別に幽霊なんて怖くありませんから 5
「あの、ここで話をするよりも実際に見ていただいた方が早いと思うので、場所を変えても構わないでしょうか?」
ユアンがそう言うと、クレデールがびくりとその場で硬直する。
「じ、実際に見るというのは、その、幽霊をですか?」
いや、それは違えだろ。
その本来の動機を隠すためにわざわざ幽霊が出るなんて噂を流したって話なんだから。
「クレデールさん。幽霊なんているはずないわよ。いえ――いいえ、やっぱり何でもないわ。とにかく、人が作っていたものである以上、科学的調査と考察が介在する余地があるんだから、幽霊騒ぎじゃなく、トリックなのよ。音楽室もそうだったでしょう」
リオンの言う通り、人が作り、流した噂なんだから、そこには理由があるはずだ。
じゃあ、何故幽霊が出るという噂を流したのかって話になるんだが、この犯人――と言っていいのか――の態度を見る限り、面白がって、つまり愉快犯という線ではなさそうだ。
「で、では、その理由とは一体何でしょう。コンクールの絵が完成しないから時間を長くとりたくて、夜中にそっと入りたいからでしょうか?」
幽霊じゃないとリオンがはっきり断言したからか、クレデールが少し腕の拘束を緩めるが、完全には解放されなかった。
「あら、イクスくん。ちょっと残念そうね。ぬくもりが恋しいのなら、私が反対の腕に抱き着いてあげましょうか?」
「残念そうって何だ、先輩。俺はそんな風に思ってねえぞ」
むしろ、少し歩きやすくなったと思っているくらいだ。
というより、拘束が緩んだことで、色々と考えたりする余裕ができちまって困っているんだが。
「先輩。顔が緩んでいますよ」
再び強く握りしめてきたクレデールが、下から俺を覗き込むように睨んでくる。
「俺の顔は緩んでねえし、この理不尽な仕打ちの理由を教えてくれ」
自分の顔が緩んでいるとは思えねえし、仮にそうだったとして、俺の腕が痛くされる理由にはならねえはずだろうが。
しかし、クレデールは答えてはくれず、かといって俺を解放してもくれはしなかった。
もう幽霊じゃねえことは分かったんだし、歩きやすさを優先した方が良いと思うんだが。
「エリアス先輩。僕はぬくもりが恋しいですね」
前を歩いていたディンが爽やかに、楽しそうに、右手をぷらぷらとさせながら振り返る。
ディンは、左手をユアンと繋いではいるが、右手の方は空いている。リオンはそんなふたりの後ろからついて歩いていて、ディンと手を繋いではいないからな。
「勝手にすればいいじゃない。ディンが誰と手を繋ごうと、私には関係ないわよ」
リオンにじっと見つめられ、ディンは困った様な顔を浮かべ、エリアス先輩は結局、ディンとは――誰とも手を繋がずに楽しそうに微笑んでいる。
「今日はここです」
連れてこられたのは美術準備室だった。
キャンバスや絵筆、バケツやらが積み重ねられ、棚には美術関係と思われる参考書だか、資料だかがぎっしりと詰められている。数が多すぎるせいか、並びきらずに平積みにされている分まである。
「魔法瓶、ですか?」
クレデールが首をかしげる。
頷いたユアンは、奥の棚に向かってから、蓋にではなく、一緒に取り出した平皿に中身を注ぐ。
それからそっと、一番下の扉をスライドさせる。
「遅くなってごめんね。ご飯だよ」
何かと思って待っていると、その棚の中から、まだ小さな子猫が数匹這い出してきて、ミルクを注いだ皿の周りに集まってきた。
「猫、ですか?」
学校内で飼っているの? と顔をしかめるかと思ったが、リオンはその場でしゃがみ込み、ユアンと一緒に子猫をあやしている。
気付けば、いつの間にかクレデールまで一緒になって、子猫をそっと撫でたりしている。
