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夏季休暇 6

 ◇ ◇ ◇



「あら、お帰りなさい。お風呂なら沸いてるわよ」


 予定していた時刻――もちろん、具体的に告げていたわけじゃねえが――から大幅に遅れて帰宅した息子にかけられた母親の第一声がそれだった。

 夕食の準備もしていただろうに、もしかしたら、こうなるだろうことを予期していたのかもしれねえ。

 詳しく聞かれないのは助かるところだが、信頼されているのか、子供とはそういうものだと思われているのか。

 

「……クレデール。先に使っていいぞ」


 いくら疲れているからとはいえ、まさか、一緒に入るわけにはいかねえ。

 

「いいえ。先輩こそお先に使ってください」

 

「そうか。悪いな」


 普段なら、クレデールに先を譲るところだが――もちろん、クレデールの後に入りたいという理由があるのではなく、クレデールに先に使わせてやるためだ――休暇中は俺が先に入ることにした方が良いのかもしれねえ。

 部屋に着替えを取りに戻り、浴室の前の洗濯機に、しめって不快感のある、脱いだウェアを放り込んで、浴室の曇ったガラス戸を開けて、湯船の蓋を外すと、白い蒸気が立ち上った。

 熱いシャワーを頭から浴びて汚れなんかを洗い落とすと、浴槽に身を沈める。

 

「鈍らせてる俺が悪いんだが、あの師匠、加減てものを知らねえな」


 中途半端にやる修行では意味がないってのは分かるが、ちゃんと今日は挨拶だけだと告げたってのに。

 こりゃあ、しっかりストレッチしとかねえと、明日は筋肉痛だな。学院があるからとはいえ、なまっている証拠だ。

 道場を経営するだとか、生き死に、生活に関わるほどにまではちゃんとやるつもりはなかったが、男子として、これではあまりに情けねえ。

 

「いやいや、こんなことを考えてる場合じゃなかった」


 クレデールを待たせているんだったな。

 別にディンじゃなくとも、汗をかかせたままの女子を放置するわけにはいかねえ。俺のどうしようもねえ反省会なんて後だ、後。

 クレデールのものではなく、自分の髪をがさがさと乱雑に拭いて、着替えてからクレデールに声をかけに行く。


「おい、クレデール――」


 先に風呂を使わせてもらった礼を一緒に言おうと、客間の扉を開けると、クレデールはソファに座り込んで眠っていた。

 

「おい、起きろ、そのままだと風邪ひくぞ」


 慣れない環境で急に色々と引っ張りまわしたのは俺だが、汗をかいた服のままで、こんな場所で寝ていたら確実に風邪をひくだろう。

 しかし、いくら声をかけても、試しに頬を引っ張っていたりもしたが、目を覚ます気配がねえ。

 

「ふふっ。お疲れなのね。ふたりで、そんなに汗だくになるまで、どんな運動をしてきたのかしら」


「普通にランニングしただけだ。俺の方は師匠に稽古をつけさせ――少しつけて貰ったが、クレデールは別にそんなこともねえしな」


「あら、元気なのは良いことじゃない」


 俺が夕食の準備を引き取って、母さんがクレデールを剥いて、風呂場に放り込んでくれねえかとも期待したが、そんなことはしてくれねえらしい。


「イクスくん。風邪ひいちゃうから、早くしてあげてね」


「ああ」


 そうは返事をしたものの、どうしたもんかな。

 無理やり起こすのも悪い気がするが、仕方ねえか。


「おい、クレデール」


 さっきよりも強く両肩を揺すると、クレデールは眠そうに眼をこすった。


「あれ、先輩……どうしたんですか」


 寝起きで意識が覚醒していないらしく、寝ぼけた眼をくしくしと指でさすっている。

 

「どうしたじゃねえ、風呂だ風呂。先に入っちまった俺が言うのもなんだが、こんな場所で、そんな恰好で寝てたら風邪ひくぞ」


「そうですね」


 まだ寝ぼけているらしいクレデールは、何を思ったのか、あろうことか、そのまま、ソファーに座ったまま、着ているウェアに手をかけて、まくり上げた。


「お前っ、何やってんだ、こんなところで!」


 慌ててクレデールの両手を掴み、服を引きずり下ろす。

 見てねえ。真っ白な腹やへそなんか、俺は全く見てねえ。


「は? 先輩がお風呂だって……先輩、何をやっているんですか?」


 そこでようやく意識が覚醒してきたらしいクレデールは、自分の手の方を見下ろす。

 もちろん、ウェアを掴んでいるクレデールの手を、俺はまだ掴んだままだ。


「いや、これは違えぞ。お前がこんなところでいきなり脱ぎ始めるのを止めたんだろうが」


 とりあえず、事実を述べて弁解してはみたものの、もちろん、聞き入れられることはなく、悲鳴に近い声と共に、俺の頬に勢いよく張り手が飛んできた。

 全く下心がなかったかといえば、それは嘘になっちまうので、甘んじて受け入れたが、ほとんど善意からだったのに、これは理不尽じゃねえか。

 硬く自分の身体を抱きしめるようにしてソファの上で小さくなりながら睨みつけてくるクレデールに、俺は顔に紅葉を付けたまま、床に正座し、状況を事細かに説明した。


「――そんなわけで、全く下心があってやったことじゃねえ」


 ゼロだった、とは言い切れねえが、思い立ったのは善意からだ。

 

「それは私の身体には興味がなかったということでしょうか?」


 どう答えても地雷だ。

 しかし、負い目があるのは確かなので、俺は頭を抱えそうになった。


「ふふっ。冗談です。先輩、起こしてくださって、ありがとうございます」


「……勘弁してくれ」


 クレデールは楽しそうに微笑むと、ソファから立ち上がる。

 風呂場の場所なんかは、最初に来た時に大雑把に説明したから問題ないだろう。

 とはいえ、念のためついてゆき、洗濯機なんかも併せて、もう一度説明しておく。


「あとは、何かあったら呼んでくれ」


 まあ、大丈夫だろうと思い、俺はリビングに戻ったのだが。

 どれくらい経ったのだろう。

 気が付いた時にはリビングで眠りこけていたらしいが、どこからか俺を呼んでいるような声が聞こえてきたので、目を覚ました。


「母さん、何か呼んだか?」


「いいえ。呼んでいないわよ」


 じゃあ、誰がと思ったが、そういえばクレデールに声をかけていたなと思いだす。

 風呂場まで行き、もちろん、扉は空けず、隣の洗面所から声をかける。


「どうした、クレデール」


 初めての場所だ。説明したとはいえ、勝手の分からねえこともあるだろう。


「先輩。着替えを取ってきては貰えませんか?」


 わずかに開いた扉から、タオルを巻いて顔だけを出したクレデールから言い渡されたミッションに、俺は思い切り顔をしかめた。


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