。自分になにができる。
「これは神のお告げなのです。私は、神の声に忠実に従います。異世界が、私を呼んでる。私は、勇者に生まれ変わるのです」
止める間もなく男性はくるりと向きを変え、空中に足を踏み出そうとした。
僕は叫びながら、男性に飛びかかった。ぎりぎりで間に合ったが、男性は錯乱して暴れる。
「離して。私は、転生するのです。邪魔をしないで」
「やめてください。死ぬなんて、馬鹿な真似」
暴れる男性を抑え込もうとしがみつくが、力の差がありすぎた。
やがて、男性が思い切り僕を突き飛ばす。その先には、地面はなかった。
「あ」
景色が、世界が、ゆっくり回転して見える。男性は屋上にいた。だが僕は空中に投げ出されていた。
すべてがゆっくりに見えた。
重力には逆らえず、真っ逆さまに落ちていく。
すべてが、呆気なく、あっという間だった。
もしも今日が人生で最後の一日だったとしても、それを生きている者が知ることはない。
人生にはいつか必ず終わりがあるのに、誰にでも訪れることなのに、なぜか誰もそれを考えようとはしない。生きているのが、当たり前なことだと思われてるからだ。
でも生きているのは決して当たり前なことではない。
僕にとってそれが最後の一日だったとしても。