「はい。実は、この前雨が降った日に下校時にこの子たちが放置されているのを見つけてしまって。ですが、残念ながらうちはマンションで、この子たちを飼うことができません。けれど、せめて里親を見つけるまではと思って……すみません」
学院で見つかれば咎められると思ったのか。
教師に話したところで、美術の話ならばともかく、猫の事だし、解決できるかどうかは怪しい。最悪、手元を離れるだけということにもなってしまう。
それでは、こいつらのその後が心配だ、と、まあそういうことで、こっそりと隠すようにしていたらしい。
「昼間は私が見ていればいいんですけれど、夜中は流石にそうはいきません。だから、幽霊が出るとでも噂になって、誰も近付かないようになれば、危険も減るんじゃないかと」
保健所だかに持っていくと会えなくなるからな。
猫には幸せに生きていて欲しいが、自分でも会いたいという、まあ、そんなところか。
「どうしましょうか、先輩方。見つけてしまった以上、放置はできないと思いますが、寮はペット禁止ですし」
リオンがセリウス先輩とエリアス先輩に確認するように首を回すが。
「うちにはもうトイプードルがいるから、猫はちょっと無理かしらね。セリウスくんはどう?」
「うちは親父が猫アレルギ―だ。飼うどころか、預かることもできねえな」
先輩たちふたりは揃って首を振る。
俺だって不可能だ。
うちは別に誰かが猫アレルギ―だとか、他にペットを飼っているなんてことはねえが、両親とも家を空けて仕事で出回っている日の方が長く、帰宅も不定期。クレデールの両親のように遠くでってことでもねえが、まあ、ペットを預かるには向かねえな。
加えて、ディンが確認したユアンの住所とじゃあ、うちは離れすぎていて、気軽に会いには来れねえ。
「じゃあ、うちで預かるよ。僕はペットを飼ったりはしていないし。ユアンも気軽に会いに来てくれていいから。むしろ、そうしてくれると嬉しいな」
親とかに確認はとらなくて良いのかと思ったが、すでにそれは済んでいたらしく、ディンはさっき音楽室で回収したオルゴールと一緒に、スマホの画面を差し出している。
「明日には引き取りに来てくれるって。それでいいかな、ユアン」
それから、ユアンの案内で幽霊騒動(と言うほどでもないが)の仕掛けを回収にゆき、夜遅いから、という理由で、ディンが、そしてリオンが、ユアンを送りにゆき、俺たちは寮へと戻る。
「やっぱり、幽霊なんかではなかったですね」
クレデールが仕掛けを指折り数えながら、落ち着いているように言うので、俺たちは笑いそうになるのをかみ殺した。
「準備していた替えの下着も必要なかったわね」
「そんな物、準備していませんよ!」
エリアス先輩に、キッとした視線を向けるクレデールは、それからきょろきょろと周りを見回し。
「セリウス先輩はどちらへ向かわれたんですか?」
「セリウスくんなら、約束があるとかで、さっさと消えていったわよ」
いつの間にやらセリウス先輩はどこかへ消えていて、エリアス先輩は「もしかしたら、神隠しかしらね」などと笑っている。
「全く。こんな夜中に何を考えているんですかね」
クレデールは眉を寄せながら寮の入り口にカードキーを通し――
「ひぃあああっ」
ドアを開けた瞬間、その場にぺたりとしりもちをついた。
「やっぱ驚いたな」
化け物じみたマスクをかぶったセリウス先輩は、してやったりといった顔で、くすくすと笑うエリアス先輩とハイタッチを交わしていた。
まったく、やっぱりたちが悪い先輩たちだぜ。
そして、その場で腰を抜かしているような様子のクレデールを置いて、さて風呂だ風呂、といなくなってしまった。
「……おい、クレデール。やっぱり着替え持って来てやろうか?」
「……い、いりません。どうせ、すぐにお風呂ですから」
クレデールは目の端に少し涙を浮かべながら、差し出した俺の手を取った。




