きみの願いは何だって 3
アレクトリと祖父母との話しが終わると、待ちかねたように奥の部屋の扉が開いて、アレクトリと同じ綺麗な黒髪を、一部をゆるやかに巻いて胸のあたりまで垂らし、残りを後ろでまとめた女性が姿を見せた。
身体を構成するパーツが違うのはもちろんなんだが、雰囲気がどことなくアレクトリに似ていて、大人になったらそんな感じなんだろうと予感させるような。
「お母さん……!」
「アレクトリ……」
アレクトリが抱き着くと、その女性もアレクトリの事をぎゅっと抱きしめたようだった。
そうだ。
元々、アレクトリが受け取った連絡では、母親が退院したというもので、相手が祖父母だったのだから、ここに祖父母が姿を現していた以上、当然、母親の方も一緒にいると考えてしかるべきだった。
それならば、何故隠れていたのか。
無事な姿を、一刻も早く娘に見せたかったはずなのに。
「お母さん、もう大丈夫なの?」
「ええ。心配かけてごめんね、アレクトリ」
張りつめていたものが解けたのか、頬を一筋の雫が伝うが、アレクトリはそれを誤魔化すようにさっと拭った。
「……あの、あのね、お母さん」
不安そうに見上げるのは、先程までの会話のせいか。
「大丈夫よ。全部聞いていましたからね」
扉一枚隔てていたとはいえ、こんな風に隠れていたということは、アレクトリと祖父母の話を聞くのが目的だったのだろう。
病み上がりの当人である自分も一緒にいたのでは、アレクトリは遠慮して本音を言えないかもしれないとでも思ったのか。
「お父さんが亡くなってから、あなたはあまり自分の事を言わなくなって心配だったけど、ちゃんと思っていることを言ってくれて、お母さんは嬉しかったわ。そんな風に大切に思える人と、それから、こんな風に大切に思ってくださる人達と巡り合えたのね」
アレクトリはちらりと、ほんの一瞬だけディンの方へと視線を向け、赤く染まった顔でまた母親の方へと向き直った。
「人とのつながりは、人生でとっても大切な、代えがたい財産よ。それを切り離すことなんて出来ないわ」
優しい手つきでアレクトリの綺麗な黒髪を撫でていたた女性は、手を止めて、顔を上げて、振り向いたアレクトリと一緒に俺たちに向かって頭を下げた。
「お世話になりました。アレクトリの母親のクローリクと申します。この子は、本当はとても寂しがり屋で、あの人――父親を亡くしたときも、あの人が生きていたころに読んであげようと言われたら、難しいから嫌だと拗ねていた、あの人の持ち物だった本を抱いて眠るほどで、それはそれは――」
「お母さんっ!」
アレクトリが父親を亡くしたのはいつの事なのか、そんな自分でも覚えていないような過去の所業を母親の口から語られて、恥ずかしくなったらしいアレクトリが真っ赤な顔で抗議する。
親を亡くしたという気持ちを共有することはできねえが、それほど恥ずかしい事でもないと思うんだが、まあ、年頃の女子には(女子に限らずだが)色々思うところもあるのだろう。
「それでも、こういう時にこの子が頼ることのできる方ができて、いらっしゃったのは、本当に嬉しく思っています。どうか、これからもこの子と仲良くしてあげてください」
「もちろんです」
ディンが即答し、俺たちも同じように頷いた。
アレクトリはまだ恥ずかしそうに、小さく唸りながら下を向いていた。
「さて、お母さん。私達は引っ越しの準備やらなにやらしなければならんことがたくさんあるので、ここらでお暇させてもらうとするが」
アレクトリと母親が席につき、改めて祖父母夫婦にお願いとお礼を言った後、祖父母夫婦は立ちあがり、今日のところはこれで帰宅するみたいだったので、俺たちも寮へと戻ることにした。
明日は学院があるし、母親も帰ってきているのなら、俺たちがここに留まる理由はねえ。
「あ、あの!」
