吸血鬼の森
「ここが……グノルー……村……?」
川沿いの森の向こうに屋根を見つけ、ほっとしたのも束の間、二人は異様な静けさを感じて村の入り口で立ち止まった。
「……何だか……嫌に静かね……」
ミムが周囲を見回した。完全に何の気配もしない。建物だけが平穏な日常を想像させる。
「もしかして今日は何か特別な日とか……それで、皆家に籠っているんじゃないのかな?」
そう考え直して、セピアは村に足を踏み入れた。
「すいません、どなたか居ませんかあ」
扉を叩くが返答はない。思い切って戸を押すと、あっけなく開いた。薄暗い家の中を覗き込む。
「あのう、すいません……」
セピアはおずおずと家の人を捜して見回したが、人の気配はない。どの建物も、どの家にも人っ子ひとり見当たらなかった。しかし戦争に巻き込まれたような破壊の跡はない。
「もしかして……村ごと、何処か別の村に引っ越してしまったのかも……」
ミムの言葉に、セピアは首を振った。
「いや、突然村の人が消えてしまったとしか考えようがないよ……見てごらん、ミム」
彼はとある家の窓を示した。そこからは食卓が見えている。その上には整然と皿が並び、杯が転倒している。皿の上の物体は恐らく食物だろう。もう干からびて、原形を止めていない。その状態から考えて一週間以上は経っていると彼は推測をつけた。
「一体何があったんだろう……」
その時ふと誰かの声が聞こえたような気がしてセピアは振り向いた。村を外れた方から泣き声のようなか細い音が聞こえてくる。
「何だろう、行ってみようミム!」
セピアはそう言うと音の聞こえる方角に走った。
村から少し離れたところにある薪小屋の中から、その声は聞こえてくる。
「助けて、ぱぱ、まま、助けてぇ……おのど渇いたよう」
「子供の声だ!」
セピアとミムは慌てて小屋に踏み込むと、薪に体を挟まれていた子供を救い出した。その瞬間、ミムの全身にぞくっと鳥肌が立った。
妙に色白に見えるその子供は、唇だけが不自然に赤い。隙間から八重歯にしては余りにも尖った歯が白く見え隠れしている。
ミムはセピアの子供を抱えた腕を払った。セピアは子供を取り落とし、子供は泣き声を上げた。
「何するんだ、ミム……!」
「この子、危険だわ! 早く外へ!」
ミムは叫んだ。
「子供を置いて行けるわけないだろ?」
そう言って子供に再び手を伸ばすセピアの腕を払い、ミムは彼を薪小屋から引きずり出した。セピアは抵抗し、子供をすくい上げた。
薪小屋から出た直後、セピアの腕の中の子供が悲鳴を上げた。
「あつい、あついよう、まま、ぱぱぁ……」
日光が照らした子供の顔がみるみる焼けただれていく。セピアは呆然と子供を見下ろし、その首にくっきりと残る小さな二つの穴に目を留めた。
「……吸血鬼……」
ミムが卑しいものを見るように、焼けていく子供を睨んだ。セピアはミムの言葉を繰り返した。おとぎ話にしか出てこないと思っていた魔物の名前。
「じゃあ、この村は……」
そうセピアが呟いた瞬間、森の方で妙な音がした。くぐもった、爆音に似た……破裂音? はっとして振り仰いだ二人の前に、巨大な炎の柱が森を割って立ち上った。
「……あたしにちょっかいをだすなんて、いい度胸だわ。ほめてあげるわよ」
炎を身に纏った少女が、上目遣いに黒い影を見つめていた。睨まれている男は、熱風を避けるように黒いマントで顔を覆った。
「精霊使いだと……? この娘……」
驚いたように目を見開いた男の、美しい顔が炎に紅く照らされる。
「まいったなあ……久しぶりにかわいい女の子に出会えたと思ったのに」
