売られた喧嘩は買うんだよ 10
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キロスに脅されていた奴らを家まで送り届けると、寮へ戻ってくるのはすっかり遅くなってしまっていた。
「良かったね、イクス。今回の事は君に関する逸話の中でも良い感じに噂されることになるよ。何せ、できたばかりの後輩の女の子のために、相手を殴り飛ばして鼻まで折ってしまったなんてね」
「何も良かねえよ」
さっきは、つい頭に血が上っちまっていた。
道場へ通い、寮へ入り、俺も自分を律する術を少しは学ぶことができたと思っていたが、あれじゃあ中等部の頃と変わらねえ。
売られた喧嘩ならともかく、結局、クレデールやリオンに怪我はなかったわけだし、捨て置きゃ良かったんだ。
クレデールも、リオンも、怖がらせちまったみたいで、さっきからずっと黙ったままだしな。
「何も、なんてことはないよ。少なくとも、今回の騒動で、クレデールさんへの執着はかなり薄れただろうからね。他のことに気を取られて」
女の子のために自ら標的を買って出るなんて、すごく格好いいと思うけど? とディンはかなり真面目にそう思っているように、興奮冷めやらぬといった口調だった。
「お前と違って、別に俺は格好つけようなんて思っちゃいねえよ。今回のことは、人として当然の感情に任せただけだ」
そう。
俺は別に、クレデールのためだとか、そんな殊勝な気持ちで事に臨んだわけじゃねえ。
たとえ、ディンだろうが、リオンだろうが、セリウス先輩やエリアス先輩――には必要かどうかわからねえが――だろうが、知っている人間の危機なら誰だってそう思うだろうという、普通の感覚だ。
もちろん、実際に拳を振るやつは少ないかもしれねえが、俺じゃなくたって、誰にでも当てはまる役柄だろう。
「イクスがそれで良いならいいけどね。まあ、僕に言わせて貰えば、たしかに誰でも良かったことなのかもしれないけれど、それを君がやったのは事実だってことかな」
「お前の言い方は回りくどいんだよ。はっきり言えよ」
「イクスは格好良いってこと」
なんだそりゃ。
何を言っているんだこいつは。
「あの、先輩。手は、大丈夫ですか?」
俺がディンに言い返し、少し騒いでいたところで、それまで黙ってリオンと一緒に歩いていたクレデールが振り返った。
「ああ。問題ねえぞ。ついてたのは、俺のじゃなくてあの野郎の血だからな」
問題ねえことを確認させるためにも、俺はクレデールの前で手を握ったり、開いたりしてみせる。
「あ、そういや、すっかり忘れてたな。あいつに靴代を弁償させるんだったぜ」
実際に刻んだのはあいつじゃなかったわけだが、間接的にあのキロスって野郎が切り刻ませた事実は変わらねえ。
クレデールはすでに、今日の昼休みにでも買っていたのか、新しい靴を履いてはいるが、靴だって安いもんじゃねえしな。
まあ、いいか。それは実行犯の方に弁償させれば。
「いや、良くないよ、イクス。それなら僕に払わせて」
ディンはやけに張り切ってそう言っているが、女子の靴を買うのがそんなに楽しいのか?
しかし、クレデールはその代金を受け取りはしなかった。
「お気持ちだけで大丈夫ですよ。そもそも、ディン先輩には何も責任はない事ですし」
あれだけ言っておいたから、おそらくはもうキロスから干渉があることは、人の感情の話だし、全くなくなると言い切れはしねえが、しばらくはねえだろう。
喧嘩をしてやられた奴ってのは、大抵リベンジしに来るもんだが、あいつは期間を置かずに再び来るような奴には見えなかったからな。
今回の手口からも分かるように、面倒くさい、搦手みてえな手段をとるやつだ。
リベンジがあるにせよ、周到に計画を練ってから、準備万端整えてからだろう。それはそれで厄介だが。
「まあ、一度関わっちまったことだからな。また、何かあったらすぐに言えよ。もう俺たちは――」
何なんだろうな。
同じ寮生だから? それとも学院に通う仲間だから? 共通の敵を持つ同志?
喧嘩なんて、自分ひとりで、自分のためだけにやってきたからな。もちろん、降りかかる火の粉を払うという意味でだが。
誰かのため、なんて大袈裟な恩着せがましい言い方をするつもりはこれっぽちもねえが、何となく言葉の行き先を見失う。
「もう僕たちは友達だからね」
俺の口にできなかった言葉の続きを、ディンが引き取る。
友人か。
久しく聞かねえ言葉だったが、こういう関係をそう呼べるのなら、そうなのかもしれねえ。
「友人、ですか」
クレデールは少し戸惑うような表情を見せていた。
まあ、中学時代のことは聞いたし、今の学院での状況は知っているから、友人という言葉に慣れていねえんだろうなというのは想像がつく。
しかし、なんだ。
学院で聞こえてくる噂や第一印象、寮でのあの生活感を知っているから、そういう風には見えていなかったが、こうして慣れない言葉に戸惑うような、恥ずかしがるような、あの寮での惨状を見られても超然――とまではいかずとも、平然としていたこいつの事を考えると、少しは
「可愛いところもあるんだな」
好きだとか、恋をしているだとか、付き合いたいだとか、そんなことは全く思わねえが、学院の奴らが騒ぐ理由も、少しは分かるような気がしなくもねえ。外見はご覧のざま、見紛う事なき美少女だしな。
「はっ?」
何故か隣から人の気配が消えていたので振り返ると、他の3人は少し後ろで固まっていた。
「イクス。君にも人間らしい感情があったんだねえ。僕は嬉しいよ」
ディンは何だか楽しそうに、感慨深げに頷いていた。
「何のことだ。俺は人間をやめたことは今までにねえよ」
何だってんだよ、突然。
「急だったのは、その、イクス先輩の方だと思いますけど……」
リオンまでもが、少し照れてでもいるかのように、わずかに赤くした顔を逸らしていた。いつもと違い、微妙に歯切れも悪い。
「はあ? わけわかんねえこと言ってねえで、急げよ。夕食が遅れんだろうが」
ただでさえ、寮に残してきちまった先輩たちのことが心配だってのに。
正確には寮の様子が。
まあ、料理に関して、エリアス先輩だけなら心配だが、もし仮に始めていたとしても、あるいは終わっていたとしても、セリウス先輩も一緒ならば、まだ何とか希望はあるかもしれねえ。
ふたりして悪ノリしていなければ、だが。
「無意識ってことはあれがイクスの本心ってことかな? 恐ろしいね」
ディンの言ってることがわけわからねえのはいつものことなので、放っておいて歩き始めたが、後ろの方では3人が固まって、クレデールを間に挟みながら何やら真面目そうに話している。
何となく腹が立つ気がしたが、クレデールもいつもの調子に戻っているみてえだから、安心だろう。あいつは何でもない風を装ってはいたが、普通に考えて、靴――に限らず自分のものを切り刻まれて平常でいられる奴はいねえだろうしな。
こういう時には、ディンが――それからリオンもだが――いてくれて助かると思う。
俺は、女の慰め方なんて知らねえし、分からねえ。
できる事といえば、これから寮に帰って、精々、夕食を作るくらいだ。
とにかく、最近ピリピリした空気を纏っていた3人が笑えるようになったのは良いことだ。
俺は友人と、その婚約者と、後輩の前を歩きながら、今夜の夕食のメニューと冷蔵庫の残り物に思いを巡らせた。