アパートを出たあたりで、追いかけてきたアレクトリに声をかけられて、俺たちは振り向いた。
「本当に、ありがとう。とっても嬉しかった」
誰に、という訳ではなく、全員に向けて言われた言葉だったんだろうが。
ディンは数歩引き返し、アレクトリの前で手を膝につき、屈んで視線を合わせた。
「気にしなくていいんだよ、アレクトリ。僕たちが、君の事が好きでやった事だからね。ただ、これからも、仲良くしてくれると嬉しいな。夏休みも、秋になったら文化祭もあるし、また僕に付き合ってくれるかな?」
「うん。ありがとう、ディン」
それからもう一度、アレクトリは俺たちの方へも頭を下げた。
「じゃあ、またね、アレクトリ」
「うん。あ、ディン。ちょっと待って」
あのね、とディン裾を引っ張り、ディンが顔を傾けると、内緒話をするように耳元に近づいたアレクトリは、そのままディンの頬にそっと触れるくらいのキスをした、のが見えた。
「えへへ。お礼」
じゃあね、と手を振り、口元を両手で覆うようにしながらアパートへと駆け戻るアレクトリの事を、俺たちは茫然と見送ったが。
「さあて。帰ろうか。そういえば、お腹が空いてるよね。お昼食べてないし。近くにファーストフードの――」
「ちょっと、ディン」
特に変わりない、あ、いや、かなり嬉しそうなディンの腕を、普段より少し低めの声のリオンが強く引っ張って引き留める。
「どうしたの、リオン」
「どうしたの、じゃないわよ」
挨拶でしょ、とディンの方は全く気にしていない様子だったが、リオンの方はふくれっ面だ。
「リオンもしてくれていいんだよ。してくれると嬉しいな」
ディンは普段と同じ様子で、変わらない笑顔を浮かべて、反対側の頬を差し出している。
「馬鹿じゃないの?」
叩かれるようなことにはならなかったが、怒って先へ進んで行くリオンを情けない声を出すディンが追いかけている。
ディンがリオンの手を握って微笑みかけると、リオンはつんと顔を逸らしながらも、手を振りほどこうとはしなかった。
「先輩」
「何だよ。お化けが出そうで怖くなったのか」
まだ夜というには早すぎる時間、むしろ夕方にすらなってはいないが、昼に出る化け物もいるかもしれねえからな。
「違いますっ。もういいです」
クレデールはため息をついてから、数歩駆け出し、俺の前に出る。
もしかして。
「手を繋ぐくらいだったら、いくらでもしてやるぞ」
俺は歩幅を合わせるようにクレデールに追いついて、その右手を握った。
「えっ?」
クレデールは驚いたような声を上げる。
何で驚いてんだよ、お前がやってきたことじゃねえか。
「あれだろ、駅までの道を覚えてねえんだろ。迷ったら探すのも面倒だしな」
こいつがスマホを使いこなせるかどうかも怪しい。
正確には、GPS、あるいは地図アプリの機能、そして地図を読めるかという問題だが。
「違いますよ。そんなわけないじゃないですか。ですが、先輩がどうしても心配だというのであれば、こうして繋いでいるのも、やぶさかではありません」
「わかったわかった。面倒くせえな。まあ、後から迷子になられて探しに行くよりましか、って痛えよ!」
そう思っていたら痛いほど手を握りしめられた。
見れば、かなり頬を膨らませたクレデールが俺の事を睨んできていた。
「どうせ私はすぐ迷子になる、方向音痴ですから」
どうやら口に出してしまっていたらしい。
まあ、ここから寮に戻るまでには結構乗り換えがあるし、おそらくこいつも覚えてねえからこそのこの態度なんだろう。
別に、この辺りには知り合いがいるわけでも……そういや、この間ぶっ飛ばした奴らがいるかもしれねえが、まあいいか。
「イクスー。いちゃついてないで、早くー」
「いちゃついてねえよ!」
そう、これはただの迷子防止だ。
そう自分に言い聞かせ、ディンたちの後を追いかけた。




