最も簡単なもののひとつ
クレデールと嫌がらせに関する問題がひと段落し、編入生という点においてはクレデールの噂も落ち着いてきた5月のはじめ。
週末で、今日明日と学院は休み。つまりある程度時間のかかる料理でも問題はねえということだ。
実際、寮に暮らしている全員が、わざわざ狭っ苦しい俺の部屋に集まって、事の成り行きを楽しもうとしている。
俺自身は抗争直前であるかのような緊張感の中にいるってのに、のんきな奴らだ。
「いいか、クレデール。これが自宅で学生が作る料理の中でも、最もシンプルとされるメニューのひとつ、パスタだ」
俺の部屋のシンクの横のスペースには、秤とカップ、そして乾麺を保管しているケースが並べられている。
これは重大なミッションであり、失敗でもすれば、今後、クレデールに料理を教えるのはかなり困難になると言わざるを得ねえだろう。
「この寮には何人が暮らしている?」
クレデールは観戦(冷やかしとも、賑やかしとも、あるいは暇人ともいえる)に集まった他の寮生をちらりと視界に入れ。
「6人ですね。私も含めて」
何でせっかくの休日だってのに、ディンやセリウス先輩がまだ寮に残っているかといえば、朝食の席でクレデールが例の約束――俺がクレデールに家事について教えるという――について口にしたからだ。
あの時は流れで頷いちまったが、よくよく考えれば、バターのひき方すら知らないクレデールに料理を教えるってのは、ただの学生に過ぎねえ俺には、かなり難易度が高え。
とはいえ、約束は約束。
本当は茹でるだけで済むそうめんにしようと思ったんだが、生憎まだ夏とは言えず、買い置きがなかったので、仕方なくパスタになったという訳だ。
「そうだな、6人だ。だから、ひとり100グラムとして、600グラムだな」
俺の部屋にはとてもひとり用とはいえない大きさの鍋が置いてある。
もちろん、元々俺が寮に入るために用意していたものではなく、代々寮で暮らす先輩方に受け継がれてきたらしい(とはいえ買い替えはされているらしいが)それなりに大きなものだ。
もっとも、大きいとはいえ、寮の部屋のコンロに収まらない大きさであるはずもなく、普通に家庭で使うよりひと回り大きいかどうかといった程度のものではあるのだが。
クレデールに麺を計量させる時間で、俺は鍋に水を溜め、火にかける。
さすがに、いかにクレデールとはいえ、乾麺を600グラム計ることくらいは、放っておいてもできるだろう。
ボキボキに折れていなきゃいいが、なんて心配する必要もねえか。袋から取り出すだけだしな。
「先輩」
調理台の上にパサパサと乾いたものが落ちる音が聞こえてくる。
呼ばれて振り向けば、クレデールが乾麺の入った袋を握り締めていた。
「これは、どうやって600グラムも計測できるのですか? ころころと転がり落ちてしまって、全然計量器に乗ってくれないのですが」
あー、そうか。
そこから説明が必要なのか。
「世の中の人は、よくこんなものを簡単と言えますね。よっぽど器用な方達ばかりなのですね」
挙句、パスタ積み選手権がどうのなどと言い出す始末。
何だその選手権。つうか、パスタを積むとか不可能だろ。
店の料理でも定番なのに、わざわざそんな時間のかかる方法とったりしねえよ。本当にそんなに面倒くせえってんなら、そもそも、ひとり暮らしの学生料理の定番になったりするはずもねえ。
「クレデール。目の前に、メモリの入った細長いプラスチックのカップがあんだろ」
「はい。これですよね」
本当は水だとか調味料を計るのに使うものだが、ある程度細長い入れ物なら何でもいい。
「それをまず計量器に乗せろ。そしてゼロってスイッチを押せ」
不思議そうにしながらも、とりあえず言われた通りにクレデールはメモリがゼロになったかどうかを確認する。
「そしたら、そのカップの中に、ああ、計量器には乗せたまま、乾麺を入れろ」
なるほど、と感心しているような声が聞こえてくる。
「賢いですね、先輩」
「お前が無知なんだよ。世の中のひとり暮らしをしている学生なら誰でも知ってる」
こいつ、勉強はできるくせに、どうしてこういったところには知恵が働かねえのか。
まあいい。誰にだって初めてはある。
「じゃあ、さっき火にかけた鍋に塩をひとつまみ、あっと、そうだな、ひと振りか、ふた振りくらい入れといてくれ。くれぐれも、どばっと入れたりするんじゃねえぞ」
その間に俺はほうれん草を水洗いし、食べやすい大きさに刻んで網に入れてから、同じ鍋に放り込む。
本来は別々に茹でるんだが、こっちのほうが楽だし、水も節約できるからな。
「じゃあ、そろそろ本題のパスタを入れるわけだが……待て、そのコップを一端置け」
計量したパスタを一気に逆さまにして入れようとしていたクレデールの手を掴んで止める。
「何ですか。先輩が入れろとおっしゃったんじゃないですか」
何か問題でも? とジトっとした視線を向けられる。
「そうやって入れると、固まったりすんだよ。要するにばらして入れてえわけでな。こんな風にちょっと捻るんだよ」
もちろん、パスタが折れちまわねえようにだが。
俺は手本に持っていたパスタを、計量器からおろしたコップに戻し、クレデールにやってみるように促す。
一応、教えているという体裁である以上、俺がやっちまわねえ方が良いだろう。
かといって、クレデールの手を取って教えるなんて、そんなこっぱずかしい真似はできねえ。
「こうですね」
何度目かの挑戦で、ようやく上手く握ることのできたクレデールは、わずかに笑顔を浮かべてから、俺に見せつけるように差し出してくる。
「ああ。そのままお湯の上で、同時に手を離せば綺麗に広がっから」
「わかりました」
手を離し、麺がぱあっと綺麗に広がったのを見て、クレデールは嬉しそうな顔を浮かべる。
「どうですか、先輩」
「ああ、良いんじゃねえの」
今までできなかったことの方が不思議だが、本人が嬉しそうにしているし、褒めておいた方が本人も気持ち良くできるだろう。
「そのままだと麺と麺がくっつくから、箸で混ぜといてくれ」
こんな風に、と長い菜箸で、お湯が跳ねねえようにゆっくりとかき混ぜてみせる。
クレデールに箸を渡してから、火加減を少し弱めた。
「これはどのくらい茹でるんですか?」
「まあ、好みにもよるが、やわらかい方が良いなら、6分くらいじゃねえのか。ここにも書いてあるしよ」
パッケージの目安時間のところに表記してある時間で問題ないだろ。
規定時間が経ったところで、1本、麺を掬い上げ、皿に乗せる。
「食べてみろ。それで問題ねえやわらかさなら、もうあげっから」
すでに、麺を茹でている間にほうれん草は掬い上げ、水を絞り終えている。
後は麺なんだが。
「大丈夫だと、思います。先輩も確認されますか?」
「ああ、そうだな」
念のため、俺も麺を1本掬い上げ、味見をしてみる。
問題なさそうだな。
「後は、これを網にあげて水を切るわけだが、それは俺がやる。重いだろうからな」
水を通して、網で十分に水を切ってから、フライパンに入れて、さっき茹でていたほうれん草と一緒に混ぜる。
「後は盛り付けだな。つっても、今度は皿に分けるだけだ。ここじゃ狭えから、向こうに持ってくぞ」
フライパンをクレデールに持たせ、俺は冷蔵庫から取り出した生ハムのパッケージを運ぶ。




