寮の住人達 2
各部屋に入るにはそれぞれの部屋に対応した鍵が必要だが、正面玄関だけは全員に共通のカードキーで開けられる。
ディンが外に出ていたということは、あいつはカードキーを持って出ているということだ。
玄関口のすぐ奥には手洗い場があり、その向こうの101号室が、管理人室を兼用している。
いつもいるとは限らないが、クレデールの初日である今日くらいは教師が詰めている事だろう。持ち回りであり、新年度も近いということで、今日の担当が誰なのかは分からないが。
クレデールの入寮手続きがどうなっているのかは知らないが、おそらくはディンと、多分すでに入寮の手続きを済ませているのであろうリオンが手ほどきをしてくれることだろう。
右手奥へ進むと各部屋があるのだが、エリアス先輩の部屋は203号室。食材を離したり、落としたりしないように、細心の注意を払いつつ、できる限り急いで斜め前に見えている階段を駆け上がる。
食材はここにあるし、それほど大変なことになってはいないと思うのだが。
「どうぞ」
203号室の扉をノックすると、耳通りの良い朗らかな声が返ってくる。
ドアを開ける。
「あら、イクスくんじゃない。戻ってきてたのね」
淡い茶色のグラディエーションのかかった、ウェーブしたロングヘアをふわりとさせながら、豊かな胸で細い腰の、おまけにやわらかな体つきの美人が振り返る。
整った目鼻立ち、長いまつ毛が、凛とした雰囲気を醸しだし、綻んだ唇に浮かぶ笑みは、強く明るい。
見る人を残らず虜にしそうな微笑みだが、今の状況では、とても俺には見惚れている余裕はなかった。
「エリアス先輩! 鍋! 鍋が噴きこぼれてるぞ!」
先輩だとか、異性だとか、そんなことを気にしている余裕はなく、俺はその魔境に足を踏み入れる。
週刊誌が広げられたまま放ってあったり、バスタオルらしきものが投げ捨ててあったり、一応、洗濯物は回収しているみたいだが、それならそれで、さっさと仕舞っておいて欲しい。なんで、服の入った籠が3つも積まれているんだ。
まあ、以前のように、部屋の外にまで散乱しなくなっただけ、かなりの成果なのだが。
それらの物を踏まないように注意しながらガス台に近づき、スイッチを止める。
とりあえず、火事は防がれた。
「先輩。取り込んでる最中なんだったら、目を離さないでくれ。俺のことなんて外に待たせときゃいいから」
「はーい。気を付けるわね」
このやり取りも、すでに大分繰り返してきたものだ。
エリアス先輩が混ぜていた鍋を覗き込んで、お玉でかき混ぜてみると、案の定、底の方が焦げ付いていた。
「他は? 飯は炊いたりしたのか? それともパンを切るのか?」
「他って?」
きょとんとした様子で首をかしげるエリアス先輩。
料理を始めたはいいが、献立は何も考えてはいなかったらしい。
このスープだって、普通はカップごとに粉末スープの素を分けて入れてからお湯を注ぐタイプのものなのに、何故か、鍋の方にまとめて粉末を入れちまっているようだし。
これだと、焦げ付いちまった分だけ薄味になるが、仕方ないか。
「悪かったな、先輩。手間かけさせちまったみたいで」
俺がいるときには投げっぱなしにされるのだが、今回は事態もそこまで深刻じゃなかったし、気持ちは嬉しく思っている。
「構わないわよ。だって私は先輩ですからね。だから、普段からももっと任せてくれていいのよ」
「いや、それは大丈夫だ」
前回、セリウス先輩と一緒になって、あわや火災報知器寸前まで煙を出したことを、俺は忘れていない。
「今日は新入寮生もいるから、セリウス先輩を誘って自己紹介でもしていてくれ。すぐに料理は作って持っていくから」
エリアス先輩は、わかったわ、と朗らかに笑いながら、ミトンをせずに鍋を持とうとして「熱っ」と後ろによろけそうになる。
「先輩。セリウス先輩の方に声をかけるのは、くれぐれも、それをホールに持って行ってからにしてくれよ」
俺たちはホールに集まって食事を一緒にとることにしている。
ばらばらに食事をするよりもそっちの方が効率的だし、俺たちが入る以前からそうしていたみたいだったので、それに倣った感じだ。