男は目を伏せ、格好をつけて髪をかき上げた。その途端にごおっと炎が矢のように飛んで来た。
「わちゃちゃちゃちゃちゃっ!」
悲鳴を上げて、男はのたうち回った。見ていて非常に滑稽な光景だ。ハーフエルフの少女、ムアルは少し呆れていた。だが、黒焦げになっても男はマントをはたき、髪を整えてムアルに流し目を送った。
「つれないなあお嬢さん……このバーズ子爵にこれ程までに冷たい女の子なんて、珍しいよ。余計に心が惹かれてしまう……罪な娘だ」
きらり~ん……と、彼は真っ白に磨き上げた歯を光らせた。……変なところだけ根性が入っているようだ。
「さあ、そんなに緊張しないで……私の館へご案内しよう。素敵なドレスに美酒をプレゼントするよ……」
「我が友バリヤーノ、放て!」
手を差し延べて近付こうとした男目掛けて、炎の巨人が拳を振り下ろした。
「どわぁっ!」
バーズ子爵はそれでも敏捷に拳を避けた。炎の巨人は少女を包む火の中に溶けるように消えた。
「弱いくせにこのあたしに喧嘩売るなんて、愚かね。あたし今機嫌、悪いんだから、それ以上ちょっかいかける気なら殺すわよ」
燃え盛る炎に照らされて、少女の青い髪が紫に染まる。熱風にあおられ、彼女の黒いローブの裾と、肩までの髪がくるくると舞い踊る。
「……何だろう?」
森の中を走ってきたセピアとミムが、現場に到着した。木々に身を隠すように覗くと、石造りらしき洋館が炎の向こうに見えていた。
洋館の手前で客引きのように少女の行く手を阻んでいるのが、黒いマントの男。……遠くから見た感じ、かなりの美男子である……しかし怪しい。
「あの女の子……妖精族?」
ミムがはっとして少女を見つめた。確かに、舞う髪の隙間から尖った耳が覗いている。そして対峙する男からは魔気を感じる……。
「そんなにつれなくしないでよハニィ~」
「バリアーノッ!」
少女の叫びに続いて、炎が巨大な渦となった。そのまま大蛇のようにとぐろを巻く。
「宣戦布告はしたわ。態度を改める気はなさそうね……それに今、あたしの真名を盗もうとしたでしょう。やれるものならやってみなさい!」
脳裏に、母から聞いていた話が浮かぶ。人間である父は、病魔や、悪い魔属から、愛娘を守るため、わざと長い長い名をつけたのだ。
……ムアリエルティレフェルシィオリエル=エ=アルティファニーステイレーヌ。
こんなに長い名では、盗むことも出来ない。一発で覚えられなければ意味がない。
ムアルは苦悶する相手を睨み据え、そしておもむろに印を結んだ。
「暴れろ、バリアーノ! 炎の嵐をっ!」
炎の蛇が、かっと牙を剥いた。そして洋館の周りをぐるりと体で取り囲んでしまう。
「わあっ!」
男は逃げ惑った。洋館からキイキイと悲鳴が上がり、蝙蝠達が一斉に飛び出した。
「ふん。このヘボ吸血鬼、いいザマだわ。……燃やし尽くせ、バリアーノ!」
激しい咆哮を上げ、炎の蛇は鎌首をもたげた。そのままバーズ子爵を巻き込んで大きく輪を描いた。
「はっ!」
ムアルは印を切った。炎の蛇が一瞬ただの輪となり、そしてそれを外周としてドーム状に炎が吹き上げた。中に閉じ込められたバーズ子爵の壮絶な悲鳴が聞こえ、しばらくして嵐は収まった。……洋館は、すっかり灰になっていた。
「あれ……石造りじゃなかったのか……?」
一部始終を見ていたセピア達は、思わず目をぱちくりさせた。石造りに見えた洋館は実は木造建築だったのだ。……安すぎる……。セピアはおかしくなったが、妖精族の娘に目を移した瞬間、心にこみあげてきた笑いが音も無く消えていった。
