森の天使(セラフィ)
気づいた時、彼は、星のない暗い夜空と向き合うように、丘の上に置かれた棺で寝ていた。
服は無く、身体中を花で覆われていた。
起き上がり、自分の記憶を探る。
何一つ、覚えていなかった。
傷もほくろもない、すべすべの身体。性別は、無かった。海泡色の髪がさらりと流れる。
見た目の年齢としては、22歳くらいだろうか。
棺に敷いてあった布を体と頭に巻き、どこか見覚えのある剣を背負った。
何となく、持ち主に返さなければいけない気がした。
……こうして、放浪者の、記憶を求める旅が、幕を開けた。
そして、五年ほどが、経過した……。
五年の放浪で得た手がかりは、「生きた幽霊を探せ」と誰かが囁く夢、のみだった。
不思議なことに、放浪者は年齢を重ねても、全く外観が変わらなかった。
服にも垢がつかず、埃に汚れることも無かった。
まめに水浴びや洗濯をしていたのは確かだが、それにしても不自然なほどに清潔感を保っていた。
ある時、放浪者は、いつものように、川で体と服を洗っていた。
服は、洗い終えて、よく絞り、広げてばふっと水気を切ると、瞬時に乾いた。
そう遠くないところから、葬いの鐘の音が聞こえてきた。
「人里が近いのか」
放浪者は、洗いたての服を着直して、訪ねてみることにした。
「村長が亡くなったのは、あの娘の所為だ! 病気か何かを村に持ち込んだに違いない!」
「だから村の者と接触するなと言ってあっただろうに!」
俯いて石を投げられて蹲っているのは、まだそう歳のいっていない少女だった。
樹鬼の血が混ざっていることは、遠目にも判別できた。
「オキィ(鬼娘)め、この人里に近づくな!」
石を投げ続ける大人達を、小さな子供たちが懸命に押し留める。
「オキィは何も悪いことしてないよ! やめてあげてよ!」
「里山に踏み入ったのは、僕たちの方なんだ」
「道に迷った僕たちを、オキィは村に案内してくれたんだよ!」
「やかましい!」
大人達は子供の言葉に耳を貸さない。蹲って石打ちの刑に耐えていた娘は、口から血を零しながら、よろよろと里山に帰っていった。
「山ごと娘を焼いてしまおう。またいつ、どんな病気を持ってくるか、わからないからな」
大人達は物騒なことを言いながら、準備に取り掛かった。
様子を見ていた放浪者は、そっと娘の後を追った。
「大丈夫か?」
体から顔から、腫れぼったく傷をこさえた娘は、見知らぬ旅人に、小首を傾げた。
「あんたは、誰だい? 村のもんじゃ無いね」
「わからない。記憶が無いんだ」
「そうか。あたいに関わらない方がいいよ。あたいは、樹鬼と人間のあいのこだからね。魔物みたいなもんさ」
ぺっと血を吐き出し、オキィは放浪者の誘導するままに事情を説明した。
この里山と村は、以前、樹鬼に襲撃されたことがある。
その時、村長の娘である母が攫われた。
無事に取り返したものの、母はオキィを身籠っていた。
村長の意向で出産は許されたが、やはり、生まれてきたのは半鬼だった。
村人達の要望で、オキィと母は里山に追われ、村長が密かに援助しつつ育てられた。
半鬼を生んだ母の消耗は激しく、オキィが幼い頃に、病いに倒れた。
「セラフィ」
母は、オキィを、本当はそう名づけていた。
「人の心の痛みが分かる、天使になりなさい。誰かのために生きて、役に立ちなさい」
母を葬い、祖父である村長に伝えると、オキィは村人を恐れさせないよう、身を隠して暮らした。
だが、好奇心から、里山へ踏み込む子供達は少なく無かった。
セラフィは子供達の面倒をよくみた。
迷子は連れ戻し、怪我をしていれば手当をし、腹を減らしていたら食事を与えた。
村長が亡くなるまでは、村人達も、セラフィの存在を許容していた。
子供が世話になったと、感謝されることもあった。
だが。
徐々に村の空気が変わってきた。
セラフィを取り巻く環境はゆっくりと変化していった。
それが、村長の逝去で、決定的になったということだ。
「あんたはここを出た方がいいよ。あたいと一緒にいるのは勧められないよ」
里山の奥の、小さな掘っ立て小屋で、概ねを話してしまうと、セラフィは放浪者を追い出した。
「村のみんなは、本当は悪い奴らじゃ無いんだ。泊めてもらうといいよ。食事もいいものを出してくれるよ、ここよりはね」
セラフィは放浪者を村へ案内した。
「ここからは、一人でお行きよ。あたいと会ったことは、内緒でね」
焼き討ちは、その夜に行われた。
放浪者が村人の歓待を受け、食事を振舞われ、あたたかなベッドを与えられた一方で、村人達は、奇妙な殺気を纏っていた。
笑顔で放浪者の旅物語に耳を傾けていたとは思えない、豹変ぶりだった。
子供達は部屋に押し込められ、男達が里山へ松明を持って入っていった。
しかし、抜け出した子供達も、若干名だが、いた。
「オキィに、知らせなくちゃ」
子供達は走る。放浪者は気付いて、子供達の後を追った。
男達は里山ごと丸焦げにする勢いで、あちこちに火を放っていた。
「やめるんだ。あの娘を慕う子供達が、里山に混ざりこんでいる!」
放浪者は警告したが、遅かった。
掘っ立て小屋は燃え上がり、木々はあかあかと暗い夜空を焦がしていた。
燃え落ちる里山から、火ダルマになったセラフィが転がるように飛び出してきた。
しっかりと、保護した、小さな子供を抱きしめている。
濡れた布に包まれた子供は、泣きじゃくっていた。無事だった。
「オキィ、オキィ、お願い、声を聞かせて」
泣き出した子供が、セラフィに近づこうとして、大人に遮られる。
隙を見て、放浪者がセラフィに駆け寄った。村人に、助かった子供を託し、セラフィの容体をみる。
「近づきなさるな、旅の方。どんな病魔を持っているかわからない娘ですぞ……」
「お前たちの頭に巣食っている病魔の方が、根深いと思うがな」
放浪者は肺を焼かれて苦しんでいる、弱々しい息の娘を庇った。
「子供を救われて言えるのが、そんな言葉だけなのか?」
放浪者はセラフィの手を取り、しっかりと握りしめた。
「お前は確かに、天使――セラフィだ。お前の母さんがつけた名前に恥じることなく生き抜いた。天使の名に値する優しい娘だ」
何か言おうとして事切れたセラフィの、瞼を閉じてやる。
轟々と里山が燃える中、放浪者はセラフィの亡骸を引き取った。
そして、遠く離れた森の脇の街道端に、墓標を作り、埋葬した。
墓標には、「セラフィ」と、ナイフで刻んだ。
「これも黄金龍の狂気の所為か」
星の見えない暗い空を見上げる。月と、恐ろしいほどに接近して見える黄金龍が、輝いていた。
「この娘は真名に救われたんだな。狂気の嵐から……」
半鬼に生まれた娘に、敢えて天使の名をつけた母親の心中に、思いを馳せた。