たしかに、せっかくの今しか体験できない学生時での共同生活という、夢はあった。
何よりディンが、食事は大勢の方が楽しいと主張したからだ。
情報の交換もできるし、翌日以降の当番の確認(清掃やらゴミ出しやらだ)もできるため、利点は多い。
「まあ、さすがに今からひとりで準備すると、早くても30分くらいはかかるか」
エリアス先輩のおかげでスープはできている。
飯は炊いてないみたいだから、買ってきたパンを切ればいいが、おかずは準備する必要がある。
普段は自分の部屋を使うんだが、今日は片付けも面倒くさいことだし、このキッチンを使わせて貰おう。エリアス先輩も何も言わないだろう。
「先輩。何かお手伝いしましょうか?」
シンクの下の扉を開け、包丁を取り出し、立てかけてあったまな板を引っ張り出すと、追いついて来たらしいクレデールが声をかけてきた。
ディンに手伝わせることはできないし、正直なところ、人手があるのは助かる。
「そうか。じゃあ、とりあえず手を洗ってから、さっきの袋の中に入っているキャベツでも切っておいてくれ」
キッチンは狭いが、2人で立つくらいならば、許容範囲だろう。
「分かりました」
そう言って、クレデールはおもむろに近くにあったペティナイフを手に取った。
「待て」
「はい?」
クレデールがきょとんと首をかしげる。
何故止められたのかが分かっていない様子だ。
こいつ、まさかとは思うが。
「クレデール。先にひとつ聞いておくが、お前、今までに料理をしたことは?」
「……こちらに越してくる前の、初等部、中等部の家庭科の実習で少し」
少し躊躇いながらもクレデールは、それが何か? と首をかしげる。
「……その時、何か言われなかったか?」
「そうですね。皆さん、とてもてきぱきとしていて、私の係はいつも盛り付けと味見でした」
寮のホールにはキッチンはない。
運んでおいてくれと頼んだ以上、今から温め直すために持って帰ってきてもらうことはできない。
つまり、今、こいつに一から教えている時間はない。
「そうか。じゃあ、今日もお前の役目はそれだ。おとなしく見ていてくれ」
クレデールは、不審そうな眼差しを向けてくる。
まあ、手伝ってくれと頼んだ直後にそれを翻すような真似をしたんだから、当然かもしれないが。
「え? ですが、急いでいるんですよね?」
「キャベツを切るのにペティナイフを取り出すような奴に料理は任せられねえな」
多分、自分に合ったサイズの包丁を使おうと思ったんだろうが、その時点でクレデールの料理に対する理解度は大よそわかった。
おそらく、野菜炒めすら怪しいレベルだ。
もちろん、そうでない可能性もあるが……それを確かめている時間はない。
「……とりあえず、切るのは俺がやるから、フライパンの方でバターを溶かしておいてくれるか? 多分、そこの冷蔵庫に入ってるから」
キッチンのすぐ前にある冷蔵庫の扉を開けたクレデールは、箱に入ったまま丸々のバターを取り出すと、中身をすべて取り出して、包装紙を剥きだす。
「待て。ちょっと待て」
「今度は何ですか?」
少し語気を強めた感じでクレデールが振り向く。
「多分、切ってあるやつが入ってねえかな?」
エリアス先輩の部屋の冷蔵庫に入っている(それに限らず、ディンの部屋のものもだが)バターは俺が切っておいたものだ。
そのための容器に入っているはずだ。
「えっと、ああ、これですね。それならそうと先に言っておいてください」
いや、普通、家庭料理で丸々1個のバターを使うことはねえから。
「たしかに、こちらの方が溶けやすそうですもんね」
「は? お前何を――」
俺が止めるのも間に合わず、クレデールは5センチ四方くらいに切ってあるバターを全てフライパンに落とし込んだ。
熱してあるフライパンに溶かされて、バターの香ばしい匂いがしてくる。
クレデールはそれをじっと見つめていた。
俺はすぐに火を止めて、急いでヘラにバターを乗せると、容器の中に戻した。
「先輩、どうして――」
「クレデール。分かった。お前、今日は何もしなくていいから、後で運ぶのだけ手伝ってくれ」