売られた喧嘩は買うんだよ
先日、フィルミナ学院からの帰り際に向けられた視線。
悪意、あるいは害意と呼べるであろうものを含まれていた視線を、その時は気にしていたが、おそらくは問題ないだろうと高を括っていた。
あるとしても、それは向こうのことで、俺たちのいる学院には関係ないだろうと、無責任ともいえるかもしれない考えを抱いていたということを否定はできねえ。
しかし、やはりあの時見つけるまで追跡すればよかったのだと、それが不可能だったと理解していたとしても、後悔せずにはいられなかった。
週明け、すでに学院では新入生(あるいは進学生)の間でも、オリエンテーションではなく、授業が始まり、帰りの時間も俺たち2年や3年と同じ頃にもなる。もちろん、部活をやっている奴は違うが。
俺も、授業とホームルームを終え、別にディンを待つ必要性も感じられず、ひとりで寮へ戻ろうとしたのだが、下駄箱のところで人だかりができているのを見つけた。
ちらちらと見え隠れするネクタイの色と下駄箱の位置から考えて、できているのは1年の集団か。
十数人程度だが、クラスを考えれば別に珍しくもないだろう。
クレデールの噂は、聞こうとせずとも勝手に耳に入ってくる。
すでに何通もラブレターを貰ったり、実際に告白されたりといった話だが、まあ、クレデールの外見と学院生活における能力、要するに学力と運動神経は疑いようもないからな。人気が出る、あるいはモテるのもうなずける。もっとも、俺個人の話ならば、クレデールに告白しようだなどとは、絶対に思わないが。
身近にもうひとり、似たベクトルの奴を知っているが、クレデールの場合は全てをにべもなく断っているということだ。
過去の出来事を考えると、そんな心情になるのも分からない話じゃねえが、別にクレデールがどこの誰にモテようと、フった、フラれたということだろうが、俺には関係のない話だ。
どうせいつもの光景だろうから、見ている奴らもいずれ飽きて解散するだろうと思っていたのだが。
「ひどいことするね……」
「一体どうしてこんな事……」
どうやらいつもとは聞こえてくる話の毛色が違う。
気にならないと言えば嘘になるが、俺が出ていくことはできねえ。
俺がどう思われているのかは知っている。クレデールとは別の意味で噂されているということも。
ここで俺が出ていけば、むしろクレデールの状況を悪化させかねない。
「クレデールさん。行きましょう」
かといって無視して帰ることもできず、成り行きを静観していると、集団の真ん中あたりから見知った声が聞こえてきた。
「イクス」
ちょっと通して、という声が前方から、そして背後から肩に手がかけられる。
この学院で、俺にそんな風に普通に接してくる奴は片手で足りるが。
「どうしたの、これ」
ディンはそんな事を気にしたりはせず、ただ驚いたように目の前に出来上がった集団を眺めている。
「さあ、知らねえ。俺も今来たばかりだからな」
目の前で集団がさっと広がりを見せ、真ん中の方に2つ、動く影が見える。
似たような背格好の、銀の髪と金の髪だ。
「リオン」
ディンが声をかけると、その場に集まっていた1年と思しき集団のほとんど全員が、男子も女子も関係なく、振り返った。
「ディン」
続けてリオンが振り返ると、男子と女子から、羨望と嫉妬の感情が半分くらいづつ、ディンとリオンの両者に向けられる。
入学式があってから、まだ間もないと言っても過言ではないこの時期に、どうやって1年の女子生徒とまで交流を広めたのかは知らねえが、ディンは向けられる視線の主ひとりひとり(もちろん女子だけだ)に声をかけ、爽やかな笑顔を振りまきながら、リオンの元まで苦も無く歩いてゆく。
「僕とイクスも今、丁度寮まで帰ろうとしていたところだったんだけど、物騒な会話が聞こえたから心配になってね」
ディンが振り向いて俺の方に顔を向けると、つられたようにその場の視線が俺へと移り――そして一瞬でさっと逸らされて、そそくさと人だかりが解消されてゆく。
「動けずに困っていたところでしたので、助かりました」
俺のことを虫よけスプレーか何かだと思ってんじゃねえだろうなというリオンへの疑問はとりあえずおいておく。
「何があった」
「それは……」
リオンが言いよどむようにしてクレデールの表情を伺う。
「イクス」
人だかりの向こうから戻ってきたディンは手に靴を持っていた。
この学院に指定されている革靴だったものだ。
その革靴は、感情に任せたように切り刻まれていて、とてもじゃねえが、靴としての体を為してはいなかった。
「それは誰のだ?」
この状況で聞くことでもないかもしれないし、ほとんど答えは確信していたが、信じたくない気持ちが優先していた。
ディンに差し出された革靴の残骸を確認すると、内側のラベルの部分にクレデールの名前がペンで書き込まれている。
「今日、うちのクラスとクレデールさんのクラスは合同で体育の授業がありました。お昼前のことです」
リオンの証言が正しいとするなら――正しいのだろうが――少なくとも4時限目の授業までは無事だったことになる。
「おい。うちの寮生に手ぇ出したのは手前らじゃねえだろうな」
野次馬に集まっていた奴らは、激しく首を横に振っている。
「い、いえ、ち、違います」
「ぼ、僕たちが来た時には、すでにこうなっていました」
集まっている奴らは口々に同じような内容を口にした。
「何しに集まってんだよ。手前らは全員クレデールと同じクラスだってのか」
一体何の用があって、と問い詰めようとしたところで、ディンに引きとめられる。
「イクス。彼らには悪意はないよ。目的を考えればね」
目的だぁ?
「ディン。お前にはこいつらの目的が分かんのかよ」
「うん。でも、それは君の、いや、こんなに人の大勢いるところでは言えない。でも、クレデールさんに悪意を持っているわけではないってことは、僕が保証するよ」
俺が見回すと、そいつらはさっと視線を外した。
ディンの保証が普段どこまでの信頼性を持つかは別にして、こと、女との関係においては、まず間違いないと言えるだろう。
こいつは女の不幸を見過ごすことのできる人間じゃねえ。
どの女のことも大切に考えている奴だ。
だからこそ、わかってはいても、リオンとしては気が気じゃないんだろうが。
「……まあそっちは、おまえが言うんならいいだろう。だが、はっきりさせなきゃなんねえことはあるぞ」
「うん。だから、用務員室に行こう」
ディンが斜め上を見上げるので、俺もつられてそっちを向く。
「まさか、監視カメラの映像まで誤魔化しているような人物じゃあないだろうからね」