炎の精霊を異界に帰し、少女は焼け跡を見つめた。その遠い横顔は、何故か非常に寂しそうに見えた。彼女は焦げた大地を踏み締めながら、森の中へ姿を消そうとした。
「誰っ!?」
だが、彼女は二人の視線に気付き、振り返った。覗き見をしていたことを気付かれ、二人は罪悪感を覚えた。
「ご、ごめんよ……決して悪気は……」
セピアが出ていって帽子を脱いだ。それを見て、ミムもおずおずとセピアの後ろにつき、スカーフを外した。長い銀髪が、風に揺れた。
「何っ!……ケレブリン(銀髪エルフ)……?」
不意のことで、思わずエルフ語がムアルの口をついて出る。だが、自分でも気付かず、ムアルは銀髪の娘を見つめた。……はっとある考えが彼女の脳裏をよぎった。
ミムの耳がエルフ族のものではないことに気付かず、ムアルは警戒したまま印を結んだ。この銀髪エルフはきっとあたしを捕まえに来たのだ……或いは、殺しに。
「ルルエ、我が友よ、我が足となりて我を運べ!」
ムアルは風の精霊を呼び出し、そして一陣の風が通り抜けた。セピアとミムが目をあげると、もうそこには誰もいない。
「消えた……?」
二人は顔を見合わせた。あっとセピアが声を上げる。
「ミム!……駄目だよ、スカーフとっちゃ!」
「えっ」
自分の長い銀髪があの娘を怯えさせたのかも知れない、とミムは考え、急に顔を曇らせた。
「私……ご、ごめんなさいっ!」
慌ててスカーフを被り直し、ミムは頭を下げた。
「もう。気をつけてよ。……でも、何であの子、居なくなったんだろう? 何かから、逃げるみたいに」
セピアは再び、少女の消えた焼け跡を見つめた。
「……ケレブリン……」
「何?」
「……そう、言ったの。あの子。私を見て……ケレブリンって、何かしら?」
「妖精族の言葉かなあ……?」
そう言って、セピアはミムを見た。彼女は首を傾げている。……記憶がないせいなのか、それとも……ミムは妖精族ではないのか。セピアには分からなかった。
……でも、ミムはミムだ。それだけは信じられる、彼はこう思い返した。
「行こう、ミム」
そして彼は歩きだし、……ふとグノルー町のことを思い出して焼け跡を振り返った。……あの子供は、そして村の者は皆、ここの吸血鬼に滅ぼされてしまったのか?……あの……大ぼけ男に?……まさか。でも……それなら、何故?……。
まあいいか。彼は深く考えないことにした。
「どうして……ケレブリンが……こんな処に?」
ムアルは少し離れた場所に降り立ち、そっと森を振り返った。故郷に置いてきた母親を思い出し、心にちくちくと痛みが走る。
「……あたしを……追ってきたんだ……」
母親は殺されてしまったんだろうか。考えたくない、彼女は自分の腕をそっと抱いた。
「……メルロン……何処に居るの……助けてよ……」
微かなすすり泣きが森を風と共に流れていく。彼女は探すべき相手の外見も年齢も、種族さえ知らなかった。幼い頃の記憶だけが手掛かりなのだ……心細さに負けそうだった。
がさり。茂みが風に音を立てた。ムアルははっとして涙を拭った。小動物の愛くるしい顔がちらりと覗き、ぱっと消えた。ムアルはきっと表情をひき締め、空を見上げた。無理やり胸を張り、彼女は再びあてもなく歩き始めた。
「……ふん」
焼け跡に一人の足が止まった。無言で焼けた木切れを拾い、赤い髪のエルフの少年は無造作にそれを捨てた。
「……大分時間が経っている……か」
あのペレゼル(あいのこ)め、と彼は小さく呟いた。ブーツの下で、焼けた大地が冷たい音を立てた。